土曜日
土曜日
「ピピピピ……」
枕元の携帯電話にセットしたアラーム音でルークは目を開けた。六時半だ。洋子が来てから毎朝、この時間に起きて朝食を用意していた。しかし今朝は眠くて瞼が重い。疲れが取れず体も動かない。
「……何で頼まれてもいないのに、俺は他人の朝飯なんか作ってるんだ?」
ルークは枕に顔を押し付けたまま自分に問いかけた。そして昨夜の事を思い出す。洋子が昨夜飲んだ酒の量は尋常ではない。どうせ、酷い二日酔いで朝飯どころではないだろう。作ったところでゴミになるだけだ。
「そうだ……そうに決まってる……」
そう決め付けたルークは自然と下りてくる瞼に抵抗するのをやめた。
ルークが次に目を開けたのは、部屋のドアをノックする音が聞こえたからだった。ベッドに横になったまま声を上げた。
「どうした?」
「そっちこそどうしたのよ? 朝ご飯出来てるわよ」
ドアの向こうから洋子の声がした。時計を見ると八時半を過ぎている。
「まったく……二日酔いのくせして、無理して朝飯なんか作らなくていいのに……」
ルークは呟きながら仰向けになった。朝とはいえ、常に分厚いカーテンが閉じられている部屋の中は一日中暗い。洋子が起こしに来なければ、おそらく夕方頃まで寝ていたかもしれない。それでも昨日は夕食を摂らなかったので空腹だった。朝食を作ってくれたのはとてもありがたい。
「今行く……」
返事をすると億劫そうにベッドから出た。
身支度をして一階へ下りると、洋子はカウンターの中でカップにコーヒーを注いでいた。下を向いているので表情は見えない。
「コーヒーでいいんでしょ?」
下を向いたまま洋子が訊いた。きっと酷い顔をしているに違いない、とルークは思っていた。これに懲りて少し飲み方を考えればいいのだ、と。
「ああ。ところで、気分はどうだ?」
「ばっちりよ」
顔を上げ、そう言った洋子は普段と全く変わりが無い。自分の予想が見事に外れたルークは信じられない思いだ。
「あんなに飲んで何ともないのか?」
半分ほどコーヒーが残ったポットをコーヒーメーカーに戻しながら洋子が笑った。
「だから言ったでしょ……」
「トイレの話はもういい!」
ルークが遮ると洋子は吹き出し自慢げに胸を張った。
「私、お酒で失敗したこと無いから」
コーヒーカップを差し出した洋子は、ルークの顔をまじまじと見て眉をひそめ心配そうに尋ねた。
「ルークこそ大丈夫? 何か……すごく疲れてるみたい……」
「そりゃそうだろうな。目の前にモンスターがいるんだから」
洋子は不安げにキョロキョロと辺りを見回すと、さらに心配そうに尋ねた。
「ルーク、酔っ払ってるの?」
ポールはメキシコの町の、小さな商店が軒を連ねる路地で天使を見つけた。その天使は鳥と話が出来るらしい。小さなペットショップの店先に出された鳥籠の中にいる白いインコに、しきりに話しかけていた。天使の母親らしき女性は、店の中で店員と話をしている。ポールは天使の隣にしゃがみこんだ。人でごったがえす路地の中、二人に注意を向ける者はいない。
「鳥が好きかい?」
ポールが話しかけたが,天使は困った顔をして、ただポールを見つめているだけだった。その大きな黒い瞳にポールは吸い込まれそうになる。
「どうしたの?」
ポールが訊いた。天使は鈴を転がすような澄んだ声で、ためらいがちに喋り始めた。
「あのね、ママがね、知らない人とお話しちゃダメだって」
なかなか素直な子だ。きっと親の教育が行き届いているのだろう。せいぜい五歳か六歳か。そう予想をつけたポールは、笑顔で天使の肩に手を置いた。
「それは悪かった。ごめんね。じゃあ、お話は無しだ。あそこの鳥籠にすごくきれいな鳥がいるんだ。見たくないかい? 良かったら抱っこしてあげよう。お話はしないで」
ポールは店の軒先に吊るされた、天使の頭上にある鳥籠を指差した。天使はその鳥籠を見上げる。自分では背が低すぎて中は見えない。でも、きれいな鳥なら見てみたい。お話しないで抱っこしてもらうだけなら、ママは怒らないかも知れない。天使はチラッと店の中にいる母親に目を遣った。母親はこちらを見ていない。天使はポールに向かって黙って頷き、両腕を差し出した。
母親は店員に事情を説明していた。数日前に買った鳥の餌のことだ。いつもの餌が品切れで店員に薦められた餌を買ったのだが、うちの鳥には合わないらしく便秘気味になってしまったのだ。あの鳥はミランダがとても可愛がっている。病気にでもなったら……。ミランダの悲しむ顔は見たくない。元の餌に交換してほしいと訴えた。店員は在庫を見てくると言って、商品で溢れ返っている棚を捜し始める。
母親は振り返り、ミランダがいる店先を見た。ミランダは知らない男に抱き上げられ、軒先に吊るされた空っぽの鳥籠の中を一生懸命覗こうとしている。母親は不安になり、二人の方へ一歩足を踏み出した。その時、男がミランダを抱えたまま走り出した。母親は後を追おうとしたが、商品が一杯の狭い通路で思うように前に進めない。ダンボールに躓き、倒れそうになった。唖然としている店員をよそに、バランスを崩したまま店の外へ飛び出した。
ミランダを抱いた男は店から二十メートルほど先にある左手の路地裏へ曲がるところだ。母親は人ごみを掻き分けて走るが、正面から来た団体の外国人観光客に行く手を阻まれた。何人もの人とぶつかり、もみくちゃにされながら路地裏へ入り駆け出した。前方には大通りが左右に伸びている。路地裏の出口へ辿り着くと左右を見渡した。通りの向こう側に停められた車の後部座席に、今まさにミランダが押し込まれているところだった。娘の名前を叫びながら通りを渡り始める。男はミランダと一緒に、そのまま後部座席へ乗り込んだ。母親に向けてクラクションが鳴ったが、かまわず走り続ける。男には仲間がいるのだろう、ミランダを乗せた車はすぐに走り出した。母親は車の後を追いかけ必死で走る。リアウィンドウに両手を付け母親を呼ぶミランダの姿が見えたが、無情にも車はどんどん遠ざかっていく。後ろから来た車が母親を追い越し、ミランダを乗せた車との間に入った。
その後も何台もの車に追い越され、とうとうミランダを見失ってしまった。またクラクションが鳴らされる。母親は仕方なく道の脇に退いた。苦しく息を喘がせ、気が付けば汗と涙で顔はぐっしょりと濡れていた。母親は自分の顔を拭った掌を見た。その手の中は空っぽだ。もう二度と、ミランダに触れる事は出来ないのだろうか。そんな事をふと思った母親は大きく首を振った。次第に手が震えてくる。震えは全身に伝わり、喉元までせり上がってきた。その様子を訝しげに一瞥していく多くの人々の視線の中で、母親は絶叫し泣き崩れた。
洋子は部屋を出た。階段を下りている途中でルークが部屋から出てきた。何も言わずに洋子を見ている。階段の途中で立ち止まり、振り向いた洋子は腕を組んでルークを見上げた。
「ちょっと散歩に行って来るね。昼間は一人でも構わないでしょ?」
「……どうぞ。ご勝手に」
ルークは関心なさそうに応えると、洋子を追い越してカウンターに入りカップにコーヒーを注いだ。洋子は黙ってカウンターの前を通り、レイクサイド・インを出ると右へ歩き出した。ルークはコーヒーカップを置いてカウンターを出ると、道路に面したガラスとガラスの間の壁に立ち、半分降りたロールカーテンの隙間から洋子を目で追った。洋子は暫く歩くと道路を横断し、木立の中へ入って行く。すると左からパトカーが現れた。乗っているのはアンダーソンだ。
パトカーは反対車線に出ると木立の際をゆっくり走り始めた。ルークは外へ出るとすぐ道路を横断し、木の間から様子を窺った。運転席のアンダーソンは横を向き、湖畔を歩く洋子を目で追っている。ルークは木立の中を湖畔の方へ進み、気付かれないように洋子とアンダーソンを見張った。
洋子は足元の地面に目を凝らしながら歩いていた。朗はこの湖畔のどこで事件を起こしたのだろうか。半年前、テレビで現場が映っていたが湖畔の景色はどこも似ていて分からない。
「……半年も前だから、もう何も残ってないだろうな……」
洋子は深い溜息をつくと湖の方を向いて立ち止まった。穏やかな湖面が太陽の光に照らされ美しく輝いている。それを見つめていると、ここで殺人事件があったことなど忘れてしまいそうだ。
「カメラ持って来れば良かったかな……」
洋子は呟いた。趣味と実益を兼ねていた朗はいつもカメラを持ち歩いていた。そのため、洋子がカメラを持って出掛けるなどということはなかったのだ。たまに洋子が写真を撮ろうとすると、すぐに朗が口を出す。洋子にはそれがうるさくて、写真のことは全て朗に任せていた。何年も前に自分で買ったポケットカメラも、きっと電池が無くなり動かなくなったまま、東京の部屋のどこかにしまい込まれているはずだ。洋子はその部屋で朗にプロポーズされた時のことを思い出した。
今年の初めのことだった。夜、何の前触れも無く朗が部屋にやって来た。春にオープンする結婚式場のパンフレットの撮影があったと言っていた。玄関でもどかしそうに靴を脱ぎながら、にこにこと笑ってカメラを取り出した。
「ちょっと見て欲しいんだ」
朗はカメラの液晶画面にその日撮った結婚式場の写真を出し、洋子に見せて説明を始めた。いつものことだったので、洋子はほとんど聞き流していた。それよりも、見ていたドラマの主人公二人が結婚するのかしないのか、そっちの方が気になっていたのだ。
「ここで結婚式挙げようよ」
不意に言われ、驚いて朗を見た。それまでは結婚の話など出たことがなかった。土日休みの洋子と、勤務時間の不規則な朗はすれ違いも多い。それでも一人暮らしの洋子の部屋の合鍵は渡してあるし、休みが合う日は前の晩から泊まりに来る事もある。そんな時は二人で買い物に行って食事を作り、結婚生活の真似事も出来るのだ。洋子自身は結婚というものを意識することもあったが、口には出せずにいた。朗はこの生活が心地良いのだと、何よりも仕事が楽しくて仕方がないのだと思っていたからだ。
「だめかな?」
不安そうに訊いた朗の手からカメラを取り、洋子はちゃんと写真を見直した。本当は式場など、どこでもいい。ただ、即答するのが恥ずかしかっただけだ。カメラを返しながら洋子が頷くと、朗は目を細めて嬉しそうに笑った。あの時の笑顔がずっと忘れられない。
その結婚式場がオープンした後、二人で予約を入れに行った。支配人と朗は親しげに話していた。支配人はパンフレットの出来に大満足していると言っていた。特に朗が撮った写真を絶賛していた。
その半月後、朗は渡米し事件が起きた。洋子は混乱する頭の中で、ふと結婚式場のことを思い出した。予約をキャンセルしなければいけないだろう、と。洋子は結婚式場に電話をし、支配人と話をした。洋子が電話をするまでもなかった。予約は既に取り消されていた。朗が事件を起こして自殺したことはニュースで全国に流れたのだ。当然といえば当然だった。支配人はよそよそしい声で慰めの言葉を掛けると、必死になって洋子に懇願した。
「ここで式を挙げる予定だったことは、どうか他言しないで欲しい。オープンしたばかりで、何よりもイメージが大切だから」
洋子はぼんやりと湖を見ながら考えた。朗があんなことにならなければ、警察に見咎められることなく、無事に日本へ帰ってきたら。朗は自分と結婚するつもりだったのだろうか、と。何も無かったような顔をして。アメリカを旅行中に麻薬と売春婦を買ったことを一生自分に隠して。
「朗にそんなこと出来るの?」
呟きは、さざ波の音に掻き消された。
ルークは木にもたれ、パトカーの中にいるアンダーソンと洋子を交互に見ている。
洋子は溜息をついた。どうしても朗が理解できない。こんな事件を起こすまでは、馬鹿がつくほど正直な人だと思っていた。法を犯すような人間では決してない、と。それは勝手な思い込みだったのだろうか。
吹いてきた風に煽られ、一房の髪が洋子の視界を遮った。その髪を耳に掛け、洋子は湖を見つめた。それまで穏やかだった湖面に波が立っている。人の心もこれと同じなのだろうか。ほんの些細なことで、人格などすぐに変わってしまうものなのか。洋子は水際まで歩を進めた。
その時パトカーのドアが開き、アンダーソンが降りてきた。引きずる足で木立の中を湖畔へ向かって行く。視線は真っ直ぐに洋子を見ている。
ルークはもたれていた木から離れた。
湖水はどこまでも澄み、寄せては返す小さな波が水際の砂利を洗っている。
「きれいな水……」
洋子が呟いた。
「ヨーコ!」
声のした方を向くと、小道を出た所にルークが立っている。アンダーソンは木立の中で足を止めた。
「飯だ!」
「はーい」
洋子はルークのいる方へ歩き出した。アンダーソンもパトカーへ引き返していく。
「もしかして私のこと見張ってたの?」
並んで小道を歩く洋子に言われ、ルークは心外だという顔を向けた。
「人聞きの悪いこと言うなよ」
「どうしてここにいるって分かったの? もしかして捜した?」
「散歩って言ったら、ここぐらいしか無いだろ。君を見張っていられるほど暇じゃない」
洋子は乾いた茶色の葉が一枚風に乗ってはらはらと落ちていくのを目で追いながら頷いた。
「それもそうね。でも、そんなに忙しそうには見えないけど、いつも何してるの?」
ルークは横目で走り去っていくパトカーを見送った。それから洋子に目を移すとぶっきらぼうに言い放った。
「君に関係ないだろ」
昼食の後片付けがほぼ終わる頃、突然思いついたというように洋子が口を開いた。
「ねえ、朗が泊まってた部屋って分かる?」
洗い物が終わったルークはエプロンを外し、洋子を見ながら少し考えた後に答えた。
「ああ。分かる」
拭いた食器を戸棚にしまいながら洋子が言った。
「ちょっとその部屋、見せてもらってもいい?」
「やめとけ」
言い終わらないうちに無下に突き放され、洋子は一瞬言葉を失った。しかし、そんな風に言われると余計に見たくなる。
「前にも言ったでしょ。この町で撮った写真がないのよ。もしかしたら、部屋に忘れてるかも知れないと思って……」
ルークはタバコに火を点けた。
「時間の無駄だ」
「そんなの見てみなきゃ分からないじゃない」
ルークの言い方に腹が立ち、もう後には退けない洋子が言い返した。
ルークは煙を吐き出しながら洋子の顔を眺めた。頑固そうに口をへの字にしている。こういう反応は予想していた。ルークはカウンターの奥へ歩いて行き、棚から鍵を一つ取り出すと洋子へ放った。洋子は両手でそれをキャッチした。
「『見てみなきゃ分からない』か……。見れば分かるよ。三号室。君の部屋の隣だ」
ルークはくわえタバコのまま唇を歪めて言った。その冷ややかな視線と同じくらい冷めた口調だった。
気合を入れるように洋子は大きく息をつき、黙ったまま踵を返すと朗が泊まっていた部屋へ向かった。鍵を差し込みながらルークの態度に悪態をつく。
「何よ偉そうに。どうせ掃除なんかしてないんでしょ。埃だらけなのは覚悟してるわよ」
ドアを開けた洋子は部屋を見て愕然とした。埃どころの話ではなかった。部屋の中は滅茶苦茶に荒らされていたのだ。まず目に付いたのはベッドだった。上掛けやカバーが外され、ビリビリに裂かれた剝き出しのマットレス。はみ出したスプリングと、日に焼けて変色しているウレタンの上は埃だらけだ。半分ほどレールから外れたカーテンは裾の方が無残に破かれ斜めに垂れ下がっている。そこから差し込む西日が床にいびつな影を落とし、この部屋をさらに乱雑に見せている。チェストや収納の引き出しは全て引き抜かれ床に投げ出されている。チェストの上の電気スタンドは、破れたシェードと電球と本体がバラバラになって転がっている。壁に掛けられていたはずの絵も外されて床に置かれ、ガラスには大きなひびが入っていた。
「何これ……」
思わず呟いた洋子は震える脚でぎこちなく歩き、右手の奥にあるバスルームに入った。
やはりそこも酷い状態だ。トイレのタンクの蓋は外されていた。誰かが落としたのだろう、ひびの入った陶器の蓋は一部が欠け、破片とともに床に転がっている。洗面台には、キャップが外され中身が流されたボディソープやシャンプーのボトルが、シンクの中で割れた鏡の破片と共に山積みになっている。
洋子はバスルームを出て部屋の中央に立ち、もう一度全体を見渡した。捜し物をするといっても、何から手をつけていいのか分らない。窓の方を向き途方に暮れた顔で佇んだ。
「警察の捜索が何回か入ってる」
洋子が振り向くと、開けっ放しのドアの枠にもたれてルークが立っていた。
「この部屋からコカインが出たんだって」
その言葉に洋子は俯き、また窓の方へ顔を戻した。洋子の背中にルークは続ける。
「そういう事情で、オーナー夫妻もこの部屋は手が付けられなかったんだ。もちろん俺が来てからは、掃除なんかするわけないしな」
ルークに背中を向けたまま洋子が口を開いた。
「これが警察の捜索なの? 空き巣が入ったのかと思ったわ……」
「まあ、似たようなもんだろうな」
ルークは短く笑うと部屋の中へ足を踏み入れた。
「何を捜してるって? この部屋から何か出てくると思うか?」
隣まで来ると体ごと洋子の方を向いた。目を細めて腕を組み、洋子の横顔に尋ねる。
「なあ、一体何がしたいんだよ?」
「私はただ……」
洋子は顔をルークに向けた。苦痛に歪んだ顔は、その胸のうちを訴えたい、そして分かって欲しい、そんな切望が迸っている。
「麻薬とか売春婦とか、とても信じられないの。そんなの全然、朗のイメージじゃないのよ……」
ルークは呆れたというような声で短く笑った。
「自分がこれから結婚しようとしてる女に、麻薬や売春婦の話をする男がいると思うか?」
洋子は落胆した様子でルークから顔を背けた。
「人間の裏の顔なんて、そうそう見えるもんじゃないだろう」
洋子は何も言わない。ルークは続けた。
「アキラが無実だって信じてるのか? それを証明したい? 探偵ごっこか? それとも……」
段々険しくなる洋子の顔を眺めながらルークは喋り続ける。
「恋人が自分を裏切った証拠を捜してるのか? 他人の日記や携帯電話をこっそり覗き見するみたいに」
洋子はルークに顔を向けた。ルークの唇を見ていた。初めて会った時から、この男の唇は完璧だと思っていた。まったく非の打ち所の無い形をしている。でも、その唇からは毒のある言葉が次々と吐き出されてくる。
「そんなに悪い人間なら、死んでも仕方が無いって思えるのか? そうしたら諦められる?」
ルークはその完璧な唇の端を歪めて笑った。
「それが一番楽かも知れないな。アキラには弁解のチャンスすらもう無いのに?」
ルークはずっと押し黙った洋子を見据えたまま、首を傾げて尋ねた。
「なあヨーコ、答えろよ。アキラがどんな人間だったら満足なんだ?」
洋子はルークを怒りのこもった目で睨みつけた。唇が微かに震え、何かを言おうとしたが黙って顔を背けた。それから大きく一回深呼吸するとルークに向き直り、やっと口を開いた。
「ごめんなさい。あなたの話よく分からなかったわ。英語が……難しくて」
ルークは何かを言いかけたが、言葉の代わりに溜息をつき天井を仰いだ。
「ルーク、出て行ってくれない? 一人にして。お願い」
ルークは呆れ顔で数回小さく頷くと出口へ向かった。
「勝手にしろ」
あきらかに苛立ちが滲む声を残し、ドアを閉めて部屋を出た。ルークは廊下を自室へ向かいながら小さく舌打ちし、苦々しく呟いた。
「何も出てくるもんか。俺だって何回も見たんだ」
洋子は一人残った部屋の中で何を捜すでもなく、ただ立ち尽くしていた。乱雑に破壊されたままの部屋が物悲しい。朗の人生そのものが、土足で踏み荒らされてしまったように感じる。自分が思い描いた朗との未来は、誰も入ることの無いガラクタ置き場になった小部屋のようだ。
洋子はその場にしゃがみこみ、両腕で膝を抱えた。ルークに言われた言葉が胸の中で激しい渦を巻いている。こんな事件が起こってしまってから、いったい自分は朗に何を求めているのだろうか。洋子は喉に詰まった塊を難儀して飲み込んだ。大きく息をつくと、足元の薄く積もった埃の上に一粒涙が落ちた。
ルークが部屋に戻るとビルから連絡が入っていた。
「ヨーコはどうしてる?」
「知るか」
ルークは苛立ちを隠しきれず、つい口走ってしまった。
「あ? 何かあったのか?」
「いや、別に……ヨーコは今部屋にいる」
誰の部屋かは言わなかった。
「お前、ヨーコをどう思う?」
「どうって……何が?」
ルークは困惑して聞き返した。要領を得ない相手にビルは声を荒げる。
「『何が?』じゃない! ヨーコの目的は分かったのか?」
ルークは溜息をついた。自分でも調子が狂ってしまっているのが分かる。少し考えてから曖昧に答えた。
「どうかな……」
「おいおい、しっかりしてくれよ……。まあいい、もう少し監視は続けろ」
「はいはい……」
ルークは面倒くさそうに応えると、椅子の背もたれに深く沈みこんだ。
洋子はいつの間にか自分の部屋に戻っていた。ルークは夕食の支度のために部屋を出るまでそれに気付かなかった。朗が泊まっていた部屋も施錠され、鍵もカウンターの中の引き出しに戻してあった。
夕食の時間になると洋子は普段どおりに下りてきた。終始口数は少なかったが、食事の間も後片付けの時も当たり障りの無い話をして平静を装っている。あの荒らされた部屋など見ていなかったかのように。その洋子の態度が、かえってルークを苛立たせた。
夜中、かなり遅い時間まで待ったが、今夜はアンダーソンは現れなかった。ベッドに横になりウトウトし始めた頃、パソコンにメールが届いた。腕を伸ばしてベッドの中から見える位置にモニターを動かし、内容を確認する。添付されたファイルを開くと、画面いっぱいに黒い髪の天使が現れた。あどけない笑みを浮かべ、大きな黒い瞳でルークを見つめている。
うつ伏せで枕に半分顔を埋めたまま、パソコン画面の天使を眺めていたルークは感心するように呟いた。
「よく見つけてくるなあ……こういう子を……」
天使に見守られたまま、ルークは眠りに落ちた。




