六日目:騒動(3)
「何だおまえは。この流れでよくそんなことが言えたものだ。神などおらぬ!」
喚く男。この世の終わりを叫ぶような男の声はある者には悲痛な訴えに、ある者には耳障りな雑音に聞こえた。だが、焔子はそのどちらにも聞こえなかったらしい。彼女は、無表情で男を見据えた。
「います」
「黙れ黙れ!おまえもくだらん僧侶か何かか?いると言うなら何故神は我らを助けてくださらない!?毎日多額の布施を納め、祈りを捧げた!しかしこの様だ!神は我らの願いを叶えては下さらなかった!当然だ!神などいないからだ!おまえら僧侶にいると思い込まされて金を巻き上げられていただけだからだ!!」
男の勢いに押されたのか、はたまた相手が極将でなくなったからなのか。それまで不安気に膝をついたままだった斤欄宗の教徒がひとり、ふたりと立ち上がり焔子に向かって「そうだそうだ」と敵意を向け、声を上げた。焔子の正体を知らないことも手伝い、彼らの勢いは火の如く。たったひとりの少女に向けるものではなくなり、路巌だけでなく、他の部下も柄に手をかけ焔子を守ろうと動いた。
だが、呼舷がそれを制した。
「……貴方がたは神々を何だと思っているのですか?」
本当に。本当に、ただただ静かに問うた焔子。斤欄宗の教徒らはその問いに激しく動揺した。そんな言葉を投げ返されるなど夢にも思っていなかったのだろう。怒りに満ちた表情は一瞬にして困惑に揺れた。呼舷もまた、焔子が問うた意味が理解出来なかった。焔子は続ける。
「神々が人間を助けることなどありません」
「……なッ?!」
ざわり、と人垣が揺れる。中でも中心となっていた男の顔は一瞬にして怒りに燃え上がった。
先ほどまで神はいないと怒っていた男は、焔子が「神はいる、しかし人間は助けない」と言いきったことに怒っている。〝『神は人間を助けない』と言った焔子〟に怒っているのだ。明らかな矛盾であることを男は気付いていない。自分が今まで信じて来たものを否定されれば多くの人間は怒りを覚える。男の怒りはまさにそれだった。男は未だ神を信じ縋っていたのだ。救いはなく、自ら信じていたものを否定し、それを声高に周囲にそして何より自分自身に言い聞かせて尚、神を信じている。〝神は我らを救ってくれる存在である〟と。
焔子はそれを、残酷なまでに、斬った。
「貴方は神々を人間の守護者だと思っているのですか?」
「…な、に?」
「神は守護者などではありません。言うなれば世界の調整者です。世界が崩壊しないように、天候を操り、地を動かし、生命の数を調整しているに過ぎません。人間一種族の、ましてや一個人を救うなどあるはずがない」
「妄論だっ!では何の為に祈りがある!?」
「私は逆に問いたいです。貴方は神に何を祈っていたのですか?」
「何って、…む、娘の病の快癒祈願だ!…私の娘は長く患って――」
「呆れた…」
「なんだとッ!?」
「神はそんな瑣末事を気にかけることはありません」
「なっ!?瑣末事だと!?」
「そうです」
あっさりとしかしはっきりと言い切った焔子に、呼舷でさえ言葉を失った。神に祈る多くの者は男と同じようなことを神に祈る。この男はさておき、自分の命を賭してでも病や怪我を治してくれと神に祈る者は決して少なくないだろう。それを瑣末だと言い切る者がいようとは誰が想像しただろう。
「例えば貴方は、蟻が貴方に救いを求めて祈っていたとして、それに耳を傾けますか?」
「バカにしてるのか!?蟻が祈るわけないだろう!」
「貴方がしていたことはそれと同じことです」
「なっ!?」
「たかが小さな命ひとつがそんな個人的なことを祈ったとて、大きな存在である神がそれを聞くはずがない。わたくし達が雨乞いや収穫祭をするのは、大勢で騒ぐことで神に気付いてもらう為です。蟻や鼠がたくさん集まって何かしていたらわたくし達だってなんだろうと気に留めるでしょう?逆に言えばそうでもしないと気付いてもらえないということです」
「……」
「大勢で雨乞いをして、わたくし達が日照りに苦しんでいることに気付いてもらう。収穫祭をして、わたくし達が喜んで感謝していることに気付いてもらう。何十人、何百人集まってかろうじて神々に届くのです。それでも、神々が必要と断じれば日照りは続くでしょうし、豊作だって翌年も続くとは限らない。神とはそういうものです。守護者では在り得ません」
男は――いや、この場にいる誰もが完全に言葉を失っていた。
「何の為に祈るかと仰いましたね?祈りは、誓いか、あるいは心の平穏を保つ手段であるべきです。頼み事であってはならない」
「…どいういう…」
「祈りとは、願いを行動に移す為の誓いや戒め、そういうものだということです」
「……」
「健康でありますように。お金持ちになれますように。戦が終わりますように。それらはすべて、自らが動かなければ叶えられないことです。自分の願いはこれで、それが叶うように頑張ります。だから見ていてくださいと祈る。見られていると思えば挫けそうになっても踏ん張れる。だから神に祈るという形でもって誓いを立てているにすぎません。誰かが肩代わりしてくれるわけがない」
誰もが言葉を失ったまま、顔色までも失くしつつあった。それでも、焔子は語ることを止めなかった。それは長刀にも勝る切れ味でもって降り掛かり続ける。
「誰かの為に祈ることも同じです。あの人が無事でありますように。あの人の病がよくなりますように。自分ではこれ以上もう何も出来ることがない。でも何もせずにじっと待つことは辛い。だから神々に祈ることで自分の心を守るのです」
「…やめろ」
「利他の祈りは真実、力となって相手に届きます。ですが、利他の祈りは特別な訓練を受けなければ祈り手から直接相手に届けるのは困難です。だからそれを容易にするために神を仲介させるだけのこと。それは神に実際に動いてくれと頼むことであってはならない。神々はそんなことに力を割いたりはしませんから」
「黙れッ!黙らんか!」
「それを理解せず、神に自分の願いを叶えてもらおうなどと。ましてや祈っているのに叶えて貰えないと喚くなど…――子供のわがままと同じです」
「だまれぇええッ!!」
男が懐刀を抜いて焔子に飛びかかった。
誰もが焔子が襲われ血を見ることを想像し、ひゅっと息を飲む。ただふたり、焔子本人と、そして呼舷を除いて。
男は、わずかに地面を蹴る小さな音を立て宙を舞っていた。そして一拍後、どぉんと派手な音を立てて地に叩き付けられ、うつ伏せになったところを焔子に腕を捻られて拘束された。
誰もが目を疑った。男は焔子よりも頭ひとつは十分に背が高く、小太りだ。それなのに小柄な焔子に木の葉のように舞い上げられ、地に縫い付けられた。それだけではない。焔子はそれを淡々とやってのけ、先ほどと変わらぬ口調で話を続けたのだ。
「貴方がたの僧侶がやったことは許し難いことです。すぐにでも役人に調べさせ然るべき処断がくだされるの最善でしょう。しかし、貴方が無罪かと言えばわたくしは首を縦には振れません」
「…私が、私が何をしたというんだ…!私は騙された!それの何が罪だ!?」
「何もしなかったことが罪です」
「!?」
「貴方には考える頭があったはずです。僧侶の言葉を自分で噛み砕いて考えましたか?お布施を納めるだけでいいと言われ、本当にそうだろうかと考えましたか?娘様がご病気で藁にもすがる思いだったところに付け入られたとあれば怒りを覚えますし、そうでなかったとしても騙した方が悪い。それは揺るがぬ真理。騙された貴方に救済はあるべきでしょう。ですが、何を願ったかと尋ねて迷うような、貴方の娘様の病がそれほど重いとはわたくしには信じ難い。貴方は願いが叶うという欲に溺れ、怠惰による心で僧侶の言葉を鵜呑みにしてはいませんでしたか?」
「…ぐ……ぅ」
「もしそうであれば今の貴方の状況は〝何もしなかった〟貴方の罪によるもの。そしてそれを己ひとりのうちで昇華せず、こうして騒ぎを起こした。同情の余地はありません」
男がぐったりと力を抜いた時、ようやく騒ぎを聞きつけた警士の警邏隊が到着した。焔子はするりと男の上から退き、警士に後を任せ呼舷の元に戻った。
「お見事」
呼舷がにやりと笑い、心からの賛辞を込めて手を叩いた。そんな呼舷に路巌らは拝手を持って焔子を迎える。それを受け、成り行きを見守っていた町衆からわっと喝采が起こった。誰をも引きつけて説き伏せたにも関わらず、焔子はひどく恐縮して身を小さくする。とても同じ人物とは思えず呼舷はこっそりと微笑した。
警士は次々と斤欄宗の教徒の身分を写し解散を促していく。その中で焔子を襲ったあの男は起こされ、後ろ手に縄をかけられていた。ひどく項垂れたままの男を呼舷は盗み見る。騒ぎを先導しただけでなく、焔子の言葉に逆上し刃物を持って襲いかかった。拘留は免れぬだろう。
警士が呼舷に礼と挨拶を告げ、やっと解放されるという時、あの男が焔子に向かって喚いた。
「女!覚えておれ!私は貴様を許さんぞ!」
単純に驚いただけだろうが、焔子がびくりと肩を震わせる。それを見て、呼舷が応えた。
「ほう?」
ざわざわとしていた通りに、何度目かの沈黙が降りる。その中を呼舷はわざと足音を鳴らして男の前に立った。
「面白い。私こそそなたを覚えておこう」
「……ッ、わ、私は東極将様に楯突くつもりはございません。あくまであの女に…ッ」
「なるほど。では身分を明らかにせねばなるまい。此方は朔州刺史が息女…」
「そ!そのような者が東極将様となんの関係がございます?それに私はこの抄都の豪商の、ひ、ひとりでございますぞ。州刺史の娘と言えど朔州など所詮、所詮、田舎刺史!私の敵ではない!この無礼は絶対に償ってもら――」
「口を慎め。下郎」
ただでさえ静かだった通りが、痛いほどの沈黙で不自然なまでに静まり返った。
声音に、重力があるならばきっとこれを言うのだろう。視線に、冷気が宿るならばきっとこれを言うのだろう。怒気に形があるのなら、今、男の首元で鋭利な刃物のように感じられる、これこそがまさしく怒気だった。
「たかが商人が思い上がるな。もう一度だけ言ってやる。此方は朔州刺史が息女・洲焔子。
――近く私の妻となる女ぞ」
「ひ――ッ!!?」
恐怖にくずおれた男を、呼舷は遥か高見から見下ろした。
「貴様が、この私の許嫁に襲いかかったこと、よもや忘れてはおるまいな?」
「…あ…あ、ぁ…」
「その上でまだ言い募るというならば〝乾抄の蚩尤〟が相手になる。覚悟せよ」
ばさり、と呼舷の外套が翻る。焔子を伴い遠邇に跨がった時には、呼舷の怒りに中てられて静まり返っていたはずの通りが、割れんばかりの歓声に包まれていた。人々はそれぞれに満面の笑みを浮かべ、声の限り叫び続ける。
――東極将、万歳!ご婚約、万歳!万歳!万歳!




