月曜日2
後片付けが終わった洋子は部屋の掃除をした。それも終わるとすることがなく、外に出て湖畔を散歩した。湖面に反射する太陽の光に目を細めると犬の吠え声が聞こえてきた。見ると、バイロンがこちらへ向かって走ってくる。その後ろからゆっくりとアニーが歩いてくるのが見えた。飛びついてきたバイロンとじゃれ合い、アニーが側に来ると昨日のサンドイッチのお礼を言った。
「あら、ルークとあなたが私のサンドイッチを気に入ってくれて嬉しいわ」
アニーはいつもの輝く笑顔を見せると「実はね……」とルークの事を話し始めた。
「ルークはね、この町に来たばかりの頃、食べているものと言ったらピザかジャンクフードばかりだったの。こんな小さな町でこういう商売をしていると、どうしてもその人の食生活が分かってしまうのよ。ちょっと心配になってね。ある日、買い物に来たルークを待たせて、サンドイッチを作って渡したの。その間、サムに話し相手をさせてね。最初は戸惑ってたわ。受け取っていいものかどうか迷ってたみたい。でも、せっかく作ったんだから食べてくれなきゃ困るわ。そう言うと、とても喜んでくれたの。それから、たまに作るようになったのよ」
洋子は意外に思った。確かに最初の夜はピザで、ルークは空腹なのを忘れていたと言っていた。でも、次の日からはちゃんとした食事を作ってくれている。手の込んだものではないが、美味しい食事を。
「ルークは料理が上手なんですよ」
そう言うとアニーはにっこり笑った。
「それは、あなたが来たからよ。ルークにとっては一人でする食事なんて、空腹を満たすだけのものでしかないんだわ。ルークはあなたと食事をするのが楽しみなのよ」
ルークとの食事を楽しみにしてるのは自分の方だと洋子は気付いた。今日の昼食は一緒に食べられないかも知れないと聞き、自分でも驚くほど落胆したのを思い出したのだ。ここに来るまでは一人で食事をするのが当たり前になっていた。しかし今ではそれがとても侘しい事のように感じている。ルークも同じ事を感じてくれているのだろうか。
その後、アニーはサムとの事を話してくれた。軍人の妻としての苦労話も。戦地にいるサムをいつも心配していた事。サムの戦死の報せが今日来るのではないか、明日来るのではないかと、毎日怯えながら生活していたと。そしてあの店がアニーの実家だという事も分かった。サムは退役後、心配を掛け通しだったアニーが少しでも心穏やかに暮らせるようにと、彼女の故郷を安住の地に選んだのだ。
「人生の折り返しもだいぶ過ぎちゃったけど、今が一番幸せなの」
そう言ったアニーの笑顔は、今までで一番輝いていた。アニーが幸せだと聞いて洋子も嬉しかった。
バイロンがアニーの足元に戻ったのを合図に、二人は別れを告げた。バイロンと一緒に湖畔を歩いていくアニーの後姿を、洋子は憧れるように見つめた。自分もいつか、アニーのように笑う事が出来るだろうか。だとしたら、一生側にいて愛してくれる誰かが現れるのかも知れない。洋子は顔を上げた。ここの太陽は眩しすぎて目を細めていなければ空は見えない。サムが言っていたような幸せは、空の上にあるのだという気がする。今の自分には何も見えない。
湖畔の砂利を踏みしめながら、洋子は太陽に背を向けてレイクサイド・インへ戻り始めた。
レイクサイド・インに着いても建物には入らず、そのまま裏庭へ回った。ジミーの馬場の柵に頬杖をついて、元気に走り回る馬を眺める。馬に乗ったジミーが洋子に近付く度に乗馬に誘ってくる。洋子はその度丁重に断っていた。
振り返り上を見上げる。厚いカーテンに閉ざされたルークの部屋の窓が見える。ルークは朝食後からあの薄暗い部屋に籠りきりだ。いったい何をしているのだろうか。気になるが、そこへ入ってはいけない事は分かっている。もし自分があの領域まで踏み込めば、ルークは即座に拒絶するだろうということも。今はルークに拒絶される事が何よりも怖かった。
ミランダは落胆していた。この暗い地下室に連れて来られてから、ずっと親切にしてくれているお姉さんがいた。この地下室にいるのは女の人だけだが、皆無気力な顔でほとんど何も喋らず俯いて座っている。その中で一人だけ、ミランダに話し掛け励ましてくれるお姉さんがいるのだ。昨日の夜、皆が寝た後でお姉さんが言った。
「一緒に逃げよう」
崩れている壁の木の板を外して外に出た。ガラクタだらけの庭を、お姉さんと手を繋いで走っていく。すると、建物の角からミランダの嫌いなあのおじさんが出てきた。ペットショップの前で嘘をついたおじさんだ。
ミランダはすぐにこの地下室に戻されたが、お姉さんはどこかへ連れて行かれてしまった。髪の毛を摑まれ引き摺られていくお姉さんの泣き叫ぶ声が、ミランダの耳にこびりついて離れない。朝になればお姉さんは戻っていると思ったのに、まだ戻ってこない。どこに行ってしまったのだろう。心細くなったミランダの目に涙が滲んだ。その時、嫌いなおじさんが地下室のドアを開けた。
「出荷だ」
ルークはずっと向かい合っていたパソコンから目を離すと、椅子の背もたれに深く身体を預けた。天井を仰ぎ見て大きく息をつく。昨夜のうちにやっておかなければいけなかった事がやっと終わった。バスルームに行き、冷たい水で顔を洗う。濡れたままの自分の顔を鏡で見て思った。
あの時、洋子に殴らせておけば良かったか、と。そうしたら、もっとすっきりしていたかも知れない。
バスルームを出ると、ビルから連絡が入った。
「今出発した。国境まではまだ時間が掛かる。それまで待機だ。また連絡する」
電話を切ったルークは時計を見た。もう昼になろうとしている。昼食を摂る時間はありそうだ。洋子を預かってもらう件でサムに電話をしようと思い、番号を押しかけたが思い直して手を止めた。昼食の後でいいだろうと思った。今は昼時で店も忙しいだろう。ルークは電話をしまった。
Tシャツの上にホルスターをつけたが、銃はまだ入れない。無線機をつけ、イヤホン付きのヘッドセットマイクを着けた。耳あてつきの黒いニット帽を被る。マイクを畳めば表からは見えない。
洋子が裏庭にいるのは分かっている。洋子の声は聞こえないが、彼女に話し掛けるジミーの声がさっきから聞こえていた。ルークはベッドの上に膝をついた。
洋子は馬場の柵に頬杖をついたまま、これからのことを考え続けていた。明後日の朝にはここを発たなければいけない。洋子は昨夜のルークの言葉を思い出した。「いなくなったら、きっと寂しく感じるだろう」と。でもそんな事を感じるのは、ほんのひと時だろう。ルークはすぐに一人に慣れて、そのうちニューヨークに戻れば忘れてしまう。洋子にはそう思えてならない。ルークの気持ちがよく分からないのだ。
「深く考え過ぎなのかな……」
旅先で出会った相手だ。この時だけ寂しさを紛らわす事が出来れば、後腐れが無くて一番いいのかもしれない。
「……それじゃ、朗と一緒じゃない」
洋子は呟いてから首を振った。今は朗の事は考えたくなかった。それに、もしルークとどうにかなったとしても、朗にそれを責める権利など無いはずだ。割り切ってしまえばいい。
気が付けば、影は足元に纏わりついている。太陽はもう真上にあるのだ。お腹の虫が騒ぎ出した頃、窓が開く音がした。
「ヨーコ!」
自分を呼ぶ声が聞こえ、首を巡らせ上を見た。ルークが部屋の窓を開けて身を乗り出している。その顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「飯だ!」
「今行く!」
洋子も笑顔で応えた。
ニットの帽子を被りポンチョを羽織ったルークを見て「雪国の子供みたいで可愛いわね」と言うと「それはどうも」と、唇の端を歪めて笑った。いつもどおりのルークで洋子は安心した。
食事が終わる頃、ルークが切り出した。
「ヨーコ、この後の事なんだけど……」
ルークは突然言葉を切り、通りの方に目を遣った。洋子もルークの視線を追い、通りを見ると微かにそれが聞こえた。特徴のあるエンジン音を響かせ、赤いポルシェが近づいて来たのだ。
ポルシェはレイクサイド・インの駐車スペースへ入ってきた。入口のすぐ横に停まりエンジンが切られた。
「あのポルシェの人……誰だっけ?」
サンドウィッチを手に持ったまま洋子が訊いた。
「ティム……」
ルークは洋子に、というより独り言のように呟いた。
ティムは車から降りると軽い足取りでレイクサイド・インに入ってきた。ルークは黙って立ち上がった。洋子の方が入り口に近い席に座っている。ルークは洋子の脇を通り、ティムに向かって歩き出した。
「よう!」
サングラスを外したティムが愛想のいい笑顔を浮かべ、カウンターに寄りかかった。
「珍しいな。どうしたんだ?」
挨拶を返したルークは自然とティムと洋子を結ぶ線上に立った。さり気なく左胸に手を当てたが、銃は部屋に置いたままだったのを思い出した。洋子は座ったまま後ろを向き、ルークの脇から顔を出してティムに軽く会釈をするとテーブルに向き直った。
「実は、今日はそちらの……ヨーコさんに用があって来たんだ」
ティムが笑顔で言った。
「ヨーコに?」
ルークが振り返って洋子を見た。洋子も自分の名前が聞こえて振り返るとルークと目が合った。ルークの顔色が悪いことに気付いた洋子はポンチョ越しの腕に手を掛けた。
「どうしたの? ルーク、大丈夫?」
「ああ、ちょっとさっきから頭痛がしてるんだ。部屋に薬があるから、飲めばすぐ治る……」
取り繕うように言ったルークを洋子は心配そうに見つめた。さっきまでは具合が悪そうには見えなかったが、やはり風邪を引いたのだろうかと考えた。だから今日みたいな暖かい日にポンチョを羽織って毛糸の帽子まで被っているのだと納得した。
「食事中かな? 終わるまで待ってるから、ごゆっくり」
ティムが笑顔のまま頷いた。
ルークがゆっくりティムに近づいていく。ティムはYシャツにノーネクタイで、スーツのジャケットを脱いだ服装だ。見たところ丸腰だと分かる。そのティムに少し待つように依頼すると、ルークは自室へ上がって行った。
部屋に入ったルークはパソコンの裏に隠してある銃を取り、それを左のホルスターに収めた。そして、以前洋子のバッグに仕掛けたマイクをチェストの引き出しから取り出した。
浮かない顔で戻ってきたルークを洋子は心配そうに見つめている。ティムはまだカウンターに寄りかかったままだ。食事が終わった二人の皿を手に持ち、ルークがティムに呼びかけた。
「こっち座れよ」
ティムがテーブルに歩み寄ってくる。洋子は皿を持ったルークに心配そうに顔を向けた。
「後片付けなら私がやっておくから。具合悪いんでしょ?」
「大丈夫だ」
ルークは素っ気なく言った後、「俺の心配より自分の心配をしろ」と目で訴えたが、洋子がそれに気付くはずもなかった。
ルークがカウンターでゆっくりと洗い物を始めると、二人の会話がイヤホンから聞こえてくる。部屋から持って来たマイクは、皿を下げる時にテーブルの裏に仕掛けていた。
「あの……お話って?」
「君は、あのアキラ・ゴトーの婚約者なんだってね」
洋子はその名前を耳にして動揺するとともに多少の後ろめたさを感じた。
ルークの事もあり、もう気にするのはやめようと思っていたところだったのだ。俯いて黙り込んだ洋子の無言の肯定に、ティムは頷きながら同情に満ちた笑顔を送った。
「君が事件のことを調べてるって聞いて、僕も自分なりに調べてみたんだ」
「私は……そんな、調べてるなんて……」
慌てて否定する洋子を無視してティムは喋り続ける。
「実は、アキラと親しくしてたっていう人物を見付けてね。彼が言うには、生前のアキラの様子で気になることがあったみたいなんだ」
初めて聞く話に洋子は眉をひそめた。気になる様子とは何なのか。この町の人達の話では、明るい人物でとても悪い事をするようには見えなかったと、洋子も朗に感じていた印象と変わらないものだったのだ。
「……その人は、ここの住民の方なんですか?」
「いや、今は違うんだ。ここから二、三時間のところの街に住んでる。僕の仕事仲間でね。なかなか忙しい男なんだけど、今日だったら時間があるって言うんだ。良かったら今から行ってみないかと思ってね」
気にはなるが、洋子は昨日の朝ルークに言ったことを思い出した。朗の事はもう詮索しないと。
「でも……ルークに訊いてみないと……」
歯切れの悪い洋子にティムは眉を上げた。
「ルークの許可が必要かい?」
「別に、そういう訳では……」
そう訊かれてもはっきりと答えられない自分にもどかしさを感じた。困っている洋子にティムは身を乗り出し、声を潜める。
「実はルークに頼まれたんだよ。ほら、あいつは二ヶ月前に来たから事件のことは知らないだろ? それで調べてくれないかってね」
「ルークが?」
何故ルークがそんな事をするのか洋子には理解出来なかった。ルークは朗の事件に興味など無いと思っていたのだ。確かに不可解な言動が多い男ではあるが。洋子は困惑し、椅子に座ったまま上体を捻ってカウンターのルークを見た。険しい表情で洗い物をしている。
「あの顔……まだ頭痛がするのかしら……」
洋子が口の中で呟くと、不意に顔を上げたルークと目が合った。
「何だ?」
カウンターからルークが不機嫌な声で訊いた。洋子は慌てて首を振り、肩をすくめてティムに向き直った。
ルークは洋子の背中を苦々しい思いで見つめた。そんな事を頼むはずが無いと、少し考えれば分かるはずだろう、と。
「まったく……少しは人を疑えよ。バカ」
呟いたルークの耳に、冷やかすようなティムの声が聞こえる。
「どうやらルークは君に気があるみたいだね」
「ルークが? まさか」
洋子が即座に否定した。
「そこかよ……」
変なところで疑り深い洋子に、ルークは小さく舌打ちした。
洋子は気乗りしなかった。今さら他人から話を聞いたところで仕方ないし、具合の悪そうなルークのことも気になっていたからだ。断るつもりで口を開いた。
「あの……せっかくですけど、やっぱり……」
洋子の話を遮ってティムが喋り出す。
「それと、その人はアキラから何かを預かっているらしいんだ。自分が持っているよりも、婚約者の君が持っているほうがふさわしいんじゃないかとも言ってた」
俯いていた洋子が顔を上げた。ティムは自分の顔の前で両手を組み、頷きながら洋子の顔を見つめている。
「朗から預かった物って……。それはもしかして、写真のデータじゃないですか?」
洋子が真剣な顔で訊いた。
「どうだったかな? そんなニュアンスのことを言っていたかな?」
ティムは曖昧に答えた。洋子の心は激しく揺れ動いた。朗が撮った写真が見つかるかも知れないのだ。それは写真家としての朗の遺品とも言える。わざわざこんな遠くまでやって来たのだ。自分にはそれを持って帰る義務があるのではないか。
「どうかな?」
ティムが返事を促した。
「はい……分かりました」
「決まりだ」
ティムがにんまりと笑った。洗い物が終わったルークは水道を止めながら溜息をついた。
洋子は朗の写真のことで頭が一杯で、その後のティムの話は上の空で聞いていた。
「……だけどね、ルークのことも考えてあげてほしいんだ」
「ルーク……」
洋子は我に返った。ルークに何て説明すればいいのだろうか。朗の事で出掛けると言ったら嫌な顔をするだろうか。「勝手にしろ」と冷たく言い放つか、また喧嘩になるのだろうか。思い悩む洋子にティムは身を乗り出してにっこりと笑った。
「あいつは君の事でずいぶん悩んでるんだ。何とか君の力になりたいって。君だってルークのことは嫌いじゃないだろう?」
ティムに訊かれて洋子は大きく頷いた。
「え? ええ、もちろんです」
洋子はテーブルの上で手を組み、きつく握り締めた。落ち着いてきちんと説明すれば、きっとルークも分かってくれるはずだ。遺品を受け取ることは、行動を詮索することとは違う。言い訳がましく聞こえない説明を洋子は頭の中で必死に組み立て始めた。その間もティムの話は続いている。
「ルークにお礼をした方が良いんじゃないかな? 二人きりで。その……あいつが何を望んでるかは分かるだろう?」
洋子はまたハッとして顔を上げたが、ティムの話はぼんやりとしか聞いていなかった。
「あ……はい。ルークにお礼ですよね。分かりました」
自分の説明でルークに上手く伝わるのか、洋子には自信が無かった。首を巡らせ、カウンターにいるルークを不安そうに見遣る洋子にティムはにやりと笑った。実に物分りのいい女だ、と。
「じゃあ君は部屋で支度をしてくると良いよ。時間はまだあるから。ルークには僕から説明しておくよ」
それを聞いて洋子は胸を撫で下ろした。ティムが代わりに説明してくれるのなら、ルークも認めてくれるだろう、と。
「お願いします」
洋子は笑顔で頼んだ。
洋子は立ち上がり階段へ向かった。ルークはカウンターの後ろの壁に寄りかかり、俯いてタバコを吸っている。洋子は心配そうにルークを見たが、ルークは洋子を見ようともしない。洋子はティムに振り向いた。ティムは笑顔のまま黙って手で二階を示し、部屋へ行くように洋子を促している。洋子は頷き、そのまま二階へ上がった。
洋子が部屋に入ると、ルークはタバコを消しカウンターを出た。ティムがルークを呼び止め近付いて来る。階段の上り口でティムは声をひそめて言った。
「実は、彼女の死んだ婚約者と親しくしてた人物が見つかってね。彼女は今からそっちに移る。チェックアウトだ」
ティムと洋子の会話を全て聞いていたルーク、こういう展開は予想していた。しかし、それを悟られるわけにはいかないし、そうすんなりと洋子を連れて行かせるわけにもいかない。ルークは少し驚いてみせた後、困ったように首を傾げた。
「それはちょっと……すぐっていうのは困るな。精算があるんだ。まだ計算してない」
「計算はゆっくりやればいい。後で俺が払う、キャッシュで。お前へのチップもたっぷりとな」
ティムはルークの肩をぽんぽんと叩いた。
「そうか……」
無表情で頷いたルークにティムは意味ありげな笑みを送った。
「それより彼女、お前のこと相当気に入ってるらしいぞ。お前との思い出が欲しいんだってよ。半年前に恋人亡くして、今ちょうど寂しい時なんじゃないか? 色々とな」
是非その言葉を洋子に面と向かって言って欲しい。きっとこいつは洋子に殴られる。ルークは自分の経験から思った。ティムは洋子が入って行った部屋を顎で示して続けた。
「彼女その気になってるぞ。お前、行って慰めてやれよ」
口止め料のつもりか、それとも後でゆする気か。
「分かった」
ルークは唇の端を歪めて笑うと洋子の部屋へ向かった。
洋子は部屋でバッグの中身を整理していた。ドアにノックの音がし、ルークの声がした。
「入るぞ」
部屋に入ったルークはドアの鍵を閉めた。ルークに背中を向けていた洋子が首だけを回して口を開く。
「あの人から聞いた?」
「聞いた」
ティムがどういう風に伝えたのか分からないが、無表情に頷いたルークに洋子は少し不安を感じた。
「そういう事で、私ちょっと行ってこようと……」
「行くな」
ルークに言われ、洋子は胸に痛みを感じながら俯いた。ティムの説明も効果がなかったようだ。やはり自分でルークを納得させなければいけない。決意を固めた洋子はルークと目を合わせた。
「あのねルーク、朗の写真があるならやっぱり欲しいのよ。だってそれは朗の作品だし……」
「あんな話が本当だと思ってるのか?」
「もし違う物だったとしても行ってみれば分かるし。この前行った街だから、真夜中までには帰れるわよ。あ、そうだ。何か買ってきてあげる。甘いものがいい? アイスクリームは溶けちゃうだろうから、ケーキとか……」
物で釣ろうというわけではないが、さっきティムから「ルークにお礼を」と言われたのを思い出したのだ。ルークはこれ見よがしに大きな溜息をつき首を振った。
「何をのんきな事言ってるんだ? 帰れるわけないだろう」
「えっ?」
ルークはキョトンとしている洋子の目の前に立った。
「行ったらもう、君はどこにも帰れない。ここにも、東京にも」
洋子は怪訝そうな顔でルークを見た。
「どういう事?」
「あいつが何やってる奴か知ってるのか?」
「えっと、前に聞いたわ。輸入商だって」
ルークは短く失笑した。
「確かに、物は言いようだな……。何売ってるか知ってるか?」
「知らないわよ。そんなの……」
「麻薬と女だ。人身売買だよ。奴は君を売る気だ」
ルークが無表情で言った言葉に洋子は首を傾げた。
「人身売買って……そんな今時?」
洋子には訳が分からない。全く現実味も無い。
「私なんか売ってどうするの? 奴隷にでもするつもり?」
「似たようなもんだな。君は売春婦になるんだ」
洋子は言葉を失い、ルークを見つめた。ルークの言った事が本当なら、それはれっきとした犯罪のはずだ。
「……それなら……知っててどうして警察に言わないの?」
「警察? 無駄だよ。あいつらグルだ。ティムから金を貰ってる」
洋子は怪訝そうな顔をしたままだ。どうしてもそれが現実だとは思えない。洋子が信じてないのはルークにも分かった。
「行ったらどうなるか教えてやるよ。君は、売春斡旋を仕事の一つにしてる、ある組織に売られるんだ。ティムが扱ってるのはほとんどがメキシコ人なんだけど、君はそこそこ美人だし日本人の売春婦なんて珍しいだろうから、まあまあいい値が付くんじゃないか? 君みたいな性格だと、まずクスリ漬けにされるだろうな」
そこそこだのまあまあだの君みたいな性格だの……洋子はカチンときたが、いちいちそれに突っ込んでいられるような内容の話ではなかった。洋子は固唾を飲み、ルークの話を黙って聞いていた。
「君をヤク中にするんだ。君はクスリがないと生きていけなくなる。そうやって逃げられなくするんだ。君は金で男に買われるんだよ。言っておくけど、君の手元には金なんか入ってこない。使い物にならなくなれば殺される」
洋子の心臓が早鐘を打った。あることに気が付いたのだ。洋子が口を開きかけた時、ルークが手をかざしそれを遮った。ティムが階段を上がってくる音が聞こえる。ルークが洋子の顔の前に指を立て、声をひそめて言った。
「小さな声で話せ。ティムに聞かれるとまずい」
洋子は言葉を飲み込んで頷いた。
ルークはベッドの脇にしゃがみこみ、マットレスの下の木枠を摑むとガタガタと揺らし始めた。反対側が壁に接したベッドは、ぎしぎしと大きな軋み音を立てる。突然のルークの奇行に洋子は首を傾げた。
「ねえ、どうしちゃったの?」
洋子はルークの隣に跪いた。ルークはベッドを揺らしながら独り言のようにぶつぶつと喋っている。
「もっと早く気付くべきだった……君なんかいいカモだったんだ……」
「何してるの?」
たまりかねて洋子が尋ねた。しかしルークはその質問を無視して喋り続ける。
「婚約者が死んだ場所に一人でやって来て……」
洋子は自分の質問が無視されたことに腹を立て、大きな声を出した。
「ベッドが壊れちゃうわよ!」
ティムはドアのすぐ向こう側にいた。部屋の中からベッドの軋む音と洋子の声が聞こえると、自分の思惑通りに事態が運んでいることに満足した。商売道具に手を出したとなれば、ボスも黙ってはいない。殺されると脅せば、あのルークも震え上がるだろう。これでしばらくの間の金蔓は確保できた。ティムは声を出さずに笑いながらロビーへ戻って行った。
ティムの足音が遠ざかったのが分かると、ルークはベッドを揺らす手を止めた。床に片膝をついて息をつき、洋子に向き直る。
「君が失踪して、その後死体で見つかっても、恋人の後を追ったんだって誰かが言えば、疑う奴はいないだろうな」
洋子の顔が蒼ざめた。
「私が……死体で……?」
暗い湖畔に横たわる自分の姿が瞼に映った。息が苦しくなる。そして洋子にはさっきから気になっていることがあった。麻薬、メキシコ人、そして売春婦。それらが繋がる疑問をどうしても訊きたくて、立ち上がったルークに尋ねた。
「それって、朗の事件と何か関係があるの?」
ルークが洋子から目を逸らした。それまで饒舌だった口を急に噤んだのだ。その沈黙に確証を得た洋子は早口でルークに質問を重ねた。
「……朗は、あの人から麻薬と女の人を買ったの?」
「違う!」
ルークは強く否定した。その口調はまるで朗を庇っているようだ。これまでは事件のことなど知らないと言っていたルーク。今この男を見つめる洋子の目は、強い猜疑心に満ちている。洋子のその視線を受け、ルークは重たそうに口を開いた。
「そうだ……。アキラはあいつらに殺されたんだ」
「殺された? 殺されたってどういうこと? 朗は自殺したんじゃなかったの? 朗が事件を起こしたんじゃなかったの?」
洋子はもう何が何だか分からず、頭に浮かんだ疑問を次々と口にした。そして何でも知っているかのようなルークに対しても。
「……あなたはどうして? この町には二ヶ月前に来たんじゃなかったの? 事件のことは知らないんじゃなかったの?」
ルークは困ったような顔で洋子を見ている。洋子は急にルークが怖くなってきた。ルークはティムの仲間なのか。ふとそんな疑惑が降って湧いたのだ。
洋子の目に涙が浮かんできた。今までルークに騙されていた。悔しさと失望が心を埋め尽くしていく。何も言わないルークに洋子は震える声で訊いた。
「ルーク、あなたは……ここで何をしてるの? あなたは一体……」
ルークは洋子から目を逸らし溜息をついた。首を振り眉根を寄せて口の中で何か悪態めいたことを呟くと、諦めたような顔で洋子に向き直った。
「俺は……FBIだ」