許婚? それなら家出をしよう!
この小説は「Arcadia」にも投稿させていただいております。
「月歩、家出しよーっ!」
月歩が扉を開けると、怒り顔の陽菜が飛びついてきた。
一緒に倒れ込んで、月歩だけが玄関の床に強かに頭をぶつけた。
靴を脱いだ陽菜は、涙をこらえる月歩を引っ張って、ずんずんと階段を上り、月歩の部屋に押し入った。
「月歩、家出だからね」
もう一度、念を押した陽菜を見ながら、月歩は瘤の出来た頭をさすって尋ねた。
「なんで?」
それを聞いた瞬間、陽菜は憤って隣まで聞こえそうな程の声で「ちくしょう」と叫ぶと、すとんと座った。
「月歩、ジュース」
月歩の部屋は殺風景な、何も無い部屋だった。
物は全て押入れに仕舞いこまれていて、使う時にだけ出す様にしている。
月歩は押入れから丸テーブルを持ち出して広げ置いた。
「後で、お母さんが持ってくるよ。それよりどうしたの?」
陽菜はふうふうと荒ぶる獣の様に唸っていたが、何度かワザとらしく深呼吸した後、喋り出した。
「あのね、あたし許婚が出来たの?」
「いいなずけって?」
「あのね、その人と将来結婚しなくちゃいけないの」
「なんで?」
「許婚だから」
「なんで?」
「許婚ってそういうものなの」
「ふーん。で、どんな人なの? カッコいい?」
「知らない! 見た事無いもん! いきなりね、パパがお前も十歳になったし、許婚を探して来たぞって言ってね、勝手に決まってたの!」
「写真とか無いの?」
「無い! 二十歳になるまでお互いの顔を見ちゃいけないんだって」
「じゃあ、どんな人か分からないね」
「絶対に物凄く不細工なんだよ! 顔見せない位だもん」
「陽菜だって見せないんじゃないの?」
「きっとあたしの写真はこっそり送られてるんだよ」
「んー、どうだろうねぇ」
陽菜が手を戦慄かせながら、月歩に詰め寄った。
「良い? あたしはね、結婚するなら、強くて、カッコ良くて、お金持ちって決めてたの!」
「うん」
「良い家らしいからお金持ちだろうけど、お坊ちゃんだから絶対に強くないもん。しかも、顔見せない位だから不細工だろうし。最悪じゃない?」
「それが本当ならそうだね」
月歩は良く分からないといった様子で頷いた。
その時、月歩の母親がジュースとお菓子を持って入ってきた。
それに向かって、陽菜は吠える様に尋ねた。
「おばさんもそう思いますよね?」
「え? 何が?」
「男は強くて、カッコ良くて、お金持ちじゃないといけないですよね?」
「一つ大事なのを忘れてるわね」
「なんですか?」
「扱いやすくなくちゃ」
「さすが!」
けたけたと笑う月歩の母親に、陽菜は全力で賛同した。
月歩は良く分からないなぁと思いつつ、置かれたジュースを飲んだ。
褒め称えられて気を良くした月歩の母親が軽やかな足取りで出て行った。
尊敬の眼差しで見送った陽菜は、月歩を睨み付けた。
訳が分からず、首をすくめた月歩に、陽菜は言い募った。
「良い? 月歩。男は強くて、カッコ良くて、お金持ちで、扱いやすくなくちゃいけないの」
「うん」
「でも、あたしの許嫁はきっとそんなんじゃないから」
「ないから?」
「だから家出しよう!」
そう言うなり、陽菜は立ち上がって、お菓子に手を付けようとしていた月歩を無理やり立ち上がらせた。
意気込んだ陽菜と混乱する月歩は二人で家を飛び出して、駅へと向かった。
月歩は相変わらず陽菜の言っている事もやろうとしている事も理解していなかったが、それでも一緒に出掛ける事が楽しくて、走る陽菜の背中に必死で追いすがった。
○ ○ ○
揺れる電車に合わせて、線路がことことと鳴いていた。
外の景色は朝居た町とはすっかり変わって、広い田園が彼方まで広がり、その先には薄らと青色の線が見えた。
爽やかな風を吸いたくて月歩は窓を開けてみたが、土と肥料の臭いに辟易してすぐに閉めた。
電車は何処に向かっているのか、月歩にはまるで見当もつかない。
ただ北の方角に向かっている事だけは、太陽の位置から方角を測るというという最近得た知識を使う事で辛うじて分かった。
一緒に電車に揺られる陽菜を見ると笑いながら見つめ返してきた。
陽菜は誰も乗っていない車両の中を縦横無尽に駆け回っていた。
今は向かいの座席の上で逆立ちをしている。
凄いなぁと思いつつ、のんびりと外を見ると、相変わらず田園が広がっていた。
「電車に乗るお金なんてないよ」
月歩が不安げに尋ねると、陽菜はお財布からお札を取り出した。
「大丈夫、おじいちゃんに沢山貰ったから」
そう言って、近くを歩いていた駅員に行き先を告げ、券売機で切符を買ってもらうと、陽菜は意気揚々と改札を通った。
月歩は初めて切符を入れるとあって、恐る恐る機械を通してみたが、恐ろしいスピードで吸い取られた切符が、一瞬で前の方から出てきたのを見て興奮した。
しかし、もしも手でも挟まれて自分がまきこまれたらと考えると怖くなった。
改札を通るとホームに降りる階段の前で陽菜が飛び跳ねていた。
元気良く飛び跳ねる陽菜に遅れない様に、月歩が走り始めると電車がやって来た。
慌てて階段まで辿り着くと、月歩が追い付く前に陽菜は階段を駆け下りていて、月歩が階段を中程まで降りる頃に陽菜は既に電車に乗っていた。
「早く早く!」
転びそうになりながら必死で階段を駆け下り、なんとか電車に滑り込んだ時に、後ろで空気の抜ける音がした。
振り返ると電車の扉が閉まっていた。
「ぎりぎりだったね」
陽菜が近くの座席に座ったのを見て、月歩は息を整えながらその隣に座った。
「ねえ、何処に行くの?」
あまり遠くに行くと日が暮れちゃうなぁと思っていると、陽菜は笑って「秘密」と言った。
「ええ、教えてよー」
「ダーメ。お楽しみなの」
そう言って、陽菜は座席の上に立ち、飛び跳ね始めた。
田園の風景に見飽きた月歩は再び陽菜に聞いてみた。
「ねえ、本当に何処に行くの」
「だから秘密だってー」
「あんまり遠くだと日が暮れちゃうよ?」
「当たり前じゃん」
胸を張る陽菜を、月歩は信じられないといった様子で見返した。
陽菜に冗談を言っている様子は無く、自分が今日中に帰れない事を知って、途端に不安な気持ちになった。
「だって、じゃあ、どうするの?」
「んー、秘密なんだけどそれだけは教えてあげよう」
「うん」
「二人で旅館に泊まるの」
「旅館に? 二人で?」
「それで親が泣きついてくるまで待つの!」
まるで想像がつかなかった。
自分が大人達無しで旅館へ泊まる想像など出来るはずがなかった。
どうすれば良いのかも分からないし、月歩はお金も持ってない。
「お金は? どうやって泊まるの?」
「お金はおじいちゃんに一万円も貰ったし、後はどうにかなる!」
「無理だよー」
「大丈夫大丈夫。その旅館はね、おじいちゃんが良く泊まってて、とっても良い所なんだって。河豚食べれるんだって河豚」
「毒にあたって死んじゃうよー」
不安がる月歩と大丈夫と繰り返す陽菜がしばらく同じ様なやり取りをしていると、ようやく目的の駅に着いた。
陽菜は飛び降り、月歩は尚も不安げにその後に続く。
その駅の改札は人手で為されており、駅員は子供二人だけの陽菜と月歩に驚いた様子も無く、切符を預かって送り出した。
旅館に行くバスに乗って、再び二人は揺られていく。
辺りは所々に雑木林の見える、長閑な農村だった。
点在する藁ぶき屋根の小屋と昔ながらの瓦屋根と、現代風の民家が立ち並んでいて、二人はちぐはぐな光景に混乱した。
しばらくして、バスの運転手が二人だけの乗客に目的地に着いたと伝えた。
見ると、バス停の前には武家屋敷の様な巨大な旅館が左右一杯に二人の見渡す限り広がっていた。
楽しげに降りる陽菜と恐々と降りる月歩を置いて、バスは何処かへと帰っていった。
もう帰れない。
バスを見送った月歩は更なる不安に襲われて、陽菜に縋った。
「もう行くしかないね」
怯える月歩には不敵に笑う陽菜がヒーローの様に思えた。
辺りは夕闇に呑まれていた。
いつも見ている夕暮れとはまるで違う。
電灯の明かりがほとんど無いので、月歩の知る夜よりも暗かった。
余りにも明るい星明りが見慣れぬ場所に来たとはっきり告げていて怖かった。
二人の前には背の高い門が立ち塞がっていて、その傍に掛けられた赤い提灯の光だけが、何とか落ち着く事の出来る光だった。
誘われる様に二人は門へと近づき、一目見て呼び鈴が見当たらない事に気が付いた。
「これ、どうやって旅館の人を呼べばいいのかな?」
「隠されてるんじゃない?」
陽菜の言葉に月歩は頷いて、二人で辺りを探し回ったが、呼び鈴は何処にも見当たらなかった。
陽菜が扉をノックしても、何ら様子は変わらない。
「どうする? 中に入れないよ?」
「んー、じゃあ、勝手に入っちゃうか」
陽菜が扉を開けようと手を伸ばし、寸前で扉が開いてその手がすかされた。
中から和服を着た艶やかな初老の女性が門にかかった物と同じ提灯を持って現れた。
「いらっしゃいませ」
深々と頭を下げる女性を見て、月歩と陽菜は顔を向き合わせた。
不安げな目をした月歩に、陽菜は大きく頷いて一つ深呼吸した。
腰を低くして柔和な笑顔で僅かに上から覗き込んでくる女性を、陽菜はまなじりを釣り上げきっと見返して、大きな声で言った。
「すみません! 泊まりたいんですけど!」
言ってしまったと、後ろに居た月歩の方がどきどきした。
月歩が、今すぐ間違いだったと謝って陽菜を連れて逃げ出そうかなどと考えていると、女性は腰を伸ばして、再び深々と頭を下げた。
「御部屋へ御案内致します」




