三日目:遠乗り(5)
呼舷は東屋で夜風に当たりながら、ひとり茶を楽しんでいた。
あの後、孫健を迎えた呼舷の邸宅はささやかな歓迎の祝宴となった。
今日、呼舷達の遠乗りと入れ替わるように到着した孫健一行は焔子が到着していること、婚儀が延期になったことにいたく安心したが、同時に焔子が孫健らが同行していることを伝えていないと知るや托苑ら呼舷の従仕にそれはもうものすごい勢いで謝罪し、頑として門のうちに入ろうとはしなかったという。
その反動だろうか、孫健らは心底安心した様子で気持ちよく飲み食いをした。決してがっついているという様子ではなく、心から宴を楽しんでいた様子を思い出せば、呼舷の表情は自然と柔らかい物になる。瘍医の診察を受け、遅れて酒宴に焔子が顔を出せば、焔子の従仕が入れ替わり立ち代わりやってきて、ますますに賑やかになった。
元々酒宴を好まない呼舷がそれでも顔を出すのは大抵が深謀遠慮が渦巻く宮中の宴だ。楽しい酒など禍斬とサシで飲む時くらいのもの。孫健らとの酒宴は、禍斬とのそれに値するほど穏やかで、呼舷自身驚くほど楽しいものだった。
心地よさを楽しみながらも、呼舷は酒宴で聞かされた孫健と焔子が別に到着した理由を思い返す。
話を聞く限り不審な点はほとんどない。孫健らの話によると焔子と孫健らは同じ日に出立し、六日かけて呼舷の私邸がある首都・抄都に着く予定を組んでいたという。焔子の馬・阿古が曳いてきたものを含めて荷車が3台、従仕が20人、焔子を乗せる牛車が1台。呼舷の屋敷に着く前日には抄都入りし、焔子を着飾って翌日に訪問の手はずだった。
だが、出立した当日に霧に阻まれ、そこで焔子は隊列から外れ二日も前に到着した。阿古の荷車は焔子が使う筆や文机といった日用品を中心とした花嫁道具、そして道中の食料がわずかと大量の土産の品が乗っていた。
孫健らの話と焔子の話、日程も通って来た道も確かに辻褄はあう。絢爛豪華とは言えないが、州刺史の娘として極将に嫁ぐに十分な荷も持って来ている。それらがみな朔州の名品という裏も取れた。孫健の持っていた過書も本物だった。焔子に会った直後に感じた不信な点は確実に潰れていっている。
しかし、納得出来るかと言えばそうではない。
隊列を外れたなら待つだろう。待ってこないなら先に行くのは頷ける。だが、それでも二日も早く着くだろうか。無理ではないが、無茶な話だ。それを孫健は酒宴で「呼舷恋しさだ」と焔子を何度もからかっていたが、呼舷にはただの戯れ言にしか聞こえなかったし、真面目に取り合わなかった。
だが、もしやそれが誠かと思った瞬間があった。話の流れで姓名について触れた時のことだ。
「結婚したら焔子は〝焔子相駁〟と名乗らせて貰うんだなぁ。格好いいじゃないか。なあ?」
からからと笑って言った孫健に呼舷と焔子はぽかんとした表情を浮かべた。
乾抄では、古来、王族のみが名を先に名乗り、それ以外は姓を先に名乗っていた。だが、いつの頃からか、武に関わる者は常に死と隣り合わせで生きることに敬意を評し、王族と同じく名を先に名乗ることを許されるようになっていた。つまり、極将である呼舷は〝呼舷相駁〟と名乗るが、呼舷の父・舷角は文官であるため〝相駁舷角〟と名乗るのである。名を先に名乗るというのは、家名よりも個人の方が力があるとの証明のように感じる節もあってか、名を先に名乗ることに憧れを持つ者は多い。
結婚すれば当然、家長に倣って姓を名乗るので焔子は〝洲焔子〟から〝焔子相駁〟と名を改める。それを指摘され、呼舷は確かにそうだと思った程度だが、当の本人はそうではなかったようだ。
焔子は頬どころか、首まで真っ赤にして照れていた。平静を取り繕おうとすればするほど裏目にでて、吸い物を飲もうとすれば熱さにむせ、豆を箸で掴もうとすれば弾き飛ばし、酒を注ぎに来た従仕には杯を逆さまに差し出した。そんな焔子を孫健は腹を抱えて笑っていたが、呼舷はというと、焔子がそこまで照れていることにむず痒い感覚に襲われたのだった。
その時の感覚までも呼び起こしそうになり、呼舷は誰もいないのにコホンとひとつ咳払いをする。考えるべきはそこではない。焔子がやってきてすでに三日。不信な点は明らかになりつつある。だが、このままではいけないという思いが胸の奥で燻っていた。
「…あの、呼舷様」
そろりとかけられた声に振り向くと、そこには華小を伴った焔子がいた。すでに就寝したものとばかり思っていたので驚いたが、呼舷は考えることをやめ、先ほどまでの酒宴の名残からか穏やかな気持ちで焔子を東屋に迎えた。
「いかがなされた」
柔らかい風が焔子の髪をわずかに揺らす。月明かりと燭台の光を浴びると焔子の色素の薄い亜麻色の髪はぼんやりと光っているようにさえ感じられた。焔子は見事な装飾がなされた盆に変えの湯を入れた湯差しと、茶筒、それに一組の湯のみを乗せて東屋にそうっと入って来た。
「あの…お茶のおかわりを、お持ちしました」
「それはこのような夜更けにかたじけない。華小に任せてくだされば」
「…あの、その…ただの、口実です…華小殿が運んでらしたのを、その…私が横取りしたんです」
「……?」
少しばかり気まずそうに視線をさげて言う焔子を呼舷は不思議に思い、その理由を視線で問うた。すると焔子はもごもごと「呼舷様とお話ししたくて」と告げる。その間にも焔子の手はてきぱきと動き続けた。
「私と話を?」
「はい。話…というか、お礼を申し上げたくて…兄達にも立派な客室を充てがって頂き、誠に有り難う存じます」
「それでしたら当然のことをしたまで。礼には及びませぬ」
呼舷がそう言うと焔子は「そう仰るような気がしていました」と柔らかく笑んだ。そうしてすっと差し出された茶碗。さきほどまで使っていた湯のみとは別の、蓋のあるものを差し出される。呼舷はそれに礼を言って蓋を開ければ、美しい金色の湯が目に飛び込んできて思わず「おお」と小さく声を上げた。感嘆を追うようにしてあがった湯気から、なんとも食欲をそそるえも言われぬ良い香りが呼舷の潰れた鼻腔をくすぐった。
「…これは、茶ではありませんね。むしろ…汁物、ですか?」
「はい。金露泉という朔州の郷土料理です」
茶の時間に汁物とは無粋のようにも感じられたが、あれだけ飲み食いした後にも関わらず口内に溢れるものがあった。金露泉の香りに負けて呼舷は黙って口をつけた。一口飲んで、呼舷は目を見開いた。そしてまた一口、さらに一口。熱さに慣れた頃にはぐびぐびと酒を煽るように碗を傾け――
「――はぁ…」
思わず漏れた感嘆のため息に、呼舷ははっとして口元を手で覆った。乾抄では食事中のため息は非常に行儀が悪いとされる。とくに茶会ではどれほど茶が美味かろうと御法度だ。やってしまったと気まずく感じ焔子を伺ったが、焔子は呼舷のため息を心底喜んでいた。ほっこりと頬を染め、心なしか照れくさそうに、嬉しそうに、微笑んでいたのだ。途端にむず痒い気恥ずかしさが呼舷の胸に生まれる。
「…華小」
「はい」
「……代わりを頼む」
「かしこまりまして」
頭をわずかに落とし、碗を下げた華小は必死で笑いを堪えているようだった。わずかに子供じみた苛立ちを感じたが、呼舷は何も言わずもう一杯用意する為に動いた華小をそのまま見送る。
「…鶏ですか」
華小の姿が完全に見えなくなってから、呼舷は誤摩化すように金露泉の出汁の素を言い当てた。
「はい。鶏の胸肉を主として少量の煮干しと共に煮出し、途中で葱と生姜、クコの実、鬱金、他に数種類の薬味を入れて煮込み、最後に岩塩、胡椒、醤油を入れて味を整えております。生姜で体を温め、鶏と鬱金で肉体と内臓の疲れを取ります。朔州で大切な客人を持て成すときなどに作る汁物です」
簡単に言ってのける焔子だが、あそこまで透明度の高い状態で仕上げるには相当な手間がかかっているはずだ。蓋を開けた瞬間は茶と間違えるほどの透明度があり、胡椒はおろか油すらも浮いていなかった。何度も何度も丹念に漉しているに違いない。それに、あれだけの熱さを保ちながら香りが立っていた。ちょっと火加減を間違えれば薬味の香りは簡単に飛ぶし、一緒に炊く種類が多いほど順番や量を間違えれば食材同士が喧嘩をする。焔子が今まで何度も作ってきたのだと簡単に想像出来た。
「…どうしてあれを?」
単純に。本当に単純に疑問だった。焔子は何故、この金露泉を用意したのだろうかと。
「お礼です」
「…礼?兄君へのことで?」
「それもあります。ですが、一番お礼を申し上げたかったのは遠乗りに連れてくださったことです」
「…あ」
今日はいろいろなことがありすぎて、主な出来事であったはずの遠乗りのことがすっかり頭から抜け落ちていた。片道一刻半もの遠乗りをし、ガレ場から滑りすわ一大事かという状態から、孫健の到着でとっさの宴会と焔子も相当くたびれているだろう。それでも焔子は呼舷の為にと手間のかかる金露泉を作って来た。そのことに胸に灯るものがある。手元に残る茶碗がまだ温かいのが心地よかった。
ふと、焔子が寂しげに苦笑した。
「呼舷様がわたくしとの縁談をあまり良く思っておいででないことは存じております」
「!」
「それなのに、架嶮山で雪苔のあの美しい光景を見せてくださった。それがとても嬉しくて、わたくしに心を砕いてくださったことが本当に、その、嬉しくて…」
「……」
「あの事故も本気で心配してくださいました。当然のことだとお怒りになるやもしれませんが、それでもわたくしは申し訳ないと思う一方で、心底心配してくださったことに感謝しています。ですから、ほんの少しでもお礼がしたくて…お口にあったようで良かったです」
頬を少しばかり色づかせ、照れたように笑う焔子。呼舷の鍛え抜かれた胸がきゅっと小さな音を立てて疼いた。
「焔子殿」
「はい」
「この際だからはっきりと申し上げる」
「は、はい…」
「将軍の妻となる者が、掃除や洗濯、料理…従仕の仕事を従仕に混じって行うのは褒められたことではありません」
「へ?…あ。は、はい…」
呼舷が自分との縁談を良く思っていないと気付いていると話したから、そのとこについて何か言われるのだろうと思っていたらしい焔子は、呼舷が予想と全く違う話題を切り出したことに戸惑ったようだった。だが、呼舷はそれを敢えて無視して続ける。
「将軍の妻に求められるものは、気品と教養、そして跡継ぎを生むこと。それ以外は不要。むしろ蔑まれることすらあります。私個人はそれらのことをさして気に留めてはおりませんが周りはそうは参りません。私は妻となった貴女を公の場に連れ回すつもりはないが、まったく連れて行かぬ訳にもいきますまい。そうなれば口性ない者は必ず貴女のそういった行動を突くでしょう」
「……」
「私の言いたいことはお解りか?」
「……はい…ご、ごめんなさい…」
しょんぼりと肩を落とす焔子に呼舷は苦笑した。我ながら意地の悪い話し方だと思う。ほんの少し、申し訳ない思いが呼舷に焔子の頭を撫でてやりたいと思わせたが、行動には移さなかった。代わりに片方つぶれた口角が緩やかに上がる。
「ですが、美味でありました」
「!」
「偉そうな口上を述べた上でこれを言うのは誠に憚られますが…」
「?」
「また金露泉を作って頂きたい…と、思っております」
「――喜んで」
東屋の長椅子に掛けもせず、盆を持ったまま深々と頭を下げる焔子。呼舷はそれに穏やかに頷きながら、ほんの少しの寂しさを感じていた。
「…焔子殿」
「はい」
「一服いかがです?」
「あ、はい。頂戴いたします」
焔子の返事を聞いてひとつ頷くと、呼舷は継ぎ足し用の湯で自分の茶杯をさっと洗う。そして焔子に手渡そうとして、呼舷はまた少し寂しさを感じた。焔子は立ったまま呼舷から茶杯を受け取ろうとしていたのだ。
立ったまま茶や酒を受け取るのは師弟関係や主従関係において下の者が取る礼だ。夫婦関係に置いて妻の方が下とされることは間々あるが、茶を立ったまま受け取るような上下は決して存在しない。焔子は以前、自分と呼舷は家族になるのだと言った。心から信頼し合い、安らげる関係を築きたいと言った。それをなかったことにされたくなかった。
「焔子殿。どうぞこちらに掛けてください」
言って呼舷は体をずらし、自らの隣を空けた。焔子は目を見開き、ぶんぶんともげそうなほど横に振ってから、呼舷の向かいに掛けようとする。気付けば呼舷は焔子の手を取っていた。
「焔子殿…こちらへ」
緩く焔子の手を引けば、思ったほどの抵抗なく焔子はストンと呼舷の隣に腰掛けた。その顔はひどく困惑していたが、それでも呼舷は焔子が自分の隣に座ってくれたことに喜びを感じる。こぽこぽと静かに茶を注いで焔子に差し出せば、未だ戸惑った様子ながら焔子は礼を言って茶を口に含んだ。
「…焔子殿」
「はい」
「お身体に障りは?」
「お陰様で、大丈夫です」
隣で、焔子が微笑んだ気配がした。わずかに服が触れる。二の腕あたりの袖がほんのわずか。それは触れると言うより擦るという程度。人によっては触れたと認識すらしない程度。それでもそれほどの近い距離に焔子が座っている。そのことが妙に気になって、けれど不快ではなくて、むしろ――
ああ。自分は酔っているのかしら。北国の民は酒に強い。その筆頭ともいえる孫健に付き合って飲んだのだからきっとそうに違いない。呼舷はぼんやりとそんなことを思いながら焔子に次の茶を注いだ。
2015.09.09 誤字修正




