六日目:騒動(2)
思わず漏らした声がその者に聞こえたはずはないのだけれど、ぱっと振り向いたのは確かに焔子で、呼舷は思わず遠邇から降り、路巌に手綱を預けて焔子に駆け寄った。
「わあ呼舷様!お帰りなさませ!」
「何故こんなところに…しかもその格好は…」
呼舷は無意識のうちに焔子の肩に手を置き、屋敷にいるとばかり思っていた彼女に怪我や異変がないかを確かめる。孫健らが着いて以来、焔子は州刺史の娘らしく華やかとは言い難いがそれなりの装いをしていた。それが、今は非常に簡素な従仕の格好をしている。市中に紛れては誰も州刺史の息女などと思いもしない格好だった。
――まさか、逃…
一瞬過った厭な想像を言葉にする前に、焔子は恥ずかしそうに眉尻を下げた。
「えっと…それが…華小殿を始めとした従仕方に買い物に連れ出してもらったのですが、はぐれてしまって…その…」
「迷子になりましたか」
「…も……申し訳ありません…」
焔子を信じると決めたのにまだ疑うのかという自責を隠し、呼舷がくすくすと笑ってそう言えば、顔を真っ赤にして俯いた焔子の髪が頬に一筋かかる。呼舷はそれをそっと払い、焔子の頬に手を添えて顔を上げさせた。焔子の顔は先ほどとは違う意味で真っ赤に染まったのだが、呼舷はそれに気付かず言葉を続ける。
「買い物にお誘いしたにもかかわらず、きちんとお供しなかった華小らに問題があります。焔子殿に何事もなかったようで安堵いたしました」
「え!?ちっ、違うんです!私が店先に忘れ物をしたと思って急に走り出してしまって!あ、あのだから華小殿達は悪くないんです!なのでお咎めは…ッ」
「…ふむ…焔子殿、その格好は…?」
「あ!はい!華小殿の提案で町衆にみえるようにと!」
「…考慮しましょう」
呼舷の質問の意図に気付き、被せるように華小を擁護した焔子。苦笑して華小らにきつい咎めはせぬと含めば、ぱっと顔を綻ばせ礼を言った焔子に呼舷はさらに苦笑した。
せっかく街にでたのだからと呼舷が歩いて帰るかと焔子に尋ねれば、焔子は嬉しそうに笑って諾と答え、ふたりはゆっくりと屋敷へ歩を進めた。その後ろに路巌ら護衛の部下達が呼舷の柔らかな雰囲気に内心驚きながらも、それを全く表情に出さず続く。
だが、そんな和やかな空気が屋敷まであと少しというところで霧散する。
物々しい雰囲気の人だかりが、ある屋敷の前に出来上がっていた。一瞬にして呼舷と路巌らに緊張が走る。
――まさか、斤欄宗の僧侶の屋敷か?
さっきの今で騒動に打ち当たるとはと、仕組まれたようなこの状況に思わず舌打ちする。ここはよくない。そう思い、焔子の肩を抱いて踵を返そうとした、まさにその時。人だかりの中から声が響いた。
「呼舷様だ!」
声をきっかけにどうと押し寄せる集団。一行は呼舷の前へと駆け寄り、口々に喚き出した。
「東極将様!」
「呼舷様!」
「お助け下さい!」
「奴らを懲らしめて下さい!」
「呼舷様!」
「我らをお救い下さい東極将様!」
路巌らは素早く馬を降りて呼舷らと斤欄宗の教徒の間に割って入った。呼舷はさりげなく焔子を背に庇い、彼らの喚く声を聞き分ける。夕刻の人での多い時間帯、人だかりが呼舷に詰め寄る様を遠巻きに何事かと足を止める者が増え、さらに大きな人の輪が出来始めていた。
「控えろ!禁軍極将に対し無礼であるぞ!」
「お願いでございます!何卒!何卒お聞き届けください!」
「ならん!貴様らは斤欄宗だろう?ならば警士が対応する!」
「警士が何をしてくれるというんだ!」
そうだそうだと拳を振りかざして喚く人々に、路巌らは道を空けるようにと声を張り上げる。しかし、斤欄宗の教徒はすでに自分たちの熱気に酔っているのだろう。まるで聞く耳を持たなかった。
呼舷はさっと目の前の集団に目を通す。前列に詰め寄っている者は皆それなりに良い身なりをしている。恐らくは豪商や三流の貴族豪族だろう。その後ろにいる三分の二ほどの者は彼らの従仕やこの討ち入りの為に雇われた者で斤欄宗の教徒ではないように思われた。
「斤欄宗の件は軍の管轄ではない!控えろと言っている!」
「路巌、よい。私が聞こう」
「し、しかし…!」
「焔子殿を頼む」
路巌が浅く一礼し半歩引いたのと入れ替わるように、呼舷は一歩前に出た。わっと斤欄宗の教徒らに喜色が走る。だが、彼らは気付いただろうか。呼舷が前に出たことで、自分たちが思わず半歩後退ったことに。
ひとつ、閑話を挟もう。
乾抄を擁するこの大陸に蚩尤という妖怪がいる。雷を操り、勇敢で忍耐強いが、嫉妬深く残忍な一面も併せ持つ。四つある目は眼球が半分飛び出しており、大きな角を持つ牛の頭と蹄、人間の胴に六本の腕。焼け爛れて黒ずんだ体は身の丈二十間(約21.6m)、全身に皺が寄った大妖怪。蚩尤とは嫉妬と醜さの象徴だ。
だが、もっとも記すべきはそれではない。蚩尤とは、七瑞妖と呼ばれる、人々が神々と共に畏れ敬う存在だということ。いとも容易く人々の命を奪う、大災害の代名詞。七つある天災のひとつ――雷の別称である。
そして、呼舷にも別称がある。
「乾抄の蚩尤…」
誰かが、ぽたりと零すように呟いたそれは呼舷の二つ名。呼舷はそれに応えるようにさらに一歩、前に出た。
「我、禁軍が一、東軍の将。呼舷相駁なり」
ざあっと音をたて、人々が平伏する。
雷が落ち、木々がなぎ倒されるが如く、呼舷を中心に斤欄宗の教徒のみならず成り行きを見守っていた町衆までもが平伏していく。両膝をつき、両手をつき、地に着くほどに頭を下げる。平伏は王帝の前でのみ求められる最敬礼。呼舷に対し起立していても決して無礼ではない。それでも。
子供の頃でさえこれほど近くに見たことのない地面を見つめながら、誰もが見えない重圧に耐えながら思う。
――これが、極将。
「お、恐れながら…」
最前列にいた中年の男が、声を震わせながら発言した。この集団の中心だろう。呼舷は静かでありながら圧の籠った声で「申せ」と短く告げた。
「斤欄宗の僧侶を誅して頂きとう存じます。我らは僧侶に言葉巧みに唆され、ありったけの財を投げ打ちました。いつか願いが叶うと信じて布施を続けましたが、一向にその気配はなく、各地で僧侶が捕らえられたとの報を聞き、騙されたのだと気付いた次第。何卒、斤欄宗の僧侶を誅し、我らの財を取り戻して下さいませ!」
――くだらない。
呼舷は顔布の下で一笑に付した。街の小金持ちが詐欺にあっただけ。通り掛かったとは言え極将に訴えるほどの事案ではない。よほどの願いがあって斤欄宗に縋ったのだとしても、今の彼らは自分の財に執着し周りが見えなくなっているようにしか、呼舷の目には映らなかった。
「…そなたらの訴え、確かに聞いた。罪を明らかにし、その重さを決めるのは警士と司士(司法機関)の務めだ。後日そなたらのところに事情を訊きに行かせると約束しよう」
くだらない、と思いながらも。呼舷は冷静に言葉を紡ぐ。
極将とは殿上人だ。百人の兵を束ねる卒長ですら呼舷と直接言葉を交わすことは許されない。町衆が直接訴えることなど普通ならば叶わないのだ。その上で、呼舷は耳を貸し、約束すると言った。ことを見守っていた町衆も斤欄宗の教徒の大半の者が、さすが呼舷だと、民に寄り添う智将であると感動していた。しかし――
「そんな…お待ち下さい!僧侶を討っては下さらないのですか…?も、勿論お礼は十二分に…!」
「黙れ!」
尚も言い募る男に、堪りかねた路巌が声を張り上げた。
「そこらの破落戸と呼舷将軍を同じく思うてかこの痴れ者が!本来であれば貴様は呼舷将軍と直接口を利くことすら許されぬ身。分を弁えよ!」
「……ですがッ」
「くどい!大体において僧侶の所業は命で償うほどの罪ではない。極将自ら貴様らの訴えを聞いて下さったのだ。大人しく沙汰を待て」
多少尊大に聞こえようとも、身分社会である乾抄において路巌の言うことは至極最も。呼舷が警士と司士への取り次ぎしかしてくれないと落胆した一部の斤欄宗の教徒でさえ、それでも確かに十二分だと納得した。しかし、男は、もはや冷静でなかった。
「ふん…乾抄の蚩尤も所詮、国廷の狗か…」
「――貴様…ッ!その首刎ねられたいかッ!!」
路巌が思わず抜剣しかけたのを呼舷が手で制す。それを見て勢いづいたか、頭に血が上りすぎて引っ込みがつかなくなったのか、男は他の教徒らの制止を無視して立ち上がった。
「〝民に篤い将軍様〟の部下が出来るものならばやってみるがいい!」
「言わせておけばぁ…ッ!!」
「何もしてくれないのならば用はない!東極将なんぞに訴えたのが間違いだった!殿上人に、いもしない神にさえ縋る我らの気持ちなど解るものか!」
「あのぅ、神はいますよ?」
あまりに場違いなきょとんとした声が、不思議なほどに通りに響いた。誰もがぎょっと声の主に視線をやる。その先には、いつの間に近づいたのか男のすぐ側でことりと首を傾げる、焔子がいた。