月曜日3
ロバートは我慢の限界に来ていた。国境警備を始めてもうすぐ二ヶ月。その間、同僚であるブラックマンの下世話なジョークに、自分の程度を引き下げ付き合っていた。
「それで、その女がさ……」
またブラックマンが品性のかけらも無い話をしてくる。ロバートは内側では煮えくり返っている腹を抱えて大げさに笑った。しかし、それも今日までだ。上手くいけば、この努力も報われるはずなのだ。いや、報われなければいけない。愛想笑いに疲れたロバートが、今朝降りた霜が溶けてぬかるんだ足元に唾を吐いた時、ようやくお目当てのものがやって来た。
国境を流れる谷川に掛かる小さな橋は、普段はほとんど使われることは無い。西部開拓時代、メキシコから物資を運ぶラバ隊の輸送路だった。現在は密入国を防ぐため岸には金網で出来た扉が設けられ、高電圧の電流が流されている。
そこにアルミのコンテナを積んだ四トンほどのトラックがやって来た。いそいそと金網の電流を切り扉を開けたブラックマンにとっても、それは待ちかねたものだった。だらしなく垂れ下がった腹の下のベルトを直し、ブラックマンは国境を越えてきたトラックの運転席に近づいた。トラックには二人のアメリカ人が乗っている。
「久しぶりだな、ポール」
助手席の男にブラックマンが声を掛けた。
「そちらは?」
ポールがロバートを見てブラックマンに訊いた。
「新入りだ。大丈夫。ノリのいい奴だよ」
ブラックマンがロバートの肩を叩きながら薄汚れた歯を見せて笑った。
助手席のポールはブラックマンに書類を出しながら首を振る。
「半年前の事件でFBIが来てさ。ま、すぐに引き上げたんだが、ほとぼりが冷めるまで待ってたんだ」
ブラックマンがろくにチェックもせず書類を返した。
「奴らも所詮は役所仕事だ」
「そう思ってるのはお前らだけだ」ロバートが心の中で吐き捨てる。
車から降りたポールがブラックマンに金を渡す。ロバートは自動小銃のストラップに仕込んだ小型のビデオカメラの録画ボタンを押し、二人の金銭のやり取りを撮影する。てっきりそれで終わりだと思った。しかし運転手の若い男がトラックの後ろに回り、コンテナの扉を開けた。高く積み上げられたコロナビールの木箱を脇へどかすと、コンテナの両端にしつらえられたベンチに女達が向かい合って座っているのが見えた。十二、三人はいる。全員が突然射し込んだ光に目を細め、不安げな顔でこちらに顔を向けた。
ブラックマンが薄笑いを浮かべ、だらしなく太った体で難儀しながらコンテナへ上がった。迷彩服を着て自動小銃を携えたアメリカ人に、女達は皆怯えた表情を隠せない。ブラックマンは女達を物色すると、一人の若い女の長い髪を摑んで引きずり出し、後ろを向かせると事もあろうにその場で犯し始めた。
ロバートは衝撃を受けると同時に吐き気を覚えた。今すぐブラックマンを引き摺り下ろしたい衝動に駆られた。必死で自分を抑え、その様子を撮影する。女はすすり泣きながら「やめてくれ」と懇願していた。事が終わるとブラックマンはベルトを直しながらコンテナを降りてきた。
「あんたもどうぞ」
運転手が素っ気無くロバートを促した。
ロバートは動揺しながらもコンテナに飛び乗った。女達を丁寧にビデオカメラに収めていく。女達は今の出来事にすっかり震え上がり、ロバートから目を逸らしている。反対側を向き、また撮影する。その中に見落としてしまいそうな小さな女の子がいた。五歳のミランダ。誘拐され、メキシコシティの市警察が血眼になって捜している幼女だ。ミランダはよほどショックだったのだろう。恐怖に目を見開いてロバートを凝視し、その小さな体が震えている。ロバートは自分の息子と同じ歳のその少女を目の当たりにし、激しい怒りにどうにかなりそうだった。出来るなら、今すぐトラックの外で笑い合っている三人を撃ち殺してやりたい。でもそんな事をすれば計画が全て狂う。自分だけの問題ではないのだ。
全ての女を撮り終えると、ロバートはコンテナの内側の壁に手を置き飛び降りた。
「やっぱり、俺はいいよ」
ロバートは額の汗を拭いながら言った。
「腰抜けめ!」
ブラックマンが笑った。
「そのうち慣れるよ」
運転手が箱を直し、コンテナの扉を閉めた。
トラックはシルバーレイク・タウンへ向かって走り去って行く。
「こんな仕事でも、いい事はあるもんだろう?」
ブラックマンがいやらしい笑いを浮かべた。
「ちょっとトイレに行ってくる……」
ロバートは顔中の汗を手で拭い、トイレがあるプレハブ小屋へ歩き出した。後ろからブラックマンが卑猥な冗談を言ったが無視した。トイレからビルへ連絡する。通信を切りロバートは呟いた。
「あのブタ野郎。少しでも抵抗してみろ。間違いなく俺が地獄へ送ってやる……」
「FBI……」
洋子が呟くとルークは息をつきながら頷いた。
「その組織を追ってた。以前からティムには目を付けてた。半年前にアキラの事件が起きて捜査に入ったんだけど、ここの警察があまり協力的でないんでね……」
その時ビルから連絡が入った。ルークは茫然自失状態の洋子から顔を逸らし、窓の方を向いて応答した。ビルの声の後ろはにわかに騒がしくなっている。
「連絡があった。今、国境を通過した」
「思ったより早かったな……」
ルークは溜息をついた。
「何だ、どうした? ヨーコはどうなった?」
「ヨーコか……今、俺の目の前にいる」
ルークが洋子の顔を見ながら伝えると、ビルの驚いた声が響いた。
「この会話を聞いてるのか?」
「俺の声だけだ。問題が起きた。ヨーコがセールリストに入ってる。今ジョーンズが来てる」
「どうするんだ?」
しばしの沈黙の後のビルの質問に、ルークは鍵の掛けられた部屋のドアを見つめながら答えた。
「サムの所じゃダメだ。危険過ぎる。どこか別の場所に隠さないと……今考えてる」
洋子は混乱している頭の中を必死で整理しようとした。
「……突然ルークは自分がFBIだと言って、私の知らない誰かと、私の事を話してる……。ティムは私を売るつもりで、朗は……朗は殺された?」
この状況を口に出して呟いてみたところで、すぐに現実感が伴うというわけでもなかった。いったいどういう事なのか、これから自分はどうなるのか、依然として分からない事だらけだ。
ルークとビルの会話は続いている。
「予定変更だ。俺はその後で合流する」
「トラックには発信機を付けてはあるが……いいか、急げよ」
通信を切ったルークは、呆然としている洋子に向き直った。
「君を安全な場所に連れて行く。今からここを出るから支度をしてくれ。荷物は最小限に。どうせ終わったら戻ってこられる」
洋子は我に返ると不安の色を顔に浮かべて訊いた。
「あの人どうするの? 私一緒に行くって言っちゃったのよ」
「断れ」
ルークのあまりにも漠然とした提案に洋子は困り果てた。
「何て言って断ればいいの?」
「何でもいい。予定があるとか……。俺が支度するまで時間を稼いでくれ」
「そんな……自信ないわよ……」
ルークは泣きそうな声を上げた洋子の肩を摑んだ。
「自信が無くてもやるんだ。君の一生が掛かってる。大丈夫だ。すぐ戻ってくるから」
洋子は気乗りしない顔で頷いた。
「……馬に乗れるか?」
ルークに唐突に訊かれ、洋子は大きく首を振った。
「無理よ!」
ルークは何やら思案しながら洋子の顔を眺めてから頷いた。
「分かった……。ここでした話はティムには言うなよ。すぐ戻る」
ルークは洋子の部屋を後にした。
洋子の部屋からルークが出てくると、ティムが階段を上がってきた。
「彼女どうだった?」
ニヤニヤと笑いながらティムが訊いた。
「まあまあだな」
ルークは素っ気無く答えたが、こんな事を洋子に聞かれたら、今度こそ間違いなく殴られるだろう、そう思うと苦笑いが込み上げてきた。ティムは口元に歪んだ笑いを浮かべている。
「ま、何事も経験だな。彼女はどうしてる?」
「今、身支度してるんじゃないか? もうちょっと待ってやれよ」
そう言ってルークは自室へ入り、ドアを閉めた。
部屋に入ったルークはノートパソコンを外すとタオルでくるんでスエードのショルダーバッグに入れた。チェストから出した銃を右のホルスターに収め、予備のカートリッジをジーンズのウェストに挟む。必要な物を全てバッグに入れるとドアを開けた。廊下の向こうでは、ティムがちょうど洋子の部屋に入るところだ。それを見届けるとルークは一階に下り、建物を出て走り出す。馬場の柵を乗り越え、ジミーを見つけると叫んだ。
「ジミー! マックス貸してくれ!」
ティムが部屋に入った時、洋子はベッドに腰掛けてスニーカーの紐を結び直していた。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
ティムが手を叩き、にこやかに呼び掛ける。洋子は震える手でゆっくりと靴紐を結び終えるとぎこちない笑顔を作り、申し訳無さそうに口を開いた。
「あの……ごめんなさい。私やっぱり今日はやめとくわ……」
自分でも声が震えているのが分かる。ティムはキョトンとして両手を広げた。
「おいおい、どうしたんだい? 彼は今日しか空いてないって、さっき言ったろ?」
「今日は……予定があったのを思い出して……」
洋子は窓の外の馬場を見て言った。
「ルークに乗馬を教えてもらう約束だったの……」
ティムの困惑は、苛立ちに変わってきた。
「明日にしろ」
「明日は……多分天気が……」
「ずっと晴れだ。こんな所滅多に雨は降らない」
「…………」
段々と険悪になってくるティムの表情と声音に、洋子は自分で自分を窮地に追い込んでいることを理解した。どうしていいのか分からず、言葉が続かない。早くルークが戻ってくる事を祈るしか出来ない。
ティムは煮え切らない態度の洋子に腹が立ち、ツカツカと歩み寄ると乱暴に腕を摑んだ。
「時間がないんだ。さあ行くぞ!」
「嫌! やめて!」
洋子が摑まれた腕を振り払い、弾かれたように立ち上がった。激昂したティムが洋子の顔を打つ。洋子はよろめき、痺れるように痛む左の頬を押さえた。涙が滲んでくる。
「これ以上痛い目に会いたくなかったら、つべこべ言わずにさっさと来い!」
唾を飛ばし怒鳴りだしたティムを押しのけ、洋子はドアを目指して走り出した。
廊下へ出てもルークの姿は見えない。洋子は立ち止まらず階段へ向かった。駆け下りている途中で入り口からルークが現れた。
「ルーク!」
洋子は夢中で叫んだ。
ルークがレイクサイド・インに戻ると、階段を駆け下りてくる洋子が見えた。そして、洋子の部屋からはゆっくりとティムが出てくる。洋子はカウンターの前を躓きそうになりながら走り、ルークの元に飛び込んだ。ルークは洋子の腕を摑んで半転すると、彼女を出入り口を背に立たせた。その体は震えている。
「大丈夫か?」
顔を覗き込んだルークは、目に涙を溜めた洋子の左頬が赤くなっているのに気が付いた。振り向くと、ティムは肩をいからせ階段の降り口に来たところだ。ルークはティムに背中を向け、洋子の赤くなった頬に親指を滑らせた。
「ひどいな……」
ルークの表情が曇った。階段を下りながらティムは大きな声で叫ぶ。
「ルーク! その女捕まえとけ!」
「悪かったな、ヨーコ……あんな奴と二人にして」
ルークは口元を固く結ぶと、洋子の顔から離した右手を握り締めた。薄笑いを浮かべながら近づいてきたティムが、ルークの肩に手を伸ばした。するとルークは振り向きざま、右の拳で思い切りティムの顔を殴りつけた。不意をつかれたティムは右後方に大きくよろめいて椅子に躓き、その後ろにあるさっき洋子と話をしたテーブルと一緒に倒れこんだ。すぐに上体を起こしたものの、床に座り込んだまま顔を抑えて呻き声を上げている。
ルークは被っていたニット帽を取ると床に投げ捨てた。ルークの左耳からイヤホンのコードが首の後ろを回り、ポンチョの襟の中に消えているのが背後にいる洋子から見える。怒りに燃える目でティムを見据えながら、ルークはポンチョの中に手を入れ銃を抜いた。洋子が息を飲む。ここでティムを撃つつもりなのかと不安になった洋子はルークのポンチョを握り締めた。ティムはまだ床にへたりこんで痛みに顔を歪めている。ルークは銃口をティムに向けたまま、洋子を出口へ促した。
建物の外に出るとルークはジーンズのポケットから鍵を出し扉を閉めた。鍵を差し込んだまま、銃尾を振り下ろし鍵の柄をへし折る。建物の前に停まっているティムのポルシェに向かい、助手席側の前輪と後輪に一発ずつ発砲した。銃声に洋子が悲鳴を上げた。
「こっちだ!」
洋子の手を引き、ジミーの馬場へ向かって走り出す。
馬場の中では、銃声に驚いたジミーが目を丸くしてこちらを見ている。
「ジミー! 家の中に入ってろ! 危険だ!」
ルークが大きな声で叫ぶと、ジミーは訳が分からないまま言われた通り厩舎に走った。ルークが柵を越えると、洋子もためらいながらそこをくぐる。てっきり逃げるつもりなのだと思っていたが、ルークのチェロキージープはレイクサイド・インの前に停められたままだ。
「ねえ、車じゃないの?」
「どうせ町の出口で警察が見張ってるよ」
柵に繋がれたマックスの手綱を解きながらルークが言った。
「それに、運良く町を出られても、この辺りは一本道だ。隠れるのは無理だよ」
手綱を解いたルークは鐙に足を掛ける。
「俺のブーツの上に君の右足を置け」
「み、右?」
洋子が訊き直した。
「そう、右だ」
「だって、それじゃ……」
首を傾げて呟きながらも、洋子は言われた通り右足をルークのブーツの上に置いた。ルークは洋子の脇の下から背中に手を回し、鞍を摑むと一気に体を引き上げた。二人同時に馬に跨ったが、洋子は後ろ向きでルークと向かい合っていた。
「やっぱり、逆じゃない……」
「これが一番怖くない……と思う……」
ルークは自信なさそうに言った。後ろに乗せたら振り落とすかも知れないし、前を向かせたらおそらく騒ぐだろうと考えたからだ。
初めて跨った馬の背は思ったよりもずっと高かった。特にこのマックスは、ジミーの馬場の中で一番大きな馬だ。不意に足元から湧き上がった寒気が洋子の全身に駆け上がり、情けない声を上げた。
「ひえ……高い……」
南の方角からこちらへ近付いて来るトラックが見えた。ルークには一目で、それがあのトラックだと分かった。トラックを尾行するはずだったが、今は手を出せない。洋子を隠すのが先だ。ルークは洋子の両手を握り、自分の背中へ回した。
「いいか。何も見なくていい。何も考えなくていいから、しっかり摑まってろ! 分かったな?」
洋子は下を向いたまま、大きく二回頷いた。方向転換するためマックスの手綱を引く。マックスが脚を動かす度、背中の上で揺れる洋子は声にならない叫び声を上げている。
「うるっせーな! 黙ってろ!」
ルークが悪態をつく。
「まったく……これじゃ先が思いやられる……」
トラックはレイクサイド・インの手前で、歩くほどの速度になったルークはそのトラックを横目で見ながら手綱を振るい、マックスを駆り立てた。マックスが馬場の奥へ向かって勢いよく芝を駆け出した時、レイクサイド・インから大きな音が響いてきた。
「畜生! 何なんだアイツは!」
ルークと洋子がレイクサイド・インを出ると、ティムは大きく悪態をついた。そして二発の銃声が聞こえ、弾かれたように顔を上げると辺りを見渡した。すぐ横の倒れたテーブルに目が行く。さっき自分が洋子と話をしたテーブルの裏に、不自然な黒い物体が貼り付いている。細いアンテナが伸びているのが目に入った。困惑と驚きは激しい怒りに変わる。
「あの野郎! 全部聞いていやがった!」
今まで散々人を騙してきたが、他人に騙されるのは我慢が出来ない。立ち上がり出口へ向かった。扉が開かない。鍵も回らなかった。倒れている椅子を摑むと、出入り口の隣の大きなガラスへ思い切り投げつけた。ガラスに少しひびが入ったものの、壊れたのは椅子の方だ。もう一脚椅子を摑み、同じように投げつけた。
トラックの二人組は、唖然とした表情でその光景を見ていた。馬に乗ったインディアンの男と、後ろ向きに乗っている東洋人の女が大騒ぎをしている。
「何だありゃ? 曲乗りの練習でもしてるのか?」
ポールが言った。運転席の男は黙ったまま、馬に乗った男の方に釘付けになっている。
トラックをレイクサイド・インの前に停めると、おかしなカップルを乗せた馬は勢いよく走り出し、視界から消えた。それと同時にレイクサイド・インからけたたましくガラスの割れる音がし、椅子が転がり出てきた。その後から物凄い形相のティムが、割れ落ちたガラスを踏みしめながら現れた。
ティムは傍らにある元々車高の低い自分の愛車が不自然に傾いているのに気付き、また激怒した。助手席側のドアを開けると、扉の先端の角が地面を擦り、また悪態をつく。車内に置いたジャケットの内ポケットから銃を取ると、道路に出て左右を見回す。すると隣のジミーの母屋の向こう側から、ルークと洋子を乗せた馬が勢いよく飛び出してきた。ティムは銃を構えて発砲したが、馬は道路を横断するとそのまま湖畔を囲む木立の中へ消えて行った。ティムは叫びながら木立へ向かって発砲を繰り返す。ティムの側にトラックの二人組が近付いた。
「おい、もしかしてお前が言ってた日本人て……逃げられたのか?」
ポールが訊いたが、ティムは極度の興奮状態にあり質問には答えない。
「ルークの野郎! 一体何だってんだ! あいつ銃を持ってたぞ!」
ティムが怒鳴り散らした。すると、それまで黙っていた運転手の男が口を開いた。
「俺、あいつを知ってるぞ……。フィラデルフィアの大学で一緒だった奴だ……」
ティムとポールが同時に運転手の男に顔を向けた。
「本当か? ルークを知ってるのか?」
ティムが興奮し、運転所の胸倉を摑んで問い詰める。
「ああ、あの風貌は忘れないよ。確か実家が近いって事で、一度だけ話したことがある」
「お前の実家ってニューメキシコだろ? 隣の州だ」
ポールが言うと運転手の男は頷いてこめかみに指をあて、あの長身のインディアンにまつわる記憶を手繰り寄せようとした。
「ああ。州境を挟んで近くだったんだ。……確か居留区だったはずだよ。名前は確か……」
「思い出せ! 絶対に思い出せ!」
ティムが急かした。
「ルーク? そんな名前だったかなあ? 苗字が確か変わってるんだ……何だったかなあ、何とかストーン……」
二人は固唾を飲んで待った。運転手は口を半開きにしたまま顔を上げた。
「フェアストーン……そうだ、フェアストーンだ。間違いない!」
ルークは湖畔の南側を回り対岸へ出た。そのまま道路を横断し、民家の庭先を駆け抜け山の中へ入って行く。マックスが速度を上げて走り出した途端、洋子は静かになった。恐怖で声が出せないだけだったが、ルークはホッとしていた。あの調子で騒がれたら、たまったものではない。
迫り来る木々を避けながら山の中を暫く走った後、ルークはマックスを歩かせた。洋子が恐る恐る顔を上げ、二人を取り巻いている森を眺めた。とても静かだ。追っ手はいない。マックスの鼻息が聞こえ、風に木が揺れている。洋子はやっと落ち着いて深呼吸をした。今までずっと息を止めていたような感じがする。
ルークはおもむろに携帯電話を出した。洋子の耳にも呼び出し音が小さくだが聞こえる。ルークは電話に出た相手に呼びかけた。
「父さん?」
レイクサイド・インの前には警察が集まっていた。ティムと署長は傾いたポルシェの前で怒鳴り合っている。
「だから言わんこっちゃないんだ!」
「畜生! あの野郎! ぶっ殺してやる!」
リンジーとアンダーソンはジミーと話していた。
「俺はルークにマックスを貸してくれって言われたから貸しただけだ。行き先は聞いてない」
リンジーに厳しく尋問されたジミーは負けじと腕を組んで首を振った。アンダーソンは溜息をつき、ジミーを睨みつけているリンジーに呆れた声で訊いた。
「馬泥棒で手配でもするか?」
リンジーがアンダーソンに鋭い目を向ける。ジミーが組んでいた腕を解き、慌ててアンダーソンに詰め寄った。
「ちょっと待ってくれよ。ルークは借りるって言ったんだ。俺は盗まれたとは思っちゃいねえよ」
「馬が戻ってくるとでも思ってるの?」
リンジーが棘のある口調で言い返したが、ジミーは頑固に大きく首を縦に振った。
「俺はあいつを信じる」
アンダーソンがジミーの肩を叩いた。
「ジミー、もういいよ。リンジー、どうするんだ? 誘拐犯にでもするのか?」
リンジーとアンダーソンは割れた窓からレイクサイド・インの中を覗き込んだ。
「お父さん……?」
洋子が不思議そうに呟いた。ルークの両親は確かニューヨークにいるはずだ。ルークは電話の相手とどこかで落ち合う約束をしているようだ。これから空港にでも行ってニューヨークに向かうつもりなのか、洋子は眉をひそめた。
携帯電話をポケットにねじ込んでいるルークに洋子が確認する。
「ルークの両親て、ニューヨークにいるのよね?」
「そんなに遠くない」
「えっ? だってあなた……」
洋子が何か言おうとしたので、ルークはマックスを急き立てた。マックスは軽くいななくと棹立ちになり、勢い良く走り始める。洋子は慌ててルークにしがみ付き、また何も喋れなくなった。