七日目:隠密の帰還
呼舷は戦場にいた。一面に広がる黄土色の大地。数千の黒い鎧が地に座り込んでいる。見たことのある光景。全く同じ物を見たことがある。夢を見ているのだと呼舷は気付いた。
数日前に見た夢の繰り返しだった。少年兵が取り押さえられながらも、呼舷に敵襲を伝える。敵将を討つ。奇襲を伝えた少年兵に労いの意味を込めて剣を贈り、そして。
――例えこの身が朽ちようとも、この魂は呼舷将軍と共に
忠誠を誓い、呼舷を見上げた少年兵の顔は、やはり焔子だった。
そこまで見て、目が覚めた。
寝台に上体を起こし、ひとつ息をつく。どこの戦場だろうかと記憶を辿るが判然としない。何年も前のことだということだけがかろうじて解る。無理もない。元服してすぐ従軍して十六年。数えきれないほど戦場に立った。確かなのは、今見た夢は夢のなかで作り上げたものではなく、確かに呼舷が現実にいたことのある戦場、つまり記憶の再体験だということ。なのに、何故、少年兵の顔だけが焔子に代わっているのだろうか。
まさか本当に焔子だったのだろうかと考えて、呼舷は頭を振った。夢の中の少年兵は十六~十八といったところだろう。今の焔子の正確な年齢を知らないことに気付いたが、恐らく同年だと判断する。どれだけ朧げな記憶しかなかろうと、あの戦場は五年以上前だという確信がある。仮に少年兵が焔子だったとしたならば十一かそこらで従軍していたということ。元服していない男児を従軍させることは禁止されている。それはあり得ないだろう。
――そも、焔子は女だ。
女が兵士になることはない。軍規で禁じられている上に、従軍の際には身体検査がある。呼舷は考えることをやめた。考えても意味のないことだ。三日後には婚姻の儀を行う。そうすれば、呼舷と焔子は正式に夫婦になるのだ。
裏があろうとねじ伏せると決めた。焔子を信じ、共に生きると決めた。思い出せない少年兵のことなど、瑣末なことだった。
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いつも通り朝の稽古を終え、風呂で汗を流し自室で焔子と朝食をとった後、客間の前を通ると中から孫健が出て来た。いくつかある客間のうち、孫健が出て来たのはこの屋敷で一番の大広間で、今は呼舷の従仕と焔子の従仕が揃って食事を摂る部屋になっている。そこから孫健が出て来たことに呼舷は驚いた。呼舷に気付いた孫健がぱっと笑みを浮かべて頭を下げる。
「おはようございます。呼舷様」
「おはようございます。…従仕らと食事を摂られたのですか?」
半ば信じ難い思いで孫健にそう尋ねると、孫健はあっけらかんと笑って朔州の習慣だと答えた。
「州城では従仕と城主である刺史や官吏がみな同じ席で同じ物を食べます。古くは毒味を兼ねたそうですが、今となっては質素倹約が主な理由でしょうか」
「それだけではないように思いますが?」
「あはは。さすが呼舷様。まあ、少々身内自慢になりますが…父は生山一族の教えを殊更大事にしておりましてね。山の元では皆平等だと、無駄な見栄や欲で贅沢な食事はしませんし、そういう物が食べたい時には必ず従仕にも官吏にも振る舞うのです。まあ、あんな田舎では張る見栄もございませんので…あ、生山一族というのは…」
「存知ております。良き教えだと」
「ええ。我らの誇りを作る教えです」
「……」
はっきりと言いきり、くっと口角をあげた孫健は惚れ惚れするほど良い面構えをしていた。階級に縛られた無用な謙遜や遠慮をせず、あるがまま誇れるものを口にする。厳しい環境が育てた強い精神だ。
呼舷は改めて孫健をみた。色白だが貧弱な印象はなく、目鼻立ちのはっきりした色男だ。太守と言えば文官の扱いだが、ぴんと伸ばした背筋や幅の広い肩を丸めることなく立つその姿は武官といっても通るだろう。年の頃は遅めの元服を終えたばかりの――乾抄では元服すると側頭部の髪を剃り、髪が伸びるまで宝冠と呼ばれる黒い布で剃った部分を覆う習慣がある。孫健はまだ宝冠をしていた――十八歳頃に見受けられた。
自信に満ちた雰囲気を纏っているが、それ故にまだまだ若いと感じさせる。焔子と良く似た明るい髪色もそう思わせる要因のひとつだろう。それでも、元服してすぐに太守となるのは相当に優秀でなければ無理な話だ。呼舷相手にも堂々と顔を上げて、物怖じせず話すその様は将来が楽しみだと思わせた。
「…やはりご兄妹ですな。よく似ていらっしゃる」
顔はまるで似ていないが、とは心中に留め、呟くように言った呼舷に、何故か孫健は怪訝そうな表情を浮かべ、かくりと首を傾げた。
「…聞いておられぬのですか?」
「何をです?」
今度は呼舷が首を傾げる番だった。だが、孫健が口を開くより先に、やってきた托苑が「殿」と声をかけた。
「ご歓談中、無礼仕りまする。殿、路巌様方がご到着されましてございます。いかがいたしましょう?」
「参る。申し訳ござらん孫健殿。続きはまた」
「ええ、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「有難う存ずる」
振り返った呼舷に、托苑がさっと呼舷の後ろに回り外套をその広い肩にかけた。襟をよせ、金飾りを留め、ばさりと一度裾を大きく広げ、呼舷は颯爽と屋敷の門へと歩を進めた。
門前には焔子が待っていた。呼舷をみとめ、頭を下げる。
「いってらっしゃいませ」
「行って参ります」
顔を上げ、ふわりと笑んだ焔子につられ、呼舷の目元もわずかに緩む。伴鴻から遠邇を受け取ってその背に跨がり、禁城へ。
動き出す直前にちらりと見た、手を振る焔子に思いを馳せる。
焔子の、その正体に。
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登城し、呼舷はまっさきに総大将・万瀑の執務室を尋ねた。昨日の一件はすでに万瀑の耳に入っているだろうが、自ら報告をするためだ。見事な彫りの装飾が施された重厚な扉を両脇に立つ兵士が恭しく開ける。一歩中に入ると、万瀑が愛飲している煙管の甘い香りが呼舷の潰れた鼻を掠めた。
「来たか。聞いておるぞ。嫁御がお手柄だったそうだな」
「ええ」
呼舷はすでに知っている話を繰り返し聞かされるのも煩わしいだろうと、要点だけを押さえて簡潔に万瀑に伝える。齟齬がないかが解ればそれでよいと万瀑もふむふむと相づちを打ち、相解ったと答えた。だが、珍しく万瀑の表情は少しばかり厳しい。何があるのかと万瀑の言葉を待つ呼舷に、やはり万瀑は浮かない口調で切り出した。
「軍としては最適な対応だ。嫁御のされたことも多少無茶だが結果的に警士が動きやすい状況を作り出したのだから文句は無い。だが…貴様の行動には少々苦言を呈したいところだ」
「…と、申しますと?」
「大衆に向って婚約者だと言ってのけたそうだな?しかも朔州刺史の娘だと」
「はい」
淡々と返事をした呼舷に、万瀑は僅かに渋面を作り、煙管からの煙を肉刺だらけの手でひらりと払う。ふぅっと吐き出された紫煙が空気にとけた。
「…現朔州刺史・朔孫に年頃の娘はおらんぞ」
「――…!」
一段低い声で告げられた内容に、呼舷はわずかに動揺した。それを察したのだろうか。万瀑は机の向こう側に立つ呼舷にぎょろりと動く眼で厳しい視線を送った。
「慎重な貴様が、軽卒なことをしたものよ。朔孫は儂の旧友でな。確かに娘が出来たと文があったが、それは去年だか一昨年だかのことだ。お主に嫁げる年頃の娘がおるなど、そんな話は聞いたことがない」
「……」
「よもや朔孫が、とは思うが…お主、諮られてはおるまいか?」
万瀑は鷹揚だが、やはり禁軍総大将。戦時下において国の存亡に関わる重責を担うだけに、その行動も基準も厳しい。だが、呼舷はその万瀑に軽率だと窘められても、冷静でいられた。冷静でいられるだけの、軽卒な行動ではなかったとの自負と覚悟があった。
「恐れながら、娘が出来たという文を総大将が朔孫殿から受け取られたなら、逆に考えればご息女は確かにいらっしゃるということ」
「…何が言いたい?」
「養子――ということは考えられますまいか」
ずっと考えていた可能性だった。従仕のような振る舞い。しかし戯将駒を打てる教養を持つ。似ていない兄妹だが、兄の素性に疑わしいところはなく、朔州の動向もまた然り。そして、今日の出掛けに孫健が言いさしたこと。それらを鑑みて考えられる可能性は、もはやそれしかなかった。
「…ふむ。そうか…確かに」
その可能性は〝有り〟だと、万瀑も鬚を撫でて考える。
力の強い家と縁故を結ぼうとするのは世の常。その為に養子を迎えるのもまた然り。それは力ある家の子を迎えるだけではなく、縁故を結ぶ為の駒として力ない家から子を迎え入れることも当然含まれる。
呼舷の地位を利用した謀ではないかと初めのうちこそ警戒したが、万瀑と繋がりがあるとなると全くの杞憂だろう。家格に力をと考え、事を急げば叩かれ国政は荒れるが、洲家にその様子がないということは緩やかに力をつける肚だろう。
いや、そのつもりすらないとさえ思えた。なにせ、家格だけでいうならば相駁家そのものは洲家よりもずっと格下だ。呼舷個人が築いた地位により相駁家の力は上がったが、家の歴史だけを見ればたいしたことはない。すでに朔州は、友という関係とはいえ総大将という強大な繋がりを持っている。その上で尚、怪しい動きがないのだ。これ以上ない朔州の白を裏付ける証拠と言えよう。
「儂も細かなところまでは覚えておらん故、屋敷に戻ったら文を改めておこう」
「ありがとう存じます」
――ならば、これで本当になんの憂いもなくなったではないか。
胸に安堵が広がる。呼舷は、総大将を真っ正面から見据え、笑った。
「…仮に」
「む?」
「仮に諮られておりましょうとも、私は焔子を手放すつもりはありません」
はっきりと言い放った呼舷に、万瀑は目を丸くする。しばらくかぱりと口を開けていたが、やがて豪快に笑い飛ばした。
「がっはっは!良い!良いぞ呼舷!天晴じゃ!」
膝を打って大喜びする万瀑に呼舷もまた笑った。この男を前にすると悩み事が全て矮小に思えて晴れ晴れとする。本人にその気はなくとも、背中を押されるのだ。
「いやいや、実に感慨深い」
「何がです?」
「今までどんな女だろうとまともに取り合わなかった貴様が、たった七日でここまで惚れ込むとはな」
立派に蓄えられた鬚を撫でながらニヤリと笑う万瀑。呼舷はそれに同じようにニヤリと笑い返した。
「たった七日、されど七日。――でございましょう?」
一目惚れという言葉があるなら、七日とはどれほど十分な時間だろうか。焔子と関わったこの七日間。呼舷の世界は焔子によって色を変えたのだ。呼舷は待ち望んだ。三日後に迫る婚姻の儀を。
自分が信じた景色の中、見落としたものに気付かぬまま。
2015.09.14 ルビ追加・一部修正