四日目:悪童の戯れ
「おや、珍しい御仁がおるの」
翌日。軍事演習以外の仕事を終えた、夕刻というには少し早い時間。将軍以上の位の者にのみ使うことを許された小さな茶室で、禍斬と茶を飲んでいたところに現れたのは小柄な女だった。
「珍しいのはそなたの方だろう福呂。息災のようだ」
「うむ。わしも良いか?」
もちろんと応えた呼舷にひとつ頷くと、福呂は禍斬が引いた椅子に腰掛ける。福呂は禍斬の妻だ。本来であればこの茶室の席に座ることを許される身分ではないが、南極将軍の禍斬の妻であることを差し引いても福呂は特例でこの席にかけることが出来る。彼女は国一番の天才と名高い隠密だ。
六角形の茶室は出入り口以外は全て腰高から天井までが格子窓になっており、日の光が良く入り明るい。その明るい部屋の中で見る福呂はやはり奇抜としか言い様のない風貌をしていた。
福呂は隠密だが、伴鴻とは真逆で一度見たら忘れない顔立ちと風貌をしている。大きな垂れ目はくっきりと深い二重。小さい鼻は少しばかり上を向いており、唇は非常に分厚い薄紅色で男によっては堪らなく魅力的に映るだろう。ちんまりとした印象でどちらかというと可愛くない生意気な少女のようだが、ふとしたときにどきりとする色香を放つ。ただ、それを常から損なうのはこれでもかと玉を連ねた装飾品や腰布を体中に巻き付けた格好と、乾抄の人間には珍しい白金の髪を細かく分けて捩じり上げたり編み込んだりして四方八方に跳ねさせている変な髪型のせいだ。ちなみにこれまで一度たりとも同じ髪型を見たことはない。
これで国一番の隠密というのだから天才というのは変人と紙一重なのだと、初めて福呂に会ったとき妙に納得したことを呼舷は思い出した。そしてこの変人が同じく変わり者で有名な禍斬の妻だというのだから世の中うまく出来ている。
「ところで嫁御との新婚生活はどうじゃ?」
呼舷は口に含んでいた茶を噴き出しそうになるのを寸でのところで飲み込んだ。
「…まだ結婚しておらん」
「おお、そうだったの」
祝辞よりも先に野次馬根性丸出しの話題を投げる当たりが福呂だと、呼舷はこんこんとむせた喉を労って咳払いをする。禍斬から粗方のことは聞いているだろうにいけしゃあしゃあとこういう物言いをするのが福呂と言う女だ。
「上手くやっていけそうなおなごかや?」
「そこは俺も聞きてぇとこだな」
「……」
普段は何を考えているのか解らない無表情を珍しくによによと解りやすい表情にして呼舷を眺める福呂。少しばかり睨めつけてやったが、さして堪えた様子は見られない。隣で同じ表情を向けてくる禍斬がいるので苛立ちは倍増だ。だが、このふたりに何を言ってものらりくらりと躱されるのを身をもって知っている呼舷は諦めてひとつため息をついた。
「好ましいとは思っている。だが…」
「きな臭ぇのはまだはっきりしねぇのかよ」
「うむ…焔子の兄も到着し、始めの頃に感じた疑念はほとんど消えている。策謀だとはもはや考えにくい。だが…些細なことだが生粋の豪族の娘とは思い難い行動をとる。未だ確信は持てん」
「…の、割に随分好いておるようさの」
「は?」
「嫁御が白であって欲しいと顔に書いておるぞ」
「はは。まさか」
面白い冗談だと笑って茶を呷り、湯のみをことりと置いてふと福呂を見れば意外なほどに真剣な顔で呼舷を見ていた。何事かと思わず呼舷も真顔で福呂を見返す。
「呼舷よ。お主何に怯えておる?」
「…怯えている?私が?」
「そうじゃ」
極将として、武に生きる者として、易く流せない言葉に呼舷は潰れた目の奥の眼光を強めた。
「怯える、とは聞き捨てならんな」
「だがそう見える。嫁御を好きになるまいと頑なになっておらぬか?」
「当然だろう。裏がないとはっきりしないうちから心を許せる訳がない。焔子に策謀ありとなれば国政に響きかねん。だがそれは警戒だ。怯えとは言ってくれるな」
今度こそしっかりと福呂を睨みつける。しかし、福呂は凪いだ湖面のように静かに呼舷を見つめ返すだけだった。
「違うな」
「違う?何が違うというのだ」
「お主お家騒動になるやもしれんことはどうとでもなると考えておるだろう?」
「…そのようなことは…」
「考えておる。当然だ。おまえの腕を持ってして、婚儀までに裏が取れぬはずがない。仮に裏が取れず結婚したとして、相手の思惑を封じ込め、無き者にするなど雑作もなかろう?一、二年の時間と多少の労を割かねばならんだろうが所詮その程度だ。なるほど確かにそれは〝警戒〟だ。そんなことを怯えているとはわしとて思っておらん。見くびってくれるな」
ずず、と茶をすする福呂に呼舷はぐうの音も出ない。福呂は飲み終えてからになった湯のみを音もなく茶托の上に置く。
「のう呼舷」
「……」
「お主の怯えはなんだ?信じて裏切られることを怯えておるのか?溺れるほど嫁御に恋をしそうなことに怯えておるのか?」
「何を…」
「嫁御を好いて同じ思いが返ってこないかもしれないことに怯えておるのか?」
「福呂、いい加減に――」
「ああ、なるほど。お主すでに嫁御に惚れておるな」
「……は?」
「となれば、潰れた顔に耐えられなくなった嫁御が逃げ出すことに怯えているといったところか」
「――ッ無礼な!」
がたんっと大きな音をさせて呼舷は思わず立ち上がった。それにわずかに反応したのは禍斬だ。当の福呂は腹立たしいほどに落ち着き払って、先ほどと何ら変わりのない凪いだ目で呼舷を見つめ続けている。その目は呼舷の感情をさらに波立たせた。触れて欲しくない部分を逆撫でされる感覚。久しく感じていない怒りを伴った苛立ちだった。
しばらくの睨み合い――もっとも、睨んでいるのは呼舷だけだが――から先に目をそらしたのは福呂だった。
「極将たる者、いつ何時敵に攻め込まれるやもしれんと全てを疑ってかかるのは仕方のないこと。だがな、己の弱さが招く問題とすり替えるな」
「知った口を…」
「わしの言うことを賢しら顔の戯言と片付けるならそれでもよい。そうするなら貴様は所詮その程度の男だと言うことだ」
「…今日は随分とつっかかるな。どうした?禍斬とうまくいっていないのか?」
「馬鹿かてめぇ。俺と福呂ちゃんがうまくいってないことなんざ、国が滅んでもねぇよ」
「気色の悪い呼び方をするな。この色狂いが」
「ええぇ…俺の嫁ちゃんが冷たい…」
素なのか、雲行きの怪しくなったふたりを止める為なのか、脱力する物言いをした禍斬に呼舷はわずかに平静を取り戻す。らしくない、と自分でも思う。ここまで神経を逆撫でされ、それに馬鹿正直に怒っている自分を振り返れば、図星を突かれて怒っていると取られても仕方がない。だが、その通りだと認めるにはいささか抵抗が強い。らしくない、ともう一度心中でつぶやいた時、福呂はするりと立ち上がった。
「邪魔をしたな」
捉えどころのない福呂はどういう意味なのか苦笑してみせた。呼舷はそれにただ困惑する。
「のう呼舷よ」
「…まだ何か」
「己も人も信じぬ者は裏切られるぞ」
意味深な言葉を残し、福呂の姿は音もなく戸の向こう側に消えた。最後に見せた福呂の笑みにどこか哀れみが含まれていたように感じたのは、呼舷の心の有り様のせいなのだろうか。
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ぽかりぽかりと遠邇の蹄が路面を蹴る音が響く。呼舷は自身の護衛に前後左右を囲まれたいつもの帰路についていた。城から私邸に戻るいつもの道。普段ならその日一日を振り返り、明日の仕事のことを考える。だが、今日は帰宅する直前の應侫夫妻との会話がぐるぐると頭の中を巡っていた。ざわざわと胸中は落ち着かない。ずっしりと体に鉛でも入っているかのように重かった。
『何に怯えている?』
本当に自分は怯えているのだろうか。
『潰れた顔に耐えられなくなった嫁御が逃げ出すことに怯えているといったところか』
娶った女が自分の顔に耐えられず逃げ出すのは毎度のことだ。すでに諦めている。今更そんなことに怯えるものか。そもそもそんなことは怯えるに値しない。
――本当に?
『己も人も信じぬ者は裏切られるぞ』
それは真理だ。否定はしない。だが、福呂がそれを呼舷に投げた。それならば自分は己も人も信じていないというのだろうか。疑わしきを疑わぬまま信じれば寝首をかかれる世界に生きている。それは福呂とて理解している。むしろ彼女は時に人を騙し、裏切ることを必要とする重責を負っている。その上でその言葉を呼舷に向かって発した。その真意はなんだというのだろう。
呼舷は福呂の言葉の意味を考えながら、福呂が出て行った後に禍斬に言われたことも思い返した。
『呼舷。恋に落ちろ』
恋などと、と呼舷は即答した。くだらない。自分には必要のないものだと。そもそも化物じみた顔の自分に恋など出来るはずがないと、言葉にはしなかったが暗に匂わせて即答した。すると禍斬はわずかばかり寂しげに笑って呼舷に新しい茶を注いだ。
『たかが恋、されど恋、だ』
常の飄々とした親友には珍しく、落ち着いた柔らかな口調で告げられる言葉。恐らくは福呂を思いながら語っていたのだろう。甘やかな香りがしていると錯覚させるほどの禍斬の語り口は、呼舷に気恥ずかしさすら感じさせた。同時に福呂を心から愛しているのだと思わせる心地よい重さがあった。
『恋はするもんじゃない。落ちるもんだ。それで得る物もあれば失う物もある。無駄だったと思うこともあるかも知れん。ただ、それを無駄にするか糧にするかはおまえ次第だよ』
言って禍斬はサラサラと何事かを書き留め、一枚の紙切れを呼舷に手渡した。夕餉を食べた後にでも読めと。福呂のいった意味や禍斬の言ったことを咀嚼出来るような何かが書かれているのだろうかと思うと気になったが、ひとまず禍斬の言葉通り夕餉の後にでも読もうと懐にしまってある。それまでは、自分で考えてみよう、と。
だが、考えれば考えるほど、答えらしい考えは浮かばない。己が頑な思考をしているのだろうと自分の思いを疑ってみるものの、突破口になるようなものは見つからなかった。
あとふたつほど角を曲がると私邸に着くという頃、呼舷はふとある少年のことを思い出した。
焔子と遠乗りから帰ってくる道中で思い出した、あの少年だ。一体いつ何処で出会ったのか。未だ顔も声もおぼろげで判然としないままだ。解るのは少年だということ、少年にあったのは思い出すのに苦労するくらいだから随分と前だろうということ、そして焔子のような背格好だったということ。そうだ、焔子と背格好が似ていたのだと、それも唐突に思い出す。自分より頭ひとつ低い身長。兵士というにはいささか華奢な少年。野良仕事をしている女とさして変わらないような。
なぜ、記憶にない少年のことを思い出すのだろうか。それも、少年のことが気になっている。詳しく思い出せないから気になっているのではない。少年のことを思い出さなければいけないような気がしているから気になるのだ。そのことが呼舷自身不可解だった。
――将軍とともに。
はっとする。
不意に〝言葉〟を思い出した。声音は思い出せない。それでもはっきりと蘇った〝言葉〟。
――例えこの身が朽ちようとも、この魂は呼舷将軍とともに。
何度となく聞いた言葉だった。将軍として戦場にいるとき、何度となく伝えられた言葉。敵陣に使者を送るとき、絶望的な局面で間者を送るとき、誰かを確実に犠牲にせねばならない戦術を伝えたとき、彼らは呼舷にそういった言葉を伝えた。
死にに行けと命ずる。それに毅然と従う彼らがいう言葉。それを聞く度、そんなことを言ってくれるな、恨んでくれていいのだと何度歯を食いしばっただろうか。彼らが言った言葉を思い出す度、鉛を飲んだような重苦しさと共にひとりひとりの顔を鮮明に思い出す。誰一人として忘れていない。直接、呼舷に言葉を伝えた者のことは誰一人として忘れてなどいない。
ならば、誰だ?
確かに言われた言葉。間違いなく、少年から言われた言葉だ。それなのに、思い出せない。そんな薄情なことがあるだろうかと自問する。そしてひとつはっきりと思い出した。かの少年は、死地に赴いていない。呼舷が死地に送った者のひとりではない。
かの少年が言った言葉は、拙いながらも紡がれた、心からの、魂からの、呼舷への忠誠だ。
「――将軍…呼舷将軍」
護衛のひとりである路巌に呼ばれ、はっとする。物思いに耽っていたせいで私邸に着いたことに気付いていなかった。
「如何されました」
「いや、何も。少し考え事をしていた」
「呼舷将軍が呼びかけにもお気付きにならぬとは珍しゅうございます。何か憂い事でも…?」
「いや、大事ない。また明日」
「は」
路巌らを帰し、呼舷は屋敷の中に入る。すぐさま伴鴻が遠邇を預かりにやって来た。手綱を伴鴻に預け、遠邇を降りてそのまま気まぐれに厩まで行くと、阿古がもそもそと飼葉を食んでいるのを見つける。すると遠邇が嬉しそうに嘶いて伴鴻を急かした。
「どうどう!まったく気位の高いお姫様が珍しいこった」
「本当に阿古が気に入ったようだな」
「そのようです」
「阿古の主殿の様子はどうだ?留守中変わりはなかったか?」
「至って平和ですよ」
遠邇の鞍を外しながらそう言った伴鴻はふと顔を上げて「ああ、そういえば」と零した。
「どうした?」
「今ならまだ面白いものが見れるかもしれません」
「面白いもの?」
「客間を覗いてみてください」
含みのある笑みを向けられ呼舷はわずかに体が重くなったような気がした。伴鴻がこういった笑みを浮かべるのは非常に珍しい。きっと碌でもないことだろう。案の定と言うべきか、覗いた客間では様々な布を所狭しと広げ、焔子と孫健が取っ組み合いの喧嘩をしていた。




