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水曜日2

2011年、11/19 大幅に改稿しました。

「今は休業中なんだ。帰れ」

「そんな……帰れって? 日本に? それこそ無理だわ!」

洋子は困り果てた。満室だと言ったり休業中だと言ったり、どちらが本当かは分からないが、とにかく自分を泊めたくないのだということは分かる。あからさまに拒絶された事には傷付くが、それよりも切羽詰った問題がある。今夜の宿だ。懇願するような目の洋子を前に、男は出口を指し示した。

「山道を下った所の道路を東に三十マイルも行けばモーテルがある。そっちに行け」

「無理よ。車がないの……」

「車がない? ここまでどうやって来たんだ?」

「バスで……」

「バス?」

男は呆れたように言うと天井を仰ぎ見た。わけが分らないと言いたげに首を傾げながら洋子に背を向け、カウンターの中に入って行く。タバコを一本出して火を点けると、煙を吐き出しながらまるで洋子を不審者のように訝るような目を向ける。押し黙り、何かを考えている。洋子はとても気まずい思いで、俯いて立ち尽くしているだけだ。

「どうしよう……ここに泊まれないとなると、どうなっちゃうの?」

洋子が絶望しかけたその時、入り口のドアが開いて救世主が現れた。ジミーが明るい笑顔で手を上げる。

「よう! ルーク!」

そして洋子の方を向いた。

「ハイ! ヨーコさん!」

「先ほどはどうも……」

洋子が頷いた。

「知ってるのか?」

驚いた顔をして男がジミーに訊いた。ジミーは笑顔を崩さず、むしろ得意げに答える。

「知ってるも何も、俺が連れてきたんだよ。お客さんだよ」

「勝手に客を連れてくるなよ!」

男が困り果てた声で抗議したが、ジミーは両手を広げて反論した。

「彼女、元々ここへ来る予定だったんだよ。山道を一人で歩いてたんだ」

「俺は聞いてない」

男はタバコを指に挟んだまま腕を組み、洋子を睨みつけたまま言い捨てた。洋子は黙って俯いたままだ。

 その険悪な雰囲気を察したジミーがカウンターに身を乗り出し、声のトーンを少し抑えて男に説明を始めた。

「お前は知らないと思うけど、六ヶ月前にこの町で事件があってさ……」

「ああ、聞いたことある。日本人の旅行者がクスリでラリッて発砲して人殺して、自殺したって話だろ?」

洋子は俯いたまま目線だけを上げて男をチラッと見た。男と目が合った。

「何だ? 違うのか?」

男が挑むように言った。

「違わないです……」

洋子は目を逸らし溜息と一緒に呟いた。

「おいおい、そんな風に言うなよ。彼女はそいつの婚約者だったんだ」

ジミーが同情を滲ませて説明した。

「婚約者……」

「明日、事件のことで警察に行かなくちゃいけないんだ。だから、ここに泊まれないと困るんだよ彼女」

男は相変わらず腕を組んだまま洋子を見ていた。洋子は気まずい思いでいっぱいだ。さらにジミーが諭すように言った。

「それにさ、いくら留守番っていっても、客の一人でも泊まらせればオーナーのスミスさんも喜ぶぜ。たまには仕事しろよ、ルーク!」

「大きなお世話だ」

男が無表情で言い返した。その視線は依然洋子に注がれている。ジミーはカウンターの後ろの窓を見遣ると大きな声を上げた。

「ああ、やばい! カミさん出てきちゃった! それじゃ、もう行くからさ。ヨーコさん、ここにいる間に一回くらい乗馬でもやってくれよな。ルークは上手いんだ。教えてもらうといいよ」

「余計なこと言うな!」

男が迷惑そうに言ったが、ジミーは構わず洋子に手を振ると走って行ってしまった。

 他に行く所さえあれば、自分も今すぐジミーのように飛び出して行くのに。窓の外を慌てて走っていくジミーを目で追いながら洋子は思った。

 男は暫く何かを考えている様子で押し黙っていたが、突然カウンターの中を出入り口に近い方へ歩き出した。さっきジミーが覗いた窓の下にある小さな棚から鍵をひとつ取り出し、カウンターへ放り投げた。洋子が顔を上げた。

「二号室だ。二階の、奥から二番目の部屋だ」

どうやら泊めてくれるようだ。気まずい感じは残るものの、とりあえず洋子は安心した。これで今夜の寝場所は確保できたのだ。

「ありがとう……あの、突然来て本当にごめんなさい……」

洋子は鍵を取りながら謝ったが、男はそっぽを向いたまま返事をしない。

「本当に感じ悪い人!」

心の中で吐き捨てるように呟くと洋子は階段へ向かった。重いスーツケースを両手で持ち、ゆっくりと階段を上がる。二、三段上がったところでふと両手が軽くなった。見ると、男が洋子のスーツケースを左手一本で肩の高さまで持ち上げ、スタスタと階段を上がっていく。廊下を進み、二号室の部屋のドアの横にスーツケースを下ろした。洋子が追いつくと、男は壁にもたれ腕を組んでいた。

「俺はベルボーイじゃない。チップなんか出すなよ」

嫌味たっぷりの言葉を放った男を、洋子はうんざりした顔で一瞥して目を逸らし「ありがとう」とだけ言った。長旅で疲労困憊なのだ。とにかく休みたくて仕方がなかった。それに部屋に入って鍵を閉めてしまえば、この男の顔を見なくて済む。

 洋子が部屋の鍵を開け、男は廊下を引き返していく。洋子はドアを開け、そしてギョッとした。

「ちょ、ちょっと! この部屋……」

洋子の叫び声に、廊下の途中で男が振り向いた。洋子は信じられないものを見たという顔で部屋の中を指差している。

「この部屋、埃だらけなんだけど!」

床や木製の家具の上は白い埃で覆われていた。ドアを開けたからか、舞い上がった塵が窓から射し込む西日の中でキラキラと光り、灰色の綿埃は生き物のように床を這って逃げていく。男は面倒くさそうに戻ってきて、部屋の中を覗いた。

「だろうな。俺が来てから二ヶ月、一度も掃除なんかしてないからな。自分が使う所以外は」

男は平然としていた。

「はあっ?」

思わず素っ頓狂な声を上げた洋子に、男が不機嫌そうな顔を向けた。

「何だ? 泊めてもらえることになったら、今度は部屋に文句をつけるのか?」

「ほ、他にまともな部屋はないの? こんな所じゃ寝られないわ」

洋子は必死に訴えたが男は悪びれた様子もなく口元を歪ませて笑った。

「他の部屋も似たようなもんだろう。俺の部屋はきれいだぞ。一緒に寝るか? どうなっても知らないぞ」

このセクハラ発言を聞き、洋子の顔は嫌悪感で歪んだ。今時そんな事は会社のオヤジだってしない。段々と顔がひきつってくるのが自分でも分かる。出来るなら、今すぐこの男を怒鳴りつけてここから出て行きたい。しかし、そんな事をすれば今夜は湖畔で野宿することになる。テントも無いのに。きっとこの男は、この招かれざる客が怒ってここを出て行くのを待っているのだ。挑発には乗るまいと必死で自分を抑え、洋子は努めて穏やかに訊いた。

「悪いけど掃除道具を貸してくれない?」

男は嘲るように笑った。

「自分で掃除する気か? そこまでしてここに泊まりたいのか?」

洋子は完全に頭にきた。男はまた廊下を引き返していく。洋子はもはや自分を抑えきれなくなり、遠ざかる男の背中に怒鳴った。

「ちょっと待ちなさいよ!」

立ち止まり、不機嫌そうに振り向いた男に洋子がまくし立てた。

「あなたは知ってるはずよね、私には他に行く所が無いって! 困ってる人を見るのがそんなに楽しい? あなたって人は……」

「黙れ!」

男がぴしゃりと言った。洋子は呆気に取られ言葉を失う。その洋子に男は怒鳴り返した。

「泊めてほしいって言うから泊めてやることにしたんだ! 俺はただの留守番で、客をもてなせなんて言われてない! 俺の仕事じゃないんだ! いいか?」

洋子を指差した。

「ここに泊まりたいなら自分を客だと思うな! 自分のことは自分でしろ! 俺の言うことに逆らうな! それから……」

男は自分の足元を指差した。

「掃除道具はこの下だ!」

洋子は怒りに燃えた目で、踵を返して廊下を歩いていく信じられないほど横柄な男を睨みつけた。男はさっき自分が出てきた部屋のドアの前で立ち止まった。

「ここが俺の部屋だ! 用がある時はノックしろ! 絶対勝手に入るなよ!」

「誰が入るか!」

洋子は日本語で吐き捨てるように呟いた。男には何となく分かったようで、ジロッと洋子を睨むと部屋に入り大きな音を立ててドアを閉めた。

 洋子は怒りが収まらないまま、男が言っていた場所から掃除道具を運んできた。スーツケースの中から取り出したタオルで鼻と口を覆い、頭の後ろで結ぶと部屋の掃除を始めた。


 男の自室は、まだ日が出ているというのに分厚いカーテンがぴったりと閉じられ薄暗い。窓の下にベッドがあり、壁に接したヘッドボードの横に会議室で使うような長机が置かれている。その上にはパソコンが二台。男はその内の一台のノートパソコンを起動させた。 

 長机とL字型になるように置かれた金属製のラックには電子機器が並んでいる。部屋の照明はつけず、薄暗い中にパソコン画面の緑色の明かりだけが浮かんだ。男は机の前にあるキャスター付きの椅子に座り、画面に映ったフォルダーのひとつをクリックした。その操作を数回繰り返すと、画面に小さな写真がたくさん現れた。その中のひとつを選びクリックする。画面いっぱいに映し出されたのは、海沿いの公園で大きな黒い船をバックに笑う洋子の写真だった。

 男は頬杖をつき暫く写真を眺めた後、携帯電話を取り出した。電話に出た相手に告げる。

「写真の女が現れた」


 洋子は掃除をしながら気が付いた。あの男は問題外として、少なくともここのオーナーはきちんとした人のようだ。家具などは壊れてもいないし痛んでもいない。きれいな家具の上に埃が積もっているだけだ。ベッドには全体に白い布のカバーが掛かっており、その上は埃だらけだが、注意深く取り除けばそのまま使えそうだ。きちんと掃除をすれば、きっと居心地の良い部屋になる。そう信じて洋子は掃除に没頭した。


「女から目を離すな」

電話の相手の指示に男は深く溜息をついた。

「そうくると思った……」

切った携帯電話を机の上に投げ出すと、椅子の背に深くもたれて呟いた。

「はぁ、面倒くせぇ……」


 掃除を終え、全身埃だらけになった洋子はシャワーを浴びた。バスルームから出ると窓の外はもう真っ暗だ。洋子は自分が空腹なのに気付いた。

「お腹空いたな……ご飯はどうなるんだろう……」

部屋のドアを開けて様子を窺う。ロビーも二階も静まり返っている。男は多分まだ部屋の中だ。顔は会わせたくない。昼間、車の中でジミーから湖畔のメインロードを南に行けばスーパーがあると聞いていた。洋子は財布をジーンズのポケットに入れ、部屋を出ると階段を下り外に出た。

 外は街灯がまばらにしかなく暗かった。それほど遅い時間ではないが、辺りに人気はまったく無い。少し不安になったが空腹には勝てず、ジミーが教えてくれた方向へ歩き出した。


「熱っ!」

洋子が入り口のドアを開けて外に出たちょうどその時、男は部屋の中で手にしていたハンダごての熱くなった先端を指で触れてしまった。こてが金属音を立てて机の上に落ちた。すぐに拾い上げたが机の白い天板に黒い跡が残ってしまった。

「ああ、机が焦げた……」

男が哀れっぽく呟いた。こてをスタンドに戻し、流水で指を冷やすためバスルームへ向かった。


 暫く歩くと、左の方からキラキラ瞬く光が洋子の視界の端に入った。目を向けると、湖畔を縁取る木立が途切れている箇所があった。車一台分の幅のその小道は、真っ直ぐと湖畔へ続いている。光は湖面から発せられていた。湖が光っているのだ。洋子はその光の正体が気になった。百メートルほどの小道は今は真っ暗だ。そんな暗がりに普段なら絶対に近付かないくらいの警戒心は持っているはずだったが、旅行中という開放感からか好奇心か、洋子は道路を横切り吸い込まれるようにその小道へと入って行った。


 男は机に戻ると作業を続けた。革製のブレスレットを取り出す。幅五センチほどあるそのブレスレットは中央に金属のプレートが付いていた。裏返し、プレートを留めている平たいマイナスのネジを外した。プレートの下になる部分の革をナイフで丁寧に抉っていく。厚さ五ミリ以上はある革だが、穴を開けないように慎重に。さっきハンダ付けした基板を抉った部分に収めた。プレートを付け直し、ネジを締めようとしたところで変な感じがした。さっきから女の足音が聞こえない。一階に下りていったのは分かっている。

「ソファに座ってテレビでも見てるのか……」

そう呟いて、またネジを締めようとしたがどうしても気になる。嫌な予感がして仕方が無い。

 男は立ち上がり部屋を出た。二階の廊下から一階を見渡したが女はいない。二階には上がっていないはずだ。一応女の部屋のドアを見た。ドアの下部の隙間から光は見えない。真っ暗だ。

「クソッ!」

男は悪態をつくと部屋へ戻った。パソコンの後ろから銃を取り出し、腰とジーンズの間に挟んだ。ベッドの上にあるベージュのポンチョを引っ掴むと部屋を飛び出し、階段を駆け下りて出口へ急いだ。


 緩やかな下り勾配の暗い小道を早足で抜け、洋子は湖畔へ出た。東の空に月が出ている。完全な満月だ。そしてもうひとつ月が見える。黒い鏡面のような湖に映った月が。さっきの瞬く光の正体は何だったのかと考えながら、洋子は湖畔をぶらぶらと歩いた。

 風が吹き、それまで穏やかだった水面にさざ波が立つと、月が無数に裁断され光の帯が湖面を踊った。洋子は立ち止まり、その光景に心を奪われた。銀色のリボンが右へ左へ泳いでいるようだ。対岸の木立に黒く縁取られ、湖面は光のショーを映すスクリーン。幻想的な月光の乱舞に言葉を失った。

 暫く眺めていると、遠くの方で遠吠えのような声が聞こえた。洋子はハッと我に返った。辺りを見渡しても誰一人いない。自分ひとりだ。夜の剝き出しの自然の中で。野生動物もいるだろう。そう思った途端、美しい銀色のリボンに見えた湖面の光が、獰猛な獣の牙や鉤爪のように思えてきた。それらがさざ波に乗って次々に襲い掛かってくる……。

 洋子は段々怖くなってきた。車の音が聞こえたが、木立に遮られているせいか遠くに思える。助けを呼んだところで聞こえはしないだろう。夜に一人でこんな場所に来るんじゃなかったと、今さらながら後悔をした。早鐘を打つ自分の心臓の音が耳につくようになってきた。呼吸も苦しい。すると突然、足元から二メートルほどの所にある小さな茂みからガサガサッという音がした。洋子は小さな悲鳴を上げ飛びのいた。

「やっぱり戻ろう」

そう思って振り返った時、洋子の目を強烈な光が射った。目が眩み、何が何だか分らなくなる。手をかざして目を細めると、それは車のヘッドライトだった。湖畔を洋子めがけて走ってくる。洋子は恐怖に襲われ後ずさった。

 車が停まり、ライトもエンジンもつけたまま運転席のドアが開き、人が出てきた。

「どうしよう……」

涙声で呟いた洋子はまた後ずさる。バシャンと水が跳ねる音がして、自分の右足が湖に浸かったのが分かった。

「逃げられない……」

恐怖に凍りついた足は全く動けないでいる。湖水に捕らわれてしまったようだ。車から降りた人物がライトの前を横切った時、それが誰なのかが分かった。レイクサイド・インの男だ。男は洋子のそばまで来ると咎めるような声を上げた。

「こんな所で何やってるんだ!」

洋子は恐怖で声が出なかった。男は洋子の腕を乱暴に摑んで引っ張った。

「早く車に乗れ!」

開いたままの運転席へ洋子を押し込んだ。

「奥につめろ!」

洋子は慌てて助手席へ移動した。男が車に乗り込もうとした時、洋子が申し訳無さそうに口を開いた。

「あの、私靴が濡れてるの……。あなたの車を汚しちゃうかも知れない……」

男はドアに手を掛けたまま動きを止めて洋子を見た。その目は不機嫌に細められている。

「嫌味か? 君が来るずっと前から、この車は汚れてるよ」

もはや何を言っても裏目に出るだけだ。洋子はうなだれて頭を抱えた。

 男は運転席に乗り込みドアを閉めギアを変えると、その場で乱暴に車をUターンさせ小道へ向かった。

「一体何考えてんだ! 暗くなってから一人で出歩くなんて! この辺はコヨーテも出るんだ、危ないんだよ!」

「コヨーテ?」

さっきの遠吠えはコヨーテだったのだろうか。洋子は背筋が寒くなり、しゅんとして素直に謝った。

 男は小道の出口まで来ると右にウインカーを出した。

「馬鹿らしい! こんなとこ人も車も通ってないのに!」

律儀にウィンカーを出している自分に小さな声で毒づいた。男がかなり苛ついていることは洋子にも分った。そしてこの男がレイクサイド・インに戻るつもりだという事も。このままだと夕飯にありつけそうもない。洋子は勇気を出して男に呼びかけた。

「あの……」

「何だ?」

明らかに不機嫌な声で洋子に顔を向けた。

「私お腹が空いてて、何か食べ物を買いに行こうと思って外に出たの。それで……」

男は洋子からゆっくり目を逸らすと、座席の背もたれに深く沈みこみ溜息をついた。

「そうか……。忘れてた、俺も腹ペコだった」

ポケットから携帯電話を出した。

「ピザでいいか?」

洋子がホッとして頷くのを見ると、男は電話を掛けた。

「サム? ルークだ。悪いけど、ピザを焼いておいてくれないかな? 今から取りに行く」

 電話を切ると右に出していたウインカーを戻した。そのまま左にハンドルを切り湖畔のメインロードを走り出すと、男は洋子に詰問口調で訊いた。

「買い物に行くと言ったな? じゃあ何であんな所にいたんだ? あそこには店なんかないぞ」

「歩いてたら湖が月の光でキラキラ光ってるのが見えて……それがすごくきれいで、つい……」

男は眉をひそめ疑わしそうに洋子を見た。

「だって本当だもん……」

洋子は心の中で主張した。

 洋子の説明に納得しきれていない様子の男は静かに口を開いた。

「いくらきれいでも、夜は危ないんだ」

「もう行かないわ」

洋子は俯いた。


 ジミーが教えてくれた方角に本当に店はあった。でも歩きで来たら相当時間が掛かることも分かった。店に入ってすぐ右側のレジカウンターの中から、額が広がった白髪頭の店主が笑顔で迎えてくれた。

「もうちょっと待っててくれ。今オーブンの中だ」

「悪いなサム」

店主は洋子に目を向けて微笑んだ。丸顔に豊かに茂る白い眉毛の下の細めた目が、温かい人柄を表していた。

「君がヨーコだね。ジミーから聞いたよ。私はサムだ」

「初めまして」

微笑んで挨拶を返した洋子に男が持って来た店のカートを渡した。

「何か食べられないものはあるのか?」

「無いわ」

洋子が答えると男は店の中を歩き出した。どうやらついて来いという事らしい。洋子は男の後ろをカートを押しながらついて行く。

 その店は少し大きめのコンビニエンス・ストアという感じで、食料品から日用品まで置いてある。ひとつひとつの種類は少ないものの、とりあえず必要なものは全て揃っているようだ。

 男はカートに野菜やチーズ、卵やベーコンなどを次々に入れていく。店を一回りし、レジカウンターに戻ると男が洋子に顔を向けた。

「必要なものがあったら今のうちに買っとけ。そう何回も車出せって言われても困るからな」

一言多いこの男に心の中で悪態をつきながらも、洋子は素直に頷き酒が置いてあるコーナーへ向かった。冷えたビールの六本セットをレジに置くと引き返し、今度はビールが二ダース入った箱ごと抱えて持ってきた。

「必要なものは今のうちにね」

カウンターに置かれた大量のビールを見て男が顔をしかめた。

「いったい何日居座るつもりだ?」

洋子はそっぽを向き、聞こえない振りをした。

「じゃあ、これもまとめて」

男がサムに言うと、洋子は慌てて財布を出した。

「ビールは自分で払うわ」

「いいよ。どうせ後で精算するから」

男は素っ気無く言うと、洋子を追い払うように手を振る。洋子は仕方なく財布をしまった。

 男がジーンズの後ろのポケットから金を取り出す時に羽織っていたポンチョがめくれ、腰とジーンズの間に挟まっていた金属の物体がチラッと見えた。洋子はいけない物を見てしまったと感じて咄嗟に目を逸らした。今のは間違いなく銃だ。この男が銃を持っている事には心底驚いたが、それを口に出すのが恐ろしく、黙ったまま男を観察した。男はサムとにこやかに言葉を交わして代金を払っている。

 この辺はコヨーテが出ると言っていたから、それで持っているのかもしれない。ここはアメリカなのだ。アメリカ人というのは、こういうものかもしれない。とにかくこの店で強盗するつもりはないようだ。

「それに、私を撃つつもりなら、もっと前にチャンスはあったはずよね……」

そう考えて自分を納得させ、洋子は何も言わないことにした。それに下手な事を言って、またこの男を怒らせるのも面倒だ。

 サムが商品を袋に詰めながら洋子に話しかけた。

「ジミーから聞いたけど、あんたはその……アキラと結婚するはずだったんだって?」

サムは親しげに「アキラ」と呼んだ。その顔は気遣わしげだったが、洋子は努めて明るく答えた。

「そうです。朗をご存知なんですか?」

「ああ、この町にいる奴はまず間違いなくうちの店に買い物に来るからね。あいつもレンタカーでよく来てくれたよ。笑顔が人懐っこくてね、よく憶えてるよ。すごいカメラ持ってたな」

サムは懐かしそうに言い、洋子は頷いた。

「彼はフォトグラファーだったんです。普段はチラシとか、カタログの商品を撮ってて。細かい物を仕事で撮ることが多かったせいか、一度アメリカの広大な景色を撮りたいって、彼の夢だったんです。『どうしても結婚前に一人で行かせてくれ』って。それで……」

洋子は言葉を切った。

「そうだったのか……」

サムは寂しそうに笑った。しんみりとした空気に男が茶々を入れた。

「気持ちは分かるな。女と一緒だと買い物だなんだで結局振り回されるからな」

洋子が男をじろっと睨んだ。

「何だ? 違うのか?」

男が挑むように訊くと、洋子は目を逸らし呟くように反論した。

「そりゃあ買い物もちょっとはしたいけど……振り回したりはしないわ……」

サムが話を続けた。

「俺にそのカメラ見せてくれてさ、熱心に説明してくれたよ。そのうち日本語が混じって、何言ってんだか分からなくてさ……」

「朗はいつもそうでした。私にも露出がどうのシャッタースピードがどうのって、カメラや自分が撮った写真の説明を楽しそうにしてました。私にも殆ど分からなかったけど……」

洋子が呆れたような笑顔で話すと、サムも第一印象通りの温かい目を細めた。

「俺はアキラに言ったんだよ。そのカメラで俺を撮れって。そしたらあいつ『せっかくだから、皆で撮りましょう』って。それで、俺と妻のアニーとあいつで店の前で撮ったんだよ。三脚立てて。その写真、出来上がったら送ってくれるって言ってたんだけど、あんた知らないかね?」

「……実は、送られてきた朗の遺品の中には、ここの写真は無かったんです」

洋子は申し訳なさそうに言った。

「別の場所の写真はあったんです。グランドキャニオンとか……。でもここの写真は一枚も無くて、カメラ本体にもデータカード自体が入っていなくて……」

「そうか……」

サムは残念そうに頷いた。

 洋子はレジのすぐ横にあるラックから絵葉書を一枚取り出した。太陽の光にキラキラと輝くシルバーレイクの写真が載っている。

「これと同じ葉書が届いたんです。もちろん朗が亡くなった後にですけど。『きれいな場所を見つけたから、暫く滞在する』って、ホテルの名前も書いてあったんです。私は、それがどんな所なのかこの目で見てみたくなって……。ここで買った葉書なんですね」

サムは微笑んだ。

「よかったら記念に持って行きなさい」

「本当に?」

洋子は喜んだが少し考えてから絵葉書をラックに戻し、苦笑いを浮かべた。

「やっぱりいいわ。出す相手がいないから」

 その時、タイマーがピピピと音を立てた。サムがカウンターを出て、店の奥にあるドアの中へ入っていく。暫くしてピザが入った箱を持って出てくると洋子に手渡した。

「熱いから気をつけて」

「はい」

洋子は笑顔で答えた。サムはピザの箱に手を置いたまま洋子に優しい口調で語りかけた。

「悲しい思い出もあるかも知れないが、ここはのんびりとした良い所だ。楽しんでいきなさい」

洋子は頷いた。ピザの熱とともにサムの温かさが染み渡っていく。するとサムが男に向かって大きな声を上げた。

「ルーク! ちゃんとヨーコの面倒見るんだぞ!」

男は嫌な顔をして舌打ちをした。

 何だか二人のやりとりは、父親と反抗期の息子のようだと洋子は思った。男が商品の入った紙袋とビールの箱を持ち出口へ向かう。洋子も後に続いた。

「そうしてると新婚さんみたいだな」

サムが楽しそうに笑った。

「いいかげんにしてくれ」

男がうんざりした声で返し、洋子もあからさまに嫌な顔をした。


 レイクサイド・インに戻る車の中、洋子は膝の上にピザの箱を置き、窓の外を眺めながらさっきサムに言われた事を考えていた。そうなのだ、朗があんな事にならなければ、本当に新婚さんだったのだ。今頃は新婚旅行でオーストラリアに向かう飛行機の中。朗と一緒に。こんなに怖い外国人とではなく。今は自分が外国人なのだが。

「はあ……」

何故、今の自分はこのような状況にいるのかと洋子は溜息をついた。悔しくて涙が出てくる。

 男は運転しながら助手席の洋子に目を遣る。何故あんな場所に一人でいたのかを考えていた。もしかして死ぬつもりだったのか。それにしては変だとも思った。着いたその日に死のうとしている奴が、泊めてくれとあんなに食い下がるだろうか。しっかり荷物が入ったスーツケースを持って来るだろうか。これからすぐ死のうって奴が、ホテルの部屋の掃除なんかするだろうか。

 溜息が聞こえ、また洋子を見た。窓に頭をもたせかけ、ぼんやりと外を眺めているが頬には涙が伝っている。男は顔をしかめて前を向き、口の中で呟いた。

「うわっ、泣いてるよ……面倒くせえなあ……」

 重苦しい雰囲気の車内に突然、洋子のお腹の音が大きく鳴り響いた。洋子は自分が情けなくて再び溜息をつく。どんなに悲しくても悔しくてもお腹は減るのだ。しかも、膝の上からは美味しそうなピザの匂いが立ち昇っているのだから無理もない。洋子は涙を拭いて運転席に顔を向けた。眉をひそめて自分を見ている男と目が合う。もしかしたら聞こえていないかもと思ったのだが、相当大きな音で鳴ったのだ。やはり奇跡は起きていないと分かった。気まずさと恥ずかしさに襲われたが、ここは開き直る事に決め、洋子は挑むような目で男を見返し自分の胃の辺りをさすった。「そうよ。お腹が空いてるの。悪い?」そう食って掛かりそうな洋子の顔を見た男は呆れたように首を傾げ、黙ったまま前方の道路に目を移した。洋子もまた窓の方を向いた。

「絶対違う。こいつは自殺なんて考えるような女じゃない」

男は確信した。


 レイクサイド・インに着くと、洋子は適当なテーブルを選んでピザを置いた。男はカウンターの上にビールとミネラルウォーターを置くと、カウンターの中にある家庭用の冷蔵庫を指差した。

「これは、あっちに入れておいてくれ」

また袋を抱えると、奥のキッチンへ入っていった。

「はいはい。私は客じゃありませんからね……」 

洋子はブツブツと文句を言いながら冷えたビールを二本カウンターに残し、ミネラルウォーターを冷蔵庫に入れると空いたスペースに詰められるだけビールを詰めた。

 男はキッチンから出てくると、今度はカウンターの中の食器棚を指差した。

「ここに食器が入ってるから、適当に使うものを出しておいてくれ」

そして二階の自室へ上がっていった。

「本当に人使い荒くない?」

洋子はまた不満を言いながら食器を出し、テーブルへ持っていった。皿とフォークをセットし、ビールを置くと男が階段を下りてきた。手に何か持っている。

「えっと、ミス……何だっけ?」

洋子が男を見て答えた。

「宮田洋子」

「ミヤ? なに?」

「洋子でいいわ」

「ああ、ヨーコか……これあげるよ」

男は手に持っていた物を差し出した。洋子がキョトンとしながら受け取ると、それは革製のブレスレットだった。幅五センチはあるタン色の分厚い革の中央に金属のプレートが付いている。そのプレートには、人だか動物だか良く分からない生き物が、おどけたような仕草で笛を吹いている姿が彫ってある。洋子は首を傾げ、まじまじとそれを見つめた。

「ココペリ、精霊だ」

男が言った。かなりごついデザインで男物だと思ったが、洋子は一目でそのブレスレットが気に入った。でも、まさかこの男から何かをプレゼントされるなど思ってもみなかった。受け取ってもいいものか洋子が戸惑っているのを察したのか、男が口を開いた。

「お守りなんだ。さっきみたいに暗くなってから一人でフラフラ出歩かれて、君に何かあるとこっちが面倒な事になる。ここにいる間だけでいいから着けててくれ」

何かにつけ嫌味たっぷりの男の言葉が気に障るが、洋子は頷いた。男は洋子の手からブレスレットを取った。

「手を出してみろ」

言われた通り洋子は左手を出した。男が洋子の手にブレスレットをくぐらせる。革の両端に細いスエードの紐が付いており、ころんとした青いビーズでまとめられていた。そのビーズでサイズを調整するのだが、洋子の手首ではいっぱいに締めても回ってしまう程大きい。男は洋子の手の甲を左手で握ると、右手でブレスレットを回らない位置まで引き上げた。

「痛っ!」

洋子は思わず顔をしかめた。男は洋子の顔を見ると唇の端を歪めて笑った。「ざまあ見ろ」とでも言いたげだ。

 この男の仕打ちには閉口するが、腕に着けられたブレスレットはなかなかいい感じだ。

「ありがとう。あの、ミスター……?」

「ルークでいい。皆そう呼んでる」

そう言うと洋子の脇を通りテーブルへ向かった。

「冷めないうちに食うぞ」


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