家出? それなら旅館に泊まろう!
門の向こう側は、今までいた夕闇よりも更に暗く、同時に昼の様に明るかった。
門からは石灯籠が並び石畳に赤々とした火を灯して、暗闇の中に黒ずんだ橙色の道を作っていた。
ほんの少し道を外れれば、二度と帰ってこれないのではないかと思う様な暗い森の影が取り巻いていて、客人を導く灯篭の光が頼もしくもあり、また息を吹きかければすぐさま訪れる暗闇が怖くもあった。
旅館は森の向こうに隠れていて、門を入った所からは見る事が出来ない。
灯篭の道は少し先に行くと右に直角に折れ曲がっていて、右手に旅館があるのだろうと知れた。
右手の森を良く見てみれば、森の影にちらりちらりと煌めく様な光が見え隠れしていて、そんな暗闇の中に居ないで早くこの光の方へおいでと誘っていた。
女将と名乗った提灯を持った女性に導かれて、月歩と陽菜は灯篭の間を歩く。
すぐさま曲り道に差し掛かり、森の影が途絶えて旅館が見えた途端、二人は息を詰めた。
光の城がそこにあった。
テレビの時代劇に出てくる遊郭の様な姿形は二人を一瞬の内に現実から夢の世界へ連れ去った。
遥か向こうにまで伸びる木造三階建ての巨大な建造物は、窓という窓から一斉に光を発し続けていた。
それだけでなく多くの提灯がずらりと建物を締め上げて、辺りに真昼の様な光を捧げていた。
光の中に軒先を歩いている男性が見えた。
赤く彩られていたが、その姿ははっきりと見て取れて、隣に居る影のかかった親友よりも余程はっきりとしていた。
小川に掛かった小橋を渡ると、建物はますますはっきりと、見上げるほどの大きさになった。
内部から漏れる光は闇に慣れた月歩達の眼には痛い程強かった。
月歩は目の前の巨大な建物が太陽をしまう倉庫なのではないかと思った。
中から溢れる光はまさしく昼の光であったし、その巨大さは太陽という巨大な星をしまうには丁度良く思えた。
水音が聞こえて川を見れば、魚が飛び跳ねていた。
何匹も何匹も光の中に身を晒し、そして再び暗闇の中に潜って見えなくなる。
月歩はそんな事を繰り返す魚をかわいそうに思った。
きっと光の中を泳ぎたいに違いない。
けれど決して届かずに、ほんの僅かに憧れの光を見た次の瞬間には、暗闇の水底に帰らなければならない。
もう一度、月歩は建物を見上げ、その偉容に身分の違いを考えていると、重要な事に気が付いた。
「すみません。あの、泊まるのに何円位するんですか?」
目の前に立ち塞がる建物は如何にも立派で、王様でも住む様な所だった。
そんな場所に泊まるには一体幾らかかるのだろう。
百万円なんて言われたらとても払えないと怯えて、月歩が隣を見てみると陽菜も初めて気が付いた様に驚き目を見開いて、恐れ気味に女将を見ていた。
女将はちょっと顔だけで後ろを振り向いて、淀みなくこう答えた。
「御客様方は小学生でしょうから、七日の御滞在とすれば二人で六千円頂く事になっております」
何とか足りた。
月歩はほっと息を吐いた。隣からも溜息が漏れるのを聞いた。
六千円。それは高い。月歩のお小遣いが月に四百円、陽菜のお小遣いが月に千円、一番多くもらっている友達でも月に三千円が最高だった。
それが六千円。一体月歩のお小遣いの何か月分なのか。
けれど百万円なんて請求されたらどうしようかと考えていた月歩にとっては十分良心的に思えた。
背を向けた女将さんにお礼を言いたい気分だったが、それに気分を悪くされて、やっぱり百万円などと言われたら堪らないので、月歩は黙って後に付いて行った。
建物の中に太陽は無かった。
中は力強い電灯に照らされた玉砂利の玄関で右手には沢山の靴入れの棚が並び立てられており、上がった所には赤く派手な着物を着た男性が正座してこちらに向かって頭を床に付けていた。
何も考えられなくなっていた月歩と違って、陽菜は財布の中からお金を取り出すと、女将に差し出した。
「あの、子供二人、一週間、宿泊で」
女将は何故か少しだけ困った顔をしたが、すぐさま両手でお札を受け取って、深々と頭を下げた後に、確かに頂きましたと言って、袂に入れた。
二人が靴を脱いで上がると、それを合図に赤い着物を着た男が立ち上がり、二人に歩み寄ってきた。
「お荷物は御座いますか?」
無い。
俄かに思い立って飛び出した為に、二人は何も持っていなかった。
二人して首を振った後に、二人とも、そう言えば着替えはどうすれば良いだろうなどと考えた。
女将が部屋の名前らしき名前を言って、赤い着物の男が頭を下げた。
それを確認した女将は床に膝を付き、両手を添えて、二人に向かって「どうぞごゆっくり致して下さいませ」と言った。
靴は女将が靴入れに持って行った。
今度は赤い着物の男に導かれる事になった。
建物の中はまるで夜を締めだした様に、闇というものが無かった。
どこも必ず強い電灯の光に照らされて、昼間と変わらない。
反面、やけにひっそりとしていた。
光の溢れた屋内が静まり返っている様子は、突然人という人が消えてしまった様な気がして不気味だった。
階段を上がって、廊下に出て、客室の襖が並んでいるのに、まだ人の声は聞こえなかった。
月歩は恐ろしくなって、旅館の説明をしていた男を遮って聞いてみると、夜は騒がしくしない様にとお願いしているとの事だった。
その代わり、離れた場所にある宴会室や遊戯室であれば、どんな時間でも騒いでもらって構いませんと男は笑った。
「ちゃんと人は居らっしゃいますよ」
ほらと言って黙ったので、耳を澄ませてみると、確かに微かではあるが笑い声が聞こえていた。
静かにしていなくちゃいけないのかと、月歩は陽菜を見て少し不安に思っていると、男は察した様で、安心する様に言った。
「うちは防音を施しておりますので、少し騒いだ位なら大丈夫ですよ。そうですね、試してみましょうか。失礼します」
そう言って、「あっ」と男が突然大きな声を出した。
目を白黒している二人に向かって、男は頭を下げた。
「申し訳ありません。今出した声位なら壁の向こうに全く聞こえませんのでご安心ください」
男がそう言って、傍の襖に手を掛けると、その中を晒した。
「こちらがお客様方のお部屋になります。襖ではありますが、鍵が付いておりますので、ご利用ください」
男は二か所鍵穴の場所を指すと、陽菜に鍵を渡した。
「もしも御用がお有りの時は部屋に備え付けの電話でご連絡下さい」
「あの、ごはんは?」
「一階と三階に食堂が幾つか御座います。場所は先程お受け取り頂きました地図をご覧ください。朝の五時から夜の十時まででしたら、何時でもご利用が出来ます。お食事代は先程受け取りました代金に含まれておりますのでご安心ください。食堂が開いている時間でしたら、お電話を下さればお部屋にお運びいたします」
流れる様に言い終えると、ふと気が付いた様に付け加えた。
「それと、うちではお召し物の貸し出しを行っております。御客様が着ていらっしゃる様な洋装から昔ながらの和服や西洋のドレス等、気分転換をしたいというお客様の要望にお応えしておりますので、もしもご利用頂ける様でしたら、そちらもご連絡ください」
至れり尽くせりだなぁと月歩は驚いた。
やがて、二人に質問が無いのを見て取った男は、「それではごゆっくりお過ごしください」と一礼して、二人が部屋の中に消えるとその場を離れた。
客室は広い和室だった。
二等分する様に敷居が引かれ、襖を締めれば二部屋に、襖を仕舞い込めば広い一部屋になる作りだった。
数えてみると一部屋に十五畳あり、合計で三十畳あった。
余りの広さに月歩が呆然としていると、陽菜は真っ先に駆け出して、畳の上に飛び込み、滑っていった。
「広い!」
そう言って、陽菜は駆け回り始めた。
「あんまり騒ぐと怒られちゃうよ」
月歩が入口の反対に嵌まった障子を開けてみると、窓が現れた。
窓も開けてみると、何処からか笑い声が聞こえてくる。
窓の先には手摺の付いた広い縁側が張り出ていた。
出てみると、他の客室にも同じ様に縁側があって、外を眺めている人やお酒を飲んでいる人、話し合っている人等が居た。
建物は何処も電灯と提灯の灯りに照らされて白く浮き上がっている。
下を覗けば、光に照らされた草木や小川、石畳や石灯籠が見えるが、少し建物から離れると一気に闇に覆われて、光に慣れた月歩には森の影絵しか見えなかった。
遠くを見ようとしても、何処も高い木に覆われている。
きっとこの光を外に漏らさない様にしているのだろうなと思って、月歩は自分の居る空間が隔絶されていて異様な場所である事を改めて意識した。
中に入って、窓を閉めると、笑い声は消えた。
静かになった部屋で陽菜がじっとこちらを見つめていた。
「良い所でしょ」
月歩が頷くと、陽菜はにっと笑った。
「いやぁ、おじいちゃんの言った通り良い所だな」
「そうだね」
「無茶苦茶安かったし」
「そうなの?」
「うん、普通何万円も何十万円もするんだよ?」
「じゃあ、何であんなに安かったの?」
「そりゃ、子供料金だからでしょ」
「そっかぁ」
子供で良かった。
そう安堵すると共に、月歩は不安になった。
大人になったらそんなにお金がかかるなんて、自分は大人になったら生きていけるだろうか。
月歩の不安を余所に、陽菜は畳の上を転がりながら、力強く言った。
「よし! 後はおじいちゃんの作戦通りにすればオッケー!」
「作戦って?」
「だからここに隠れて、向こうを心配させて探しに来させて、許婚なんて作るとこうなるって教え込むの」
「うーん、もしも探しに来なかったら?」
「子供を心配しない親なんて居ないっておじいちゃんは言ってた!」
「もしも見つけられなかったら?」
「愛があれば見つけられるっておじいちゃんは言ってた!」
「それは流石に無理だよぉ」
「別に良いの! そしたら月歩と二人で生きていくから!」
それはちょっと楽しいかも知れないと月歩は思ったが、すぐにお金が無い事に気が付いた。
心配そうな月歩を見て、陽菜はおずおずと言った。
「やっぱり不安? あ、部屋に電話があるからおばさんに連絡しても良いよ」
それは魅力的な提案だったが、月歩は首を振った。
陽菜の計画を無駄にしてはならない。
「駄目。そしたら陽菜の親にもばれちゃうかもしれないでしょ?」
「ありがとう。大丈夫だよ。きっと見つけてくれるから」
「うん」
月歩は何だか泣き出しそうになったが、陽菜に水を差してはならないと思って堪えていた。
陽菜は月歩が同意してくれたので嬉しそうに、旅館の地図を広げた。
「それじゃあ、まずは探検しにいこっか!」




