五日目:夢と現
夢を見た。
どこかの戦場だった。地は兵や馬に踏み固められ、冬であることも手伝って一面黄土色。二度と葉を茂らせることはないかもしれないと憂うほど寒々しい枯れ木が、隆起した地形に点在している。そんな寂しい場所に呼舷の軍の兵士が地面に座り込み、食事の準備や武器の手入れをしていた。
戦場の夢を見ることは珍しくない。今日の夢はうなされるほど酷いものではなさそうだと思いながら呼舷は兵士らの間を縫って歩を進める。恐らくまだ呼舷が極将になる前の戦場だろうと朧げに感じていた。どこに行くわけでもない。ただ延々と続く兵士の黒い鎧。岩のように続く彼らの間を一歩一歩踏みしめて歩いていた。
やがて呼舷はひとりの少年兵の前に立っていた。彼はふたりの兵士に取り押さえられ、地に伏している。それでも負けじと抵抗し、声を張り上げていた。
『呼舷将軍にお目通りを!敵がすぐそこまで来ております!』
場面が変わる。
同じ戦場だ。違うのは交戦しているということ。呼舷は馬の上で大刀を振るっていた。戦いながら呼舷は先ほどの少年兵の知らせが今の状況を生んでいることを知っていた。そしてこの戦況がかなりの優勢だということも。呼舷が敵将の首を刎ねたところで、また場面が変わった。
目の前には先ほどの少年兵がいた。祝杯を上げて盛り上がる自軍の兵の集団から少し外れた場所。雨風を凌ぐ簡易の布屋根の下で片膝をついて座っている少年に近づく。呼舷に気付いた少年はひどく驚いた様子で慌てて立ち上がると、姿勢を正し拝手する。呼舷は何かを言う。恐らく先の知らせを労ったのだと思う。少年も何か言っているようだが判然としない。
呼舷は腰に差していた二本の剣の内、柳葉刀を鞘ごと腰帯から外し少年に差し出した。少年はひどく焦った様子でさらに深く頭を下げる。呼舷は少年の肩に手を乗せて言葉を重ねる。いくらかの押し問答の末、少年がおずおずと顔を伏せたまま呼舷の柳葉刀を受け取った。呼舷はまた彼に何かを言った。少年は応えた。
――例えこの身が朽ちようとも、この魂は呼舷将軍とともに。
少年が顔を上げ、決意が籠った目が呼舷を射抜く。少年の顔をはっきりと見た呼舷は息を飲んだ。
呼舷を見上げた少年は、焔子と同じ顔をしていた。
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目が覚めた。随分とすっきりとした目覚めだった。ふと顔を横に動かせば、すやすやと焔子が眠っている。夜中に目が覚めた時に寝台の中に招き入れたからだ。焔子は寝惚けていたのだろう。すんなりと呼舷の横に入って来たのを思い出す。常の焔子では考えられないことだと呼舷はくすりと笑った。
そっと焔子の白い頬に触れる。源龍胆の毒は完全に抜けきっていて、手は呼舷の思い通りに動き、焔子を起こすことなく触れることが出来た。触れた手を動かすことなく焔子の温もりを手のひらで感じる。凡庸な容姿のせいで気付かなかったが、焔子はきめ細やかな雪のように白い肌をしていた。それも温かい寝台の中にいるからなのか血色が良く愛らしい。癖のある亜麻色の髪が一房、桜色の唇に掛かっていて、呼舷は頬に触れていた手を滑らせてそれを払ってやった。
うっすらと開いた唇を眺め、呼舷は昨夜それが自分のそれと重なったことを思い出す。柔らかく、優しく重ねられた唇は甘かった。薬を飲ませる為に仕方なくやったこと。それでも甘いと感じたのだ。
今まで女と接吻をしたことは何度となくある。特に顔が崩れる以前の十代の頃は欲に任せて遊び歩いた。その中には色欲にまかせて貪り尽くしてやろうと、唇どころか体を重ねた者も少なくない。
だが、焔子は違う。
呼舷はそんな自分に苦笑した。
呼舷は焔子を起こさないように寝台から抜け出し、するすると昨日禁城から戻ったままの衣を脱ぎ捨てる。呼舷を寝台に乗せるだけで四苦八苦していた焔子では、呼舷を着替えさせるだけの力はなかったのだろう。呼舷は朝の稽古用に簡素な黒の裁着を履き、裾が短めの深衣を纏う。顔布は面倒なので、大判の布をぐるぐると巻いて顔を隠す。
顔布をするには、額当てやら野晒と呼ばれる後頭部を守る武具やらを忍緒で固定し、頭巾を被る必要がある。さらにそれらを装着するには、中央部だけを伸ばした長い髪――呼舷は左右側頭部の髪を剃り上げて弁髪を変形させたような髪型をしている――を油で纏めなければならない。稽古後すぐに風呂に入るのにそこまでするのは面倒だ。
準備を整え、部屋を出ようとして呼舷はふと振り返った。寝台で眠る焔子に掛け布団を当て直そうと踵を返す。焔子は良く寝ていた。阿古の世話で毎朝早起きをしているらしい焔子がこの時間でも熟睡しているということは、昨夜余程遅くまで呼舷の為に起きていたのだろう。今の呼舷にはそれが素直に嬉しかった。
呼舷はそっと焔子の頭を撫で、今度こそ静かに自室を出た。
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ぶん、ひゅん、と空を切る音が鳴る。ずざっと地面を擦る音がそれに重なり、時折気迫の篭った呼気が朝の空気を震わせた。
呼舷は毎朝私邸の庭で稽古をする。今日の得物は大刀と柳葉刀だ。
呼舷の振るう剣には無駄がない。それは悪癖だけではなく、舞踊に通じるような華やかさも含めて一切の無駄がないのだ。
例えば禍斬の稽古は派手だ。動作が大きく、大立ち回りという言葉がよく似合い、華やかで見ていて飽きることはない。実用性に欠けるようなことは決してないが、呼舷の稽古を見た後なら、なるほど無駄が多いというのも頷けた。
呼舷のそれはあまりに純粋な武だ。極限まで無駄を削ぎ落とし、最短最速で敵を殺すために積み上げられている。だからだろう、呼舷の稽古を最初から最後まで見ていられる者は少ない。新兵は淡々としたそれにすぐに飽きる。力あるものは恐怖に駆られる。呼舷が稽古で振るう剣の先に斬られ絶命する敵を見、いつしか呼舷が見せる幻の敵に自分を重ねてしまうのだ。
突き、打ち下ろし、袈裟に斬る。くるりと回して背後に一閃、また突いて、左右に一太刀ずつ。予備動作なく側面に宙返り、地を転がって一閃、立ち上がりまた一閃。そこまでやると呼舷は新兵が行う基本歩法を忠実に守りながら、左手では大刀を、右手では柳葉刀をそれぞれ違う動きで操る。
すり足、踏み込み、四反転、もう一度、半後退、正眼、四股、振り返り、跳躍――。
ひっそりと静まり返る庭に、空を切り裂く音が鳴り続けた。
ひとしきり稽古を終えると、呼舷は汗で重くなった深衣を脱ぎ、手ぬぐいで体を拭く。抄都の春先は日によっては吐き出してすぐの息が白くなるほど気温が低い。しかし、一刻近い時間動き続ければ汗は滝の様に流れ、呼舷の肩からはうっすらと湯気が上がっていた。
「おはようございます、焔子殿」
ふと感じた視線を追って呼舷は顔を上げ、その先にいた人物に挨拶をした。焔子は心ここにあらずといった様子で回廊の切れ間、庭に降りる階段の端に立っていた。汗を拭い終えた呼舷は頭から大判の布を被り、さりげなく顔の右半分を隠して後ろへ流した。ざくざくと音を鳴らして階段へと近づくと、焔子が呼舷から微塵も視線を外さずにいることに気付いた。その顔が随分と赤いことに何故かしらと首を傾げ、はたと自分が半裸であることを思い出す。
「ああ、失礼。このような格好で…」
「いえ!そんな!私の方こそ!も、申し訳ありません!あの、その…!」
「?」
「その…あ、あまりに逞しいお体に、つい、魅入ってしまいました…」
恥ずかしそうに赤い頬を両手で隠すも、視線は呼舷の鍛え上げられた肉体に釘付けだ。呼舷の体は呼舷の武芸と同じく全く無駄がない。上背があり常から鎧を身に着けているので、巨漢のように思われがちだが意外にも細い。しかし、筋肉の流れがはっきりと見て取れるほど鍛えられており、絞り上げられた肉体は微動だにしない力強さがある。武芸を齧っている焔子なら鍛えた体に興味を持つのも頷けた。何よりも、自身が誇るものを認めて貰えるのは気分がいい。呼舷はくつくつと喉を震わせた。
「触ってみますか?」
「え!?」
喜色を浮かべた焔子に呼舷は思わず苦笑した。冗談のつもりが歓迎されるとは。呼舷はもう一歩焔子に近づいて、胸に右の拳を当てるようにして力瘤を作ってみせた。ぎゅっと収縮した二の腕は焔子の腿ほどに太くなる。
「あ。わ…意外です。柔らかいのですね…」
脂肪は全く乗っていないのに弾力があり、硬そうな見た目とは裏腹に呼舷の腕を突いた焔子の指は想像以上に深く筋肉を押した。
「硬い肉は疲労が堪っていたり、見かけ倒しである証拠。鞭のようにしなやかで弾力のあるものが戦では役に立ちます」
「はわぁー…」
焔子はしばらくつんつんと力瘤をつついていたが、段々と遠慮がなくなってきたのか、ふにふにと両手で揉むようにして触り始めた。呼舷は焔子の好きにさせる。片や鍛え抜かれた上半身を晒し、片やそれに触れている男女の図であるというのに、全くといっていいほど色気はない。應侫夫妻あたりが見れば野次りそうだが、呼舷は子供のように夢中になっている焔子が愛らしくて仕方なかった。やがて焔子は満足したのか、二の腕に走る刀傷をそっと撫でた。
「…傷だらけ、ですね…」
呟くように言った焔子に、呼舷はしかし胸を張った。
「ええ、これらは私の戒めであり、誉れです」
呼舷の体に無数にある傷。細かなものから、縫い痕までもがはっきり残るものまで様々だが、呼舷にとってはすべての傷痕が武人として生き抜いて来た勲章である。焔子はひとつひとつ傷痕をなぞる。
「いま、触れていらっしゃるのは師団長になってすぐのものです。当時の極将をお守りして負いました」
「すごい…これもですか?」
「あー…それは麦浪の乱の折に…」
「麦浪の乱…9年前の…」
「ええ。恥ずかしながら油断が招いたものです。敵の尖兵に後ろから槍で貫かれました」
焔子はふっと顔から表情を消した。右腕、脇腹、さらに左腕、腹、胸へと焔子の視線は動く。やがて視線は左肩から心臓の上あたりまで深々と刻まれた一等大きな刀傷に移り、揺れた。
「…これは?」
「これは3年前、鉉秋の、かの高名な阡曹将軍と相見えた時のものです。相打ち覚悟でのぞみ、この傷を負って死にかけましたがそれを補って余りある一戦でした。阡曹将軍は敵ながら素晴らしい武将であらせられた。この一戦で私は極将を賜ったのです」
あの一戦はいま思い出しても血が滾る。死して悔いなしと思える激闘。さらにそれに勝利したことで乾抄は平穏を得、呼舷は極将を得た。呼舷の胸には、他国にまで名を轟かせた猛将・阡曹への感謝と尊敬、そして歓喜が渦巻く。焔子の指が肩口の傷痕に触れ、呼舷は嬉々として焔子を見た。当然、阡曹との戦を我が事のように喜んでくれているだろうと。
だが、焔子はそうではなかった。
渦巻いていた興奮が、波が引くように冷めていく。呼舷は、傷痕に添えられた焔子の手に自分の手をそっと重ね、脈打つ自らの心臓の上へと焔子の掌を引き寄せた。
「…焔子殿」
「はい…」
「焔子殿…私を見てください」
「……」
「この通り。…この通り…生きております」
「――はい」
焔子は、笑った。笑っているのに。
――まるで泣き顔ではないか
胸がひどく掻き乱される。自分の生き様が焔子を不安にさせていることが、どうしようもなく仕方のないことだと解っていても――あまりに、苦しかった。
作中で裁着を「さいちゃく」と読ませていますが、本来は「たっつけ」と読みます。
相撲で呼び出しさんが履いてるアレです。ふくらはぎくらいから足首までがすぼまってる袴です。格好いいですよね。じゅる。




