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七日目:隠密の帰還(6)



 高枝の町から倍以上の時間をかけて、呼舷は焔子を伴って帰邸した。自分の前に焔子を座らせ、遠邇の馬具に阿古の手綱を括り付けて慎重に道を行く。夜、馬を走らせるのは自殺行為だ。それを遠邇もわかっているのか、何度も阿古に鼻先を寄せ、気遣わしげに歩く姿にまるで自分のようだと苦笑した。


 屋敷に着いたふたりを、従仕らが囲んで無事の帰還を喜んでくれた。だが、孫健は厳しい表情でずかずかと焔子の前に立ったかと思うと、高い音を立てて焔子の横面を打った。


 さすがに倒れ込むほどの力は込められていなかったが、従仕らに悲鳴を上げさせるには十分だった。大丈夫かと焔子を気遣う眼と、何をするのかと孫健を批難する眼がきれいにまっぷたつに別れる。

 それらを無視して孫健は呼舷の前で地に片膝を着き、頭を垂れた。曰く、妹の無礼を洲家の名を持って詫びる。全責任は兄である自分が負うので、縁談の考え直しは待って欲しいと。


 組んだ手の中に顔を伏せる孫健の頭を見ながら、呼舷は賢く優しい男だと孫健を心の内で賞賛していた。帰還と同時に膝を折ることでことの収束の切欠を呼舷に手渡した。焔子を平手打ちしたのはいささかやり過ぎの感はあれども、心配してのことだと納得する。

 孫健がせっかく作ってくれた機会を無下にするなどただの阿呆のすること。呼舷は膝をついた孫健と同じくその場に膝を折り、和解を持ちかけ、従仕らに向って小さな誤解が積み重なったこと、婚儀の予定に変わりはないことを伝えた。


 こうして、国から見ればあまりに小さな屋敷で起きた大騒動を、呼舷と焔子はようやく収束させたのだった。


:::


 呼舷は燭台を手にひたひたと地下道を歩く。その先に見えるのは独房だ。細かい鉄格子の向こうにいるのは両手を頭上にある鎖に繋がれ、膝立ちにさせられている楽環だった。


「…やり過ぎではないか?」


 楽環の脇に立ち、空の水桶を持っている伴鴻に呆れた調子で呼舷は声をかけた。


「いいえ。決してやり過ぎではありません」


 冷ややかな声に、楽環の肩がびくりと跳ねる。民にも部下にも篤い呼舷の隠密であっても、掟を破ったり、見過ごせない過失には折檻が待ち受ける。それは情報ひとつ、行動ひとつで主の命を左右するからだ。隠密の重要性を理解しているからこそ、呼舷も行き過ぎたものは許さないが、折檻そのものをやめさせることはない。


 呼舷と孫健の話を屋根裏で聞いていた伴鴻は、楽環の短絡さ加減に激昂した。兵になるのは男であるというあまりに強い固定観念による弊害といえば確かにそうだし、裏付けの証拠を揃えるのに時間もなかった。それでも伴鴻に報告をいていれば防げたかもしれない事態だ。すぐにでも楽環を責め立てたいのを我慢して我慢して、呼舷の帰邸を待ち、ことの収束を持って今に至る。


 楽環が受けている折檻は桶に入った井戸水に小石を混ぜて顔に打ち付けるというもの。春先のこの季節、夜になればまだまだ綿入れが欲しい気温だ。その中、休む間もなくキンキンに冷えた井戸水を打ち付けられる。ましてやそこに小石が混ぜられているのだから、なかなかに堪え難い代物だ。

 事実、楽環は顔中無数に血を滲ませ、真っ青になった唇を必死に引き結んでいた。若者というよりも少年という方がしっくりくる彼が、全身を濡らし項垂れる様はさすがに痛々しい。


「そのくらいにしてやれ」

「しかし…ッ」

「伴鴻」


 短く言った呼舷に、伴鴻は釈然としないものの、桶を置き、楽環の手枷を外した。呼舷は身を屈めて独房の中に入る。寒さに震える楽環。持って来ていた綿入れをさりげなく伴鴻に手渡す。伴鴻がそれを着させてやってから、呼舷は体を丸めて震える楽環の視線に合わせた。


「楽環よ。言いたいことはあるか?」

「はい…、此度の失態…誠に、申し訳ありませんでした…」

「うむ。その謝辞確かに受け取った」

「…ありがとう、存じます…ッ」

「楽環よ。解っていると思うが、今回は相手が良かった。これが戦場ならば、おまえの仕事が数百、数千、時に数万の兵の命を左右する。肝に銘じておけ」

「はい…ッ」

「同時におまえ達隠密の仕事は一騎当千に値する。それも忘れるな」


 項垂れ、惨めな姿の楽環ががばりと顔をあげて呼舷を見た。呼舷の眼は真摯に語る。


「精進せよ。次に期待している(・・・・・・・・)


 ぽんと肩に置かれた呼舷の大きな手。くしゃりと顔が歪むと、楽環はもう我慢が出来なかった。涙腺と鼻が決壊して滂沱と流れる。言葉なのか呻き声なのか判然としない謝罪と感謝を聞きながら、呼舷は伴鴻を伴って地下を後にした。


:::


「…伴鴻、誰ぞ捕まえて文を届けてくれまいか」


 地下の独房から屋敷内へ戻った呼舷は、厩を見てから自宅に帰ろうとする伴鴻にそう告げた。


「文、でございますか?」


 誰に宛てて、とは問わない。なんとなく、心当たりがあった。呼舷が片付けるべき事柄はまだ終わっていないのだと気付けば、その相手は自ずと絞られる。


「今からしたためるが、時間は取らさぬ。頼んだ」

「かしこまりまして」

「ところで伴鴻」

「は」

「…その手。きちんと手当をしておくのだぞ?」


 言えば伴鴻は苦い顔をした。伴鴻は折檻をする道具に細工をし、自身が傷を負わねば折檻出来ないようにしている。誰に言われたでもない、伴鴻の頭としての覚悟だ。うまく隠しているが、今の伴鴻の手はずたずただろう。それを思えば呼舷も自身に反省がある。掟を守らせず、楽観の言葉を直接聞いて、感情のままに行動した。普段であれば隠密からの情報を元に策を練る。今回は頭に血が上りすぎていた。


「我らもまだまだ未熟だな」

「…耳の痛い話です」


 くつくつと苦笑し、呼舷は自室へ足を向けた。焔子の元へ行きたかったが時間がない。先にやるべき事を済まさなければ。呼舷は急いで自室に戻った。


 しばらくして、控えめに自室の戸がコンコンと叩かれる。入室を許して現れたのは楽環だった。手当てされた細かい切り傷が顔いっぱいに散らばっているのを見て、苦笑が漏れる。恐らく伴鴻がささやかでもと、名誉挽回の機会を与えたのだろう。おずおずと入って来た楽環は呼舷の側に立つと姿勢を正した。


「これを…」


 呼舷が差し出した文の宛名を見て楽環は眼を見開いたが、それも一瞬。何も言わずに心得たと頷いた。楽環が文を懐に仕舞ったのを見て、呼舷はもう一通取り出す。


「出る前にこれを焔子殿に届けてくれ」

「え?」

「もう休まれているようだから、戸口に挟んでくれれば良い」

「はぁ…かしこまりました…」


 怪訝な顔をする楽環に「婚儀の慣例だ」と言うと、ぱっと顔色を変えた。婚礼の儀の前二日は新郎新婦が顔をあわさないことを思い出したのだろう。まだ起きて食事をしていてもおかしくない時間ではある。だが、今日の騒動はなかなかに堪えたらしい。焔子はもう休んでいると華小から先程知らせがあった。もう一度顔を見たかったが仕方ないと文に視線を落とした。


 そんな呼舷に、楽環は先程よりもしっかりと頷いて、仰々しいくらい丁寧に焔子への文を受け取った。


「それでは、行って参ります」

「頼んだ」


 呼舷の言葉に背を押され、楽環は矢のように飛んで行った。


 楽環に頼んだのは訪問の先触れ。明日朝一で向うのだと、自分自身に言い聞かせる。



 尋ねるのは父。

 舷角の屋敷だ。



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