七日目:隠密の帰還(2)
今日も無事に執務を終え、帰路についた呼舷。禁城の門を出てすぐのところで二頭の馬が駆けて来た。とっさに路巌らが抜剣して呼舷を囲むが、その馬に乗って来たのが呼舷の隠密であることに気付き、静かに剣を下ろした。だが、その穏やかならぬ雰囲気に空気が張りつめる。
「殿!殿ーッ!!」
「待たんか!この大馬鹿者!!」
珍しい伴鴻の怒鳴り声に何事かと呼舷も表情を硬くする。見れば顔布をしたままの若者は朔州に偵察に出した隠密だった。馬に乗っているのが不自然に思えるほど、まだ若い。歳の頃は十三か十四だっただろうか。
「なんだ騒々しい」
「殿!」
朔州から戻ったそのままの格好でここまで来たらしい若い隠密――楽環はひらりと馬から下りると、その場に膝を付き、声を張り上げた。
「殿!お願いでございます!此度のご縁談、何卒お考え直しを!」
一瞬にして、緊張が走る。禁城の門を出たばかりで衆目はないが、誰が聞いているやも解らぬ場所でのこの発言はあまりに軽率だ。すっと眼を細めた呼舷の代わりに、もう我慢ならんと伴鴻が楽環を殴りつけた。
「ひよっこが図に乗るな!この大馬鹿者が!!」
「――ッつぅ、しかし、頭!」
「殿、躾が行き届かず申し訳もございません。一度頭を冷やさせます」
楽環の頭を地面に叩き付ける勢いで押さえつけ、恥じ入る伴鴻に呼舷はふっと息をついて苦笑した。
「よほどのネタを拾って来たと見える。面白い。聞こう」
「殿ッ!」
「ありがとう存じます!」
批難の声を上げた伴鴻に対し、楽環は嬉しさと安堵の混じった表情で馬上の呼舷を見上げた。困惑気味の護衛達に目配せをし、今日の護衛は無用と呼舷は路巌だけを連れて楽環らと共に近場の茶屋へ向かった。茶屋といっても上級役人御用達。密会などにも利用されるその店の二階の個室を取り、楽環と伴鴻を向いに、路巌を隣に座らせた。
「して?何を知った?」
運ばれて来た茶を一口啜って呼舷は楽環に問いかける。楽環はキュッと表情を改めて、思い切ったように告げた。
「朔州刺史に〝実の娘〟はおりません」
「やはり養子だったか」
事も無げに応えた呼舷に路巌と楽環が驚いて眼を見開いた。焔子が怪しいと知らされてもいなかった路巌に至っては目玉が落ちそうな驚き様である。対照的に驚いていないのは呼舷と伴鴻。伴鴻もまた、呼舷と同じく落ち着いており、むしろそんなことで騒いだのかと厳しい視線で楽環を刺した。最初の勢いはどうしたのか楽環はすでにしどろもどろだ。
「ご…ご存知でしたか」
「薄々そんな気はしていた」
鍛えたい若造と聞かされていただけあって、まだまだだと呼舷は笑む。だが、自分の手柄の為ではなく、心底呼舷を思ったが故に、伴鴻を通さず上申しようとした心意気は重宝すべきだと、呼舷は楽環に焔子について解った事を述べるよう促した。
「焔子の出生地は範州・木應。三年前に朔州に流れ付き、そこから昨年までの二年間、州城の従仕として仕えておりました。殿のご推察どおり、昨年朔州刺史・朔孫が養子にしたとのこと。養子に迎えた理由は特に明らかにされてはおりませんが、他州との結びつきを強めるために娘を欲したというのが有力な説とされております。とは言え、朔孫が有力貴族などに縁談を申し込んだ形跡はなく、今のところ妙な動きはありません。殿のお父上が朔孫登城の折りに話を持ちかけたというのも裏が取れました」
現在は伴鴻の息のかかった情報屋に州城に残っている文の数と届けられた文の数に差異がないか、怪しい人物の出入りがなかったかをさらに洗わせているという。はっきりとした情報をとにかく早く伝えるべく戻って来たと語る楽環に呼舷は相解ったと返事をした。路巌にとっては寝耳に水の話だが、流石と言うべきか今はもう冷静に話を聞いている。
一方で額に青筋を立てているのは伴鴻だ。常ならば隠密頭である伴鴻に報告をし、その上で呼舷に伝えるのが掟。それは無駄な情報を省き、混乱を防ぐ為に絶対に必要な事。それを無視した楽環は許せるものではなく、さらにその内容があまりに幼稚とくればこの場で折檻をしたいほどに腹立たしかった。
「実子でないことが殿に伝えられておらぬことには些かひっかかるが、殿のお父上が故意に隠しておられるやもしれん。それを踏まえても朔州刺史に怪しい動きがないならば養子であろうが大した問題にはなるまい」
「……」
「この程度のことで貴様は掟を無視してまで殿に直接破談にせよと申し上げたのか?」
伴鴻の静かな声音は、怒鳴り声よりもずっと恐ろしい。武人である路巌はさすがに表情も姿勢も変える事はなかったが、それでも背中に汗が走るのを感じていた。楽環は膝の上で拳を固め、青い顔で俯いて微かに震える。だが、それは責められ、自分の未熟を悔いているだけではないようだった。何かしら思い詰め、報告を躊躇っているようにも見える。
呼舷は、静かに問いかけた。何を、知ったのかと。
「……誠に、憚りながら…」
「申せ」
「……」
言いさして尚、口を噤んだ楽環。伴鴻が苛々しているのが解ったが、呼舷は敢えてゆったりと構え、楽環を待った。長い沈黙の後、楽環は覚悟を決めたように口を開いた。
「…かの方の出生地、範州の従軍記録に…名が」
「なん、だと…?」
その場にいた、全員の顔色が変わる。
楽環が、まっすぐに呼舷を見た。
「洲焔子は――男です」




