Little Missa 6つの小さなミサ曲
古楽や合唱を愛している人への賛歌です。ほんとうに短い物語なのでめくってみてください。
「キリエ」
「聞きたかったんだ、タリス・スコラーズの『アレッグリのミゼレーレ』オクスフォードまで来てよかった」
笙子は馨の腕を握った。
女性の高音パートはまるで天からの声のようである。
聞いていてゾクゾクするほど美しい和声が絡まるように高い天井に上っていく。
「教会で演奏してるのを聞きたいね。」
笙子が古楽同好会の部屋でみんなを誘ったのが去年の1月。それからみんなでイギリス行くためにバイトに明け暮れたけど、一人減り、二人減りで結局蓋を開けてみたら馨と笙子の二人きり旅行になってしまった。
馨は旅行の間中苦難の行を与えられたようなものだった。
笙子は明るく人当たりのいいいい奴だったが、男と女、二人きりになった旅行を決行してしまうようなところがある。無謀なのだ。
貧乏旅行につき当然のように、部屋は1部屋。
最後に残った馨はなかば笙子に引きずられてこの旅行に参加したのだった。
他の部員には「避妊だけはきちんとしてくださいよ」とからかわれ、かなり憮然としていた。
イギリスにつくや否や笙子は端から教会のミサや演奏会を調べまくり(驚くことなかれ、彼女はバイリンガルなのだ)英語のできない馨はただ後を付いて歩くのみだった。
そして朝早くから夕べのミサまで様々な教会を連れまわされ、パブでおちついてエールを飲む間もなかった。
笙子に言ってはいないが、実は馨、結構歌える。他の部員はほとんど古楽を好きで聞くだけなのに、教会の聖歌隊から始まった彼の履歴は教育大の「音楽科」を受ける程度には育ったのだ。しかし、今、彼は理工学部3年である。人生と言うのもわからないものだ。
一度、ミサで他の信徒と共に歌ったら(彼はテナーである)「気持ち悪い声出すのやめてよ」と笙子につつかれて以来歌っていない。
馨にとっては蛇の生殺しである。
「あー、思いっきり歌いたい。腹から声出したい・・・」
芋のてんぷら(フィッシュアンドチップスを笙子が命名)をかじりながら、明日のスケジュールのチェックをしている笙子を恨みがましく見た。
「あした、オクスフォードだから早起きしてね。マナーハウスの見学もいれてあるし」
まったく活動的なお嬢さんだ。B&Bの部屋でもさっさと窓際のいいベッドを占領し、ダブルベッドの時など馨はソファーで寝苦しい思いをしているのだ。疲労度が違う。しかも郊外への運転手は馨だ。
大きく伸びをして、部屋に戻るといって笙子は上がっていった。
馨はひとり、星をみながら、この旅行が無事におわる(後3日!)のを心から願った。
「グロリア」
秋子は憂鬱そうに手元のネウマ譜をみた。
「グレゴリアン・チャント男無しで歌えって~」
男がいないのは当然である。ここは女子高のコーラス部なのだから。
指導教諭の滝は何を考えているのかジャンルを全く気にせずに新しい楽譜を持ってくる。この前まで歌っていたのは『女性のためのコーラス 紅茶の時間』だった。いくら巷ではやっていても、グレゴリア聖歌はないだろう。演歌歌手にオンブラ マ イフ歌わせるようなもんだ。
しかも普通の五線譜の楽譜ならともかく、訳のわからない四角の集合のネウマ譜だ。ラテン語だってわかりゃしない。
陽子が譜読みをしている。
「きりえー えれーーいそーーーん くりーーーすて--- えれーーーいそーーーん」般若心経のほうがまだわかるぞ。
滝がいきなり秋子を指名した。
「荒川、おまえグロリアとクレドの詠唱やれ」
むちゃくちゃだ~。そりゃテナーのパートだよ。秋子はぼやく。
確かに秋子はきれいなアルトの声をしていた。他の誰よりも低音部をきれいに響かせる自信はあった。
「そこだけ先生が歌えばいいじゃないですか~」一応力ない抵抗を試みる。
「教師が歌ったら失格じゃないか」あっという間の敗北。
陽子がささやいた。
「どうせならアレグッリのミゼレーレくらいの高音を出したいよぉ。」
陽子は古楽ファンだ。澄んだよどみのないい高音を出す。
天使の声だ。
「ぐろーーーりーーあーーー いーえくすしぇしすでーーーおーーー」
「一オクターブ高いな。」そりゃ殺生というものでしょう。
「これ以上下はだせませーーん」
午後の時間はゆっくりと流れていく。
「しょうがない、ちょっと曲を探してくるから、その間、おまえら筋トレやってろ」
滝はピアノの前からたつ。
「せんせー、歌いやすいのねぇ」
みんなが叫ぶ。
二人組になって柔軟体操をする。陽子は秋子の背中を押しながらぼやく。
「たまにはマドリガーレとかうたいたいなぁ」
「なに?マドレヌ?」
「やだ、入試に出るよ、秋子~」
「はいはい、マドリガルですね先生」
秋子と陽子は音大受験組みだ。
さつきが大きく伸びをしてシューベルトのアヴェ・マリアを歌い始めた。
陽子がピアノに手を伸ばす。やわらかなアルペジオが歌声と絡み合う。
「たっきー、SMAPの曲でも持ってくればいいのにねぇ」くすくす笑いながら奈菜。
「もうソロパートがあるのはやだねぇ」
「やっぱ、連帯責任でしょう」
どっと笑いがおきる。
少女たちの明るい伸びやかな声が放課後の校舎に響く。
茜色に染まったそらがそれを聞いている。
「クレド」
「バス、ちゃんと入って」あん、まただ・・・。律子はじりじりして
淳一の顔を見る。律子は夫の淳一とともにこの古楽アンサンブルに参
加している。今日のバスパートは淳一だけだった。
指導者の酒井は自分がバスのためか、ことのほか低音部に厳しい。
どこの合唱団でもそうだが、うちの団も男性が少ない。バスは3名。
テノールにいたっては木村さんの一名だけだ。
「じゃぁ、テノールから入って」最初の音をキーボードで鳴らす。
木村さんが細い声で歌い始める。律子は木村さんの声が好きだ。細い
でもしっかり音程を掴んだ声。
「Patrem omnipotentem, factoremcae・・・・・」
歌詞を追うと音程が不確かになる。音程を追うと口がついていかない。
日本語の歌を歌うのとはまったく違った難しさがある。
まして、これはルネサンス期のポリフォニーの歌。主旋律がソプラノ
と決まっているわけでなく、和声の重なりで幾重にも旋律が響くのが
特徴。一人で練習するのは至難の業だ。他の音がなってないと、音が
取れない。
「あ~、クレド長いからつかれるぅ」そっと隣の中村さんが律子に囁
く。「そうですよねぇ、めくっても、めくってもおわんない」
酒井が持ってきたのはヴィクトリアのミサ曲だ。「このくらい音の
動きが単純できれいなのはほかにないです。これ、じっくりやりまし
ょう。」去年の年末、気楽に賛美歌やらクリスマスソングを歌ってた
のが嘘のようだ。なんか受難の気分。そういえば、一昨年は死ぬほど、
バッハの「主はわが友」歌ってたんだっけ。必死だったよなぁ。
このアンサンブルでいったい何曲歌ったんだろう。はっきり言って昔
の楽譜見て、ちゃんと音が取れるほうが少ない。絶対的練習不足だ。
6月には市の合唱会もある。月に2回の練習ではそろそろそちらの準
備もしないといけない。
道具を片付けながら木村さんが「アレグッリのミゼレーレ一回やって
みたいんですよね~」という。律子も「わぁ、やってみたい」と声を
あげる。「高田さんががんばればいいんだよなぁ」無責任な発言。高
田さんはうちの代表でディスカントだ。
このところ、家の事情とかで欠員が多くてソプラノも力不足。余って
るのは音のそろわないアルトばかり。「団員も募集しなきゃねぇ」と
斎藤さんがいう。
「あ、雨だ~」夜の市民センターを出ると雨が降っていた。
「おつかれさま~」それぞれ駅に向かいだす。
「次はまた再来週ですからぁ、先生遅刻しないでくださいね。」高田
さんの声が聞こえた。
Special thanks for Zeppher
「サンクトス」
「馨くん、馨くん・・・・」リクルートスーツを着た笙子が馨を呼び止めた。
イギリス旅行以来、何の因果か「付き合ってる」二人である。
「あしたの就職ガイダンス、でるでしょ?」昔から「馨」と呼ばれることに
抵抗があったが、笙子に呼ばれるようになってからますます嫌になった。
「そのあとM学院のオルガン演奏聞きに行かない?」「川村さん、余裕だね。」
皮肉も笙子には通じない。馨は自分の希望就職先・・・音響関係だが・・・
を2箇所空振りしている。「あせっても結果は出ないよ~」あぁ、なんでこんな
とこまで笙子に振り回されるんだ・・・。馨は頭を抱えた。
「プログラムは?」「バッハだよ~ん」
馨君、バッハは苦手である。いや、嫌いとは言わないがやたら曲数が多いので
コンプリートできない。コンプリートが好きな馨としては、避けて通りたい作
曲家だった。日本に出ているレーベルでさえ、破産する。
馨が古楽好きになったのは、やはり、マイナーなせいだろう。
が、ここのところ古楽ブームでやはり、CDの発売頻度が高くなっている。コン
サートにいきたいと思っても、昔はちっちゃいホールでそこそこの値段だった
チケットがホールの大きさ分、高くなってきている。そのためにはまず、就職
だ。馨の頭の中には忙しくてコンサートにいけない自分はない。
翌日、M学院の付属教会(教会が付属してるのか、学院が付属してるのか?)
に同じサークルの山辺もさそって3人で行った。山辺はグリークラブにも入っ
ている。もっとも理工学部のグリークラブだからたいしたことはないんだけ
ど。「イギリス行って思ったんだけど、やっぱりさ、石作りの、カテドラル?
っていうのかな、音が響くねぇ」笙子は高い天井を見上げてささやいた。
「川村さん、カテドラルってのは司教座がある教会のことで、それ以外はチャ
ーチだよ。」山辺がボソボソと抵抗する。笙子は気にせず続ける。
「あぁいうとこだったら、あたし、キリスト教徒になってもいいなぁ」
演奏会が始まった。バッハのオルガン曲は多い。殆ど知らないものばかりだ。
「カンタータのほうが、何ぼか知ってるよ・・・」それは笙子も山辺も同じ
だったらしく、神妙にうなずいている。
ちょうど夕日がステンドグラスごしに差し込んできた。あぁ、平均率クラヴィ
ーアの1番だ。馨が思ったとき、後ろから声が聞こえた。「Ave Maria・・・」
グノーのアベマリアだ。とんだ飛び入りだけれど、その声は高い天井にオルガ
ンとともに昇っていき、はるかかなたではじけた。
夕食を食べながら三人はさっきの歌について話した。
「傲慢よね、他人の演奏会に割り込むなんて」笙子はヤキトリを振り回しな
がらいう。
「でも、すごくよかったよ」山辺がいう。「発声がきれいだった。セミプロ
じゃないかな」「俺もそう思う」男二人の意見に笙子はむくれる。
「じぁ、ほら、イギリスの話でもしよう・・・」山辺が爆弾のスイッチを入
れた。馨はもう他人のふりである。「いつになったら、あのMD回してくれる
のよぉ」笙子が絡んできた。実はミゼレーレだけ聞きほれてスイッチをONに
するのを忘れたとは死んでもいえない・・・。
「ベネディクトス」
そのバラ園は大きな家の片隅にありました。私はいつも春から秋にかけて
色とりどりの花が咲き乱れる、まるで外国のような風景が好きでした。
そのうちのお嬢さんでしょうか、ピアノを弾く音がよく聞こえます。
最初はたどたどしいメロディが、次第に、唱を歌うように流れ始め、夕靄
に漂って消えていくのを私は飽きもせずに聞いていました。
やがて夕闇があたりを閉じ込めるまで私は静かに歩を移しながら眺め、聞
いているのです。
3年前に亡くなった私の妻は、バラが好きで、庭のない我が家にせめてと
いってバラの花を欠かしませんでした。冬の寒い日など、「高くて、これ
しかかえなかったの」といって頬をばら色に染めて帰ってきた妻をよく思
い出します。そのせいか、家を出ると、この家へ来ることが多いのでした。
私たちは遅い結婚でした。子どもにも恵まれることはなく、それでも二人
で幸せでした。妻の病が分かったとき、妻は「難しいお経も、戒名もいら
ないから」といって一人近くに教会に出かけていき、信仰の道に入ったの
です。私はほぼ、一般の日本人と同じ感覚でしたので、いままで神社に行
っても寺に行っても賽銭を投げ、頭を下げていたのですが、妻の熱心な進
めにしたがって、私も教会へ顔を出すようになりました。
この小さな教会の2Fには牧師さん一家が住んでいて、暁くんはその長男坊
でした。一度顔を見知ってしまうと、学校の行き帰りなど彼が目に付き、
にこやかに挨拶を交わすことも度々でした。彼は野球部だといって頭を丸
刈りにし、ちょこんと帽子をのせていつも右肩下がりに走っていくのです。
妻と過ごした最後のクリスマスのことでした。クリスマスのミサで教会は
込み合っていました。私はミサの司式のことなど分かりませんから、皆が
起立しては起立し、賛美歌を歌ってはその後をついていきました。暁君の
おとうさん、つまりこの教会の牧師さんは大変いい声をしていて、賛美歌
のときなど、思わず聞きほれてしまうのでした。そんな時、いつも暁君や
その妹などは教会の後ろのほうで黙って聞いていたのでしたが、このクリ
スマスは違いました。丸刈りの頭に白いケープを着た暁君が恥ずかしそう
に前へ進み出て、賛美歌のソロを歌ったのです。中1だったでしょうか、
もう、声変わりの前の細いきれいな声で「あぁベツレヘムよ・・・」と歌
う姿が大変印象的でした。
妻はクリスマスを越すと急に具合が悪くなり、入院して頭を枕から上げる
事もできなくなってしまいました。彼女は自分の葬儀の際、フォーレのレ
クイエムをかけて欲しいといっていました。教義から言えば、妻の通って
いる教会はプロテスタントでしたからカトリックのレクイエムはおかしい
はずですが、牧師さんは快く引き受けてくださり、妻の枕元で神の御許へ
旅立つ者へのお話を何時間もしてくださいました。
妻が亡くなったとき、私は覚悟していたとはいえ激しい喪失感と衝撃に身
をさいなまれていました。なすすべもない私の周りで、葬儀の準備を整え
てくれたのは同じ教会の信者の皆さんでした。飾り気のない、真心のこも
った葬儀になりました。妻のバラ好きをご存知の皆さんが手に手に色とり
どりのバラを手向けてくださり妻の頬さえばら色に見えるようでした。
司式の最後、牧師さんのお話の一番最後に牧師さんは付け加えました。
「みなさん、今日、神の御許に旅立つ姉妹の願いを一つかなえて差し上げ
ようではありませんか。姉妹は音楽を愛し、フォーレのレクイエムをその
旅立ちに聞きたいとおっしゃっておりました。フォーレのレクイエムを
かけるのなら是非にと望まれていたことがあります。司式にはありません
がここでフォーレのレクイエムからPie Jesuを長男が独唱いたします。」
暁君が学生服のまま前に進み出ました。オルガンが静かになります。
「Pie Jesu Domine・・・・」暁君の声が染み入るように教会に響き渡り
ました。ボーイソプラノ最後の響きが妻を見送ってくれるようでした。
私は、薄昏の街をあるきます。バラも街もたゆたう紫の残照をかすかに留
めるだけになりました。暁君はあのあとすぐに声変わりをしてしまった
そうです。もう冬の気配がしています。私はゆっくりと家路に向かいまし
た。
「アニュス・デイ」
「Kyre と Agnus deiくらいはちゃんと歌おう」
どうも6月の合唱祭にはこれでいくらしい・・・・。
テノールの星、木村さんの退団が決まって、バスの中で一番声域の高い
淳一がテノールに変更させれた。律子は腹をたたいて笑ったけど淳一に
とってはそれどこじゃない。せっかく覚えたバスのパートをクリアして
テノールを再インプットだ。
でも夫婦で一度もしたことなかった家庭内練習を今日、した。
「ちょっと、最初の音、シ、でいっしょじゃないの。もっと低くない?」
「うそだ、僕はこのソが限界音だからもっと高い」
だいたい音源がなくて絶対音感もないのに、歌おうというほうが間違っ
ている。
大して美声ではない二人が歌うのだから不気味で途中からだんだんずれ
てくる。うーん、むずかしいかな。
でも不思議なことに他の音域がなってるほうがスムーズに進むのだ。
たとえへたへた同士でも。
昨日の練習は人が少なくて、この頃退団者も多くて、そのため、人数
の配分がよかった。ソプラノ4人 アルト4人 テナー2人 バス2人
うまくいくととっても和声が響いてきれいなんだけど。
一度うっとりするほど旨く和声がはまってみたいものだ。
律子は隣の明子さんとともに声が大きい(この場合大きさと旨さは関係
ないが)のでブレスを一緒にとらないようにしているんだけど、練習
のときはずれても通しでヤって、ぴったり同じにブレスしてブツっと音
が切れること数回。まだまだだなぁ。プロってどうやってブレスとって
るんだろう。この長い旋律最後まで息続かないよぉ。カンニングブレス
ってどうするのがうまいんだろう・・・・。
歌ってる歌詞は単調なんだけどね。キリエやアニュス・デイは
夜、PCで日記をつけながら「ミゼレーレ」を聞く。はぁ、プロは違う。
でも好きだから歌ってしまう。下手だけど歌ってしまう。
長くて嫌だと思ったけど、音がまとまるにしたがって、楽しくなってく
る。単調な和声の響きが波になり、風になりゆったりと体を通り抜ける。
一つの音の中で波を作る。体から声を出す。
きれいにあった最終音の最後の響きの余韻、堪らなく好きだ。
来月の練習まで少し間がある。淳一と少しは練習しましょうか。
読んでいただき、ありがとうございました。もう10年も懐に温めていた作品です。時代の流れで、すでにMDが過去のものとなってしまいましたが、比較的よい音質での録音機器ということでそのまま使いました。これからも、もちもち発表していくと思いますが、よろしくお願いいたします。