五日目:夢と現(3)
短いです。すみません!
仕事を終え、屋敷に帰ると伴鴻が待っていた。遠邇を預け、代わりに受け取った書面に素早く目を通す。
――来訪の客人、朔州太守・孫健に相違なし
「苦労」
「ありがとう存じます。これで後はうちの若いのの帰還を待つだけですね」
「うむ」
念には念を。呼舷は伴鴻の抱える情報屋に孫健の素性を調べさせていた。持ち物や過書にいくら怪しいところがなくとも、本人がすり替わっていては元も子もない。恐らくないだろうとは思いつつ、孫健の顔を知る情報屋を捜し確認させたのだ。
「…ただ、やはり焔子様の顔は見知らぬとのこと」
「姫方は州城の奥殿から出ぬこともざらだ。致し方あるまい」
篝火をつけるついでに渡された書面を燃やしながら言った呼舷に、伴鴻は驚いていた。
「…殿のお言葉とは思えませんな」
「まったくだ。我ながら甘くなったものよ」
「焔子様に惚れましたか」
「かもな」
「!?」
ごとんと鞍を取り落とし、伴鴻は慌てて謝りながらそれを拾う。自分の物を粗末に扱われたと遠邇が怒って嘶いた。そんな彼らを呼舷はくつくつと笑ってみせる。伴鴻はますます呆気に取られた。今までの呼舷なら、この手の冗談には渋面が返って来た。それがまさか、こんなにあっけらかんと笑われるとは。
「私がこんなことを言うのはおかしいか?」
「いえ!滅相も!…ただ…まあ…その、驚いては…います…」
「そなたのその素直さは美点だな」
未だ笑っている呼舷になんと言えばいいのかと言葉を失っているところに、都合良く焔子がパタパタと駆けて来た。
「お帰りなさいませ呼舷様」
「ただいま戻りました。わざわざの出迎え痛み入りまする」
満面の笑みで迎えた焔子に、呼舷も目元を緩めると、突然遠邇がさっさと厩に連れて行けと言わんばかりに暴れ出した。
「どう!どう!」
「なんだ。荒れている割に厩に行きたいとは珍しいな遠邇?」
「早く阿古に会いたいんでしょう。まったく、殿と焔子様が見せつけるからですよ」
「伴鴻、さすがに慎め。大体、遠邇も阿古も雌だろう」
「…そのはずなんですがね」
どうも遠邇はそうは思ってないらしいとは伴鴻の心の中に仕舞っておく。遠邇が阿古の番のように振る舞っているのを、よく見る仏頂面に切り替えてしまった呼舷は知らないのだ。
「ところで焔子殿、今日はこれから何かご予定はおありでしょうか?」
「いいえ。特には何も」
「では、観劇などいかがです?先日落成した演舞場のこけら落としで人気の一座が来るようです。桟敷を取ってゆっくり酒でも飲みながら観るというのも良いかと」
「本当ですか!?観たいです!…けど…い、いいのですか?桟敷なんてそんな…」
「無論です。すぐに人をやりましょう」
ふわりと微笑んでみせた呼舷に、焔子は心底嬉しそうに頬を染めて笑う。そうと決まれば支度をと呼舷が言えば、焔子は慌てて自分の従仕の名を呼びながら屋敷の中へと転がり込んで行った。
「伴鴻、すまぬが車の用意を」
「かしこまりまして。…ん?一座の方に人はやらなくてよろしいので?」
「もう押さえてある」
「は?」
「もう、一等良い席を押さえてあると言ったのだ」
「……」
「伴鴻。車だ」
「……ッ…か、かしこまりまして…!」
「…笑うな」
呼舷はばつが悪そうに眉を寄せるとぷいと踵を返して屋敷の中に消えた。全くこの御仁は、と、伴鴻は必死で笑いを堪える。
焔子が何かしらの理由で観劇を断ったなら、桟敷席に払った金はまるまる捨てるつもりだったのだろう。極将ともなれば、例え乾抄一人気の一座の一等席だろうと端金だし、もっと言えば、極将の名をちらつかせれば先にその席を押さえていた者の方から喜んでそこを差し出すだろう。
しかし、それをしないのは焔子がそんなことを知ったらきっと終始落ち着かず、申し訳ない気持ちで観劇を楽しむことが出来ないからだ。同じように、万一焔子に予定があって観劇を断れば、席が無駄になると悲しむに違いない。どちらに転ぼうと焔子が心置きなく楽しめるようにと呼舷は小さな嘘を吐いたのだ。
――あのご様子じゃ、とんだ愛妻家になりそうだ。
そう思い、笑ったものの、伴鴻はふと顔を曇らせた。今まで焔子と呼舷の仲を冷やかす真似をしてきた。だが、それは呼舷が頑なに警戒を解かなかったからだ。焔子の正体がほぼ白だと解って来たが結局〝ほぼ〟だ。胸騒ぎ、とまではいかないがすっきりとしない気分が身体の奥に居座っている。呼舷が焔子を受け入れようとしている。それは果たして吉と出るのか凶と出るのか――。
伴鴻はひとつ頭を振る。呼舷の手の届かぬところに手を伸ばし、呼舷の気付かぬところに気を配り、処理をするのが伴鴻の仕事だ。
伴鴻は阿古に甘えに甘えている遠邇を見遣りながら、渡り廊下を行く若い従仕を捕まえて車の用意を急がせた。