五日目:夢と現(2)
焔子と朝食を終え、托苑ら従仕の手伝いで鎧を纏い、迎えに来た路巌ら護衛役の部下と共に呼舷は登城する。執務室に入るとそこには呼舷より先に禍斬と福呂が優雅に茶をしばき倒していた。
「…貴様ら夫婦は遠慮というものを知らんらしいな」
げんなりとそう言った呼舷に、しかしふたりはカッカッと笑う。
「しっかり茶菓子を用意しておいてよく言うぜ」
「然り然り」
昨日の今日で来ないわけがないと三人分の茶の用意をいいつけておいたが、決して呼舷より早く来るだろうと思ってのことではない。ひとつため息をつくと、路巌らは一礼して隣室へと消えて行く。
禍斬と福呂に給仕していた簡素な官服の若い男の従仕が呼舷の茶を入れる。静かな音がこぽこぽと響いた。従仕が一礼し部屋を出たのを確認して、呼舷は香ばしい香りを深く肺に入れ、くぴりと茶碗を傾けた。
「それで?俺の贈り物は気に入ったかよ?」
「……いずれ十二分に礼をさせていただく」
盛った毒を贈り物言いきる禍斬をじとりと睨んでも暖簾に腕押し。それどころか禍斬は化け猫のようににんまりと笑い爆弾を落とした。
「ちゃんと嫁ちゃんに看病してもらったか?」
「!」
によによと笑う應侫夫妻に、呼舷は茶ではなく酒を用意させれば良かったと後悔した。とても素面で話せる内容ではない。思わず黙り込んだ呼舷に、ふたりは無言で責め立てる。さあ話せ。仔細を話せ。洗いざらいぶちまけろ。
「ああそうだッ!看病してもらったよ!」
「落ちたか?!」
「面白がるな腹立たしい!」
「てめぇこそ誤摩化すな!」
「ええい…ッ!――落ちたともッ!」
やけくそになって叫べばふたりはぴたりと黙り表情を消した。それはそれは不気味なまでに。そしてプルプルと震えたかと思うと突然に立ち上がり、今まで座っていた長椅子に片足をかけ――叫んだ。
「呼舷相駁打ち取られたりーッ!!」
「黙れッ!!」
「勝鬨じゃあー!!」
「黙らんかッ!!」
「将軍!?ご無事ですかッ!?」
「路巌!来んで良い!」
「そこのおまえ!酒を持て!祝宴じゃッ!!」
「かしこまりました」
「乗るな莫迦者!!」
常の呼舷の執務室では考えられないほどの大騒ぎを繰り広げ、堪りかねてキレた呼舷が大刀を持ち出してようやくふたりは大人しく元の長椅子に腰掛けたのだった。
:::
「まったく貴様らの莫迦さ加減には付き合いきれんぞ」
呼舷は心底げんなりと項垂れて言ったが、福呂も禍斬も持って来ていた酒――一体どこにしのばせていたのやら――の肴とばかりに上機嫌で受け流す。にこにこと酒を飲むふたりは好物を与えられた子供のような無邪気さだ。腹立たしいのにどこか可愛らしいと思うあたり呼舷はふたりに毒されているのだろう。
「大体、私がひとりで対処するとは考えなかったのか」
「おう。絶対に天は俺の味方をすると思っていたからな!」
「意味が分からん…」
「まあまあ、そう言うな。十年来の付き合いでおまえが女のことを話すのは初めてなんだ。拗ねてないで少しは聞かせてくれよ」
「茶化すのを解っていて話す阿呆がどこにいる」
「バァカ。心配してんだ」
苦笑する禍斬に呼舷はため息をつく。なんだかんだとからかいながら、心配してくれていたのは本当だと呼舷も解っているのだ。呼舷も諦めたように苦笑した。
「焔子は…」
「おう」
「焔子は私のこの醜い顔に触れたのだ。少しも怖くないと言って…」
「へーえ?」
「怖くないと口だけでいう女は何人かいた。だが、決して私には触れなかった」
顔布の上から焔子が触れた場所を撫でる。呼舷は、甘く柔らかく目元を緩めた。
「焔子は…この傷で乾抄の民を守ったのだと…そう言ったよ」
「大した嫁御ではないか」
福呂が常の無表情からは信じられないほど、柔らかな表情で杯を傾ける。呼舷もそれに頷いて続けた。
「たった…その一言で、落ちた」
「ふふ…」
「今なら解る。そなたの言った通り、私は焔子に恋をすることに怯え、恋をしてもこの顔によって恋が成就しないだろうことに怯え、焔子が私の元から去ることに怯えていた…全てそなたの言う通りだ。
だが、昨日その怯えは消え去った。焔子は私の元から去りはしない。そう信じられるようになった。だからだろうか…ふふ、現金だと笑ってくれ。焔子への想いに素直になれた。今なら胸を張って言えよう、焔子に恋をしていると。そなたらのお陰だ。礼を言う」
顔布に隠れ、表情ははっきりしないというのに、禍斬にも福呂にも呼舷が心から微笑んでいるのがよく解る目元に驚きを隠せない。誰もが賞賛する武功を上げ、禍斬に続き驚くべき若さで極将にまで上り詰めたこの男は、軍においては絶対の自信を漲らせている。だが、こと恋愛やら結婚やら女が絡むと卑屈ともとれる頑な態度を崩さなかった。
それがどうだ。今や焔子への想いを、そして彼女からの想いを大切にしようとしているのがありありと見て取れた。
「これでなーんの憂いもなく娶れるというわけだ」
めでたいめでたいとまた酒を煽る禍斬。しかし、呼舷はふと視線を伏せた。
「…それは…迷っている」
「「はあッ!?」」
ぱしゃんと福呂の杯から酒が揺れて卓に落ちた。禍斬に至っては噴き出したのか口元を拭っている。ふたりは目を丸くしてどういうことかと――福呂に至っては目を吊り上げて怒りながら――呼舷に詰め寄った。
「あれは〝将軍〟の妻にはなれまいよ」
「あぁん!?どういう意味だよ!」
「…心配がすぎる。源龍胆で痺れた私をみて心配だと泣いた。今朝も稽古を終えた私の傷だらけの体を見て憂いていた。今は平穏だが、ひとたび戦が起きれば私は屋敷を空け、いつ死ぬとも解らぬ場所へ赴く。焔子が…それに耐えられるとは思えない」
「貴様という男はまだそんな…!」
福呂は堪り兼ね、卓に乗り上げて呼舷の胸ぐらを掴んだ。反射的に呼舷は襟を掴んだ福呂の腕を掴み返したが、そのまま引き剥がすことなく睨み合い、そして呼舷は目を伏せた。
「ああ…、違う。そうだな、違う。私が、耐えられないのだ」
「……」
「どれだけ武勲を重ね、不死身と謳われるほどの武将になったとしても…きっと焔子は私を心配するだろう。私が…焔子に、あんな顔をさせることに耐えられないのだ」
全く恋とは恐ろしい。これがあの禁軍東極将・呼舷相駁だろうか。禍斬は目の前に座る無二の戦友の変わりように感動すら覚えていた。
だが、変わったからこその呼舷の悩み。相手を想うが故の躊躇い。それを抱えてこそ焔子と添い遂げるべきだと思うのだが、なんと説き伏せれば良いのか。頭を抱えたくなる禍斬の隣で、じっと話を聞いていた福呂がそろりと呼舷の胸ぐらを離し、口を開いた。
「呼舷よ。人は慣れるぞ」
しんと落ちた沈黙に、福呂は水を一滴落とすように語りかけた。呼舷は視線を上げる。
「慣れとはものごとを繰り返し〝出来る〟であったり〝心配の必要なし〟という実感を積み上げて馴染むことだ。そのために人は意識無意識、どちらであっても様々な策を労する。それはもう本能じゃ。好き合った者同士夫婦となれば尚の事、自分の為だけでなく、夫の為にも心身ともに憂い事をなくす為に動き、慣れようとする。そうして変わることを、時に成長という」
水滴が波紋を作る。福呂の言葉は、するすると呼舷の心に届いた。
「女嫌いのお主が、真実嫁御を想って結婚に二の足を踏む。大いに結構。だが、前向きに考えよ。言っただろう?己も人も信じぬ者は裏切られるぞ、と」
「……」
「嫁御は斯様に弱いおなごかや?お主は嫁御の成長を信じられぬかや?」
「…――いや」
「だろうとも。お主が認めたおなごじゃ。出来ぬはずがない」
福呂が不敵に笑ってみせる。嗚呼、まったくどうして、と呼舷はすっきりとした気分で笑った。まるで敵わない。女はなんと強い生き物か。
たった半日も経たぬ内に解決してしまった問題を前に、呼舷はもう一度笑ってみせた。