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一年後2

 狭い洋子の部屋の中、ルークはベッドとローテーブルの間に窮屈そうに片膝を立てて座り、点けたばかりのストーブに両手をかざしている。買ってきたビールを冷蔵庫に入れながら洋子が訊いた。

「どうしてここが分かったの?」

「それは秘密だ」と、意味ありげに笑いながらルークが答えると、それまで部屋の中に響いていたビールの缶同士が触れ合う音が止まった。ルークが視線を上げると、冷蔵庫の前でしゃがんだ洋子は顔を俯かせている。

 ルークは変わっていない洋子に安心していた。しかし洋子にとっては、変わらないルークの秘密主義が悲しかった。

「あなたは何でも知ってるのよね……」

皮肉混じりの洋子の言葉にルークは溜息を漏らした。

「……ビルだよ。あいつが教えてくれた」

「ビル? あの人、私には何も教えてくれなかったわ……」

洋子が不満そうに言うとルークは頷いた。

「らしいな。……あいつには、あいつの考えがあったんだ」

そのビルの考えとやらが何なのかは洋子には分からない。訊いてみたところで、この男がちゃんと答えるかどうかも。

 洋子は黙ったままルークに缶ビールを手渡す。ルークはそれを受け取りながら、少しだけ痩せたように感じる洋子の顔を覗き込んだ。

「元気だったか?」

「うん」

洋子は頷いた。実際ほとんど風邪すら引かない。身体だけは丈夫に出来ている。ルークがもし、そういう事を訊いているのなら。

「あなたはどうしてたの? ずっと心配してたのよ……」

一年間ずっと抱き続けていた懸案をやっと口にする事が出来た。ルークはビールの缶に唇を付けたまま苦笑いした。

「実は、あれから二週間意識不明だった。その後リハビリなんかで、社会復帰したのは一ヶ月前だ」



   事件から二週間後


 ビルは病院の廊下を小走りで病室へ向かっていた。数日前に意識が戻ったと聞き、仕事の合間を見付けてやっと今日駆けつける事が出来た。もう顔馴染みになった看護師のミセス・キングが、大きな体を揺らしながら病室から出てきた。

「あいつは?」

「今起きてますよ。まだ、たまに混濁しますけどね」

ホッとして病室に入ろうとしたビルをミセスキングが呼び止めた。

「あの……ヨーコさんて方は、ここに来ることは出来ないの?」

「ヨーコ? ……あいつが言ったのか?」

「たまに混濁すると言ったでしょう? うわ言でたまにね。というかしょっちゅう……」

ビルは溜息をつき首を振る。ミセス・キングが腰に手をあて、病室のドアを一瞥した。

「そのヨーコさんて方が来れば、すぐにでも良くなる感じよ」

何も知らないはずのミセス・キングに責められているような感じがする。

ビルは急速に乾いていく唇を舐めた。

「あんたがそのヨーコだったらなあ……」

「あら、残念ね。私結婚してるのよ」

「だろうね……」

去っていくミセス・キングの後姿を見送りながら、あの日から止まる事のない溜息をもう一つついた。

 ルークはベッドに横になったまま天井を見ている。意識は戻っても、まだ体を動かす事は出来ない。

「良かったな」

出来る限りの明るい笑顔を作りながらベッドを回り込んできたビルを、無表情のルークは目線だけで追った。

「あれからどうなった?」

祝いの言葉に礼の一つも返さないルークの問いに、ビルはすぐに真顔になった。

「終わったよ」

「シルバーレイクの件も?」

「ああ。アキラを撃ち殺したのは署長のブラウンだった。アンダーソンはもう諦めてた。FBIが来ると分かってたみたいだ。素直に従ったよ。ただブラウンがな……」

ルークは顔ごとビルに向けた。ビルは腕を組み、悔しさを滲ませた声で続けた。

「アンダーソンが説得したんだがな、奴は自分の銃をくわえて……」

ルークは再び顔を天井に向けた。暫く黙り込んだ後「そうか……」と一言だけ呟いた。

「ヨーコはどうした? 無事なのか?」

ビルはうんざりした。上掛けから出ているルークの左腕のブレスレットを横目で見る。ビルは大きく息を吸い込んだ。

「ああ。無事だったよ。予定通りの日に元気に日本へ帰った。事件の事は早く忘れたいって言ってな。お前の事もだ!」

「そうか……」

ルークは天井を見たまま頷いた。その声は素っ気無いが、ビルはこの男の性格を熟知している。諭すような口調で続けた。

「いいか、彼女の名前はヨーコだ。お前よりジョン・レノンの方が好みに決まってる」

ルークは横目でビルを見た。

「いまいちだったな、今の……」

確かに自分でもそう思ったが、何よりこいつに言われた事に腹が立つ。

「当たり前だ。笑わせてどうする? 傷口開くぞ」


 ルークは脱いでいたコートのポケットから折り畳んだ紙を出して洋子に差し出した。受け取って見ると、それはシルバーレイク・タウンの観光案内だった。大きな一枚の紙を折り畳んであるものだ。シルバーレイク・タウンの地図が絵で描かれており、数少ない店などの場所が矢印で示されている。もちろんレイクサイド・インとジミーの馬場、サムの店も載っている。ティムが経営していた酒場は名前が変わり、レストランと書かれている。現在は多少賑わっているのだろうか、洋子の知らない新しい土産物屋もあるようだ。そもそも観光案内など一年前は無かった。

「行って来たの?」

「ここに来る前に寄ったんだ。サムに渡す物もあったし」

 地図の面を内側にして折り畳むと、その観光案内の表紙にあたる部分には満月に照らされたシルバーレイクの写真が載っている。洋子は初めて見るその写真に、懐かしさを感じた。

「私、見たわこれ……」

首を傾げたルークの目を見て洋子はやっと思い出した。観光案内をローテーブルの上に置き、写真を指差して続ける。

「ほら、私が着いた日の夜、一人で湖畔に行ってあなたに怒られたでしょ? その時、やっぱり満月で……本当にこんな感じだったの」

ルークは暫く黙って洋子を見ていた。

「……何の写真だか分かるか?」

「えっ?」

訊き返した洋子の目を真っ直ぐに見つめながらルークが重ねて訊いた。

「誰が撮った写真だか分かるか?」

「えっ? まさか……」

洋子は写真をよく見た。すると、隅のほうに“Photo by Akira Goto”とある。

「これ……朗が撮った写真なの?」

「知らなかったのか。家族には連絡が行ってると思ったのに……」

呟いたルークに洋子は首を振った。あの日、「朗の遺品がある」とティムが言ったのは洋子を連れ出すための嘘だったと分かっていたし、写真の事はもうとっくに諦めていたのだ。

「朗の家族と連絡取ってる訳じゃないのよ。でもどうして……」

「アンダーソンだ。あいつが持ってた。データカードは処分されてたけど、あいつが自宅のパソコンに写真のデータを取り込んでた。写真を見て、処分するのが惜しくなったらしい。警察の三人の中で、あいつだけは地元の人間なんだ」

「そうだったの……」

何だか滑稽に思えた。自分が捜していた物は、着いたその日にもう見ていたのだ。そして、ずっと疑問だったことの答えが分かった。何故、朗があの小さな町に三日間も滞在していたのか。朗は待っていたのだ。この写真を撮るために。満月になるのを。

 ルークはてっきり洋子が泣くと思っていた。しかし洋子は懐かしそうに愛おしそうに、その写真を眺めている。その写真は、決して上質とはいえない紙に印刷されてもなお、シルバーレイクの幻想的な美しさを見事に映し出している。洋子は観光案内から目を上げて微笑んだ。

「捜す価値はあったと思わない?」

ルークは口元に微かな笑みを浮かべて頷いた。

「ああ。すごい写真だ」

 洋子は観光案内をテーブルに置き、上目遣いに神妙な顔でルークを見つめた。

「事件のことで……まだ何かあるの?」

「えっ?」

ルークは不思議そうな顔をした。

「そのことで来たんじゃないの?」

「……そうか、言ってなかったな。俺、FBIは辞めたんだ。今は家に戻って親父と一緒に仕事してる。馬の世話をしたり、観光客のガイドをしたり……」

「ガイド?」

洋子は素っ頓狂な声を上げた。FBIを辞めたというのも驚いたが、あれだけの大怪我をしたのだから無理もないと思った。それよりもルークがガイドをやっているというのが何よりも驚きだ。

「あなたがガイド? そんなに無愛想で?」

「何だよそれ、ひどいな……」

ずけずけとした洋子の物言いに呆れたルークは、天井を仰いで背後のベッドにもたれ掛かった。洋子もさすがに言い過ぎたかと思ったが、事実なのだから仕方が無いとばかりに反論した。

「だって! 初めて会った時のあの態度。感じ悪いったらなかったわ」

ルークはその時の事を思い出した。寄り掛かっていたベッドから身体を離すと、ローテーブルに腕を置き真剣な顔で口を開いた。

「実は……君を知ってた……」

その言葉に洋子は眉根を寄せた。いったいこの男は、どれほどの嘘をついていたのか。洋子は不信に震える声を漏らした。

「……どういう事?」

「アキラの遺品の中に君の写真があった。恋人だろうって事はすぐに分かった。もちろん顔だけだ、名前とか詳しい事は知らなかった。日本で撮られた写真だし、日本に住んでいるんだろうと思ってて。突然目の前に現れたんで驚いたんだ。君の目的も分からなかったし、危険だと思った。嫌な思いさせて悪かったな……」

何も知らずにいたのは、やはり自分だけだった。ルークの謝罪にも素直に頷く事が出来ず、ただ洋子は俯いただけだった。



   一ヶ月前


 FBIの支局から出てきたスーツ姿のルークをビルが呼び止め、お茶に誘った。

「何だ? 話って」

「いや、本当にお前辞めるんだなあと思って……」

大通りから一つ入った場所のカフェ。クリーム色のロールカーテンが下げられた窓際の席で、向かいに座るルークの顔を見ながらビルが感慨深げに首を振る。一方ルークは「何を今さら」と言いたげな冷めた目をして腕を組んだ。ビルはおもむろに札入れから小さく畳んだ紙を出してルークの前に置いた。

「辞めるんだったら、もういいだろうな……」

ルークはその紙を取って開き、それから視線だけをビルに向けた。

「何だこれ?」

「ヨーコの運転免許証だよ。一年前、荷物を返す前にコピーしておいた」

ビルはルークが見ている紙の一部を指差した。

「これがヨーコの住所だ。お前が知りたいんじゃないかと思ってな。一度会いに行って来いよ」

ルークは目を背けると、大きな息をついて紙をテーブルに置いた。

「俺に会ったって、事件の事を思い出すだけだろう。彼女は忘れたいって言ったんじゃないのか?」

「あれは嘘だ。最後までお前の事を心配してた。俺が何も教えなかっただけだ」

「……おい!」

あっさりと言い放ったビルを、ルークは目を細めて睨んだ。しかしビルはそんなルークの視線には慣れっこになっており、全く怯む事無く真顔になって言い返した。

「仕方なかった。俺はもう、お前は助からないと思ってた。お前のあんな姿を彼女に見せられるか!」

ルークは口をつぐみ、ビルから目を逸らした。ビルはルークを指差し、なおも責め立てる。

「お前が悪いんだ! 撃たれたりするから!」

ルークは腕を組んで椅子の背にもたれ、無茶苦茶な事をまくし立てるビルを素っ気無く遮った。

「あれから一年近く経つんだぞ。もう彼女にはジョン・レノンがいるんじゃないのか?」

言葉を切ったビルは目の前に置かれたコーヒーの両脇に腕をつき、情けなくて目も当てられないといった表情で首を振った。

「お前バカだなあ……つまらない事言うな!」

「そっちが言ったんだろ!」

さすがに腹が立って声を荒げた。そのルークに向かってビルはコーヒースプーンを突きつけると、諭すような柔らかい口調になった。

「いいか? ジョン・レノンはもう死んでる。アキラも死んだんだ。だがお前は生きてる。生きてる奴が生きてるうちに努力しないでどうする。……それにお前、彼女に対して責任があるだろう?」

ルークは眉をひそめてビルを見た。

「責任? 何の?」

「もしかしたら……彼女、今頃一人でお前の子供を育ててるかも知れないぞ」

ルークはそこそこに混雑している店内を見渡し、テーブルに肘をつくと身を乗り出して声をひそめた。

「何か誤解してるようだから言っておくけど、彼女と何かあった訳じゃないんだ」

「そうかあ? ずいぶん深い仲だと思ったんだがなあ……」

こんなデリケートな話題で声のトーンを全く下げようとしない無神経なビルに、しかも痛くも無い腹を探られ不愉快な事この上ない。しかも何もしなかったというより、出来なかったのだからなおさらだ。

「何もない!」

その日一番の険しい顔で断固として言い張った。

 洋子があの町に来てからの事は順を追って全て思い出せる。医者にも脳には異常は無いとお墨付きを貰った。記憶力には絶対の自信がある。そうでなければ捜査官など務まる訳が無い。しかしビルは疑わしそうに問い詰めた。

「本当に全く何もなかったのか? 彼女に指一本触れてないって言えるのか?」

一瞬ルークの顔が引きつったのをビルは見逃さなかった。勝ち誇ったように腕を組んで胸を反らす。

「ほら、やっぱり」

「キスしただけだ。しかも額だ」

隠すほどの事では無いと判断したルークは正直に白状した。変なところで隠し事をするから余計に疑われるのだ。しかも相手が悪い。あまり諸手を挙げて認めたくはないが、この仕事の全てはビルから叩き込まれたのだ。アカデミーで学んだ事など、この男の下についてから現場で培ったものに比べれば時間の無駄だったと自信を持って言える。

「額?」

しかしビルは眉をひそめる。ルークは笑い話だと言わんばかりに、無理に笑顔を作った。

「一度唇にしようとしたら殴られそうになって……」

「怖くなったのか?」

ルークは歯軋りしたが、それを悟られないようにすぐに平静を装った。

「きっと文化の違いだろう」

「お前ら子供か?」

ビルに小ばかにされ、ルークは腕を組み不機嫌そうに椅子の背にもたれた。

「言わなきゃよかった……」

ルークは心底後悔したが、それでもビルはしつこかった。

「正直に言っちまえよ。まあ、彼女は要注意人物だったからな。でも職務規定違反のことならもうお前には関係ないだろ」

「何だ? 職務規定って……」

キョトンとして尋ねたルークにビルは呆れ返った。

「もういいよ……。あ、それからお前がヨーコのために使った金は、退職金から引いておくからな」

「はあっ?」

思わず大声を上げ、腰を浮かしてビルに詰め寄ったルークに店内の客から注目が集まった。しかしビルは涼しい顔でコーヒーを啜って答える。

「当然だろ?」

ルークは呆然とビルの顔を見た。「そんなものは必要経費だ」と反論しようとしたが、レストランで食べた豪華なランチや高かったワインを思い出し言葉を飲み込んだ。

「それは……まあ、仕方ないか……」

自分に言い聞かせるように呟いた。

 落ち込みながら力無く腰を下ろしたルークにビルは真剣な顔で話を戻した。

「とりあえずヨーコに会って、元気になったことを知らせてやれ。あれだけ心配してたんだ。今彼女が幸せなら、それを確認して来い。俺のためだと思って」

「何で?」

もはやルークのテンションは下がりきっている。頭の中ではシルバーレイク・タウンで使った金を計算中だ。そんな事にはお構い無しに、ビルは首を振りながら苦悩の表情で続けた。

「俺は責任感じてるんだよ。追い出すように帰しちまったからな……俺が若い連中に何て陰口叩かれてるか知ってるか?」

「……知る訳ないだろ」

「あんな父親だったら最悪とか、男の燃えカスなんて言われてるんだぞ! お前のせいで!」

ルークはうんざりした顔で運転免許証のコピーを手に取った。

「気が向いたらな……」

「おい、頼むよ……」

今度は泣き落としで来たビルの顔の前に、ルークはコピーを突きつけた。

「大体なんだ、この住所。漢字か? こんなの読めないぞ」

「それくらい自分で調べろ」



   三日前


 フェアストーン家の厩舎の前。馬にブラシを掛けていたルークの元へアンソニーがやって来た。

「お前そろそろ仕事切り上げろ」

豊かなたてがみを撫でながらルークはアンソニーの言葉に頷いた。

「分かった。それじゃコーヒーでも淹れるよ」

「違う! そういう事じゃない。お前休暇を取れ」

「はあ? 仕事初めて一ヶ月も経ってないのに何で休暇なんか……」

戸惑うルークにアンソニーはにっこりと笑った。

「お前頑張ってるからな。休暇とって旅行にでも行って来い」

旅行と聞いてルークはぴんと来た。アンソニーは今思いついた振りをして手を叩く。

「行き先はそうだなあ。日本なんてどうだ?」

予想したとおりの地名が出たことにルークはうんざりした。あからさまに嫌そうな顔をしてアンソニーに詰め寄る。

「皆は俺に何を期待してるんだ?」

「お前に期待してる訳じゃない」

穏やかな顔できつい一発を放ってくる。それなら、洋子に何を期待しているのか。しかし自分の口からその名前を出すのが悔しい。

「俺は旅行なんか行かない! 休暇も要らない! ここでやる事がたくさんあるんだ!」

息子は頑固そうな目を父親を向けた。父親はさらに頑固そうに息子を見返す。

「ここのボスは俺だ! お前は俺の言うことを聞くんだ!」

息子の人格を無視したような、その横暴さにルークは呆れ返って言葉も出せない。父親は依然頑固な目に非難の色を滲ませた。

「お前、約束は守ったのか?」

「クソッ……聞かれてたか……」

口の中で呟いた息子は目を逸らして舌打ちした。既にこの口論の勝敗は目に見えている。父親は息子に力強く指を突きつけた。

「約束も守れないような奴はここにはいらない! 分かったら、さっさと日本へ行け! いいか、スカイウォーカー君!」

意気揚々と去っていく父親の背中を見つめ、息子は深い溜息をついた。


「お父さんは元気?」

洋子が訊いた。

「ああ親父か。元気だ。元気過ぎて困ってるよ……」

ルークはうんざりして答えた。家を出て来た時の事が頭に浮かぶ。特にどこに行くとは言ってないにも関わらず、全てを見透かしたような顔で笑って手を振っていたのを。そして安心したような顔の洋子を見て、ふと思い出した。

「親父の事で君にお礼を言わなきゃいけなかったんだな。親父を助けてくれたんだって? おかげで掠り傷で済んだよ」

「そんな……助けたなんて、私は何にもしてないわ」

「親父が、君に会いたがってた」

 それを聞いて洋子は嬉しそうに微笑んだ。

「私も会いたいわ……」

アンソニーのことを思い出す。あの温かい手で包まれ、どんなに救われたかを。洋子は膝の上の両手を組んだ。あれから一年、この手はもう冷え切ってしまった。

 俯いた洋子の顔がとても寂しそうで、ルークは目を逸らすと部屋の中を見渡した。狭いお陰で部屋の中は既に暖まっているが、白い蛍光灯の灯りが寒々しい。四角い箱のような建物に整然と嵌め込まれた幾つもの部屋。その中の一室が洋子の家だ。このカプセルのような場所で、朗が殺されてから洋子が一人きりで膝を抱えている姿を想像するのは容易い。ルークは手を伸ばしたが、それが洋子の身体に触れる事は無く、彼女のビールの缶の手前で止まった。

 視界の隅にルークの手が入り、洋子は顔を上げた。真面目な顔で真っ直ぐに見つめてくるルークと目が合った。一年前と変わらない完璧な唇が躊躇いがちに開く。

「ヨーコ……親父に、会いに来ないか?」

その誘いに胸がチリチリと音を立てる。今すぐにでも行きたい。

「当分は無理よ……。海外旅行に行けるほど、お金も時間も余裕がないもの……」

 洋子はさらに寂しそうに俯いてしまった。不意に部屋の中の空気が重くなる。ルークはぎこちなく笑うと慌てて付け足した。

「実は、あそこなかなか大変なんだ。今まで親父がいい加減に経営してたのが分かって。新しい事も始めようと思ってるんだけど、手が回らないんだ。……君に手伝ってもらえたらと思って……」

「はあ?」

 ルークの言っている言葉の意味が分からず、洋子は眉をひそめて首を傾げた。

「何なの? アルバイトの面接をしにここまで来たの? あいにくだけど仕事なら間に合ってるわ」

ルークは苦笑いして溜息をついた。

「悪かった。今のは忘れてくれ……プロポーズのつもりだったんだ」

 部屋の空気も洋子の思考も止まってしまった。動いているのはルークだけだ。大きく息をつき、気まずそうに洋子から目を逸らした。急に洋子の心臓が大きな音を立てて動き始め、息が苦しくなる。回らない頭で何とか言葉を探し出そうとした。

「あ……あの、ルーク?」

「ザックだ」

「へっ?」

「ルークは本当の名前じゃない。ザッカリー・フェアストーンていうんだ」

 まるで飼い犬でも紹介するように本当の名前を告げられ、洋子は唖然とするしかなかった。この一年、夢の中で呼び続けたその名前すら嘘だった。洋子の顔が見る見るこわばっていく。

「この男……ふざけんじゃないわよ!」

心の中ではそう叫んでいた。しかし、感情を素直にぶつける事すら今は悔しい。

「ザッカリー……。そう、可愛い名前ね……」

 洋子の言葉には明らかに棘がある。

「それはどうも。……怒ってるのか?」

「ええ、怒ってるわよ! 当たり前じゃない!」

洋子は堪らずに感情を爆発させた。結局、自分はこの男の事を何も知らないのだ。悔しさに恥ずかしさが入り混じり、引き結んだ唇が震える。

 ザックは溜息をついて背後のベッドに寄り掛かり、自問するように呟いた。

「何でプロポーズして怒られなくちゃいけないんだ?」

「よく考えてよ! プロポーズの後に自己紹介なんておかしいと思わない? 普通じゃないわよ!」

「またか……」そう思ったザックはうんざりした顔で開き直った。

「仕方ないだろ! そんな時間は無かった。君だって分かってるだろ!」

「まただわ……」洋子も同じ事を思った。求婚している立場にも関わらず、その相手を逆に責めるというこの態度。しかも今まで何の音沙汰も無く、いきなりやって来ていきなりのプロポーズ。「はい、喜んで」と承諾するとでも思っているのだろうか。どれだけ自分に自信があるのだろう。洋子はザックを睨みつけた。

「あれから一年経つのよ。もし私に恋人がいたらとか、そういう事は考えないの?」

ザックはシンプルで何の色気もない洋子の部屋を大げさに見回した。

「恋人がいるようには、とても見えない」

図星なだけに悔しさが増す。洋子は歯を軋らせた。

「わ……私、言っておくけど、さっきまで男の人と食事してたのよ!」

決して嘘ではないが、多少の後ろめたさは否めない。それを察したのか、ザックは唇の端を歪めて短く笑った。

「それにしてはずいぶん帰りが早いな。楽しかったか?」

楽しくなかった原因はこの男にある。しかしザックはさらに分析を重ねる。

「酒までは付き合ってもらえなかったか。それで一人で飲み直そうと思ってた……そんなとこか?」

全部お見通しだとでも言いたげな態度が癪に障って仕方が無い。この男といるとおかしくなりそうだ。洋子は黙ったまま、目の前の憎たらしい男を見返した。

 二人は睨み合いを続けている。相変わらず怒った顔がきれいだと思いながら、ザックは洋子を見ていた。

「断るわ」

洋子が静かに、そしてきっぱりと言った。ザックは頷きながら洋子から目を逸らし、頬杖をついていた手に額を乗せた。薄いベージュのカーテンが掛けられた窓に目を遣り、静かに長い息を吐く。こんなに遠くまで来た挙句、こんな結果を招いた自分の愚かさに呆れたかのように。

 ザックは何も訊いてくれない。この拒絶の理由さえも。あと数分もすば、ザックは立ち上がりこの部屋を出て行くだろう。そうなれば、今度こそ本当に二度と会うことはない。

「ねえ……」

にじり寄った洋子を、ザックは「もういい」というように右手を出して制した。洋子がその手を摑んで下に下ろす。傷付けたいわけではなかった。でも、ずっと自分自身を隠し続けたこの男に訊かなければいけない事がある。

「ザックでもルークでも、どっちでもいいわ。聞いてちょうだい!」

下ろしたザックの手を押さえたまま洋子が言った。ザックは黙ったまま目線だけを動かして洋子を見る。

「私には分からないの。何であなたが私と結婚したいのか。プロポーズの前に言うべき言葉があるでしょう?」

「迎えに来るって約束しただろ。忘れたのか?」

 ザックがその約束を憶えていたと知って洋子の胸は締め付けられた。自分はといえば、もちろん忘れた事など無い。でも、果たされなかった約束として既に諦めていた。洋子は俯きそうになる顔をグッと上げ、自分に咎めるような視線を向けるザックを見据えた。聞きたいのは、そういうことではないのだ。

「だから、何でそんな約束をしたの?」

洋子の問いにザックは黙り込んだ。一度口を開きかけたが、また閉じてしまった。困ったような顔で洋子を見ている。

 洋子は自分がとても意地悪な事をしているような気がしてきた。一年前、既にお互い分かっていた事だ。だけど、どうしてもこの男に言わせたい。もし言わないのなら、この部屋から追い出してやろうと思っていた。初めて会った時、ザックがレイクサイド・インから自分を追い出そうとしたように。それでも、洋子には分かっている。たとえ間違っても、この男はお願いなんてしないだろうという事を。

 ザックは黙ったままだった。眉根を寄せたその顔は苦しそうにさえ見える。

「やっぱりダメかも……」

洋子の目に涙が滲み、顔を俯きかけた。

「君を愛してる」

その声は半分ふてくされているように聞こえた。でも、それで充分だった。一年前、同じ唇から出てきた数々の言葉達は洋子の心を深く抉っていった。そしてその唇から語られた真実は、どれも残酷なものばかりだった。それでも今のそのたった一言が、洋子の心に開いた穴をゆっくりと甘く満たしていく。そこから溢れ出した想いは涙となって頬を伝った。

 ザックは少しだけ安堵していた。ずっと言えなかった言葉は、口に出しても何の違和感もなかった。洋子が泣きながら頷いている。

「分かった……あなたと結婚する。連れてって……」

ザックは天井を見上げ、今まで止めていたように感じる息を吐き出した。そして肩を震わせながら俯いて泣いている洋子を強く抱き締めたい衝動に駆られた。本当は、マンションの角を曲がってきた洋子を見た時からそう思っていた。出来なかったのは、もしかしたら洋子はもう変わってしまったかも知れない、そんな懸念があったからだ。きっと、くそったれビルの言うとおり、拒絶されるのが怖かったのだろう。もちろん、そんな事を誰かに訊かれても絶対に認めはしないが。ザックは腕を伸ばした。しかし洋子を抱き締めることはせず、震える肩に手を置いただけだ。ザックもまた、この女から聞いていない言葉がある。

「何で、俺と結婚する気になった?」

洋子はびしょ濡れの顔を上げた。ザックを見つめる間にも、とめどなく涙が溢れ出している。洋子はしゃくり上げながらザックの問いに答えた。

「あなたを愛してる」

舞い降りてきたその言葉を、胸に閉じ込めるようにザックはきつく目を閉じた。すぐに目を開けると、何か言って欲しそうな顔で洋子が見つめている。しかし素直に喜んでみせるほど単純な男ではない。別に洋子が悪いわけではなく、こんなに面倒くさい訳あり女を愛してしまった自分に責任がある事は分かっているつもりだ。子供の頃から繰り返し見た映画のワンシーンを再現するつもりで、唇の端を歪めて笑う。

「知ってる」

 相変わらずの減らず口に「何よ、それ!」と返そうとした洋子だったが、気が付けばザックの腕の中にいた。懐かしいタバコの香り、重なる鼓動。そこにいれば、もう何も怖いものはないと思える。流れる涙をザックが親指で拭った。以前にもそうしてくれたように。ザックの大きな掌が頬を包むと、微笑んだ洋子の目からまた一粒の涙が落ちた。そしてゆっくりと顔を寄せてきたザックに向かって洋子が口を開く。

「ねえ、ここに泊めて欲しいなら、自分を客だと思わないでね」

「黙ってろ!」

 洋子の手をしっかりと握ったザックの左腕にはココペリのブレスレットがある。革の色は変わってしまったけれど、いつもと変わらない仕草でココペリは笛を吹いている。


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