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九日目:逢瀬


 婚儀を前日に控え、呼舷の屋敷は一気に騒がしくなる。婚儀が延期になり、余裕ができた部分もあるが、決してそうはいかない部分も山ほどあった。料理はその最もたるもので、厨房に繋がる小門はひっきりなしに人が出入りしていた。


 乾抄の婚儀は他国に比べてこじんまりとしている。基本的には新婦と新郎、その親族が少しと特に懇意にしている友人が参列する程度。それも元服し家を出た新郎の婚儀となるとその親族すらも少なくなる。いずれであっても自宅に入る程度の人数しか参列しないのが常だ。その分、豪勢な食事や普段手の届かない酒を用意して祝う。


 もっとも、地域によれば婚儀の後、村を上げて祝ったりもする。それはあくまで村が自主的にするものであって、主役となる新郎新婦に負担は及ばない。婚儀そのものに支障をきたしてはならないという計らいもあって、前日までに周囲が祝いの品を持ち込むことも無い。せいぜいが手紙ぐらいのものだ。


 それは極将の婚儀といえども例外ではない。優秀な従仕に家の中のことを任せ、呼舷は婚儀当日に式を取り仕切る僧侶と最後の打ち合わせをしていた。式には僧侶を招き、祭壇にて夫婦の契りを交わし、神を招いてその報告をする、そして神とともに飲み食いしたあと、寺院へ赴き神を天に帰せば終了となる。もちろん、神といっても「降りて来ている」との想定であり、儀礼的なものでしかない。いつぞや焔子が言っていた話を元にすれば来るはずも無い存在だ。


 それでも神が降りて来ているという前提のもと婚儀は進むので、諸々の細やかな作法がある。呼舷にとっては何度目かになる婚儀だが、最後に上げたのはすでに七年前。おさらいが必要だった。粛々としたそれらは精神統一にもにて背筋が伸びた。


 やれこれを持つ時は右手からだ、やれこれを置く時は回転させてからだと、僧侶から馬鹿みたいに事細かな指示が飛ぶ。それでも、今まで以上に丁寧にやって覚えようと思うのはひとえに焔子が相手だからこそだ。


「以上、結構でございます」


 長丁場の指導の末、老年の僧侶がしずしずと頭を下げて終わりを告げた。托苑と老僧の助手の若い僧侶がてきぱきと婚儀の小道具を片付ける。焔子の指導を終えてからだったため、日は既に地平の向こうに沈んでいた。


「食事を用意させましょう」

「お心遣い痛み入りまする…。しかしながら、我らは修行の身。恐れながらこのまま失礼仕りたく…」

「左様か」


 ならば明日も頼むと挨拶をすませ、片付けが終わった托苑に目配せをする。促され立ち上がった僧侶が戸口でふと振り返った。


「申し訳ござりませぬ呼舷様。…大事なことを忘れておりました」


 するすると呼舷の元に戻って来た僧侶に首を傾げる。言葉の割に平素と変わらぬ老僧は袖から一通の文を呼舷に差し出した。


「…これは?」

「焔子様からにござりまする」


 驚いて、折り畳まれた文を裏返せば確かにそこには焔子の名が記されていた。一昨日の晩に焔子に宛てた文の返事だと解り、一気に気分が高揚する。早速読もうと折り目に手をかけた呼舷を老僧がやんわりと止めた。


「照れ臭い故、お休みの前に読み、寝て忘れて頂きたいと…。焔子様よりそのように仰せ付かってござりまする」

「…左様か」


 今すぐ読みたい。顔にありありと浮かんでいるのだろう。滅多に表情を変えない老僧が珍しく目尻の皺を深めた。


「僭越ながら…改めまして此度のご縁談に、心よりお慶び申し上げまする…」

「有難う存ずる」


 老僧からの祝いの言葉を素直に受けとめられることが嬉しい。呼舷のそんな思いが老僧にも解ったのだろうか。笑んでいた目元を、眩しそうに細めた。


「誠、お顔つきが変わられた…拙僧のような老いた身にはいささか辛いほどに眩い…」

「貴殿のような徳高き方にそう言って頂けるとは。恐縮の限りです」

「…大事になされませ呼舷様。大事になされませ…このご縁、決して疎かにはなさいませぬよう…」

「心得ております」


 神妙に頷いて見せれば、老僧はゆるゆると顔を横に振った。


「恐らくこの先…焔子様はなくてはならぬお方となりましょう…それは呼舷様に限らぬことにござりますれば…」

「…それは、どういう…?」

「今はまだ……お心の端に老耄ろうもうの戯言とお留め頂ければ重畳…しからば…」


 何故だろうか。老僧の予言めいた言葉は、静かな衝撃となって呼舷を打つ。縛り付けられたように動けずにいる呼舷を前に、老僧は何事もなかったように深々と頭を下げ、若い僧侶を伴って去ってしまった。


 どれほど呆けていたのか、はたと気づくと托苑が夕食を携えて戻って来ていた。呼舷は焔子の手紙を寝台の枕の横に置いて、椅子にかける。並べられた膳はいつもに増して美味そうだ。托苑に礼を言い、部屋を出たのを確認して顔布を取り払う。


 汁物の蓋を取り、呼舷は思わず身悶えた。じわじわと顔が紅潮し、顔布の代わりに手で口元を覆い隠す。それでも耐えきれず、呼舷は天井を仰いで嘆息した。


「…ああ、堪らん…」


 あたりにはふんわりと金露泉の香りが広がっていた。



 * * * * *



 文を頂いたわたくしの心を、どうしてこんな小さな紙に表せられましょうか。


 こうして筆を持っても、一向に白地は埋まらず、時間だけが過ぎてゆきます。


 未だ夢の中にいるような心地。夢が覚めることに怯える私をどうかお笑い下さい。


 いずれ覚める夢ならばと、際限なく求める罪深さをどうかお許し下さい。


 春に花が咲くように、

 夏に蝉が鳴くように、

 秋に山の恵みが実るように、

 冬に雪が大地を覆うように、


 貴方のお側にいることが、四季の巡りと等しくなることを


 願う私をどうか笑ってお許し下さい。


 * * * * *


 夜半、虫の音すら寝静まった時分に、呼舷は屋敷の一室の前で立ち尽くしていた。


 寝る前に開いた焔子からの文。すでに文字の形すら覚えてしまうほど読み返した。頭の中で反芻するだけで、痺れるような甘い痛みで胸が締まる。全身が震える切なさに突き動かされ、気付けば呼舷は焔子の部屋の前まで来てしまった。


 ここは朔州ではない。婚前交渉は言うまでもなく、すでに婚儀の前日で花嫁の姿を見ることは許されない。婚儀の前二日新郎新婦が顔を合わさないのは、その二日を禊として生まれ変わり、真に夫婦となるためだ。逆にその慣例を破ることは、相手を軽んじることであり、愚かな行いをした者に災いを呼ぶとされている。くだらない迷信といえばそれまでだが、相手を軽んじることだと言われて破ろうと考えるはずもない。


 それでも、せめて焔子の気配を感じられる場所へと求める心を鎮める術は持たなかった。もうあと数刻待つだけで逢えるではないかと何度言い聞かせても耐えられなかった。これからずっと側にいると解っていても、今すぐ焔子を感じたかった。


 なんと滑稽な、と自嘲が漏れる。こんな夜更けに女性の部屋の前に立ち尽くすなど、いくら自分の花嫁とはいえ、見咎められても反論は出来ない。


 もう少ししたら、必ず部屋に戻るからと、誰に乞うでもない許しを心の中で繰り返し、呼舷はそっと廊下に面した窓格子に額を寄せた。


「…焔子…」


 呟いた名は、自分でも笑ってしまうほど熱を帯びていた。


「…呼舷様…?」


 そろりとかけられた声に、飛び上がった。どどどどっと胸で太鼓を乱打しているように心臓が暴れる。声を上げなかったのは奇跡だ。顔から火を吹くとはまさにこのこと。自分のしていたことを振り返って全身が羞恥に赤く染まった。


「…も、申し訳ござらん…こんな夜更けに…。決して焔子殿を軽んじたわけでは…」

「はい。解っております…こうして、お声をかけた私も同じです」


 穏やかな焔子の声でかえされた返事を聞いていくらか落ち着く。そして、この薄い窓障子の向こうに焔子が立っているのかと思うと、それだけで切なくて心臓が甘く痺れた。


「…起こしましたでしょうか?」

「いいえ、起きていました」

「…眠れませぬか?」

「はい…」

「…私もです」


 月明かりが廊下から差し込んで、窓障子はただただ真っ白に月光を反射する。どこにいるかわからない焔子を求めて、右手がそろりと障子紙を撫でた。


「…貴女が恋しくて、眠れない…」

「ッ!」


 窓の向こうで息を飲む気配がした。その気配すら愛おしくて、無性に泣きたくなる。手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、力を込めれば簡単に破れる障子紙一枚が厚すぎて、唐突に不安に襲われた。


「本当に…私でいいのでしょうか…?」

「…え?」

「顔だけでなく、心も醜い…矮小な男です…」


 言って呼舷は羞恥に口元を手で覆った。なんと情けないことか。極将ともあろう男が、何とくだらない泣き言を。花嫁を不安にこそすれ、言って得るものなど何も無い。


 忘れてくれと言いさした呼舷を、焔子の明るい声が遮った。


「ほんと、見かけによらず、肝っ玉が小さいですよね!」

「ッ!?」


 そこにいるのは実は華小か福呂だったのだろうかと思うほどにぎょっとする。よもや焔子がこんなことを言うとは夢にも思わず、絶句してあがあがと口を動かした。窓の向こうからくすくすと笑う声が聞こえる。


「縁談を頂いてから知る呼舷様は、戦場でお見かけした呼舷様とは大違いです」

「……め、面目ない」

「でも、だからこそ、わたくしは…ますます呼舷様に恋い焦がれるようになりました…」

「ッ……」


 真綿に水を含めるように、ゆっくりと焔子の言葉が染み込んでくる。じわじわと胸に広がる想いに、呼舷は知らず知らず掌を握り込んでいた。


「醜さがなんです。矮小がなんです。呼舷様はそれを補って余りある魅力をお持ちではありませんか。いいえ、それがあってこそ輝いていらっしゃるのが呼舷様ではありませんか。だからわたくしは、洲焔子は、呼舷相駁というひとりの男性に…恋……こ、ぃ…ぉぁぅ…」


 不自然に途切れる言葉。姿は見えないというのに、焔子が顔を真っ赤にして俯き、照れているだろうことが手に取るようだった。緩む口元を抑えられず、呼舷は眉尻を下げた。


「…焔子殿、どうか、続きを…」

「その…あの……どうか、ご勘弁を……」


 堪らず、くつくつと笑ってしまった。笑っているのに、泣きそうだ。満ち足りて、幸せで、胸が苦しい。吐き出す息があまりに熱い。狂おしさで全身が焼け焦げてしまいそうだった。


「…焔子殿」

「はい」

「焔子殿……――焔子殿…」

「……呼舷様、どうか…」

「……?」

「ただ、焔子、と…」

「…焔子」

「…ッ…はい」

「焔子」

「はい。呼舷様」

「焔子――愛しい私の花嫁よ…」


 柔らかな沈黙は幾千幾万の言葉を重ねるより饒舌に語る。


 呼舷も、そして焔子も、堅く心に誓った。決して、この夜を忘れるまい。



「おやすみ焔子。――良い夢を」


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