水曜日3 木曜日1
2011年、11/19,大幅に改稿しました。
食事の後、ルークはカウンターのシンクで後片付けを始めた。洋子が手伝うと申し出たが「少しだから」と断った。
部屋へ引き上げようとした洋子にルークが声を掛けた。
「これからは、何かしたい事や行きたい所があったら遠慮なく言ってくれ。俺が連れて行くから」
「はあ?」
洋子は突然のルークの態度の変わりように驚いた。怪訝な顔の洋子に気付き、ルークは慌てて付け足した。
「……だから暗くなってから一人で外に出たりしないでくれ。君に何かあると俺が困るんだ」
耳にタコが出来そうだとうんざりしたが、洋子は頷いて了承した。皿の洗剤を洗い流しながらルークも頷く。
「さっきは怒って悪かったな」
「さっきっていつよ? ずっと怒ってるじゃない……」
洋子は俯いて小さな声で呟いた。ふと目を上げるとルークが自分を見ているのに気付き、慌てて首を振った。
「あ……いえ、こちらこそ、ごめんなさい」
「明日、警察へ行くと言ってたな。何時だ?」
「時間は決めてないけど、出来るだけ早く行こうかなと思ってる」
「分かった。午前中だな。俺が連れて行く」
洋子は不思議そうな顔でルークを見ながら言った。
「あ、ありがとう。お願いします」
洗い物が終わったルークはタバコに火を点けた。
「今日は長旅で疲れただろう。早めに休んだ方がいい」
洋子は困惑を通り越して気味が悪くなってきた。
「そ、そうするわ。お、お休みなさい……」
「お休み」
洋子は階段を上がりながら眉をひそめて首を傾げた。もう何が何だか分からない。
「どうしてあんなに急に態度が変わるの? まるで別人みたい……。もしかして二重人格? 黙ってれば格好いいのに……」
ルークはカウンターに手をつき、ブツブツ言いながら部屋へ戻っていく洋子の姿を睨みつけるように目で追っていた。洋子が部屋に入りドアが閉まると、大きく溜息をついてうなだれた。
「本当に面倒くせえな……」
真夜中を過ぎた頃、ルークの部屋の扉が静かに開いた。裸足のまま部屋から出たルークは廊下を音も立てずに歩いていく。洋子の部屋の前で立ち止まり、用意していた合鍵で静かに鍵を開けた。ドアを細く開けると中を覗きこむ。一階のロビーも廊下も電気は消してある。非常灯だけが薄ぼんやりと灯っていた。部屋の中に光が射し込む心配は無い。
洋子はぐっすり眠っていた。チェストの上の電気スタンドが点いたままなので、部屋全体が見渡せる。バッグもそのチェストの上にある。ルークは体を滑らせるように部屋の中に入り、真っ直ぐバッグへ向かった。中を調べたが特に怪しいものは無い。パスポートを取り出す。飛行機のチケットが挟んであった。帰りの便だ。
ルークはポケットから親指ほどの大きさの黒い箱を取り出した。先端にアンテナが付いている。どこかに付けられる場所はないかとバッグの中を探った。バッグ内側の上部に袋状の小物入れがある。袋をめくり、その裏のバッグの革地に黒い箱を貼り付けた。
洋子を見たが、ほとんど動きもせずに眠っている。夕食の時の彼女の話では、今朝空港に着き、それからバスでここまで来たらしい。その後部屋の掃除をした。ルークは部屋をぐるりと見渡した。薄明かりの中だが見違えるほどきれいに掃除されているのが分る。チェストの上に埃はひとつもない。疲れているのも当然だろう。
「その話が本当ならな……」
ルークは小さな声で呟くとチケットが挟まれた洋子のパスポートを持って部屋を出た。
自室に戻るとスキャナーを取り出した。暗い部屋に青い光が浮かぶ。パスポートと飛行機のチケットをスキャナーでなぞりパソコンに取り込んだ。それが終わるとルークは疲れた声で呟いた。
「返しに行かなきゃ……」
木曜日
洋子はすっきりと目が覚めた。時差ボケもない。昨日、夜まで無理して起きていたためだろう。ベッドの上の窓を開けると、冷んやりとした新鮮な外気が流れ込んできた。窓の外、遥か遠くには朝陽を浴びたオレンジ色の岩山が連なっているのが見える。そして眼下には木の柵で囲われたジミーの馬場。レイクサイド・インの裏庭は建物の陰が落ちているが、その先には輝く芝が揺れている。その中を一頭の茶色い馬がゆっくりと歩いていた。東京で生まれ育った洋子には、この広大な景色にまるで現実味を感じなかった。窓から映画のスクリーンを覗いているような気がしてくる。
「おはよう、ヨーコ」
不意に声を掛けられ視線を下げると、柵のすぐ向こうにジミーがいた。相変わらずオーバーオールと長靴の姿で自分に手を振っている。洋子は寝起きの髪型を気にして手櫛で整えてから手を振り返した。やっと自分がこの景色の中にいるのだということを実感した。
身支度をしてロビーに下りると洋子は驚いた。昨夜ピザを食べたのと同じテーブルに、二人分の朝食が用意されていたのだ。スクランブルエッグに焼いたベーコン、サラダが一枚の皿にきれいに盛り付けられ、ガラスの小さな器にはヨーグルトとカットしたフルーツが入っている。
ルークはカウンターの中で、カップにコーヒーを注いでいた。
「コーヒーでいいのか?」
整えられた朝食と、不機嫌そうなルークを交互に見ながら洋子が頷いた。
「ええ。これ、あなたが作ったの?」
「君が作ったんでなければそうだろうな。他に誰がいる?」
一言多いルークを無視して洋子はコーヒーを受け取るとテーブルに着いた。湯気と一緒に漂ってくる朝食の匂いを吸い込むと、またお腹が騒ぎ出す。
「美味しそう……」
「本当にここで待つつもり?」
警察署前の駐車場に停めたチェロキージープの車内で洋子は運転席のルークに尋ねた。ルークは昨夜と同じポンチョを羽織り、サングラスをかけている。
「用もないのに好き好んで警察に入る奴がどこにいるんだ?」
この男の一言多いのにも洋子は段々慣れてきていた。
「でも、時間がどれ位かかるか分からないわ」
「いいよ。どうせここで寝てるから。今朝は早く起きて朝飯作る羽目になったから眠いんだよ」
「朝食作ってくれなんて頼んでないわ」そう言ってやりたかったが、ここで喧嘩する訳にもいかないので洋子はぐっとこらえた。
「分かったわ」
洋子は車を降り建物へ向かった。
建物の右端に署長の個室がある。半分ほどブラインドが下りた窓から、署長が苦々しげに外に停まったチェロキージープの中にいるルークを見ている。ルークはそっぽを向いているが、サングラスの中の視線だけは鋭く署長に注がれている。ルークはおもむろにダッシュボードの上のタバコに手を伸ばした。箱から取り出した一本を足元に落とす。身を屈めたがタバコは取らず、代わりに運転席の下から黒い箱を引き出した。箱についたアンテナを伸ばし、接続されたイヤホンをポンチョの裾から通し耳に付けた。電源を入れると、昨夜洋子のバッグに貼り付けたマイクが署内の会話を拾っているのが分かる。ブーツの上に落ちたタバコを拾い上げ火を点けた。座席をリクライニングさせると、ゆっくりと身を沈めた。
「あ、昨日の……ちょっと、待っていて下さい」
洋子が入っていくと、昨日応対してくれた若い男性警官が窓際のソファを示した。男性警官はカウンターを出ると署長室へ向かった。少し足を引きずっている。
「この人が……」
洋子はソファに腰を下ろし、その男性警官を見つめた。署長室に入った警官はすぐに出てきて、またカウンターに戻った。
暫くして署長が不機嫌そうに出てきた。細い目のずんぐりとした署長は歩きながら、カウンターの奥にいる女性警官に「おい! ファイルだ!」と、大きな声で命令すると洋子の向かいのソファに近付いた。
「初めまして、宮田洋子です」
洋子は立ち上がり挨拶したが、署長は目もくれずにソファに座った。
「署長のブラウンだ」
ルークはフロントガラス越しに署長が個室から出たのを見ると、受信機に接続されたレコーダーの録音ボタンを押した。交差させた足をダッシュボードに乗せ、タバコの煙をゆっくり吐き出した。
洋子がソファに座り直すと女性警官が目の前のローテーブルにファイルを置き、黙ったままカウンターの中へ戻った。腹を突き出すようにソファにふんぞり返ったブラウン署長は顎でファイルを示した。
「アキラ・ゴトーの事件はそこに全て書いてある。英語は分かるかね?」
「……はい。でも、専門用語になると自信がありません」
洋子はファイルを開いた。
「やっぱり……」
よく分からない単語が並んでいる。困ったような顔でファイルとにらめっこをしている洋子にブラウン署長が説明を始めた。
「事件があった夜、うちのアンダーソン巡査が湖畔をパトロールしていると騒いでいる男女二人がいた。近付いて声を掛けると、ゴトーだった。奴はその二日前からこの町に滞在していて、顔も知っていたし日本人旅行者だという事で確かに油断もあったんだがね。ゴトーは湖畔でその女と楽しんでいた。意味は分かるかね?」
署長は洋子の反応を楽しむように尋ねた。
「はい……」
洋子は俯きがちに小さな声で答えた。
「アンダーソンが見たところ、ゴトーは明らかにクスリでハイになっていた。この意味も分かるね?」
「はい」
「奴はいきなりアンダーソンの銃を奪い取ると、足に向けて発砲した」
洋子はカウンターの中にいる男性警官を見た。大きな署長の声はもちろんカウンターまで届いているのだろうが、アンダーソンは下を向いたままだ。ブラウン署長は続ける。
「銃声に驚いて女が逃げ出したんだ。奴は逃げる女の背中に発砲して射殺した」
洋子は心臓が早鐘を打ち始めるのを感じた。朗が人を殺した。既に聞いていた話だったが、心の奥では何かの間違いであってくれたらと願っていた。しかし、やはりそれは真実だったのだ。唇を噛み、俯いた洋子の耳にブラウン署長の声が響く。
「アンダーソンから応援を要請され、我々が駆けつけるとゴトーは銃を手に滅茶苦茶に暴れていた。錯乱状態だった。奴を説得しようと試みたんだがね、我々に取り囲まれもう逃げられないと悟ったんだろう。自分のこめかみに銃口をあてて引き金を引いたんだ。我々が止める間もなく」
日本で聞いた話よりも遥かに生々しく、洋子は激しく動揺していた。
「これがこの事件の全てだ。何か質問があるかね?」
洋子はひとつ深呼吸をすると震える声を出した。
「あの……その殺された女性というのは、この町の住民の方だったんですか?」
「違う! メキシコ人で密入国者の売春婦だ。この町の住民なんかじゃない!」
ブラウン署長は憤慨したように声を荒げた。その勢いに洋子は首をすくめたが質問を続けた。
「その女性はどこからいらしたんですか?」
「知らん。どこかの街で拾ってきたか、電話で呼んだか、コールガールだ。不法滞在者にちゃんとした住所なんかあるか。とにかく、この町には売春婦なんかいない!」
全く無表情のルークは車の中で二本目のタバコに火を点けた。
朗はこの町に来た時、既にその女性と一緒だったのだろうか。一体どこでその女の人と。レイクサイド・インでも一緒にいたのだろうか。あの絵葉書を書いた時もその人と一緒だったのだろうか。
「信じられない……殺すなんて……」
洋子は震えながら息を吸い込むと、溢れそうになる涙を堪えた。
「そうですか……」
洋子は力なく言うと俯いた。
ファイルに目を落とした洋子はある言葉が気になった。『左側頭部』とある。朗は左のこめかみを自分で撃ったのだ。洋子は左手で拳銃の形を作ると、左のこめかみにあて引き金を引く動作をした。右利きの洋子には少し違和感があった。今度は右手を顔の前に通し、左のこめかみを撃つ動作をした。これはあり得ない。その動作を見たブラウン署長が訝しげな顔をした。
「何かね?」
「ここに左側頭部とありますが、右利きの人間が左の側頭部を自分で撃つ事は可能なんですか?」
洋子は疑問を素直に口にした。
ルークは唇の端を歪めて笑いながら呟いた。
「なかなかいい質問だな……」
ブラウン署長はローテーブルに身を乗り出し、ファイルを指で強くつつきながら不機嫌な声を上げた。
「この調書が間違ってると言うのかね? そこに間違いがあるかどうかは写真を見れば分かる。君が来るというので気を使って一応写真は抜いておいたんだがね。おい! 写真を持って来い!」
ブラウン署長はカウンターの奥にいる女性警官に向かって大声で指示した。洋子はソファから腰を浮かし、慌ててブラウン署長を止めた。
「写真は結構です。すみません、そういうつもりで言ったんじゃないんです。本当に写真は結構ですから」
朗が自分の頭を撃ち抜いた写真など出されても、正視できる自信などない。洋子が必死で懇願すると、やっとブラウン署長は落ち着きを取り戻してソファに座り直した。
「君がそんな事を言うから……」
ブラウン署長が洋子を責めた。
「本当にすみません。ただ朗は右利きだったので、左手で撃つのは違和感があったんじゃないかと思って」
「お嬢さんは日本では銃の専門家かね?」
ブラウン署長に尋ねられ、洋子は面食らって答えた。
「いいえ、触ったこともありません」
「ふん、触ったことも無いのかね? てっきり銃には詳しいのかと思った」
「相変わらず嫌味な野郎だな」
ルークが呟く。
「奴はこめかみに銃口をあてて、引き金を引いたんだ。遠くのものを狙って撃った訳じゃない。しかもクスリでハイになってたんだ。お嬢さん、クスリでハイになった経験は?」
ブラウン署長に一気にまくし立てられ、もはや洋子は泣き出したい気分だった。質問に首を振って答えた。
「一度もありません」
「我々が駆けつけた時、奴は錯乱状態だった。滅茶苦茶に銃を振り回していたんだ。そして自分の頭を撃ち抜いた。こめかみに銃口をあてて。右手だろうが左手だろうが、そんなに問題だとは思わんがね」
ブラウン署長が断固として言い切った。洋子は力無く頷くしかない。
「そうですか……。あの、もうひとついいですか?」
「何だね?」
「日本へ送って頂いた遺品の中に、この町で撮った写真が無かったんですが、送り忘れた物は無かったでしょうか?」
ブラウン署長は洋子をジロリと睨んだ。
「奴の持ち物は全て送ったはずだ。コカイン以外は。大体、本当に写真なんか撮ってたのかね?」
「ええ、おそらく……。別の場所の写真はあったので。データカードで小さい物ですから、もしかしたらどこかに紛れてしまったかも……」
「それを我々に捜せと言うのかね?」
「あ……いえ、あの……」
洋子は口ごもった。確かにそれは図々しい要求だと、自分の言った事を後悔した。
ブラウン署長は洋子の方へ身を乗り出し、威圧的な態度で話し出した。
「お嬢さん、君はゴトーの婚約者だったそうだね。家族でも何でもない君に、我々が説明する義務なんか無いんだ。遠い日本からわざわざやって来たというのでこうして時間を割いたんだが、我々の善意は伝わらなかったようだね」
洋子は俯いて身を硬くした。ブラウン署長はなおも続ける。
「昨日この町に来てもう気付いただろうが、ここはとても長閑な所なんだ。それまで事件といえばコヨーテを見かけたとか、アライグマが家に入ってきたとかそれぐらいのものだった。少なくとも私がこの町に来てからはそうだったんだ。あんな凶悪な事件は前代未聞なんだ。あんな事件が起きたことを私自身遺憾に思ってるし、はっきり言って憤りすら感じてる。この町の住民皆そうだ」
洋子の目には薄っすらと涙が浮かんでいる。
「その後も日本のテレビやらマスコミが大勢来て、暫くの間町は大混乱だった。やっと静かになったんだ。アンダーソンも最近になってやっとまともに仕事が出来るようになったんだ」
洋子は顔を上げ、カウンターにいるアンダーソンを見た。アンダーソンは書類から目を上げ、チラッと洋子を見るとすぐに下を向いて書類に戻った。洋子も俯いた。一歩間違えれば、朗はこの警官をも射殺するところだったのだ。洋子自身は当事者ではないにしても、恨まれたり軽蔑されるのも仕方がないと思った。
「この町は平穏を取り戻しかけてるところだったんだ。我々としてはこの町の平穏をずっと守っていきたいと思ってるんだがね、お嬢さん?」
ブラウン署長が激しい口調でまくしたて洋子を見据えた。
ルークはリクライニングさせたシートで両手を頭の後ろで組み、署内の会話を楽しんでいる。
「ずいぶんイラついてるなあ。さあヨーコ、どう出るんだ?」
しかし聞こえてきたのは消え入りそうな洋子の声だった。
「分かりました……これで失礼します。あの、お時間割いて頂いて感謝します……」
「何だ、意外としおらしいな」
ルークはがっかりした声で呟いた。
洋子はソファから立ち上がり頭を下げた。
「色々、ご迷惑お掛けしました」
ブラウン署長は何も言わずに立ち上がると、手にしたファイルをカウンターの上に放り投げ個室へ入っていった。
洋子が出口に向かうと、アンダーソンと目が合った。何の言葉も掛けられず、ただ申し訳なさそうに小さく頷くと、アンダーソンも口を結んだまま小さく頷いた。
署長が個室に入り受話器を取るのを見たルークは、ブーツのつま先で受信機のダイヤルを回した。電話の発信音が聞こえ相手が出る。その時洋子が建物から出てきた。
「ちょっと待ってろヨーコ。まだ来るな……」
ルークが呟いた。
洋子はふと立ち止まり、振り返って建物の中を見た。ルークの願いが通じたように、もう一度建物の中へ入って行く。
イヤホンから会話の内容が聞こえる。
「アキラ・ゴトーの婚約者だっていう女が来て、事件のことを色々聞いていったぞ」
署長は不安そうな声だったが、電話の相手はさして気にも留めない様子で返した。
「アキラ? ああ、あの日本人の男か。その女幾つ位だ?」
「さあ、多分二十代前半てとこだろう」
「二十七だよ」
ルークは昨夜拝借したパスポートからの情報を口にした。もちろん二人には聞こえていないが。
建物に戻った洋子はすぐにファイルを手にした女性警官と鉢合わせになった。
「すみません、トイレを使わせて下さい」
洋子が頼むと女性警官が手で奥を示した。
「あっちよ」
電話の相手がブラウン署長に尋ねる。
「一人で来たのか? 日本から?」
「そうらしい」
「この町に滞在してるのか?」
「そうだ。あのインディアンのクソガキが連れてきた」
「聞こえてるぞ、クソ野郎!」
ルークが吐き捨てるように言った。もちろん二人には聞こえていない。
電話の相手は短く笑った。
「何ビクビクしてる? 大丈夫だよ。そんな日本人の若い女が一人で何が出来る? 心配するな。そんな事より、近いうち仕事がある。また頼むよ」
「おい、今度は気をつけろよ」
署長が不安そうな声を出したが、電話の相手はまったく意に介さない。
「何言ってる。その為にあんたがいるんだろう。そうだ、この前あんたの奥さん見かけたぜ。良い指輪してたなあ。ありゃ相当のもんだ。違うか?」
「くっ!」
署長が悔しげな声を洩らす。その時、洋子が浮かない顔で建物から出てきた。
「よく似合ってるって伝えてくれ。じゃあな」
短い笑い声を残して電話は切れた。洋子が車の後ろを回ってくる。ルークは左足のブーツの底でアンテナを押し込み、右足のつま先で受信機の電源を落とした。ポンチョの裾からイヤホンのコードを引っ張って耳から外すと、そのまま受信機の上へ落とす。洋子が助手席のドアを開けると同時に、ブーツの踵で受信機を座席の下へ蹴りこんだ。
ルークはリクライニングを戻してサングラスを外し、助手席に座って黙り込んでいる洋子の顔を眺めた。
「どうした? 顔色が悪いぞ」
「えっ? そう?」
そんなに心情が顔に出ているのかと、洋子は俯いて手を額に当てた。ルークはエンジンを掛けながら、署内であったことは全く知らないという風を装って尋ねた。
「ああ、真っ青だぞ。署長と話せたのか?」
洋子は溜息をつくと苦笑いした。
「ええ。私、相当嫌われてるみたいね……」
「楽しい話なんか出来る訳ないって、最初から分かってるはずだ」
ルークはバックで車を通りへ出しながら素っ気無く言った。
「それはそうなんだけど……」
自分が想像していたよりも遥かに酷い事件だった。当事者から話を聞き、その凄惨さが改めて分かった。
「気にすんなよ。別に君が悪いことした訳じゃない」
ルークはまるで関心の無いようすだ。
ルークが言っている事はもっともだが、そう簡単に割り切れるはずもない。洋子は俯いたまま黙ってしまっている。ルークが車の時計を見た。
「昼まで時間があるな。ちょっとドライブしよう」
それから湖畔のメインロードをゆっくりと流した。