それから ・ エピローグ
それから
プロポーズから一ヵ月後、空港にザックとアンソニーの姿があった。もうすぐ洋子がやって来る。今日からあの家の住人になるのだ。飛行機はもう到着していた。
「よう! 偶然だな!」
二人の元へ、ぶらりとビルがやって来た。
「何でここにいるんだ?」
洋子が乗ってくる便など知らせた憶えは無いのに。驚いたザックは満面の笑みを見せるビルに声を荒げた。
「いや、急に飛行機が見たくなってさ。俺が昔から飛行機が好きだって事知ってるだろ?」
「聞いた事ねえよ。そんな話!」
不機嫌になったザックを尻目に、アンソニーとビルが笑顔を交わす。あの事件から、二人は良い友達になっていた。
「どうしたの?」
腕を組み、怖い顔でビルとアンソニーを睨んでいるザックの元へ洋子がやって来た。
洋子は初めてレイクサイド・インで会った時と同じに見えた。オレンジ色のスーツケースにセミショルダーバッグ。荷物はそれだけだ。ここへ来るのに必要な物は全てスーツケースに収まってしまった。今の洋子に一番必要な物はスーツケースには入らない。それは目の前にいる自分の家族だ。
駐車場に停めたチェロキージープの前に着いたが、アンソニーはビルと一緒に素通りしてしまった。ザックが呼び止めるとアンソニーはビルと肩を組み、今日は一緒にチェスをする約束なのだと悪戯っぽく笑った。
「チェス? 親父、チェスなんかやるのか?」
「今日こそ決着をつけるんだ! 今日は帰らないと思うぞ」
そのあからさまな気の遣い方に唖然とするザックと洋子を残し、アンソニーとビルは楽しげに笑いながら行ってしまった。
荷物を積み終え、車に乗り込んだ二人は長いキスを交わした。これからはずっと一緒なのだ。そんな想いが胸に広がり、洋子は幸福感に満たされていく。しばらく頬を寄せ合っていたが、ザックは洋子の耳元で囁いた。
「帰るか……」
「帰る」というその言葉を聞いて洋子の胸は熱くなった。ずっと帰りたいと願っていた場所に、やっと帰る事が出来るのだ。車のキーを回すザックに微笑んで頷いた。
「あ、ちょっと待って。その前に買い物に行くわよ」
ギアを入れながらザックが洋子に顔を向けた。
「買い物? 何を買うんだ?」
「決まってるじゃない! ウェディングドレスを買いに行くのよ!」
洋子の剣幕にザックは少しだけたじろいだ。
二人の結婚のパーティーはフェアストーン家の庭で行われた。居留区の住民やFBIの元同僚など、大勢の人が集まった。芝生の上に置かれたテーブルには料理やデザートが並び、バーベキューグリルには肉の焼ける香ばしい香りが漂っている。ザックと洋子が腕を振るったものもあるが、ほとんどは近所の住民やレストランから差し入れされたものだ。居留区での結婚式は、全住民挙げてのお祭りとなる。
ザックがブティックに置かれたソファで居眠りしてしまうほど、悩みに悩んで選んだドレスを着た洋子は、居留区の女性が作ってくれた羽根とビーズで出来た髪飾りをつけてご満悦だ。一方、ビルは始終号泣していた。近くにいる人を捕まえては「俺はニューヨークでザックの父親代わりだった」だの、「二人がこうなったのは、意気地なしのザックに俺が勇気を与えてやったからだ」などと泣きながら吹聴している。それを耳にしたザックは、文句を言ってやろうと席から立ち上がったところを洋子に止められた。
洋子が必死でザックでなだめている時、敷地の中に一台のレンタカーが入ってきた。降りてきたのは洋子の妹、香織とその夫、二歳になる娘だった。予期せぬ親族の出席に驚いた洋子は駆け出して転びそうになり、ドレスの裾を膝まで持ち上げて妹に駆け寄った。結婚してアメリカに住むという事はメールで知らせていた。電話をしようと何度も番号を押しかけたが、勇気が出なかった。
香織を呼んだのはザックだ。香織の嫁ぎ先の寿司屋の電話番号を入手することは、ザックにとっては簡単だった。ザックからの国際電話は、営業中の賑わう店内に掛かった。最初に出たのは姑だった。受話器から聞こえる言葉が分からず固まってしまった姑だったが、「カオリ」という名前を聞くとすぐに嫁を呼んだ。
「香織ちゃん! 電話よ。外国人の男の人から!」
姉の結婚相手がアメリカ人というのは分かっていた。その関係の人だろうとは思ったが、香織は恐る恐る電話を換わった。
ザックは出来る限りゆっくりと喋ったつもりだったが、店内の喧騒と緊張でほとんど香織には理解出来なかった。話の途中で突然「ジャスト・モーメント・プリーズ!」と叫んでザックを驚かせると、店内に響き渡る大きな声で「この中に英語が分かる方はいらっしゃいませんか?」と叫んだ。
電話は店の常連である大学教授が換わり、同時通訳してくれた。店中の人間が電話に注目している。普段は厳しい親方も包丁を握った手を止め、電話の会話に耳を澄ました。
「君のお姉さんと結婚するザッカリー・フェアストーンさんだ」
香織は教授の横でうんうんと、真剣な顔で相槌を打っている。
「結婚のパーティーがアメリカの彼の家で行われるそうだ。遠い所だから無理にとは言えないけれど、是非君に来てほしいと言ってる」
香織の表情が曇った。この人は気を遣って招待してくれているのだろうが、自分と会って姉が喜ぶとは思えなかった。家が大変な時に、勝手なことばかりしていたのだ。全てを姉に押し付けて。悲しみから逃れるように、貯金も無いくせに結婚をした。そのせいで姉は思い出の詰まった家を売却したのだ。買い叩かれて大した額にはならなかったが、姉は自分の引越し代だけを取り、残りは香織へ回した。素直になれなかった自分は、姉に感謝の言葉ひとつも掛けることはなかった。結婚し家庭を持って初めて、普通に生活していく事がこんなにも煩雑で大変なものだと知ったのだ。
俯いて黙り込んでしまった香織に、教授はザックからの言葉を伝える。
「お姉さんは、忙しい君に連絡したくても出来ないでいる。本当は君のことをいつも気に掛けているそうだ」
香織の目からぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。そしてほぼ客席の埋まっている店内を見渡し、消え入りそうな声で呟いた。
「でも……アメリカなんて遠いし、お店もあるし、とても……」
その時、姑が大きな声を上げた。
「行って来なさい! 三人で!」
すし職人の嫁として店を切り盛りし、家事と育児をこなすのがどんなに大変なことかは良く分かっている。自分もそうだったからだ。それに、嫁が唯一の肉親である姉と疎遠になっていることは何となく気が付いていた。
今まではお互いに気を遣い合う関係だった姑の言葉に、香織は涙を流しながら頷いた。教授まで声を詰まらせながら、出席するということをザックに伝えた。その後電話を換わった香織は、もうすぐ姉の夫になる男に何度も「サンキュー、サンキュー」と繰り返した。
姉妹は泣きながら手を握り合った。そして洋子はドレスの裾が汚れるのも気にせずに姪の前にしゃがみ込んだ。姪は初めて見る花嫁の姿に目を輝かせた後、母親に促され「おめでとう。おねえちゃん」と舌足らずな声を出した。洋子は両手でその柔らかな姪の頬に触れると、自分がまた同じ過ちを繰り返したことに気付いた。
前にこの子と会ったのは生まれた直後だ。二年という年月は大人にとってはあっという間でも、小さな子供にとってはとても大きいものだった。その間に皺皺だった小さな新生児は首が座り、立ち上がって歩き出し、言葉まで発するようになったのだ。この子の成長を妹と分かち合うことが出来なかった。両親の死の悲しみを分かち合うことが出来なかったように。知らぬ間に過ぎてしまう時間。その中には二度と取り返せないかけがえの無いものも多く含まれている。たとえ遠く離れてしまったとしても、これからは大事にしたい。
洋子は何度も「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。久し振りに口にした日本語が「ありがとう」だったことが嬉しかった。
パーティーが盛り上がってくると、ザックは矢を射ることになった。居留区に古くから伝わる弓矢が出され、庭に立てられた的に向かい、ザックは三本の矢を射る。三本ともが的に当たり、最後の一本は見事に真ん中に命中した。大きな歓声が上がり、ザックは得意げになる。その後でアンソニーも矢を射った。アンソニーが射った矢は三本とも真ん中に命中した。最後の一本は、先に当たった二本の矢を弾き飛ばすほどの勢いだった。さらに大きな歓声が上がる。
「見たかザック! 矢はこうやって射るんだ!」
アンソニーは今日の主役であるザックを指差し勝ち誇ったように言い放つと、力強くガッツポーズを決めた。口をあんぐりと開けたまま驚いている洋子の隣で、ザックは肩をすくめて苦笑いした。その後洋子にひそひそと文句を言う。
「大人げないと思わないか?」
そのパーティーでの二人が寄り添った写真は、後日ポストカードとなりサムの元へ配達された。サムとアニーは顔を見合わせて喜んだ。サムはそのポストカードをレジカウンターの後ろの壁にあるコルクボードに貼った。そのコルクボードには他にも二枚の写真が貼られている。一枚は朗が撮影した満月に照らされたシルバーレイクの写真。そしてもう一枚は、サムとアニーと朗が店の前で撮った写真だ。
サムが欲しがっていたその写真も、やはりFBIが押収したアンダーソンのパソコンの中にデータとして残されていた。それをザックが辞める前にプリントし、日本へ行く前に立ち寄ってサムに渡したのだ。
休暇中にリノのカジノで大儲けしたレイクサイド・インのオーナー、スミス夫妻は新しくホテルを建て直した。暖かい雰囲気はそのままに、客室を少しだけ増やし、従業員も雇い入れた。新しくなった暖炉の前には、ザックと洋子が眠ったまま一夜を過ごしたソファがまだ置かれている。
その裏のジミーの馬場では、マックスが元気に走っている。あの後マックスは民家の庭で草を食んでいるところを保護され、次の日に帰ってきた。背中に付けられた鞍には、あの日ザックが書いたジミーの住所と電話番号がまだ消えずに残っている。
新しく編成されたシルバーレイク・タウンの警察は、朗が撮影したシルバーレイクの写真の評判により増えた宿泊客と、夜間湖畔に集まる観光客の安全に目を光らせている。
エピローグ
結婚してから一年ほど経ったある夜、フェアストーン家のポーチに置かれたベンチに座り、ザックはタバコを吸っている。すぐ後ろにあるカーテンが閉じられた寝室の窓。そこから漏れる柔らかな光を背に受け、ゆっくりと煙を吐き出した。家の中で吸うことは許されない。出入り口の扉が開き、その原因が顔を出した。
「ザック、見つけた」
洋子が大きなお腹を抱えてゆっくりと出てきた。ザックは急いでタバコを消すと、洋子が隣に座るのに手を貸した。洋子は臨月に入ったばかりだ。お腹に手をあてると、すぐに元気な胎動が感じられ、満足そうにザックは目を細めて微笑んだ。アンソニーは既に床に入っており、二人の息遣いだけが聞こえる静かな夜だ。
洋子は空を見上げた。そこには雲ひとつ無く、大きな満月が輝いている。包み込まれるような光の中で、洋子は不思議な感覚に落ちていく。月を見ている自分が、月に見つめられているような気がしてきたのだ。洋子は静かに目を閉じた。太古から月と地球が寄り添い、共に歩んでいく姿を思い浮かべる。愛する者同士が離れられずに、その甘い時間が永遠に続く事を望むように。
洋子はふと、アニーのことを考えた。幸せなアニー。かつては、彼女のような女性にならなければ幸せは訪れないと思っていた。その頃は、自分の孤独を不幸と不器用さのせいにして他人を羨んでいただけだ。世界一美味しいサンドイッチは作れなくても、アリゾナの太陽より輝く笑顔じゃなくても、ザックはこんな自分の側にいることを選んでくれた。それが叶わない日々も、いつも望んでくれていた。どうやらその事に理由はないらしい。
洋子はやっと自分の居場所を見付ける事が出来た。それは東京でもシルバーレイク・タウンでもどこでも良かった。住所ではない。ザックの隣だ。彼の側で、彼が馬に乗る姿を毎日見ていられる。そして彼の父親が、自分の父親になった。
「ねえサム、こんなに幸せなことって、そうそうあるもんじゃないわよね……」
声には出さずに呟くと、洋子はザックの肩にもたれた。その頭をココペリのブレスレットをつけた大きな温かい手が撫でる。
生きるほどに悲しい出来事は増えていく。その悲しみが癒えることはないのかも知れない。でも、だからこそ幸せに気付く事が出来る。幸せに生きる必要がある。
洋子はふと思い浮かべた。この月がシルバーレイクを照らしている様を。今夜のシルバーレイクも、とてもきれいなのだろうと。
隣で月を見上げているザックも、同じ事を考えているに違いない。
了
読んでいただいてありがとうございます。ご意見ご感想などお寄せいただけると、とても嬉しいです。
これの続編となる『Good night,Eagle -Kokopelli2-』も是非よろしくお願いします。