月曜日4
リンジーとアンダーソンは、割れた窓からレイクサイド・インに入った。ロビーは倒れたテーブルと壊れた椅子が転がり、ひどい有様だ。二階の一つの部屋のドアが開いている。アンダーソンが指差した。
「あの娘が泊まってた部屋だ」
二人で部屋を調べたが、特に怪しい物は無かった。ベッド脇のチェストの上にセミショルダーバッグが置かれている。リンジーがバッグの中を調べた。財布や化粧品など、特に何の変哲も無い若い女性の持ち物ばかりだ。
「相当急いで逃げたのね。こんな物置いていって……」
リンジーは飛行機のチケットが挟まったパスポートを開いた。
「へえ、あの娘あれで二十七歳なの……」
小ばかにするように呟き、パスポートをバッグに戻す。
洋子の部屋を出た二人は、階段横の突き当たりにある閉じられたドアの前に立った。
「ここがルークの部屋だ」
アンダーソンがノブに手を伸ばしたが、ドアには鍵が掛かっている。
「カウンターに合鍵があるかな?」
アンダーソンが階段を下りようとすると、リンジーが銃を抜いた。
「面倒だわ」
リンジーがドアに二発発砲すると、古い木のドアはいとも簡単に壊れた。アンダーソンは「やれやれ」というように溜息をつく。
洋子の部屋は午後の陽射しが入り眩しいほどだったが、ルークの部屋はカーテンが引かれ薄暗い。電気を点け、その異様な部屋に二人は黙り込んだ。洋子の部屋に入った時は、落ち着いた居心地の良さそうな雰囲気を感じた。この部屋も本来そうなのだろう。同じ壁紙に同じ家具が使われていても、長机の上のパソコン、壁のように部屋の真ん中に置かれた電子機器が載った金属製ラックのため、アンバランスさが強調されている。リンジーが呟いた。
「あの坊や、オタクだったって訳?」
「いや、違うね」
アンダーソンがラックに並んだ機器を眺めた。自分も見慣れたマイクつきの無線機を見つけ、ボタンを押したがどこにも繋がらない。机の上のパソコンを起動させた。電源が入り、ウィンドウズの初期画面が現れたが、データは何も入っていない。隣にもう一台パソコンが置いてあった形跡がある。持ち出された形跡も。本体から外されたままのケーブルが机に乗っている。自分達が知りたい事は、その持ち出されたパソコンの中にあるのだろう。
リンジーは部屋の隅にある旅行鞄を開けた。中身は洗濯された衣類と私物だけだ。
「二ヶ月ここに住んでて荷物を解かないことってある? 荷物をまとめたのよ。あの二人駆け落ちでもするつもりだったの?」
しかし女の部屋の荷物はそのままだった。ルーク一人でどこかへ行くつもりだったのか。リンジーは立ち上がり出口へ向かった。ここからは何も出てこない。
「行きましょう」
リンジーは部屋を出て行ったが、アンダーソンはもう一度部屋の中を見回し、感心したような声を上げた。
「ふ~ん……」
ルークと洋子を乗せたマックスは、山の中を木と木の間を縫うように走っていく。洋子はずっと目をつぶっていた。風と木が強く擦れ合う音、息苦しいほどの疾走感の中に、時折ルークのポンチョから微かにタバコの香りが漂ってくる。激しく揺れる馬の背の上が怖くて仕方の無い洋子は、頭の中で色々と別のことを考え、何とかこの状況を紛らわそうとした。
例えば、自分は捕らわれそうになった姫で、ルークは白馬に乗った王子様。二十七にもなってこんな事を考えている自分にもゾッとするし、何よりお尻が痛くてそれどころではない。しかもこの馬の毛は白ではなく茶色だ。洋子は溜息をついて首を振った。
「じっとしてろ!」
途端にルークの叱責が飛んでくる。これ以外にも、洋子が動く度に悪態が飛んでくるのだ。王子様は絶対に言わないだろう品の無い言葉で。
洋子はそっと目を開けた。すると自分のすぐ傍らを物凄い勢いで枝が通り過ぎて行った。洋子は慌てて下を向くとルークの胸に額をつけ、再びきつく目を閉じた。
レイクサイド・インの前では、リンジーとティムが相談をしている。ブラウン署長とアンダーソンは既に引き上げていた。ポールがティムに近づいてきた。
「俺達ももう行くぜ。予定が狂うとヴィクターの機嫌が悪くなる。こっちが殺されかねないからな」
女達を乗せたトラックは走り去った。
パトカーの中に移動したリンジーはティムに地図を指し示した。
「きっとこの辺りだわ。ここのフェアストーンを捜せばいいのね。……まあ確かに町の出口は私達が見張っていたし、道路は山を迂回するから、馬で山の中を逃げる方が早いかもね。意外と賢明ね、あの坊や。ジミーの話じゃ乗馬の腕前も相当みたいだし。でも馬じゃそんなに遠くへは行けないわ。絶対に手を貸す者がいるはずよ。あの二人に誰が手を貸すかしら……」
「あの野郎……」
ティムはリンジーの推察など耳に入らない様子でブツブツと文句を言い続けている。リンジーはパトカーのエンジンを掛けた。
「大丈夫。私が運転していくわ。ひとまず私の家に寄ってちょうだい。私の車で行きましょう」
山を抜けたマックスは、オレンジ色の岩と潅木、サボテンが乱立する砂地を走っている。強い陽射しが照りつける中、洋子はもう体の力が抜けていた。ただルークの背中に回した自分の手をしっかりと握り、舌を噛まないように歯を食いしばっている。
ルークは極力人目に付かないように、目隠しになりそうな物の間を選んで走っていく。いくら手付かずの荒野といえど、今時馬が疾走しているのを見掛ければ不審に思うだろう。誰かに見られたならば通報される危険もある。ルークは周囲に目を配りながらも、洋子の体が左右に振られる度に片手で支えていた。
洋子は意識が遠のきそうになる中、マックスの力強く大地を蹴る蹄の音と、次第に荒くなってくるルークの息遣いだけを聞いていた。
山道を下ったトラックの中で、運転手の男はフェアストーンのことが気になっていた。特に親しかった訳ではない。奴には親しい仲間などいなかった。金持ちの白人が生徒の大半を占めるその大学の中で、奴はいつも一人だった。そのせいか、変な風に目立っていたのを憶えている。話をしたのは一度だけだ。同じ寮にいたから。その時、奴の目の中に何かゾッとするものを見た覚えがある。それが、どんな種類のものかは忘れたけれど。
あの男は卒業後どうしたのか思い出そうとした。しかし、どうしても思い出せない。運転手はバックミラーに映る、今しがた自分達が下ってきた山を見遣った。そして思い出せないのではなく、自分は知らないのだと気が付いた。
遠くに荒野の中を左右に伸びる道路が見えてきた。そこに近づくにつれ、段々と周囲に目隠しになる物も少なくなっている。道路から二百メートルほど手前の潅木の茂みの陰でルークはマックスを止めた。
ルークは大きく息をついた。洋子は下を向き、頭をルークの胸につけたまま動かない。
「おい、良かったな。馬はもう終わりだ」
洋子は黙ったまま、ゆっくりと上体を起こした。しかし顔は下を向いたまま、両手を自分の膝に置いたきり動かなくなった。
「おいヨーコ、大丈夫か?」
呼びかけたが反応は無い。放心状態だ。ルークは溜息をついて辺りを見回した。幸い人影は無く、前方の道路にも走っている車の姿は無い。マックスが立っている足元を見た。でこぼことした赤茶色の砂地、まばらに潅木と岩があるだけだ。
「困ったな……どうやって君を下ろすか考えてなかったな……」
洋子はゆっくりと顔を上げ、ルークを睨みつけた。やっと放心状態から脱したようだ。
大騒ぎしながらも何とか馬から下りた洋子は、立ったまま膝に手を置き肩で息をしていた。ルークはショルダーバッグから油性のペンを出し、鞍に何かを書いている。ペンを戻したショルダーバッグを鞍から外すと、マックスの肩をぽんぽんと叩いた。
「ご苦労さん、マックス。もう家に帰っていいぞ」
マックスは軽く鼻を鳴らすと後ろを向き、ゆっくり歩き出した。背中が軽くなったことに気付いたのか、すぐに弾むような足取りに変わり、今来た方へ戻って行った。砂煙が立ち昇り、マックスの姿はすぐに見えなくなった。洋子が心配そうに見送っている。
「あの子、本当に帰れるの?」
「頭のいい奴だから……多分……」
曖昧に答えるルークに洋子は呆れ返った。
「無責任だわ……」
「さあ、ここからは歩くぞ」
前方の道路に向かって二人は歩き始めた。道路の向こう側にガソリンスタンドが見える。
「あそこに着いたら休憩だな」
ガソリンスタンドに着いた二人は売店で水を買った。店の外に出て水を飲んだ途端、緊張の糸が切れたように洋子の膝ががくがくと震え、その場に崩れそうになった。慌ててルークが支え、売店の土台の段差に洋子を座らせる。それを見ていたガソリンスタンドの店主が、扉から心配そうな顔を覗かせた。
「大丈夫かい? 彼女病気なのかい?」
蒼ざめた顔をしている洋子の肩を叩きながら、ルークが笑顔で店主に答えた。
「彼女乗り物酔いなんだ。大丈夫。少し休めばすぐ治るよ」
この二人が乗ってきた乗り物なんてどこにも見当たらない。しかし店主は黙って頷くと店の中へ引っ込んで首を傾げた。
ルークも洋子の隣に腰を下ろした。
「気分悪いのか?」
洋子は力なく首を振った。膝も腕も震えが止まらないうえに、尾てい骨が皮膚から突き出しているのかと思うほど、お尻がズキズキとしている。洋子は泣きそうな声で呟いた。
「体中が痛い……」
「だろうな……」
同情するように頷いたルークは洋子の肩を叩いて労いの言葉を掛けた。
「よく頑張ったよ。乗馬も楽しいだろ?」
洋子は顔を上げると、信じられないと言わんばかりに眉をひそめた。
そのまま二人が休んでいると、エンジ色のステーションワゴンが近づいてきた。二人の前まで来ると減速し、ガソリンスタンドを通り過ぎた所で停まった。ルークが立ち上がり、洋子に手を差し伸べる。
「立てるか? 行こう」
洋子はルークの手を取って立ち上がり、二人は手を繋いだまま車へ急いだ。
車からネイティブアメリカンの初老の男性が降りてきた。がっしりとした恰幅のいい体格で、白髪交じりの長い髪を後ろで一本にまとめている。スエードのレースアップのプルオーバーにジーンズ姿のその男性は、ルークを見ると目を細めて微笑んだ。
「父さん」
駆け寄ってきたルークをしっかりと抱きしめた父親は、洋子にはとても大きく見えた。ルークよりも少し背は低いが、その体格と何より威厳に満ちた存在感のせいだろうと洋子は思った。
「アンソニーだ」
ルークの父親は洋子に近付いて穏やかに言った。細めた目尻には皺が深く刻まれている。
「洋子です」
笑顔で応えるとアンソニーは洋子を優しく抱きしめた。
アンソニーが運転する車の助手席に座ったルークは、夜まで洋子を預かってほしいと頼んだ。息子の立場をよく理解しているのか、説明を求めることもなくアンソニーは承諾した。
「分かった」
一言だけ言うと車をUターンさせ、来た道を戻り始める。見渡す限り何も無い荒野。遥か遠くに連なる山が霞んで見える。後部座席の洋子が後ろを振り向くと、さっきまで休憩していたガソリンスタンドが砂煙に隠れながら遠ざかっていった。どこまで行くのか、ルークは何も教えてくれない。
ルークはバッグからタオルにくるまれたパソコンを出して開いた。壊れていなかったことに安堵すると、膝の上に置きビルに無線で連絡を入れる。
「今どうなってる?」
「トラックは法定速度でこっちに向かってる。まだ時間は掛かるだろう。それから悪い知らせだ。昨夜からヴィクターが所在不明だ。取引場所も特定してない」
ルークは舌打ちして悪態をついた。
「クソッ!」
それを聞いたアンソニーが咎めるような視線をルークに送った。それに気付いたルークは、ビルと通信を続けながらも手振りと表情でアンソニーに謝罪をしている。
「この人にも頭の上がらない人がいるのね……」
洋子は後部座席から二人の様子を眺めて感心した。
焦りを滲ませビルがルークに問いかける。
「そっちはどうなってる?」
「まだ、もうちょっと掛かりそうかな」
「急げよ! ヨーコを置いたらすぐ来いよ。いいか? 変な気起こすんじゃないぞ!」
ルークはまた舌打ちをし、不機嫌な声を上げた。
「分かった分かった。ったく、うるせえな」
ハッとしてルークはアンソニーをチラッと見た。アンソニーは前を向いたまま、運転に集中していたのでルークは胸を撫で下ろした。「また連絡するから」と、控えめに言って通信を切り、洋子の方を向いた。
「ヨーコ、寝ててもいいぞ。着いたら起こすから」
「……ニューヨークに?」
腕組みして洋子が訊いた。疑わしそうに目を細めている。ルークは溜息をついた。
「悪かったよ。でも俺が三ヶ月前までニューヨークに住んでたのは本当だ。一人で」
洋子は眉を吊り上げてルークを見た。ルークは手にしている携帯電話を指差した。
「今話してたビルは、俺がニューヨークで新人だった頃からのボスなんだ。奴が去年転属になって、やっと離れたと思って喜んでたのに、三ヶ月前に俺も呼ばれたんだ。最初の一ヶ月は準備なんかで、ほとんど局に缶詰だった。そのままシルバーレイクに行かされたんだ。俺自身、実家に行くのは久し振りなんだよ」
洋子は黙って座席の背にもたれた。仕方の無いことかも知れないが、騙されていたことには腹が立つ。もう何が本当なのかよく分からない。あと幾つ嘘が発覚するのだろうか。
「おい、ヨーコ、着いたぞ」
声を掛けられ目を開けると、もう陽は沈みかけていた。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。洋子は座席に座ったまま右を見た。ポーチの付いた木の家が建っている。顔を前方に向けると、フロントガラスの向こうに馬場が見えた。薄闇の中、数頭の馬がのんびりと過ごしている。
左側には芝の生えた庭に木のテーブルとベンチ、そしてもう一つ小さめの建物がある。やはりポーチの付いたその建物は、どうやら店のようだ。暗くて良くは見えないが、庇からは羽根飾りのような装飾品が揺れており、ポーチの上のベンチには誰かが座っているようだが微動だにしない。どうやら人形のようだ。人形の頭には大きな飾りが付いており、民族衣装を着たインディアンだということが何となく分かった。おそらく観光客が隣に座って記念写真を撮るためのものだろう。今は閉まっているようで電気は消えている。
ルークに促されて車を降り、ポーチに続く階段を上った。建物の右端の玄関から中に入ると短い廊下がある。木の床、木の壁には幾何学模様のタペストリーと、ルークの腕の刺青と同じ羽の飾りが掛けてあった。廊下を抜けたリビングには、ソファとローテーブル、その下に壁のタペストリーと同じ模様のラグが敷いてある。その向こうに小ぢんまりとしたカウンターキッチン、ソファの後ろに木の大きなダイニングテーブルがあった。ダイニングを取り囲むように各居室のドアがある。奥に階段があり、ロフトに続いていた。ロフトは何かの作業場なのだろう、作業台と段ボールの箱などが置かれている。
家の中はオレンジの香りが漂っている。その理由はすぐに分かった。ダイニングテーブルの上にボトルのオレンジオイルと布が置かれている。おそらく木製の家具が乾燥しないよう手入れをしていた時にルークから電話で呼び出されたのだろう。洋子はその甘酸っぱい爽やかな香りを胸に吸い込みながら想像を巡らせた。
洋子はこの家がレイクサイド・インに似ていると思った。もちろんレイクサイド・インより小さいが、木の温もりが感じられる暖かい雰囲気がよく似ている。帰ってきたのは久しぶりだと言っていたが、ここで育ったルークを少し羨ましく思った。ローテーブルの横で突っ立ったままの洋子にルークがソファを示した。
「座っててくれ」
「コーヒーでも淹れるよ」
アンソニーがキッチンに入って行った。
ルークはダイニングテーブルの上にバッグを置き、ポンチョを脱いだ。その姿に洋子は眉をひそめた。Tシャツの上に付けられたホルスターの左右に銃が収められ、腰には無線機がぶら下がっている。ルークは左胸の銃を取ると、カートリッジを抜いた。ジーンズのウェストから予備のカートリッジを出して銃底に叩き込む。その物々しい姿を不安そうに見ている洋子に気付いたルークは、外したカートリッジに弾を補充しながら少しだけ唇の端を上げて微笑んだ。安心させようとしているのだろうが、ぎこちないその仕草が余計に洋子を不安にさせた。自分の知らないルーク、クリーム色の暖かい灯りのこの家の中で、その姿がとてもアンバランスに映った。
アンソニーがコーヒーの入ったカップを二つ持ってキッチンから出てくるとローテーブルに置いた。
「馬を厩舎に入れてくる」
アンソニーはそのまま玄関から出て行った。
「ねえルーク、さっきの話なんだけど……朗の事、本当なの?」
洋子が不安そうに尋ねると、ルークはチラッと時計を見た。口を一文字に結び息をつくと、手にしていた銃をテーブルに置いてしばらく俯いていた。
やっと動き出したルークは洋子の目の前のローテーブルに腰掛け、口を開いた。
「あまり時間がないんだ。手短に説明するから、よく聞いて理解してくれ」
洋子は黙ったまま頷いた。