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月曜日1

   月曜日


 洋子は夢を見ていた。コロの夢だ。コロは黒い中型の雑種犬で、洋子が小学校に入ってすぐの頃、近所の家から譲ってもらった。コロは洋子に一番懐いていた。毎日の散歩は洋子の役目だった。近所の土手を毎日、雨の日も一緒に歩いた。気性が穏やかな利口な犬で、子供だった洋子の側にいつもピッタリと寄り添っていた。

 冬の寒い夜は必ず洋子の布団に潜り込んできた。耳元でフンフンと鼻を鳴らすと、洋子は寝ぼけながらも布団を上げてコロを入れてやった。いつも頭を洋子の胸の上に乗せて寝ていた。母親はコロを布団に入れることを嫌がった。自分のせいで洋子が注意されるのが忍びないのか、皆が起き出す前にコロは自分から出て行っていた。

 コロは洋子が中学生の時に死んだ。思えば、誰かの死を思い切り悲しむことが出来たのは、あれが最後だったのかも知れない。

 洋子は自分が目を覚ましたような気がした。しかし辺りは暗く、まだ夢の中だと気が付いた。胸の上に懐かしいコロの重みがあったからだ。洋子は嬉しくてコロを撫でた。コロは撫でられた頭を少し動かしたが、すぐに大人しくなった。そのしなやかな黒い毛に指を絡ませながら、洋子はまた眠りに落ちていった。


 次に洋子が目を開けた時には、辺りは薄く明かりが差していた。高い天井が見える。左に視線を移すと二階の廊下の手摺が見えた。自分がロビーのソファで寝ているのだと気付いた。首を巡らせ右を見ると、道路に面したロールカーテンが柔らかな日の光を受けている。その隙間から差し込む斜めの光がロビーに並ぶテーブルに落ち、木の色をそこだけ明るくしている。暖炉の火は消えて、燃え尽きた薪からは細く白い煙が上に向かって伸びていた。

 包み込まれるような柔らかな光に満ちた朝。洋子は幸せな気持ちで深呼吸をしたが、不意にビールの臭いが鼻をついた。すぐ横のローテーブルの上にビールの缶が並んでいる。

「まずい……」

ルークにこんなところを見られたら、また何を言われるか分かったもんじゃない。ルークが起きてくる前に片付けなければ。しかし体の上のコロが重くて動けない。

「そうか……」

洋子は天井を見たまま呟いた。まだ自分は夢の中にいるのだと思い込もうとした。本当は昨夜飲んだ後にきちんと片付けをして、今は自分の部屋で寝ているのだ、と。しかし、残念なことにそんな記憶は無かった。今自分が眠っているとも思えない。

 洋子の頭は混乱してきた。それなのに何故コロがいるのか。そんなわけがない。コロは死んだのだ。声が涸れるほど泣き暮らした日々を洋子は思い出した。訳が分からない洋子は、自分とコロの上に掛かっている毛布を摘み上げてみた。見覚えがある。ルークのポンチョだ。そして、肩までポンチョをかけたルークの寝顔が見えた。

「ひっ!」

洋子は短く悲鳴を上げ、身体を強張らせた。すると目を覚ましたルークが弾かれたように頭を上げた。すぐ近くで洋子とルークの目が合った。

「あ……あ……」

洋子は声が出せない。目を見開き、驚愕の表情でルークを見ている。一方、寝起きのルークは何が起きているのか分からず、ただ事ではない様子の洋子に驚いていた。

「どうした?」

切羽詰った口調で訊いたが、洋子は返事も出来ないまま固まっている。

 ルークは洋子の左肩の下に入っていた自分の右腕を引き抜き、昨夜ソファの隅に置いた銃を取った。全く状況が分かっていなかったが、洋子に銃を見せたらまずいという事だけは頭が働いた。銃を握った手をポンチョの中に隠し、辺りを見回す。他には誰もいない。洋子の頭の横に左手をつき、馬乗りになったまま向き直った。洋子はまだ黙ったまま、目を見開いている。

「どうした? 大丈夫か?」

「だ、大丈夫かどうか、こっちが訊きたいわ……」

「えっ?」

ルークは洋子の言葉に困惑し、また辺りを見渡した。そしてローテーブルの上のビールの缶に気付き、顔をしかめた。

 やっと状況が把握できたルークはソファに膝を突いたまま起き上がり、銃をジーンズの腰に隠した。肩から滑り落ちそうになったポンチョを摑み、自分の下にいる洋子の身体にバサッと掛けた。ソファの端に移動して浅く腰掛けると、膝の上に肘をつき、うなだれた頭を手で支え小さく悪態をついた。

「あのままここで寝たのか……。クソッ! 夜のうちにやっておく事がまだあったのに……」

 洋子もソファの上で上体を起こし、ルークのポンチョを引き寄せながら後ろへ下がった。いったいどういうことなのか、肘掛を背に、混乱した頭を懸命に回転させる。昨夜の出来事を思い出す。ルークと酒を飲んで話をして……。その後が思い出せない。でも二人ともちゃんと服を着ている。何かあったとは思えないが、何も憶えていない。洋子はソファの端に座るルークを見た。頭を抱えている。何かまずいことになったという感じがしなくもない。いったい、あれは何を意味しているのか。洋子は恐る恐る訊いてみた。

「ねえ、何か、あった訳じゃないわよね?」

 うなだれていたルークは、洋子の質問に思わず吹き出しそうになった。

「バカか? 何かあったら、分かるだろう」そう一蹴しようと開きかけた口をひとまず閉じた。少しからかってやろうと思ったのだ。この酔っ払いのバカ女には良い薬だ。

「何かあったかって? ひどいな……憶えてないのか?」

ルークは傷付いたような顔を洋子に向けた。すると見る見る洋子の顔が蒼ざめていく。

「そんな……」

洋子が慄いたように呟き、肩をがっくりと落とした。

「全然憶えてないわ……」

洋子はV字に開いたカーディガンの胸の部分を、下に着ているタンクトップごと震える手で握り締めた。記憶が無くなるほど泥酔していたにも関わらず、その後でちゃんと服を着たということが不思議だった。それなのに、何の記憶も無いとはどういうことなのか。洋子は強く頭を振った。ルークと何かあったという事よりも、何も憶えてない事がショックだった。

 ルークは洋子の動揺っぷりを見て、すぐに自分の言ったことを後悔した。もし本当に何かがあったとしたら、そんなにまずいことなのか、と。

 今にも泣き出しそうな洋子の顔を見て、ルークは呆れながら不機嫌な声で言った。

「冗談だよ。ここで眠っただけだ」

「本当?」

洋子は疑わしそうにルークを見て訊いた。もう何が本当なのか分からない。

 明らかに疑っていると分かる洋子の視線を受け、心外だとばかりにルークは舌打ちをした。昨夜、多少の下心があったのは事実だ。それは自分でも認める。しかし、少なからずその原因は洋子の方にもあったはずだ。それでも何もしていないのだから、責められる謂れなどない。

「本当だよ。君が俺に寄りかかって寝てたんだ。確かに何かしてやろうかと思ったけど、君が重くて動けなかった」

ルークの口調は嫌味たっぷりだ。

「そうなの?」

「いくらなんでも、何かあったら分かるだろう」

 洋子はやっと納得した。止めていた息を笑顔とともに吐き出す。

「そうよね」

 疑いが晴れたにも関わらず、ルークは洋子の安堵の表情に苛立ちを覚えた。

 洋子はルークが掛けたポンチョを剥ぎ取ってソファの上に置くと、跳ねるように立ち上がった。今まで深酒をしても記憶を無くしたことなどなかったのだ。洋子は自分の酒の強さに自信を取り戻した。何も無かったのだから憶えていなくて当然なのだ。

「良かった……」

そう言うとランドリールームの隣にある洗面所へ向かった。

 ルークは洋子のその一言で完全に頭にきた。洋子が払いのけたように感じたポンチョを被り、ローテーブルの上のワインボトルとグラスを持つとブーツの足音を響かせてカウンターへ向かう。ボトルとグラスをシンクの横に置き、コーヒーメーカーに豆をセットすると乱暴にスイッチを入れた。冷たい水で顔を洗ったが全くスッキリしない。ソファで寝ていたためか、身体のあちこちが凝っている。特に首だ。たいして大きくもない洋子の胸、ほとんどあばら骨の上で寝ていたのだから無理もないか、と心の中で毒づいた。

「あの女のせいだ……」

洋子が上機嫌と分かる軽い足取りで洗面所から出てきた。その姿がまた癪に障る。ルークはカウンターから洋子に向かって怒鳴った。

「おい! 早くそこを片付けろ!」

 洋子は怒ったようなルークの声に驚いた。ソファなんかで寝かせたから風邪でもひいて機嫌が悪いのかとも思った。触らぬ神に祟り無しだ。言われたとおり洋子は缶を抱えてカウンターへ向かった。

 ルークはシンクの前に立ち、洋子を見ようともせず、正面を向いて不機嫌な顔でタバコを吸っている。洋子はルークの後ろを足音を忍ばせて通り、出来るだけ音を立てないように空き缶を捨てた。捨て終わると、またルークの後ろを静かに通り、カウンターを出た所で立ち止まった。やはりこのままではまずいと思ったのだ。洋子は振り向いて謝った。

「あの、ごめんなさいね。あんな所で寝かせちゃって……風邪ひいてなきゃいいんだけど……」

「風邪だと? 風邪なんかひいてたまるか!」

 ルークは口の中で吐き捨てるように呟いた。これから仕事があるのだ。風邪などひいてる暇はない。上目遣いで申し訳無さそうに縮こまっている洋子を一瞥したルークは、自嘲気味な薄笑いを浮かべた。

「良かったな……。俺なんかと何も無くて」

「はあっ?」

「そんなに嫌がられてるとは思ってなかった」

 ふてくされてそっぽを向いたルークの横顔を洋子は困惑して見つめた。ルークがそんな事で怒っているとは思わなかったからだ。しかも、この男は誤解している。洋子にしてみれば、憶えていないくらいなら何も無いほうが良かったと思っただけだ。洋子は慌てて首を振った。

「そんな事言ってないわよ! だって、何かあったとしても……何も憶えてないのよ。それじゃ……それじゃ……」

洋子はしどろもどろだ。何とか言葉を見つけ出そうとした。

「……悲しいと思わない?」

言ってから洋子は溜息をついてうなだれた。何かが違う。自分で言っておきながら、とてもしらじらしく聞こえたのだ。母国語ではないから、上手く自分の言いたいことが伝わらない。それがとても不公平に感じた。

「しらじらしいこと言うなよ……」

案の定ルークに冷たくあしらわれ、洋子は頭を抱えた。

 ルークは後ろを向くと、出来たばかりのコーヒーをカップに注ぐ。

「コーヒーは?」

ここ数日の習慣でルークは無意識に洋子に訊いた。

「いらない。水がいい」

 ルークは冷蔵庫から出したミネラルウォーターのボトルを洋子に渡した。怒っていても、こういうところは変わらないのだと洋子は感心した。

「そんなに思い出が大事か?」

突然の質問に洋子は口からボトルを離してルークを見た。ルークは不機嫌に細めた目で洋子を睨んでいる。

「君はもうすぐ日本に帰るんだろ? 思い出作りに俺を利用するなよ。残される方の身にもなってくれ」

洋子は困惑に眉をひそめた。この男の言ってることは支離滅裂だ。いったい何が気に入らないのか、全く分からなくなってきた。

「いつ私があなたを利用したのよ?」

それまで下手に出ていた洋子だったが、段々腹が立ってきた。ルークは黙ったまま冷たい視線を洋子に投げ掛けている。そんなルークに洋子は指を突きつけた。

「昨夜は私のお酒に付き合えなんて言ってないわ! あなたが勝手にいたのよ!」

 そんな事はルークにも分かっている。しかし、一度沸騰した頭は正論を言われたからといって鎮まるものではない。むしろ余計に反発するものだ。負けず嫌いのルークは苦し紛れに話をすり替えた。

「酒で紛らわすのもいい加減にしろよ。大体飲み過ぎなんだよ」

「そんな事関係ないでしょ!」

「心配して言ってやってるんだよ」

 責任を負う気もないくせに相手をコントロールしようとする。そういう事を言われるのが洋子は一番嫌いだった。しかもルークの上から物を言う態度にもう我慢出来ない。

「そんなに私が心配なの? だったら、あなた私と一緒に日本に来なさいよ! 一生私の面倒見てよ!」

「気でも違ったのか?」

ルークが困惑した顔で訊くと、洋子は短く笑った。

「どうせ出来ないんでしょ? だったら私の心配なんかしないで!」

「そうやって自分から他人を遠ざけてるのが分からないのか?」

この男にだけは言われたくない言葉だ。洋子は辟易して首を振った。

「あなたはどうなのよ? 私が重くて動けなかったって言ったわよね。よく言うわよ。この前は軽々と持ち上げたくせに。どうせ勇気が無かったか、私に興味が無いだけでしょう? 私のせいにしないで! ……それともあなた、もしかしてゲイなの?」

こんな事を言うべきではなかった。洋子はすぐに後悔した。自分が最低の人間になった気分だ。その視線と同じくらい冷たい声音でルークが訊いた。

「そう見えるか?」

「私には関係ないわ……。気にする事ないわよ、別に悪い事じゃないんだから……」

気持ちとは裏腹に口をついて出た洋子の言葉に、ルークは溜息をついている。吸いかけのタバコを灰皿に置くと、洋子の方へ歩み寄ってきた。殴られるかも知れない。洋子はそう思ったが、もう悔しくて後には退けなかった。目の前に立ち見下ろすように洋子を睨みつけるルークは、その高い背丈以上の威圧感がある。洋子もまた見上げるようにルークを睨みつけた。不意にルークが右手を出し、洋子は首をすくめて身構えた。しかしルークの手は洋子の首と髪の間に滑り込んできた。ルークの指先が首筋に触れ、洋子は身体を強張らせた。その手が鷲づかみにするように洋子の後頭部にあてられ、戸惑っているうちに乱暴に引き寄せられた。

「何するのよ!」

怒りに燃える洋子の視線を受け止めながら、それと同じくらい強い眼差しを返してくる。怒りの中に潜む激しい感情に射すくめられ、洋子の身体が震えた。ルークの唇が開く。

「気付いてないんだろうな。お前のその怒った目が俺を誘ってるんだよ」

ルークはそのまま顔を近付け、洋子に強引にキスをしようとした。

「やめて!」

両手で力いっぱいルークの肩を押したがびくともしない。ルークの腕から逃れられないと分かると、必死で顔を背けた。その洋子の耳に触れそうなほど唇を近づけたルークが擦れ声で囁く。

「寂しいんだろ? 今から抱いてやってもいいんだぞ」

洋子はルークの肩を押していた右手を後ろに引き、顔めがけて平手を飛ばす。しかしそれは顔に当たる前にルークが上げた左手によって払われてしまった。洋子は泣き声とも叫びともつかない短い声を上げた。不意に頭を摑んでいた手が離れた。背を向けたルークがカウンターに戻っていくのが見えた。

 ルークは吸いかけのタバコを手に取った。洋子は肩で息をしながら俯いている。ルークに払われて痺れる右の手首を胸の前で押さえ、目に溜まった涙が今にもこぼれそうになっている。

「着替えてこいよ。朝飯作っておくから」

手にしたタバコを見ながらルークは静かな声で言った。

 洋子は何も言わず、俯いたまま急いで部屋へ向かった。途中で涙が流れたが、拭うことも出来なかった。

 洋子の部屋のドアが音を立てて閉まると、ルークはタバコを灰皿に強く押し付けた。すぐ横にあるワインボトルを摑むとゴミ箱の中へ叩きつけた。


 閉じたドアのすぐ後ろに立っていた洋子は、ロビーから響いた大きな音に息を飲み、嗚咽を漏らすと背中をドアに付けたまま崩れるようにしゃがみこんだ。どうしてこんな事になったのか。そもそも喧嘩の原因が何だったのかも分からない。それでも自分がルークを怒らせてしまったことは間違いない。もしかしたら、すぐにでもここを追い出されるかもしれない。そうなれば、喧嘩をしたまま、もう二度と会えないのではないかという考えが頭をよぎった。

「やだ……、そんなの嫌……。ルーク……」

洋子は擦れた声で呟いた。涙はどんどん流れてくる。手で顔を覆うと声を殺して泣き始めた。


「何やってんだ?」

ルークはスチールで出来たゴミ箱の中で粉々に砕けたワインボトルの残骸を見ながら呟いた。これではただの八つ当たりだ。「残される者の身になれ」などと洋子に言っておいて、先に消えるのは自分の方なのだ。しかも力で彼女を制しようとした。ルークは自分の言動を呪った。急に自分を痛めつけてやりたくなり、カウンターのステンレスに拳を叩きつけようとして、やめた。これから仕事があるのだ。自分から怪我をするような愚かな真似は出来ない。拳を開くと、掌でカウンターをはたいた。

「クソッ!」

吐き捨てるように呟くと大きく一回深呼吸をする。

「気が変わった……」


 朝食が出来上がる頃、もしかしたら洋子は部屋から出てこないかもしれないとルークは思った。スクランブルエッグをフライパンから皿に移しながら、そうしたらどうしようかと思案を巡らせる。呼びに行って謝る。それが最善だと思えた。ルークは諦めたように首を振る。

「まったく、面倒臭えなあ……」

朝食が載った皿を二枚両手に持ち、背中でキッチンのスイングドアを押し開けた。振り向きざま、目の前に洋子が立っていてルークは驚き、あやうく二人の朝食を落としそうになった。

 洋子は暗い顔で俯いていた。何とか息を整えたルークは黙ったまま洋子の分の朝食の皿を差し出した。洋子は朝食を受け取ると、俯いたまま小さな声で「ありがとう」と言った。朝食をテーブルに置いた洋子は立ったまま顔を上げ口を開いた。

「ごめんなさい……。色々、酷いこと言って……」

今にも泣き出しそうな洋子の顔を、ルークはまともに見ることが出来ない。しかも洋子の方から先に謝ってくるとは思わなかったのだ。ルークはきまずい思いで「自分の方こそ悪かった」と謝罪を返した。こういう時は先に謝った者の勝ちだ。本心からの謝罪であるにも関わらず、これでは取って付けたように聞こえるからだ。

 洋子は安堵してまた泣きそうになっている。こういう状況なら抱き締めて優しくキスでもするのが正解なのだろう。しかしルークはどうしても一歩が踏み出せない。足は床に釘で打ちつけられたかのように動かなかった。ルークは洋子から目を逸らし、自分の椅子に座った。

 二人ともほとんど会話もなく朝食を食べていたが、それも終わりに近づいた頃、洋子が昼食は自分が作ると申し出た。しかしルークは一瞬困った顔をした。

「実は……昼飯はもう作ってあるんだ。昼は一緒に食べられないかも知れないから、サンドイッチを作ってキッチンに置いてある。時間になったら食べてくれ」

「そうなの……」

洋子は落胆を隠す事が出来なかった。ルークは慌てて今日は元々そういう予定だった事を伝えた。

「さっきの事とは関係ないから。だから……そんな顔するな」

「えっ?」

自分がどれほど情けない顔をしているのかと考えた洋子は恥ずかしさに俯き、ぎこちなく朝食を口に運んだ。

 ルークはテーブルに置かれた洋子の左手を見ていた。もしその指先にでも触れることが出来れば、すぐにでも彼女は自分のものになるという確信があった。でも触れることが出来なかった唇と同じように、その指も遠い存在に思えた。

 洋子の指が急に動いた。コーヒーカップを持ち上げて洋子の口へ運ぶ。ルークは我に返った。自分もカップを持ったが、ほとんどコーヒーが無かったことに気付くと黙ったまま立ち上がった。カウンターからコーヒーが入ったポットを持ってくると、自分のカップに注ぐ。

「コーヒーは?」

洋子に訊いた。

「うん」

洋子は両手でカップを持ってルークに差し出した。その手を見ながらルークが言った。

「こぼしたら火傷するから、テーブルに置け」

洋子は言われた通りカップをテーブルに置いた。その両手はテーブルの下に潜り込み、ルークからは見えなくなった。

 洋子は後ろを向くと、空になったポットを持ってカウンターに戻っていくルークの背中を見つめた。胸に締め付けられるような痛みが走る。その背中を抱き締めたい衝動に駆られた。でももしルークに拒絶されたら、もうここにはいられない。

 シンクにポットを置いたルークが振り向く前に、洋子は前を向いた。


 後片付けは洋子が一人でした。ルークは自室でビルと電話で話している。

「今日はいつでも連絡が取れるようにしておけ。あと、手順をもう一度確認しておけ」

ルークは部屋の隅に置かれたままの今朝車に積み損ねた鞄を見てから躊躇いがちに口を開いた。

「ビル、頼みがあるんだ。今日終わったら、俺を一度ここへ戻してくれないか?」

「状況にもよると思うが……何だ、気になることでもあるのか?」

「…………」

ルークは黙っていた。ビルには大方察しがついたが、それ以上訊くのはやめた。

「分かった。何とかしよう。そのかわり、終わるまでは仕事に集中しろ。分かったな?」

「ああ。分かってる。悪いなビル」

電話を切ったルークは机に頬杖をつき、深い息を吐き出した。


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