旅館? それなら探検しよう!
夜空に光る月明かりがいつもよりもずっと明るかった。
辺り構わず光を発する旅館の中で、そこだけは光量が少なく、仄かな灯りの中で丸い月がはっきりと水面に映っていた。
湖の様な広さの露天風呂に人影は見当たらない。
星に満ちた夜空の下で光に照らされた部分だけが湯煙として浮き上がり、空の黒さと辺りの白さがまるで切り絵の様に分かれている。
湯気が付着して水滴となり、そこら中で水の落ちる音が重なり合い、連なり合って、一つの楽器であるかの様に、統一感の無い音階を奏でていた。
その音曲を遮る様に、木製の扉が開いた。
続いて、騒ぎ立つ声が静寂を破った。
更に追い打ちをかける様に人影が水に飛び込み、楽器は壊れ、後は人の笑い声だけが辺りに満ちた。
屋内の風呂場から露天風呂へと出た月歩は、早速泳ぎ始めた陽菜に呆れて溜息を吐いた。
静かな月夜の下で、ゆっくりと二人で温泉に浸かろうとしていたのに。
元より無理な事だと月歩自身も分かっていたが、それでも目の前でクロールをし始めた、あんまりと言えばあんまりな光景を残念に思った。
他の客が居ない事だけが唯一の救いだろうか。
夜気に身が震えたので、早速湯船に足を付け、ゆっくりと入れていくと、突然近付いてきた陽菜に腕を掴まれてそのままお湯の中に引きずり込まれた。
二人が倒れ込んで、大きな水しぶきが上がり、荒れたつ水面にまず陽菜があがった。
息を吹いてけたけたと笑う陽菜が、水面に映る黒い影を眺めていると、そこから髪の毛のお化けがあがってきた。
上がってきたお化けはしばらく手を縦横に振るっていたが、やがて纏わりつく髪の毛を跳ね除けると、中から無表情の月歩が現れた。
それを見て、更に大きく笑い始めた陽菜の声は遠く母屋にまで響き渡り、ある者は元気を貰って和み、ある者は娘を思い出して涙し、ある者は幽霊を思い浮かべて慄いた。
そんな陽菜を無視して、月歩は月を眺めながら、明日からずっとこんな生活を繰り返すんだろうなとぼんやり考えた。
確かにずっと陽菜と遊んでいられるのは楽しいが、親元から離れた寂しさ、知らない土地に来た寂しさは、夜の闇と混ざり合って、物悲しく月歩を襲った。
しかし陽菜の計画を邪魔したくは無かったし、陽菜と旅行に来れたのは本当に嬉しいのだから、今のこの時を壊したくない。
月歩は表情が表に出ない方だが、陽菜には時たま気付かれる。
だから陽菜に顔を見られない様に月歩はお湯の中に顔を沈めた。
陽菜は潜る前の月歩を見てしまったが、それを指摘して家出を辞めてしまうのは、寂しさを押し殺して自分に付いてきてくれる月歩を裏切る行為だと考えて、気付かぬ振りをして辺りを泳ぎ始めた。
二人が浴衣に着替えて外に出ると、何故かそこに着物の若い女性が居た。
誰だろうかと疑っていると、女性はこの旅館の仲居だと言った。
「ナカイさん?」
「はい。着ておられましたお召し物を洗濯させていただきたく」
緊張した面持ちのナカイさんに、二人が着ていた服を差し出すと、何やらぎくしゃくとした動きで受け取って、女将とは比べ物にならないぎこちない動きで、何処かへと去っていった。
不思議そうに見送った二人は、気を取り直して、食堂へと向かった。
「どんな料理があるんだろう」
「河豚だよ、河豚」
二人とも自分の想像する御馳走を思い浮かべて食堂へと向かった。
地図に書かれた場所に向かうと、食堂には暖簾が掛かっていて、中から橙色の灯りが漏れていた。
町にあるレストランを想像していた二人は、暖簾の下を通って愕然とした。
何故か入った先に池の付いた庭があり、その周りを縁側と襖が囲んでいた。
二人がここは三階だったはずだと頭の中で確認していると、つつと着物の男がやって来た。
男に案内されて縁側を渡り、男が開いた襖の奥を見て二人は更に驚愕した。
その広さもさる事ながら、既にぐつぐつと煮立った鍋や船盛りや河豚刺しが、光沢を放つ食卓の上に置かれていた。
隣では着物の男が当店自慢の河豚料理だと説明していたが、二人の耳には入らなかった。
陽菜は一目見て、目の前の料理に小皿の一つにまで徹底して河豚が入っている事に気が付いた。
自分の望んでいた料理がそこに置かれている光景は、まるで神様が示し合わせた様だった。
自分は神様の家に迷い込んだんじゃないだろうか。
一方、月歩はとにかく食卓の上に置かれた料理の多さと部屋の広さと何やら高そうな雰囲気にただただ驚いていた。
これが御姫様の生活なんだろうなと興味深げに辺りを見回した後、自分が今から味わうのだと気が付いてどきりとした。
何かの間違いじゃないだろうか。
二人二様の不安を抱いている間に、男は流れる様に二人を促して食事の準備をし、二人が気が付いた時には料理を挟んで向かい合い、コップは液体が満たされ、後は置かれた箸を持って食べるだけとなっていた。
二人が襖を見た時には既に閉まっていて、男は居なくなっていた。
「これ、本当に食べていいのかな」
「勿論! あたし達の何だから」
「で、でも、何だか変じゃない? もしかしたらお店の人が間違えてるのかも」
「大丈夫! 高い旅館ていうのはこういうものなの!」
「そうなの?」
「うん!」
陽菜だって月歩と同じ位の知識で、月歩と同じ様に今の状況に疑問を持っていたが、それでも大きく頷いた。
月歩を悲しませてはならない。月歩を嫌な気持ちにさせてはならない。
月歩を喜ばせねばならない。月歩を楽しませねばならない。
連れてきてしまった責任を感じていた。
同時に少し頼りない妹分の様な親友を守れるのは自分しかいないとも思っていた。
私が先頭に立って、月歩の事を守ってあげなきゃ。
その為に、自分は常に強くなくてはならない。
先日映画で見た、お姫様を守る中世の騎士を思い浮かべて、陽菜の心は熱く燃えた。
ようやく元気を取り戻し始めた月歩を見ていると段々とお姫様に見えてきて、念願の河豚の味も分からぬままに、陽菜はお姫様を守る騎士になる事を固く決意した。
陽菜は同世代の間で一番の腕白で、いつも皆の前に立ち、そして一度も他人の後ろに隠れた事が無かった。
決意した事は実のところ陽菜の日常であり、陽菜の思い浮かべた騎士は心の中にある自分像だと言えた。
先日見た騎士はあやふやだった陽菜の自分像を固めた。
陽菜は映画の騎士に自分を重ねて興奮し、家に帰った後に映画のワンシーンを真似て家をめちゃくちゃにした程だった。
陽菜は常に騎士であり、それは特に月歩の前では絶対であった。
月歩は守ってあげなければならない弱い子。
そこまで明確に思っている訳では無く、当然悪意も無かったが、陽菜は月歩を過保護な程に庇ってきた。
月歩も月歩で陽菜の盾に甘んじる事が多かった。
陽菜が騎士だとすれば、月歩はお姫様。
お姫様な月歩を見ながら、ふと陽菜は私もお姫様になりたいなぁと思った。
その瞬間思い浮かんだのは朝の許婚騒動で、頭の中で陽菜の想像する最悪な許婚像がにやりと笑いかけてきた。
慌てて頭を振り、更に自分が騎士を捨てそうになった事に気が付いて、自分を戒めた。
そうして、自分を心配そうに見ている月歩、実際は目の前で演じられた陽菜の百面相に困惑している月歩を見て、陽菜はにかりと元気良く笑いかけると、茶碗に残ったご飯を掻きこんだ。
それから二人は旅館の中を東奔西走探検し、遊技場に居た夫婦と一緒にカジノを遊ばせてもらい、宴会場に居たおじさんおばさん達の輪に入って歌を歌い、外で夕涼みをしているおじいさんと身の上話を話し合い、調理場に行ってアイスを貰い、再び遊技場に戻って刑事さんや添乗員さんとゲーム機で遊び、もう一度お風呂に浸かって迷い込んできた兎と戯れた。
すっかり疲れ切って眠くなり、時計を見るともう日を跨いでいて、脱衣所の外に出ると女将が居て、もう寝る様にと注意された。
女将に引き連れられて廊下を歩いている途中で、陽菜が女将の隙を付いて一つ前のT字路に戻り、やって来た廊下とは別の廊下へと入り込んだ。
女将と月歩が慌てて追いかけると、陽菜は廊下の壁に開いた暗がりの前に立っていた。
暗がりには闇を駆逐せんとする旅館には似つかわしくない冷たく沈んだ空気が漂っていた。
暗闇の手前には入足厳禁と書かれた立札があり、奥は暗闇で見えないが、通路になっている様だった。
「あそこは何ですか?」
「はい、あの通路は外の雑木林に繋がっております。今はもう使っておりませんし、雑木林に入り迷われてしまうお客様もいらっしゃいましたので、封鎖しております」
「裏口?」
「はい、その通りで御座います。しかし今はもう扉を塗り固めて、ただの行き止まりとなっておりまして、お恥ずかしい話では御座いますが、たまにうちの者がこっそりと休憩する位の場所で御座います。人の眼に付き辛い一角ですので、お客様方には大変申し訳ありませんが、この暗がりやこの廊下に近寄る事はお止め下さいます様にお願い申し上げます」
そう言って深々と頭を下げた女将は見ていなかった。
月歩だけが陽菜のその好奇心に満ち溢れた顔を眺めていた。
女将が頭を上げた時には既に陽菜の顔から好奇の色は消えていた。
女将は何の疑問も持たずに、また二人を引き連れて廊下を歩きだした。
その後ろで、陽菜は月歩の耳に口を近付け、擦れた声で囁いた。
「明日はまずあそこを探検しよう」
月歩は陽菜と一緒に居られれば何でも良かったので、何も考えずに頷いた。
後にした暗がりから寒風が一つ吹いた。




