三日目:遠乗り(4)
屋敷につくと、門前には何故か20人ほどの人だかりが出来ていた。一体何事かと警戒心が呼舷を支配する。まだこちらには気付いていない様子に呼舷は遠邇を少し離れたところで止めて様子を伺った。よくよく目を凝らすと托苑と伴鴻が対応しているようだが、不思議なことに彼らは門前の人だかりを必死に招き入れようとしているように見えた。
そうこうしているうちに伴鴻がこちらに気付く。流石は隠密といったところだろうか。するりと門前を離れ呼舷の元にやってきた。
「…何事だ」
「いやぁ…それが…」
「瘍医…ではないようだな?」
「ええ…」
万一に備えて遠邇に乗ったまま呼舷は訝しげに顔を歪めた。一体何事かともう一度視線だけで問えば、伴鴻はチラリと焔子を伺って、少し言いづらそうに口を開いた。
「…焔子様の兄上様がお越しです」
「あ」
焔子がぽろりと音を零した。思わず呼舷は――伴鴻も――焔子を見る。焔子は、完全に兄の存在を今思い出しましたと全身で語っており、注目されていることに気付き、さらに「兄のことを伝え忘れていた」ということに気付き、徐々に顔を青くさせていった。それを見て呼舷もはたと気付く。本来なら焔子は今日、呼舷の屋敷につく予定だったはず。ということは、門前の人だかりは焔子の従者なのだろう。その中に焔子の兄がいたとてさして不思議ではない。自立した者の婚姻に親や仲人が参列しない代わりに、花嫁の従者に血縁――特に兄弟――が並ぶのはよくあることだ。焔子がひとりで来たことの方が異例なのだ。どういう理由で到着が別になったのかは知れないが、門前の一団が不審者ではないということは焔子の反応で窺い知れた。
そうこうしているうちに、伴鴻が呼舷の元に駆け寄ったことに気付いたのだろう。人だかりの中から頭と思しき若い男が駆け寄って来た。恐らくはあれが焔子の兄だ。気付いたから近づいて来るのは当然。当然なのだが、その男は顔を憤怒の形相に歪め、それはもうものすごい勢いでやって来た。
「焔子ぃいッ!この……大馬鹿むんがぁああ!!」
「ひぃっ!」
反射的に焔子は遠邇から飛び降りて駆け出した。呼舷が焔子を守ろうとその身に庇うよりも速く駆け出した。しかし、男の方が速い。呼舷は焦った。当然だ。軍馬と良い勝負が出来そうな勢いのまま突っ込んでくる男が、焔子になにもしないなどこの場の誰が思うだろうか。呼舷の予想通り、男は焔子に容赦なく飛び蹴りをかます。いや、飛び蹴りをかましながら説教を始めた。蹴られた焔子はずべしゃっと地に転がり、その勢いで立ち上がって男に向かって直立したかと思うと、ガタガタと震えながら叱られる体勢を整える。どちらもなんとも器用である。
「霧がふげぇからあれほど隊列から出るなぁと言っだのにこんボケ娘が!托苑さんから聞いだど!なぁは二日も前についだっでぇ!?日んちも数えられんだか!?んだけ阿古を走らせたんだぁよ!かぁいそうに!」
「ごめんなさい!」
「謝んなら阿古に謝りゃあこんボケ!だいたい俺がついて来でるとなして言ってなかが!?おかげぇで不審者扱いだぁぞ!天下の大将軍のお屋敷尋ねて不審者だぞ!父上が念のためだっづって発行してくれた過書――関所通行の許可証――がねがったら今頃牢の中だぁぞ!?泣ぐぞ俺!」
「ごめんなさい!」
男のあまりの勢いと訛りの強い口調に呆然としていた呼舷――焔子に飛び蹴り以外の危害を加える様子もなかったので――だが、もうそろそろ良いだろうと男の肩に手をかけた。
「落ち着かれよ。焔子殿は今万全ではない」
「へ!?あ、これは失礼を!すみませんお見苦しところを…つい……しかし、その、万全でない、とは?相変わらずのアホ面に見えますが?」
まじまじと焔子を見下ろす男に、呼舷はかいつまんで焔子がガレ場で足を滑らせたことを話した。すると見る間に男の顔が赤く染まる。逆に焔子の顔は真っ青に変わっていった。一体この話のなにが男の逆鱗に触れたのかと呼舷も伴鴻もふたりの変化に怪訝な顔をするしかない。だが、一体どうしたのかと問うより先に男が再び焔子に襲いかかり、彼女の両頬をつねり上げた。
「このほんずなし!あいほど山ばのまなぐてはまいねど言っだべ!?」
「ひぃい兄者!かんにかんに!」
「焔子殿!」
頭に血が上ったらしい男がまくしたて、焔子の足が地から離れそうなほどにその頬を引っ張る。どうやら山をなめてはならないと常から言っていただろうと怒っているらしいがあまりに訛りが強すぎて真偽のほどは定かではない。男につられて耳慣れない言葉で謝っている焔子が一瞬にして涙目になっているのを見て思わず呼舷が男を止めた。
「焔子殿の兄君とお見受けするが、いくら兄君と言えども焔子殿は私の妻となる方。これ以上の狼藉は捨て置けませぬ。控えられよ」
一瞬にしてふたりの間に割って入り、その背に焔子をかばった呼舷。そのあまりの鮮やかさに男はもちろんだが、焔子ですら何が起きたのかと先ほどまでの大騒ぎが嘘のようにきょとんとする。加えて男は何を言われたのかすぐに理解出来なかったのだろう。ぽかんと呼舷を見上げるばかりだった。だが、自身に起きたことと言われたことを理解した男は満面の笑みを浮かべた。
「貴方が呼舷様でしたか!いやぁ、まさかこんなに愚妹を大事にしてくださってるとは!」
屈託なく笑ってそう言った男に、呼舷は面食らった。極将である自分にこんな口を利く者は久しくいないかったということもある。だが、それ以上に裏表のない心底嬉しそうな笑みを向けられたことに驚いていた。
「ご挨拶遅れまして申し訳ござりませぬ。下官はこの焔子の兄、朔州を預かる洲家は朔孫が長子、太守・洲 孫健と申します」
「…末将は記室に席を置きまする相駁家は舷角が長子、禁軍東極将・呼舷相駁と申す」
手を組み、深々と挨拶をした焔子の兄・孫健に、呼舷は会釈と名乗りを返す。乾抄では位の高い者が、低い者の取る礼と同じ礼を返すのは失礼とされる風習がある。呼舷はこの風習に苦手意識を抱いている。宮中で父・舷角と目見えた際に舷角が呼舷に深く礼を取り、呼舷はそれに会釈しか返せないからだ。
だが、そんな胸の内を孫健は知る由もない。彼は頭を上げると、先ほどと変わらぬ満面の笑みを呼舷に向けた。
「身内がいうのも憚られますが、真面目で働き者の良い娘です。どうか、よしなに…」
再び深く深く頭を垂れた孫健に、呼舷もまた浅く会釈を返した。
2015.09.09 誤字修正