四日目:悪童の戯れ(3)
呼舷は目を見開いた。耳がキーンと鳴っている。力の限り怒鳴られたことを一拍遅れて理解する。極将たる呼舷を怒鳴りつける女がいるなど思いもしなかった。驚いて見遣る呼舷の目の前には、顔を真っ赤にし呼舷を睨みつけている焔子がいる。怒りを露わにする焔子を見て、呼舷は狼狽えた。
焔子は、きつと呼舷を睨みながら、今にも零れ落ちそうなほど目に涙を溜めていたのだ。
――焔子…?
「これが戦場なら!呼舷様は誰よりも先に自ら解毒するでしょう!?貴方が討たれたら軍が瓦解するから、そうでなくても兵士の士気に関わるから!無用な動揺をさせないように、不安にさせないようにするでしょう!?どうしてそれを平時にもしようとして下さらないのですか!」
「……」
「貴方が苦しんでいると知って、従仕の皆さんが――私が!心配しないとお思いですか!?」
とうとう、焔子の目から一筋、涙が零れ落ちた。
「捨て置けと言われてそうできるわけがありません。放っておいても治ると聞かされても、辛そうにされている呼舷様を見て…どれほど心配か想像できませんか?」
「…焔、子…殿…」
「心配で……胸が、張り裂けそうです…」
「……」
「治るのなら…治させてください…お願いします…!」
ぼとぼとと大粒の涙が止めどなく零れ落ちる。きつく握りしめられた焔子の拳に雨のように涙が落ちる。幾筋もの涙が、切れてしまうのではないかと思うほど噛み締められた唇に線を描いた。
「…そのように、唇を噛んでは…傷になります」
「誤摩化さないで下さい」
相変わらず睨みつける焔子。それでも、呼舷が呟いた言葉に素直に従い、唇を噛むのを止めて奥歯を噛み締め、唇を震わせた。
この気持ちをなんと言えば良いのだろう。
呼舷は情けないような、切ないような、それでいて甘やかな幸せを噛んでいるような心持ちで焔子を見つめた。気付けば呼舷はあれだけ頑なに、意地を張って伏せていた毒薬の名を口にしていた。
「…源龍、胆、の…根、です。絞り、汁を…飲まされ、ました…」
「わかりました。源龍胆ですね?」
焔子は袖で乱暴に涙を拭くと風のように呼舷の自室から飛び出して行った。
源龍胆の絞り汁による痺れ。これは乾燥させた源龍胆を飲めばすぐに治まる。ただ、それを知る者は源龍胆が毒物にもなることを知っている者くらいだ。源龍胆が毒薬として使えること自体知らぬ者がほとんどなのに、焔子は解毒の方法を呼舷に尋ねることなく出て行った。あの様子なら恐らく知っているのだろうと思うも呼舷は半信半疑だ。待つことしばし。ほどなくして戻って来た焔子の手元を見て、呼舷は素直に驚いた。そこには水差しと乾燥させた源龍胆の粉が入った小さな薬壷が盆に乗っていたのだ。
「…解毒法を、ご存知、でしたか」
「はい。幼い頃に縛猟師の小屋に出入りしておりました。その時にこっそり絞り汁を舐めたものですから」
「はは。随分、と、お転婆でいらしたようだ」
くつくつと笑ってみせた呼舷だが、痺れはいまや首にまで達していた。痺れの回りが速い。すでに座っているのも辛い状態になりつつあった。手ももう満足に動かない。焔子が器に水を入れて呼舷に手渡しそうとしたのを、受け取ろうと手を上げたものの、指が曲がらず受け取ることは出来なかった。
呼舷の状態を察した焔子は、呼舷の崩れた顔を覆う布に手をかけた。呼舷は思わず首を逸らしてそれを止める。
「おやめ、くだ…い、焔、し、殿。…見せ…ら、る、顔では…ない」
「呼舷様のお顔は初日に拝見いたしました。今更ですよ」
「ッ、しか、しっ…」
呼舷を無視して焔子は詫びながら顔布をそっと取り払った。焔子が刺客だったなら空恐ろしい状況だ。どれだけ痺れていても、毒物の訓練も受けている呼舷は、気功を駆使し動こうと思えば動くことが出来る。ただ、その分反動が酷いことになる為、焔子に怪しい動きがない以上無駄に体力は使いたくない。焔子の正体がまだ怪しいと知っていて毒を盛った悪友をこの時ばかりは恨みに恨んだ。
崩れた顔を晒されわずかに屈辱を感じるが、呼舷は大人しく焔子にされるままになっていた。口元に水をあてがわれ、焔子に気付かれぬように匂いを嗅ぎ、ただの水であることを確認して唇を薄く開く。だが、痺れ始めた唇は、注がれた水の大半を口の外へと追いやった。あ、と焔子の慌てた声が聞こえ、すぐに手ぬぐいで口元を拭われる。
――…くそ。毒の回りが早すぎる。唇まで痺れて水も飲めんとは…あの莫迦、とんでもない量を盛りおって…!
しかし、放っておいても回復するのだ。解毒剤が飲めないのなら致仕方なしと焔子も納得するだろうと声を掛けようとした時、甘い香油の香りが鼻先を掠めた。
「呼舷様、お許しを」
「?――ッ!?」
呼舷の視界が暗くなり、唇に柔らかい物があたる。次いで口の中に入って来る物があり、呼舷は思わずそれを飲み込んだ。唇の温もりが消え、触れた空気がひんやりと感じられた。
――甘い…
もっと、とねだるより先に再び重ねられるそれ。手が動くなら、離れて行かないようにそっと掴みたい衝動に駆られた。口の中に流れ込んでくる薬はただただ苦いはずのに、ほのかに甘く感じるのは何故だろうか。注ぎ終わるとひどく残念で、呼舷は離れて行く唇に残った最後の一滴を舐めとっていた。
「…随分、大胆なことをなさる」
喉の奥で笑ってそう言うと、焔子の顔は案の定真っ赤に染まった。それを見て、呼舷はさらにくつくつと笑う。
「焔子殿がこんなに助平だとは思いませんでした」
「すッ!すけ…ッ!?ちが、そ!なッ!違いますッ!!そんなつもりじゃ…ッ!」
泣きそうな顔で弁解しようとする焔子に、呼舷はとうとう声を上げて笑った。
「そんな顔を、なさい、ますな。余計、に、苛めたく、なる」
「……呼舷様がこんなに意地悪だとは思いませんでした…」
「貴女、だから、ですよ」
「どうせ私は冗談の通じぬ田舎娘ですとも…」
「…貴女だけ…という、意味です」
呼舷の言った意味がわからずきょとんとした焔子に、呼舷はただ笑んで誤摩化した。源龍胆はすぐに効き始め、唇や首の痺れが楽になる。これならいけるだろうかと、呼舷は寝台に上がろうと腕に力を込める。だが、まだ効き始めてすぐの状態では満足に動かせず、寝台の垂れ布を引っ張って立ち上がろうとすると、絹の裂ける嫌な音が鳴り、慌てた焔子が手を貸した。
なんとか呼舷の体が寝台の上に転がった頃には、焔子はもちろん、呼舷の息も上がっていた。呼舷は寝台の上の天井を眺めながら、焔子は床に座り込んで寝台に突っ伏しながら、息を整える。良い年の、それも婚礼前の男女が、寝台の回りで色っぽい雰囲気どころか疲れ果てて会話もないことに気付き、呼舷はまたくつくつと笑った。
いったい何を笑うことがあるのかと顔を上げた焔子に、呼舷はどこか寂しげに笑んだ。
「今日…悪友のひとりから何に怯えているのかと問われました」
静かに告げると、焔子の目の色が変わった。呼舷は続ける。
「怯えるようなことなど何もないと思っておりました。だが、私は確かに怯えている」
「……」
焔子は、何も言わなかった。何に怯えているのかを告げないのだから、応えようもないだろう。だが、焔子は何に怯えているのか問いかけることもなく、じっと呼舷を見つめ返していた。焔子の揺るがない瞳を見ながら呼舷は自身の内を探り続ける。
信用出来ないと思っているのに、焔子が側にいるのは心地がいい。
心地よいと感じていることが、何故か怖かった。
何故怖いのかはまだ解らない。だが、確かに呼舷はそれを怖いと感じている。福呂の言葉通り、これは怯えだ。
「…焔子殿」
「はい」
「郷里に戻られよ」
「――ッ」
焔子が息を飲み、今まで小揺るぎもしなかった焔子の瞳が揺れた。呼舷はそれを無視して話し続けた。
「いずれ貴女もこの顔に耐えられず、私の元を去るでしょう。貴女は優しい方だ。限界まで我慢して、そうして去った後も私を裏切ったとずっと後悔するでしょう。それならば傷が浅いうちに郷里に戻られた方が良い。なに、後のことは私が丸め込みます」
焔子の中で様々な思いが渦巻いているのが手に取るようだった。焔子は何か言おうとして薄く口を開けたものの、結局何も言わずに口を閉ざす。呼舷は穏やかな目でそんな焔子を見つめ続けた。
「焔子殿…貴女は美しい」
焔子が目を見開いた。
凡庸だと思う。容姿は決して優れていないと思う。それでも、呼舷の心からの言葉だった。
「私が今まで出会った女性とは比べ物にならぬほど美しい。そんな貴女が、私のような醜男の元に嫁ぐのは、あまりに――哀れだ」
「呼舷様…私は…」
「この崩れた顔は、恐ろしいでしょう?」
石で焼かれ、鞭で嬲られ、崩れ変色した右側の顔。左側とて無傷ではない。それでも鼻と唇が綺麗なままなら、まだ誤摩化すことは出来たかも知れない。だが、呼舷のそれは鼻尖をも焼き崩され、猪のように鼻孔を広げた。口の端も抉られて歯がむき出しになっている。右目は変色し、目尻側の肉が垂れ下がり、人相の悪い男の三白眼より酷い有様で、見るものを怯えさせる。己の顔を見慣れた呼舷自身でさえ、ふとしたときに思うのだ。
まるで化物だ、と。
焔子と出会ってから思うようになったことがある。この顔を晒して、抱かれる女はさぞ恐ろしかろう、と。ようやくそこに思い至った。今まで呼舷の元から去った妻達を哀れに思うようになっていた。そして、焔子を同じ目にあわせたくないと思うようになっていたのだ。
焔子は、ただただ黙って呼舷の話を聞いていた。
やがてわずかに目を伏せてから静かな瞳で呼舷を見つめた。
「朔州には帰りません」
「焔子殿」
「…そりゃ、初めて呼舷様のお顔を拝見した時は、確かにちょっと…怖かったです」
静かに告げる焔子の言葉に、呼舷はやはりと目を伏せた。それでいい。それで、いい。
「でも…不思議です」
「……?」
「今は、ちっとも怖くない…」
焔子の手が、呼舷の崩れ変色した頬に触れた。
「呼舷様はこの傷で――我らを守って下さったのですね」
焔子は微笑んだ。
とても、とても美しく。