木曜日3 金曜日1
2011年、11/19、大幅に改稿しました
夕食はルークがスペアリブを焼いた。食欲をそそるスパイスの香りを胸いっぱいに吸い込みながらテーブルをセットしている洋子に、ボウル山盛りのサラダにドレッシングを混ぜているルークが声を掛けた。
「ビール飲むなら自分で出してくれ」
「はーい」
洋子は弾んだ足取りでカウンターへ向かい、冷蔵庫から出した二本の缶ビールを掲げた。
「ルークも飲むでしょ?」
「いや。俺はいらない。水をもらう」
「スペアリブなのに? ビール飲まない人なんているんだ?」
洋子はおおげさに驚いてみせる。
「別にいいだろう。俺の勝手だ!」
この状況に慣れてきたのか、段々と言いたいことを言い、しかも自分をからかうような態度まで取るようになった洋子にルークはムキになって言い返した。
後片付けは洋子も手伝った。今日は洗い物も多く、ルークも断らなかった。
「ビールの缶は、そこのゴミ箱に捨ててくれ」
ルークはカウンターの中にある何も入っていない青いゴミ箱を指差した。洋子は言われた通りにビールの空き缶を捨てた。
キッチンで洗い物をしているルークが、皿を拭いている洋子に尋ねた。
「明日は何か予定があるのか?」
洋子は少し考えてから答えた。
「……無いけど」
拭いている途中の皿を握り締め、洋子は訝しげにルークの顔を覗き込んだ。ルークはグラスの洗剤を洗い流している手元を見たままだ。
「車で二、三時間走った所に街があるんだけど、行ってみないか?」
「えっ?」
「せっかく旅行に来ても、こんな田舎にずっといたんじゃつまらないだろう。買い物でもしたいんじゃないのか?」
ルークが何を考えているのか分らず、洋子は困惑して尋ねた。
「女の買い物には付き合えないんじゃなかったの?」
「毎日だったら嫌だっていう話だ。どうするんだ? 行くのか?」
監視をしなくてはいけないルークは洋子が一緒に来てくれないと困るのだが、そんな事を本人に言うわけにもいかず、平静を装って答えを待った。
「行くわ」
洋子が答え、ルークは胸を撫で下ろした。
「決まりだ。行くのに時間が掛かるからな。朝飯食ったらすぐ出るぞ」
「分かった」
洋子も安心していた。もしかしたら「用事が終わったなら出て行け」と言われるかも知れないと思ったからだ。とりあえず明日もここにいられそうだ。
夜中、シャワーを浴びてバスルームから出てきたルークは大事なことを思い出した。洋子のバッグに仕掛けたマイクを回収しなければいけない。あんな物、何かの拍子に洋子が見つけたら面倒なことになる。
洋子の部屋の鍵を手にした時、外で砂利を踏む足音が微かに聞こえた。ルークはベッドに膝をつき窓の横の壁に身を寄せた。カーテンの隙間から外を覗く。裏庭にある低い木の側に男が一人立っていた。二階の窓を見上げている。
「……あいつか?」
その姿には見覚えがあった。洋子は電気スタンドの灯りを点けて寝るから、カーテンに映る光でどの部屋にいるのかすぐに分かるだろう。
ルークはパソコンの後ろの銃を摑むと部屋を出た。足音を立てないように洋子の部屋へ急ぐ。慎重に鍵を開け部屋の中を覗くと、洋子はドアの方を向いてぐっすり眠っていた。身を低くして窓の横の壁に近づく。カーテンの隙間から外を覗くと、男はまだそこにいた。
「やっぱり、アンダーソンか……」
制服ではなく、ジャンパーにジーンズ姿だった。何やら思案顔でこちらを見上げている。
「いつからいるんだ……」
ルークが呟く。洋子は眠ったままだ。アンダーソンは、じっと立ったまま動かない。
チェストの上のバッグが目に入り、手を伸ばした。昨夜仕掛けたマイクはそのままだ。両面テープで貼ったので剥がすのは大変だった。ゆっくり剥がしても音が出てしまう。洋子もアンダーソンも動かない。ルークは思い切ってマイクを一気に剥がした。
「ビリッ!」
一瞬部屋に音が響き、ルークは洋子が寝ているベッドの後ろに身を伏せた。暫く息を殺して待ったが、洋子もアンダーソンも動いた気配は感じられない。額に変な汗が滲んできた。
「何で俺がこんな目に……」
ルークはほとんど声には出さずに呟き、ベッドの角から洋子の様子を窺った。相変わらずぐっすりと眠っている。ルークは止めていた息を吐き出した。二人の男に見張られているにも関わらず、あまりにも無防備なその寝顔にルークは呆れ返った。
再び窓際に立ち外を覗くと、アンダーソンもまだそこにいる。バッグをチェストの上に戻し、アンダーソンと洋子を交互に見張る。十分ほどその状態が続き、ついにアンダーソンが動いた。足を引きずりながら建物の南側へ回っていく。ルークは急いで部屋を出た。ドアは少しだけ開けておく。足音を立てないように小走りで廊下を進むと階段を下りた。建物の南側を足を引きずって歩くアンダーソンの足音が微かに聞こえる。暗いロビーのテーブルとテーブルの間を身を屈めて駆け抜け、通りに面したガラスとガラスの間の壁に背中をつけてしゃがんだ。下まで降りたロールカーテンを銃の筒先で少しだけ開けて外を見る。停めてあるチェロキージープの向こうからアンダーソンが出てくるのが見えた。アンダーソンはそのまま建物とは反対側に歩き出し、十メートルほど先に停めた濃紺のセダンに乗り込むと行ってしまった。
「あいつ、何しに来たんだ?」
ルークは首を傾げた。
立ち上がったルークはカウンターの中に入り、ビニール袋を一枚取り出した。手に被せ、ゴミ箱から夕食の後に洋子が捨てたビールの空き缶を取ると、袋をひっくり返して口を結んだ。それを持って二階へ上がる。洋子の部屋の少し開いたドアから中を覗いた。オレンジ色の仄かな灯りの中で、何事も無かったように洋子は眠り続けている。その寝顔を見てルークは疲れた声で呟いた。
「まったく、いい気なもんだ……」
金曜日
街に着いたのは午前十一時過ぎだった。大きなショッピングモールの駐車場に車を停めると、まずATMに立ち寄った。ルークが金を下ろす。様々な紙幣を取り混ぜたので、ちょっとした束になった。ルークは金を封筒に入れ、ポンチョの下に斜め掛けした茶色のスエードの鞄に無造作に放り込んだ。洋子は近くのベンチに座り、その様子を見ている。ニューヨークから来たと言っていたルークは決して世間知らずではないのだろうが、大量の現金を、しかも街中で持ち歩いて大丈夫なのかと少し心配になってきた。しかし当のルークはまるでそんな事は気にしていないようだ。
その後はショッピングモールの中をぶらぶらと歩いた。平日の昼だが、ショッピングモールはたくさんの人で賑わっていた。小さな子供を連れた若い母親グループや老夫婦、学生らしきカップルなど。軽快な流行りのポップスが流れる通路はブティックや雑貨店、いい匂いを漂わせる飲食店でひしめき合っている。暫く歩くとシンプルでカジュアルな服を売っている店を見つけ、そこを見ることにした。欲しいものは決まっている。シルバーレイク・タウンは標高が高く、思っていたよりも寒いのだ。洋子は上に何か羽織るものを買おうと思っていた。
その店の前は噴水広場になっている。洋子が店に入るのを見届けるとルークは噴水の前に立った。その広場の上だけがオープンエアになっており、真上で照りつける太陽の光が噴水の飛沫を眩しいほど輝かせている。噴水広場を中心に様々な店が並び、店と店の間に放射状に通路が伸びている。
噴水の周りに敷かれたテラコッタの上に立ち、ルークは考えていた。さっきから後を尾けてくる二人組の男達の事を。ATMを出てからだから、おそらく鞄の中の金が目当てなのだろう。ポケットから携帯電話を出して時間を見た。もうすぐ十二時半になろうとしている。昼食は混雑を避け、少し遅めにしようと洋子には言ってある。
「そろそろ片付けておくか……」
振り向いて洋子が入った店を見る。
洋子は棚の上に畳んで置いてある洋服を熱心に見ている。そこへ若い女性の店員が話しかけ、洋子がそれに応える。二人が何やら相談を始めたのを見ると、ルークは店に入り洋子に近づいた。
「ここにいてくれ、ちょっとトイレに行ってくる」
「分かった。」
洋子はろくにルークの方も見ずに、また別の洋服を一枚手に取ると店員の方を向いた。
「これだから女の買い物は……」
ルークは洋子に背を向けると顔をしかめて呟いた。
ルークは噴水広場に戻り周囲を見渡した。放射状に伸びた通路のうち、一番人けの無い通路を進んでいった。人通りが無いはずだ。その通路の店はほとんど閉まっている。一軒だけ開いているのは美容院だ。その奥にあるトイレに入る。トイレは中央に仕切り代わりの洗面台があり、その奥に個室が並ぶ空間があった。誰もいない。ルークは奥へ進み、突き当りの壁際に立つと携帯電話を取り出し掛けた。すぐに相手が出る。
「今、近くまで来てる」
洋子は同じ形のカーディガンで、黒とグレーとどちらにしようか悩んでいた。女性店員が洋子の腕のブレスレットに気づき、さっきの彼は恋人で、これはその彼氏にもらったのかと訊いてきた。洋子は本当のことを言うと話が長くなるので適当に「そうだ」と答え、二枚のカーディガンを肩の高さに掲げると店員にアドバイスを求めた。
「じゃあ、後で」
通話を終える頃、トイレの中に二人の男が入ってきた。一人はスキンヘッドの大男で、背丈はルークと同じ位だが横幅は倍近くありそうだ。もう一人は中肉中背で長い金髪。二人とも似たようなだぶだぶのTシャツと膝下丈のパンツに大きなスニーカーを履いたスケーターファッションの若い男だ。
ルークは二人を見ると眉を上げてニヤッと笑った。さっきから自分達を尾けている二人だ。長髪の男は洗面台の端に立った。大男が突き当たりの壁の前に立っているルークに近づいてくる。切った携帯電話をポケットにしまいながらルークが訊いた。
「何か用か?」
「インディアンの兄ちゃんよ、その鞄の中の封筒出しなよ」
「やっぱり……」
ルークは自分の読みが当たった事に満足した。大男はTシャツをめくり、スケーターパンツのウエストに挟んだ銃をこれ見よがしにちらつかせる。
「おい、酋長。おとなしく出せば乱暴な真似はしねえよ」
ルークは苦笑いした。
「それで脅してるつもりか?」
「何だと!」
小ばかにしたようなルークの口調に腹が立った様子の大男が銃に手を掛けた。ウエストから銃を引き抜くと、ルークは素早く大男の手からそれを奪い取った。シリンダーを開け銃口を上に向けると、銃弾が床に落ちる甲高い音が響き渡る。ルークは弾倉が空になった銃を放り投げた。すぐ横にある個室の便器の中に入り、ガシャンと大きな音を立てた後、チャポンと水の中に落ちる音がした。
「残念だったな」
ルークは口元を歪めて笑っている。
「てめえ! ふざけんな!」
怒り心頭に発した大男がルークに殴りかかった。その手を左手で払いのけると、右の拳で大男の顔面を殴りつけた。さらに顔をおさえて後ずさった大男の腹に膝をいれた。大男は体をくの字にして呻き声を上げる。ルークはさらに大男の顔面に膝をいれようとしたが、鼻と口から出血しているのを見て「やめた」と足を下ろした。
「今デートの最中だった。汚したくないんだよね」
そう言うと両手の拳を合わせ、大男の首の付け根に叩き込む。大男はうつ伏せにトイレの床に倒れると動かなくなった。
ルークは長髪の男に目を遣った。男は目を見開き、口をあんぐりと開けている。ルークが睨みつけながら近づくと男は個室の方へ退き、この人を食った態度のインディアンの男に道を開けた。ルークは黙ったまま男の前を通り過ぎた。
ルークが背を向けると男は隠していたバタフライナイフを出し、背中を切りつけようと腕を振り上げた。しかし気配を察して振り向いたルークにナイフを持った手首を摑まれ、そのまま捻り上げられてしまった。気が付くと個室のドアとドアの間の壁に押し付けられ、ナイフを持った右手は背中にある。背後にいるインディアンに捻り上げられている手首はまったく自分の意思では動かす事が出来ない。ぎしぎしと骨の軋む音が体中に響く。
「痛い! 痛い!」
「おい」
ルークは背後から男の顔を覗き込み呼びかけた。男は苦悶の表情で呻いたままだ。
「おい、聞いてんのか?」
さらに呼びかける。
「は……はい?」
蚊の鳴くような声で答えた男にルークは自分の不満をぶちまけた。
「人にはな、それぞれ事情があるんだよ。俺は今住んでる所でカードが使えないんだ。現金持ち歩いて何が悪い?」
「わ……悪くないですう」
男が情けない声で言う。しかしルークの不満はまだ止まらない。
「しかも、ここまで来るのに二時間以上掛かるんだぞ。ふざけんな!」
「す、すいません……」
なぜか男が謝った。ルークはさらに手首を締め上げる。男が短く叫んだ。
「離せよ」
ルークが男に言った。
「えっ?」
「ナイフを早く離せ。手首が折れるぞ」
ルークに言われて男はまだ自分がナイフを握っていたのかと気付いた。こんな物を持っているから痛い目に遭っているのだと言わんばかりに、もはやほとんど感覚のない手を懸命に開きナイフを捨てようとした。ルークは左手で男の手からナイフを奪うと折り畳んで肩越しに放った。床にナイフが当たる澄んだ音が響く。
「それからな、お前の連れに教えとけ」
「はい……?」
「俺は酋長じゃない。分かったか?」
「わ、分かりました……」
ルークは男の手を離した。男は自由になったものの、なかなか腕が元に戻せず、痛む右肩を左手でおさえ苦痛の声を上げながら振り向いた。ルークは男の顔を摑むと、頭を後ろの壁に打ち付けた。男はそのままずるずるとしゃがみこみ、トイレの床に伸びてしまった。
ルークは洗面台で洗った手を備え付けのペーパータオルで拭いた。その時右手の中指の付け根に一センチほどの切り傷ができ、血が滲んでいるのを見付けた。大男の前歯が当たったのだろう。
「あ~あ……」
ルークは哀れっぽい声を上げながらトイレの出口へ向かった。すると、トイレの出入り口には『清掃中』の黄色い三角の看板が立てられている。あの二人が置いたのだろう。看板を足で蹴って脇へどかすと、トイレを出ようとした。しかし通路の奥から巡回中の警備員がこちらへ向かって歩いて来るのが目に入った。
「クソッ!」
小さく悪態をつくと、その警備員を呼び止めた。
「ちょっと。中で男が二人倒れてるんだ。喧嘩をしていたみたいだ」
ルークが声をひそめて言った。警備員は驚いてルークに尋ねた。
「そりゃ大変だ! あなたは大丈夫ですか?」
ルークは弱々しい笑顔で頷いた。
「ああ。僕は騒ぎが収まるまで隠れていたからね」
警備員がトイレの中に入っていく。ルークはそのまま通路を噴水広場の方へ向かう。後ろからは慌てた警備員が無線で仲間の応援を呼ぶ声が聞こえている。
洋子は結局、今着ている黒地のワンピースに合わせて黒のカーディガンを買った。支払いを済ませ、噴水広場に出たがルークの姿が見当たらない。周りをぐるっと見回す。ひとつの通路が騒がしく、人の波がそちへと流れていく。洋子はその通路を覗いた。すると人の流れに逆らいこちらへ歩いてくるルークの姿が目に入った。
目の前に来たルークは洋子の背中に手を回し、自分の行く方向に向きを変えさせると立ち止まらずに歩き続けた。少し戸惑った洋子だったが、促されるまま並んで歩く。
「買い物は済んだのか?」
「うん」
二人のすぐ横を三人の警備員が騒がしい通路へ向かって走っていった。洋子は肩越しに振り返る。
「銃弾が落ちてるって!」
「ナイフがあるぞ!」
そんな声が聞こえてくる。
「何かあったの?」
洋子がルークに訊いた。
「喧嘩があったらしい。よく分からないけど」
「喧嘩? こわ~い……」
洋子は背中に置かれたままのルークの手が気になった。薄手のワンピース越しに大きな掌の感触が伝わってくる。通りすがりの人達は間違いなく自分達を恋人同士だと思うだろう。横にいるルークの顔を見上げたが、無表情のまま真っ直ぐ前を見ている。洋子は首を傾げたが、特に意味はないのだろうと思い、そのまま歩き続けた。
昼食はショッピングモールを出て、通りを渡った所にあるレストランに入った。クリーム色の壁に大きな窓、木のテーブルには白と薄いピンクのテーブルクロスが敷かれ、店内の所々にサボテンの鉢植えが置かれている。堅苦しくもなくカジュアル過ぎず、ランチデートには最適と思われる店だ。午後一時を少し回った頃で、待たされずに席に着くことが出来た。
メニューを見ていると、ルークのすぐ後ろのテーブルに背広姿の中年男性が来た。男が椅子を引いた時にルークの椅子とぶつかり「失礼」と声を掛けた。ルークは男をチラッと見ると「どう致しまして」と、形式ばって応えた。
洋子はメニューをテーブルに置いて溜息をついた。
「料理の名前が長過ぎてよく分からないわ。ルーク、決めて。私同じのでいい」
ルークはメニューを見ながら言った。
「ロブスターでも食うか?」
「ロブスター?」
洋子はメニューを見た。
「でも、これ高いわよ」
「いいよ。俺が出すから」
「後で精算するんでしょ?」
「これは請求しないよ。約束する」
「本当?」
洋子は疑わしそうに目を細めた。
「本当だよ。少しは信用しろよ」
ルークが苦笑いして答える。
「じゃあ、それにする」
洋子が弾んだ声を出した。ルークの後ろの男はウエートレスを呼びつけると、不機嫌そうにチーズバーガーを注文した。
二人が注文を終えると洋子はトイレに立った。ルークが椅子の背もたれに深く背中を預けると、後ろの席で新聞を読んでいる男が喋り出した。
「何だ? ロブスターって?」
ルークはウエートレスが置いていったメニューを見ながら答えた。
「知らないのか? でっかいエビだよ」
「そんな事訊いてない! 何でそんな高いもの食うんだ!」
男が小声で叱責したが、ルークは肩をすくめて反論した。
「たまにはいいだろう。あそこじゃこんな物食えないんだよ」
「俺はフェニックスに住んでたって、そんな物食えないぞ!」
ルークは男の愚痴を無視して鞄からビールの空き缶が入ったビニール袋と、昨日録音した洋子と署長の会話が入ったテープを出し、隣の椅子との隙間から渡した。男は後ろ手にそれを受け取ると、自分の鞄にしまいこんだ。
「ご苦労だったな」
「別に、ヨーコが飲んだビールの空き缶なら山のようにあるぞ」
ルークは思い出したように言った。
「ビル、金悪かったな」
「お前、金使いすぎだぞ。少し考えろ!」
「最近しょっちゅう車が壊れるんだよ」
「古い車に乗ってるからだ。あんなポンコツ捨てちまえ」
「やだね。気に入ってるんだ」
「とにかく、無駄遣いするなよ」
「分かった、分かった。あ、ヨーコが戻ってきた」
二人の会話はそこで終わった。
洋子が席に着くと、ルークは見ていたメニューから顔を上げた。
「ヨーコ、ワインでも飲むか?」
ビルは飲んでいた水の入ったグラスを、割れるんじゃないかと思うほどの音を立ててテーブルに置いた。
ビルは食事を終えるとすぐに店を出た。ルークと洋子はゆっくり食事をし、レストランを出て車に戻ると街の中を適当にドライブした。しばらくすると道が渋滞し始めたが、洋子は車窓からカラフルな町並みを眺めていて飽きなかった。
車がノロノロと進む中、二台前を走る白いベントレーが右に曲がった。ルークの視線はその車を追っている。ベントレーが入っていったのは横幅十メートルもない路地で、百メートルほど先で行き止まりになっている。
前方の信号が赤に変わり前の車に続いて止まる。ちょうどベントレーが右折した路地の入り口だった。その路地には雑居ビルが両側に並び、カラフルな表通りに比べると地味で暗い雰囲気だった。幾つかバーやクラブと書かれた看板が見えるが、どれも夜にならないと営業していないのだろう。昼間である今は閑散としている。ベントレーはその道の中程、左側に沿って止まった。
助手席の洋子は右前方のビルに貼られた来週末封切られる映画の広告を見ている。ルークはギアをニュートラルにしてサイドブレーキを掛けるとポケットから携帯電話を出し、洋子に気付かれないように動画撮影モードにした。指の間からレンズだけ覗くように掌で覆う。
ベントレーから数人の男が降りてくる。
ルークは助手席に体を寄せると、携帯電話を隠し持った手を洋子の右肩に回して自分の方へ引き寄せた。
「な、何?」
突然の事に洋子が声を上げて顔を向けると、ルークの顔がすぐそばにあった。心底驚いた洋子は息を飲み、一瞬呼吸するのも忘れてしまった。
「ヨーコ、楽しかったか?」
ルークが洋子の耳元で囁いた。
「え、ええ。た、楽しいわよ……。今日は、どうもありがとう……」
目を見開いたままの洋子はそれだけ言うのが精一杯だった。
「そうか、良かった」
ルークが洋子を見つめて微笑んだ。洋子の心の奥底を覗き込むような焦げ茶色の瞳に射すくめられ、心臓が大きな音を立てる。その音がルークに聞こえるのではないかと心配になった洋子は、恥ずかしくなって下を向いた。するとルークは洋子の頭越しに、助手席の窓から外を見た。
ベントレーからは四人の男が降りてきた。その中の一人は長い金髪を頭の後ろで縛りダークスーツを着た背の高い男だ。その男を囲むように三人の取り巻きが見える。男達は奥の方にある雑居ビルの地下へ続く階段を下りていった。
顔を真っ赤にした洋子がそろそろと目を上げて前方を見ると、信号は青に変わっており、前の車が動き出すところだった。
「ルーク! 前、前!」
洋子が慌てて言った。
「ああ」
ルークは録画停止ボタンを押し、洋子の肩から手を離した。洋子はすぐに座席に座り直す。ルークの方は見ようとせず、乱れた髪を手櫛で整えている洋子には、ルークが携帯電話を背中と座席の間に放り込んだのには気付かなかった。
車が走り出しても洋子はまだ動揺していた。窓の方を向き眉をひそめて首を傾げる。この男は一体どういうつもりだろうか、と。ただの気紛れなのか、それとも本当に二重人格なのか。横目で運転席を覗くと、ルークはなかなか進まない車の列をつまらなそうに眺めている。いつもの無表情だ。洋子はもう一度首を傾げた。
街を出る頃には渋滞は解消され、その後は何事もなく車は走り続けた。