八日目:父の背中
華小に見送られ、呼舷は托苑を伴って馬を歩かせる。昨日あれだけ走らせたので遠邇は今日は休ませていた。厩で阿古にぴっとりと寄り添っている様は、主人としてはなんとも言えない光景だったが。
まだ早い時間であるというのに、小春日和の街道は陽が煌めいて心地よかった。遠くにぴちちと鳴く小鳥の声が、いかにも春らしい。呼舷のやや緊張している心が、ほんの少し和らぐような気がした。
やがて、見慣れた小さな屋敷の前に呼舷らはたどり着く。抄都によく見る様式で立てられた屋敷は、柿色の瓦を乗せた白い壁に囲まれ、内側から緑を溢れさせていた。門前には腰の曲がった老いた従仕がおり、呼舷らをみとめて深く頭を下げ、門を開けた。
案内されるまま、呼舷は廊下を静かに歩く。玄関で既に剣と托苑を預けているので、視界には先程の老従仕がいるだけだ。いつもより日差しが入る廊下を進めば、わずかも経たぬ内に見慣れた戸の前にたどり着いた。老従仕が中に声をかけ、諾の返事を聞いてことりと戸を開いて呼舷を中に入れる。
窓際に対面に設けられた二脚の椅子。座面が低く背もたれの深いその片方に舷角が座っていた。呼舷はその向いに、静かに腰掛ける。老従仕がこぽこぽと茶をいれて一礼すると、音も無く部屋から出て行った。
「何の用だ」
呼舷を見ようともせず、呼舷に挨拶をさせることも、することもなく、舷角はまるで独り言のようにそう言った。ずずっと茶をすすると、いつもと同じように忙しなく煙管を咥え火をつける。吐き出された煙が呼舷から舷角を隠した。
しばらく沈黙したが、呼舷は単刀直入に切り出した。
「…何故、焔子の素性を黙っておられたのです?」
責める声ではなかった。ただただ、尋ねるだけの呼舷の声に、ようやく舷角が視線を上げた。
「聞いてどうする?」
「……」
「謀ありとこの父を斬るか?」
くっと嗤った舷角に、呼舷の心が曇る。紙に薄墨が落ちるように、ぽたりぽたりと白を埋めて行く。
「…そこまで、私を疎ましく思っておいでか?」
「……」
舷角はちらりと呼舷を見、そして視線を逸らして煙管を噴かせた。コンと灰を落とし、背中を丸めたまま、じっと煙草盆を見つめる。何故か、その姿は随分と小さく見えた。
「従軍よりこちら、父上とまともに話をしておりません」
「……」
「何かお考えがあってのことだったのではないかと…今になって思い至りました」
不思議だった。不思議だったのだ。事が全て明らかとなり、最初に持った疑問だった。この縁談に裏は無く、舷角が故意に焔子の素性を隠したところで、舷角には何の旨味も無い。ただの嫌がらせだったのだろうかとも考えたが、嫉妬深くとも気位が高く潔癖な舷角はくだらない嫌がらせはしない男だった。事実、今まで嫉妬され、嫌がらせをしかねないと思わせる言動をするものの、実際にされたことは無かったのだ。
そこに気付いて、呼舷ははたと思い至ったのだ。父と、まともに言葉を交わした事が無いことに。
「真意を…お聞かせ願えませんか」
静かに問うた呼舷を、舷角は感情の読めない眼で見据えた。やがてすい、と視線を逸らすと、ポツリと呟くように話し始めた。
「…おまえは…わしの話など聞かんだろうと思うておったよ…」
「……」
常の舷角とは違う、ゆっくりとした口調。舷角は煙管に煙草をつめようとしたものの、逡巡して結局煙管を煙草盆にのせ、椅子に深く体を沈めた。
「…わしの跡を継がず、兵になるなぞとこの家を出たおまえが腹立たしくて仕方がなかった。そのくせ勘当する度胸もわしにはなかった。そんなわしを尻目に見る間に駆け上がって行くおまえの姿に、父としての尊厳を叩き折られたと思うておった…。
おまえの崩れた顔を見た時は、わしの言うことを聞かぬからだと肚の中では嘲っておったよ」
「…左様か…」
呼舷がどこか期待していたことはやはり間違いだったのだろうか。聞かされた内容に心が沈み、一言告げた後に言葉は続かない。心に滲んだ墨はもう白を探すのに苦労するほど広がっている。
だが、舷角が「それでも…」と呟いて、呼舷は顔を上げた。不自然に途切れた言葉の先を待つ。やがて舷角は、苦痛に耐えるように額を押さえ、言葉を足した。
「それでも…捕虜の身から帰って来たとき――どれほど嬉しかったか…」
「――!」
声が出なかった。思いもよらない舷角の言葉に、文字通り何も告げられなかった。
「……おまえに、相応しい妻を娶らせてやりたいと…ずっと思うておった…
朔孫様より焔子様のお話を伺い、焔子様ならもしやと思うた…だが、焔子様のことを詳しく伝えれば、おまえはそれを理由に会いもせずに破談にしただろう。…だから、伏せた…」
そんなことは無いと言おうとして、それは舷角の心のうちを聞き、焔子に惚れた今だからこその言い分だと呼舷は喉を詰まらせた。そして得心がいく。穿った気持ちは無かった。舷角が、本心を話してくれているのだと、声音から、隠れた表情から、雰囲気から、察せられたからだ。
やっと向き合えた。しかし、歓喜よりも後悔が呼舷の心を覆う。
ふと、舷角が重い光を眼の奥に宿し、呼舷を見た。
「此度の縁談は…わしの最後の賭けだった」
「…最後の賭け?」
「わしはもう永くない」
「!?」
「心の臓を患うておる。もう何度か発作も起き、疾医(内科医)も匙を投げた。永くは持つまい」
「――、…左様か…」
雷に打たれたような衝撃だった。いつの間にか老いた父。六十歳で長寿、七十歳まで生きれば大往生と言われる乾抄で、すでに五十歳を過ぎた舷角が告げたことはそこまで珍しいことではない。それでも、向き合わない時間が長過ぎた呼舷に心の準備が出来ているはずも無い。あまりに衝撃が大きい告白だった。
「…何故…」
喉が焼け、声が震える。
呼舷は堪らず、顔を伏せた。
「…何故、打ち明けて下さらなかったのです…ッ!」
絞り出すように言ってから、呼舷は悔恨に打ちのめされた。昨日の夜、同じ事を言ったばかりだと臍を噬む。どうして打ち明けなかったのかと誰が責められようか。聞かなかったのだ。言わせなかったのだ。呼舷自身が、舷角と向き合うことを避けていたのだから。
舷角が顔を上げ、呼舷を見た。その心のうちに何を思ったのだろう。舷角はからりと笑う。
「下らぬ意地よ」
舷角はそれ以上語らなかった。責めることも無く、詫びることも無く。ただ、何本も走った深い皺に様々な想いが刻まれていた。
「…陽菜にも会って行け」
「母上に?…しかし…」
「あれも、ずっと後悔しておる」
呼舷の母・陽菜とはもう十数年会っていない。崩された顔に包帯が必要なくなってから無事を知らせに会いに行った時、陽菜は呼舷の顔をおぞましいと叫んで遠ざけた。自分の顔は母を怯えさせると実家に帰っても母を尋ねはしなかったし、母もまた顔を出さなかった。後悔を、してくれているとは思ってもいなかった。
「…顔布を…」
「うん?」
「顔布を新調し、改めて伺います。その際には、妻も連れて参りましょう」
「そうか…」
ぽとりと沈黙が落ちる。引き際だろうと解っていたが、呼舷はどうしてももう一言舷角と言葉を交わしたかった。
「父上」
「言うな」
ぴしゃりと、言いさした呼舷を押しとどめるように舷角は言葉を被せた。舷角はもう呼舷を見ない。煙管をいじりながらちびちびと煙草の葉をつめ、ひらりと一度手を振った。
「勝手に幸せになれ」
「――御意に」
それだけ言うと、呼舷は静かに席を立った。隣室に控えていたらしい先ほどの老従仕がするりと出て来て一礼し、呼舷を先導する。玄関で托苑から剣を受け取り、馬の手綱を引いて門を出た。
呼舷は振り返り、屋敷を仰ぎ見る。そして深々と、ゆっくりと、頭を下げた。
十六年越しの父との対話だった。
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呼舷は馬を走らせていた。托苑とは途中で別れ、ひとり向う先は禁城だ。婚儀を控え、休みのはずの呼舷の姿に行き交う者達が驚き、慌てて頭を下げるのを尻目に、呼舷はただまっすぐに目的の部屋へと急ぐ。たどり着いた戸を叩き、間延びしたやる気の無い返事を聞いて開けたその先には、驚いた表情の友がいた。
「禍斬。頼みがある」
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「ふっざけんな!無理に決まってんだろが!なんでもっと早く言わねぇ!」
バンッと机を叩いた禍斬だが、呼舷は悪びれる様子も無く涼しい顔で対峙する。
「致し方なかろう。さっき思いついたのだ」
しれっと言い放った呼舷に、禍斬はバリバリと頭を掻いて呻いた。珍しい呼舷からの頼み事。それは婚姻の儀で使いたいという、とある品の依頼だった。焔子との昨日の騒動を聞かされ、先程長年にわたる父親との確執も解決して来たという友。その上でこの依頼されたことは誰よりも嬉しいと感じている。
だが、いかんせん時間がない。婚儀は明後日に迫っており、すでに昼を回ろうとしている。どうしてもっと早くと何度も呼舷への恨み言が頭の中を回るが、事情も考慮すれば呼舷が依頼するのが今なのも致し方ない。解っていてもやはり時間がない為に恨み言のほうが大きくなる。祝う気持ちが強いだけに恨めしい。
「別に作るのは吝かじゃねぇさ。俺だってなんとかしてやりたい。けどな、時間がなさすぎる。今からすぐに作っても明後日の朝までなんてそんな…」
「いやいや、何を言うか。これは礼だ。遠慮せず受け取ってくれ」
「………はぁ?」
依頼をしているのに、礼だという呼舷。聞き間違いかと思わず耳の穴に指を入れるが、間違いではないよと呼舷が爽やかな笑みを浮かべた。
「源龍胆の礼だよ、禍斬」
「!!」
完全に言葉を失った。唖然としてしまって鯉のように口をパクパクと動かすしかない。そして我に返った禍斬は頭を抱えた。気持ち悪いほどににこにこと笑う呼舷を前に、源龍胆を仕込んだお陰で晴れて両想いになったのだろうと叫びたかったが、それはあくまで結果論だ。あれを仕込んだのは、福呂と禍斬の仲を引き合いに出した呼舷への仕返し。屁理屈をこねて丸め込むには、今の呼舷相手にはいささか分が悪かった。
「優秀な職人を召し抱えているそなたに出来ぬはずがない。十年来の我らの仲ではないか。遠慮なく受け取ってくれ」
「…こんにゃろぉぉ…」
口角が引きつるも、もう笑うしかない。絶対に呼舷が折れないだろうことは火を見るより明らか。無駄な問答は貴重な時間を容赦なく奪って行く。禍斬は両手で頭を搔き毟り、盛大に吠えた。
「んがぁあッ!この鬼畜野郎がッ!感涙させてやるから首洗って待ってやがれッ!!」
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禍斬を丸め込み、ほくほく顔で屋敷に帰った呼舷を待っていたのは、憤怒の形相の華小だった。挨拶も早々に商人の対応に使う小部屋に押し込まれる。追い剥ぎに遭うようにして、下帯だけにされ、あまつさえ顔布まで引っ剝がされた。目が回る勢いで婚礼の衣装を着せられて、ようやく呼舷は自分の予定を思い出した。
婚礼の衣装の仕上げ。本来は焔子が到着した日に行う予定であったが、婚儀の延期と共にこれも延期された。そして、昨日の晩に仕立ての確認を行うと職人が来ていたのだが、あの騒動で呼舷は不在。華小が頭を下げて今日の昼にと再度約束を取り付けていたのだが、呼舷の思いつきにより禍斬を訪ねたため、約束からすでに一刻ほど遅れていた。
職人にも華小にもすまぬすまぬと謝れば、職人はひどく驚いた様子で恐縮するが、華小は相当におかんむりでネチネチと小言を言われ続けた。それも万一衣装が間に合わねば焔子ががっかりするだろうとか、焔子がどれだけ楽しみにしていると思っているのかと言われ続ければ、呼舷の心が際限なく削られて行くのも無理からぬことだろう。
職人が哀れみを含んだ眼で、お疲れ様でございましたと辞去した頃には完全に日が暮れており、呼舷はぐったりと自室の揺り椅子に沈み込んだ。
用意された夕食に手を伸ばして、やっとひと心地つく。なんだかあまりに久しぶりに落ち着いたような気がして、呼舷はひとり笑った。
なにもかも。
思い返せばなにもかもが、小さな行き違いの積み重ねだった。
疑心が疑念を増長し事を大きくしたに過ぎない。騙されているのではないかと疑心暗鬼になる前に、騙されたと憤る前に、直接尋ねてみればよかったのだ。たったそれだけだ。それだけで事は解決したのだ。福呂の言葉が突き刺さった。
〝己も人も信じぬ者は裏切られるぞ〟
父や焔子、そして自分自身と、向き合うことを避けた。全てはそれが招いたことだったのだ。
それでも。遠回りをして、傷つけて。それでも今、呼舷の内にわだかまるものは何もない。
ふと、呼舷の目から一筋涙が落ちた。
物心ついた頃から、泣いた記憶はない。どうして今、この時にと思う反面、流れた涙に妙に納得もしていた。
悔恨ではない。歓喜でもない。安堵や憤怒とも違う。それはまるで硬く閉ざされた氷が解けたような――
――ああ、焔子に逢いたい。
想うだけで胸に灯るものがある。慣例が恨めしかった。
焔子から、文の返事が無いことをほんの少し寂しく思いながら、呼舷は久々のひとりの夕食を食べ終えた。




