終幕? デハ幕引キヲ致ソウ
うっそうと茂る森の中に獣を食らう男があった。唸り声が響く。既に人の声ではない。
男は生まれた時は二人であったが、生まれてすぐに一人になった。男は捨てられたのだ。双子は不吉なものである。加えて頭の一部がへこんでいた。一目で脳が足りない事が分かる。出来損ないだ。呪われた子だ。長の子を祝福せんと集っていた人々は口々にそう言った。だから捨てられた。殺されなかっただけ親心というものだ。どちらにせよ死ぬ事には変わりがないのだが。母親は一人悲しみに暮れ、その悲しみが在らぬ神を生み出した。呪い師の言葉には力があった。人々はその荒ぶる神を恐れて祭った。母親は神を祭る度に子供を思い出して泣いた。傍らにはもう一人の子供があった。それがまた悲しかった。
ところが男は生きのびた。何故かは誰にも分からない。神様だけが知っている。男にだってわからない。男は物を考えられる様には出来ていなかった。ただ辺りをさ迷い、物を食らい、排泄して、寝る。それを繰り返していた。
ある時、母親が我が子の変わり果てた姿を見付けてしまった。男は5歳になっていた。成長して姿形は変わっていたが、一目で母親は自分の子だと見抜いてしまった。別に親の愛が勝った訳ではない。ただ頭がへこんでいたからだ。
母親は流石に二度も我が子を見捨てる事は出来なかった。けれど村に運ぶ訳にもいかない。だから森の中の小屋に匿う事にした。床には母親しか知らない穴が開いていた。村の呪い師だけが知る秘密の抜け穴だった。行く筋にも枝分かれし、何処にだって立ち現れる事が出来る。呪いの秘訣だった。ところが今は呪いなんてものは廃れている。呪い師も母親で終わりだ。だから母親は生涯誰にも伝えず、そのまま朽ち果てさせようと誰にも伝えずにいた。それが今役に立った。
床の下で男は母親の愛を受けて育った。母親はしばしば息子の様子を見て、その狂ってはいるが元気な姿を見て、喜んだ。それなりに幸せな生活だった。恐らく男にとっても。
ある日、村から子供が居なくなった。何処を探しても見つからない。母親はまさかあの秘密の抜け穴が見つかったのかと、こっそりと小屋へと向かった。そこに子供を食べる息子が居た。
年に一度、男は子供食べる。幾ら母親が止めても無駄だった。何故かは分からぬが定めの様なもの。そう諦めて母親は思案した。とりあえずその日だけは村の子供を外に出さない様にした。どうでるか。不安に思って母親は男の傍に居た。これで暴れて手が付けられなくなるならそこまでだ。もしも子供の代わりに大人を食べる様なら、それこそ終わり。もしもそうなったら、ここで息子に食われてしまおう。半ば諦めていた。
ところが、幸いな事に男は母親も大人も食べようとはせず、暴れる事も無かった。ただ獣をいつもより多く食べた。それにどうした訳か皮だけを食べた。
それから村では年に一度、神を沈める祭りが開かれる様になった。また息子を守る事が出来た。母親は安堵して、また誰にも気付かれずに息子を育て始めた。それなりに幸せだった。片割れは結婚し子供を産んだ。孫が出来た。もう片方はいつも通り獣を食べる。身の丈は人並みだが力は常人離れしている。元気な証拠だ。幸せだった。孫も大きくなった。自分も老いた。もしも自分が死んだら息子はどうなるのだろう。幸せな生活の中でそれだけが心配だった。
ある時、息子が怪我をしていた。胸に大きな穴が開いている。丁度、祭りの次の日だった。傷はすぐに塞がったが、母親は心配だった。大人達は皆祭りに居たし、子供達は皆家に籠っているはずだ。つまり息子は自分で怪我をした事になる。老いて来たのだろう。自分が死んだ時に息子がどうなるか更に心配になった。
そうして遂に母親に死期が来た。突然倒れた母親は床に入って死を覚悟し、孫だけに息子の事を伝えた。孫には叔父に当たる。人間の関係であれば。孫があれを人間として見てくれるなら。孫に世話を頼んだ。孫は渋る様な表情をしたが言葉の上では快諾した。自分は良い家族を持った。幾分感傷的な思いが湧いて、涙が出た。
それから数日して遂に母親が死ぬ時になった。母親は孫を呼んで言った。殺してくれと。病床で考え続けて出した結論だった。恐らく息子もその方が幸せだ。身勝手な事は分かっていたが、それ以外の選択肢は無い様に思えた。息子は少しして頷いた。ちゃんと婆さんの所に叔父さんを送るよ。叔父と認めてくれた事が母親には嬉しかった。その嬉しさを思い浮かべたまま、母親は息を引き取った。
森の中の唸り声へ、俺は村の人達を引き連れて向かった。物悲しい声がずっと続いている。彼は婆さんが死んだ事を知らないはずだが、天性の勘で死んだ事を悟ったのかもしれない。哀悼の混じった物悲しい泣き声だ。
藪を掻き分け叔父を見付けた。叔父は獣を食らっていた。
「叔父さん」
叔父は俺の事なんて見もせずに、獣を貪り食って、時々泣いている。
「叔父さん、初めまして。いや、あの時に一度だけ会いましたね。胸の傷は治りましたか?」
吠え声が響く。獣を貪っている。
「すみません、今日は殺しに来ました」
俺は手に鋭い光を煌めかせた。月光の映えた刃物だ。
叔父さんは驚いた様子で後じさった。もしかしたらあの日の事を思い出しているのかもしれない。でも容赦なく刃物を胸へと突き立てて、叔父さんは何度も吠え声を上げて、刃物は縦横に叔父さんの中を駆け巡って、叔父さんは何度も吠え声を上げながら決して俺を傷つけようとも触れようともせず、お互いの目から涙が溢れて、最後に一声叔父さんは泣いて、そのまま息絶えた。
婆さんへの感謝の言葉に聞こえた。本当はどうか分からない。誰だって生きたいものだ。多分本当は苦悶の断末魔だったのだろう。それでも感謝の言葉だと思ってしまう自分はきっと酷く醜いのだろう。何より人の血に濡れている。まともな姿じゃないはずだ。
叔父さんは村の人達に運ばれていった。父さんが初めて見た兄弟の死骸を見て泣いている。
「大丈夫か、庄太」
「うん、大丈夫」
気遣ってくれた仲間から離れて、俺は皆に解散を告げると、一人になりたいと言って森の奥に入った。
大きな木へと向かった。あの日の事を思い出すと、また悲しくなって涙が出た。
結局、向こうの世界へ繋がる出口は現れなかった。良くこの木へとやって来て手を伸ばすけど、木は木だ。触れても固いだけだ。
でももしかしたら今日は。そんな風に思っていた。もしかしたら今日この日祭りのある日だけは開いているんじゃないか。あの時が今日だったから。子供では来られなかったから。確かめる事が出来なかったから。ずっと今日なら開いている。そう願ってきた。
俺は涙を拭って、緊張しながら、震える指をゆっくりと大木へ近付けた。夜気が指先を冷やしていく。怖い。もしも開いていなかったら。もしも二度とあの子に会えなかったら。その時は死んでしまっても良いかもしれない。生きたかったかもしれない叔父さんを殺しておきながら、その殺した人間が死にたいと思うなんて。
すっと木の向こうに指が通り抜けた。心臓が高鳴った。更に突き入れても指は通った。理性が飛んで、俺は木へと飛び込んでいた。
向こうに光り輝く城が見える。




