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プロローグ ・ 半年後、水曜日1

2011年、11/19、大幅に改稿しました。


プロローグ



アメリカ南西部。メキシコ国境に程近く,美しい湖を擁する町。澄んだ豊かな水を湛えたその湖を木立が取り囲み、その外側をぐるりとメインロードが通っている。道路沿いに民家や商店などが点在するだけの小さな町。

 五月のある夜、普段はのどかなその湖畔に、それぞれ間隔を置いて三発の銃声が響いた。            

 砂利が混じった土の上に、うつ伏せで横たわった黒い髪の若い女は背中を撃たれていた。

 足を撃たれて倒れている制服の男性警官は低い呻き声を上げている。

 そして、顔の右半分が水に浸かった東洋人の男。天に向けたこめかみの髪の間から、ひとすじの血が鼻梁を横切り、ポタッポタッと穏やかに揺れる湖面に落ちていく。

 水面に映った月が放つ銀色の光が、何も見えてはいないその瞳の中で揺れていた。




 六ヵ月後 水曜日


 洋子は荒野を走るバスに揺られていた。空港を出てからもう何時間走っただろうか。街を過ぎると同じような景色が続いている。潅木とサボテンがまばらに生える起伏の激しい砂漠。その中を真っ直ぐに伸びる道。時折吹く強い風が、バスの窓から見える景色を黄色く曇らせていく。

 それでも退屈はしなかった。こんな景色は日本ではまず見ることはできないし、通路を挟んだ隣の席に座っている黒人の小さな男の子が、屈託のない天使のような笑顔を洋子に向けてくるからだ。きっと日本人が珍しいのだろう。そして何よりも洋子の頭の中には、洗い忘れたパレットの混ざり合った絵の具のように混沌とした思いがこびりついていたからだ。

 ひとつ息をついて窓に顔を向けたが、強烈な日差しが目に刺さり再び通路側を向いた。男の子はキラキラと光る眼差しをまだこちらに向けている。洋子が小さく手を振ると、その男の子はニコニコ顔にさらに満面の笑みを浮かべて手を振り返してきた。 

 バスは何もない丁字路で停まった。南の方角に山へ向かう道路があるだけだ。

「お嬢さん、シルバーレイク・タウンの入り口に着いたよ」

行き先は乗る時に伝えてあった。洋子は肩のセミショルダーバッグをしっかりと掛け直し、鮮やかなオレンジ色のスーツケースを握り締め、バスの乗降口へ向かった。狭い通路にまごついていると、運転手が歩み出て洋子の手からスーツケースを取り、バスのステップを降りて道路まで下ろしてくれた。

「町まではかなりあるけど、迎えは来るのかい?」

道路には他に車の姿はない。動いているものといえば、水分の無くなった薄茶色のタンブルウィードが荒野を転がっているだけだ。迎えなど来るはずもなかったが、洋子は笑顔で答えた。

「ええ。大丈夫。どうもありがとう」

 親切な運転手は運転席へ戻ると、帽子のつばを指で軽く触れて洋子に挨拶をしドアを閉めた。バスは走り出した。さっきの男の子が母親のいる窓際へ身を乗り出し、洋子に手を振っている。洋子も手を振り返した。

 山へと向かうその道を見ても町など見えなかった。上がり勾配になっていて、道も真っ直ぐではない。この先に本当に町があるのか疑ってしまう。しかし、道の入り口に小さな案内板もある。間違いない。洋子はスーツケースのハンドルを引き出すと、後ろ手に転がしながら坂道を登り始めた。

 少し歩くと道幅は狭くなった。しかもきれいな舗装はすぐ終わり、ひび割れた道路が現れた。スーツケースのキャスターが引っ掛かり歩きにくい。

 さらに歩くと潅木の間からまばらに生えていた喬木が密度を増してきた。照り付けていた陽射しが遮られると、途端に空気がひんやりとしてくる。荷物を引いて坂を上る洋子にはありがたかった。しかし、それも束の間、突然ひび割れた舗装すらもなくなった。

「本当にこの先に町なんてあるの?」

疑いが口をついて出てくるが、くっきりと残る深い轍がこの先に町があることを証明している。

 スーツケースを引くのが非常に困難になった。まだ町は見えない。立ち往生する洋子の耳に、近づいてくる車の音が聞こえた。振り向くと、赤いピックアップトラックが荷台に干草を積み、ゆっくりと坂を上がってくる。洋子に近づくとさらに速度を落とした。

 運転席の男が洋子に声をかける。

「お嬢さん、シルバーレイク・タウンに行くのかい?」

「え……ええ」

「まだ結構あるぜ。乗りなよ」

三十代と見えるくしゃくしゃのダークブロンドに青い目の男が言った。

洋子はためらった。この状況を考えればすぐにでも乗せてもらいたかったが、果たして乗っていいものだろうか。洋子の迷いを察した男は笑った。

「心配すんなって。この先にはシルバーレイク・タウンしかないんだよ。その先はもうメキシコだ。どうしたってシルバーレイク・タウンにしか行けないんだよ。俺もそこに帰るんだ」

 男が車を降りてきた。小柄な身体に赤いチェックのシャツにオーバーオール、長靴のようなブーツを履いている。男は洋子のスーツケースを持つと荷台へ回り、干草を寄せて少しできた隙間にそれを押し込んだ。

「さあ、乗った、乗った!」

笑顔で洋子を促す。

「そ、それじゃ……お願いします」

洋子は助手席へ回り、車に乗り込んだ。

「日本人かい?」

ギアを変えながら男が訊き、洋子が頷くと車はゆっくり動き出した。がたがたと揺れる車内で男は前を向いたまま喋り出す。

「ちょっと前まではここでも日本人をよく見たよ。日本のテレビ局とか記者をいっぱいさ。最近はもう来ないけど。いや、実は六ヶ月くらい前に日本人がここで事件を起こしてね……」

「ええ、知ってます……」

洋子は俯き、小さな声で答えた。

「あんたも記者か何かか?」

「違います。あの……」

洋子が言いよどんだ。男はハッとした様子で洋子に顔を向けた。

「もしかして、あいつの家族か何かかい?」

「家族というか……。彼と結婚するはずでした」

隠しても仕方がないと思った洋子の告白を聞き、男は目を見開いた直後に表情を曇らせた。

「悪かったな……。その、悪気はなかったんだ」

男が申し訳無さそうに言うと、洋子は慌てて笑顔を作り首を振った。

「いいえ、気にしないでください。大丈夫ですから」

「その……事件のことで来たのかい? 日本から?」

「はい。警察にちょっと訊きたいこともあったので」

「この町に泊まるのかい?」

洋子は頷きながらバッグからメモを取り出して読んだ。

「ええ。『レイクサイド・イン』ていう所に」

男は声を上げて笑った。

「分かってるって。この町で宿泊施設っていったらそこしかないからな! 小さな町なんだよ」

「そうなんですか……」

洋子も恥ずかしそうに笑った。重苦しくなった空気が一気に和むと、安堵したように男が微笑んだ。

「俺はジミーだ」

「洋子です」

「じゃ、レイクサイド・インに直行か?」

「できれば、その前に警察に行きたいので、そこで降ろしてくれますか?」

「警察ならすぐそこだ」

ジミーは右側を指差した。木立の間から白い建物が覗いている。目を前に向けると、左右に伸びる道路があった。道路脇には木が茂り,その向こうがシルバーレイクだ。やっと町に着いた。

 車は警察の建物の前にある広い駐車スペースに入って停まった。ジミーが降りる。洋子も降りて荷台へ回った。しかしジミーは荷台へは回らず、そのまま建物へ向かっていく。洋子が慌ててジミーを追いかけた。

「ここで結構ですから。ありがとうございました」

ジミーはキョトンとした顔をした。

「警察を出た後はどうするつもりだい? レイクサイド・インまでは遠いぜ。歩いたら日が暮れちまう。俺の家はレイクサイド・インの隣なんだよ。送っていくから心配すんな」

どこまでも親切なジミーに洋子は感謝した。

「ありがとうございます」


「よう!」

ジミーが手を上げて中に入ると、どこか悲しげな顔つきの赤毛の若い男性警官が答えた。

「ジミー。どうしたんだ?」

広くはないが、白い壁の清潔そうな署内の奥にもう一人、ブロンドの三十代後半くらいの女性警官が机に向かっている。男性警官はジミーの後ろにいる東洋人の女に気付いた。

「こちらは?」

「お客さんだよ」

男性警官に尋ねられたジミーが洋子について説明を始めた。

「ほら、例のゴトウアキラの関係者だって。事件のことで話を聞きたいんだってさ」

「はあ……」

男性警官が困惑した顔で洋子を見た。奥にいる女性警官も顔を上げて洋子を一瞥すると、すぐに机の上の書類に目を戻した。洋子は前に進み出て軽く会釈をするとためらいがちに口を開いた。

「後藤朗の事件で伺いたいことがあるんですが……」

「失礼ですが、関係者というのは……」

「あいつと婚約してたんだってさ」

ジミーが深刻な口調で伝えると、男性警官は黙ってしばらく洋子を見つめていた。女性警官も洋子を見ている。整然とした薄グレーのカウンター上に両手をつき、洋子を覗き込むように男性警官は口を開いた。

「……その為にわざわざ日本から?」

「ええ、まあ……」

洋子は曖昧に答えた。

 男性警官は助けを求めるように奥にいる女性警官を見たが、彼女は下を向いていたのでまた洋子の方へ向き直った。

「今日はあいにく担当者が非番で……明日でしたら……」

「何だ。署長はゴルフか?」

ジミーが訊くと男性警官は小首を傾げた。

「まあ、そんなところだろうな。この町に滞在されるんですか?」

「はい。そのつもりです」

洋子が答えるとジミーが補足した。

「ルークの所だってさ」

 また明日に出直すことを洋子が伝えると男性警官は頷き、担当者に伝えておくと請け負ってくれた。

「分かりました。……あの、あなたのお名前は?」

「宮田洋子です」


 警察署を出てトラックで走り出すとジミーが言った。

「残念だったな」

「……ええ」

確かに残念だったが、それとは裏腹に心の奥底ではホッとしている自分もいる。それもほんの少しばかり時間を引き延ばしたにすぎないと分ってはいるのだが。ジミーは軋むギアを変えながら洋子に笑顔を向けた。

「じゃあ次はレイクサイド・インだな。ルークが来てから初めてのお客さんだな」

どういうことなのか洋子が尋ねると、ジミーは午後の陽射しを浴びて輝く湖を指差した。

「この町には泊まりの客なんて滅多に来ないんだよ。湖しかないしさ。車で二、三時間走れば大きな街もあるから、観光客のほとんどは日帰りなんだ。レイクサイド・インにはちゃんとしたオーナーの夫婦がいるんだけど、二ヶ月前から親戚の看病で留守にしてるんだ。今はニューヨークから来た男が管理人をしてる。ま、管理人っていうか留守番だな。そいつの母親がオーナーの奥さんと古い友達で、留守の間の管理人を探してるって聞いて、どうせ仕事もしてないんだから行って来いって言われたんだとさ。ちょっと変わった奴でね。最初はとっつきにくいかも知れないけど、話すと案外面白い奴だよ。ま、見れば分るよ」

洋子はジミーの説明に頷き、開け放した窓の枠に頬杖をついて考えた。二ヶ月前に来たのなら、その人物は事件のことは知らないはずだ。もちろん噂ぐらいは聞いているだろうが。洋子は安心して軽く息をついた。そういう人物の方が気が楽だ。過度に同情される事も、変な目で見られることも無いだろう。

 暫く走るとジミーはトラックを停めた。

「ここだよ」

それらしい建物はあるが、看板もないし一見しただけではそこが宿泊施設だとは思えない。ジミーは荷台からスーツケースを降ろしてくれた。

「隣が俺の家だ」

ジミーが指差した方を見ると、レイクサイド・インの隣は馬場だった。道路に面しているのは十メートルほどだが、その奥には広大な芝が広がっている。レイクサイド・インの北側と西側を取り囲み、木で出来た柵の中で数頭の馬がのんびりと歩いたり、草を食んだりしているのが見える。その道路に面した馬場の向こうにジミーの自宅があり、裏にも建物があった。おそらく厩舎だ。

ジミーはまたトラックに乗り込みエンジンを掛けた。

「荷物積んだまま油売ってるとカミさんに怒られちゃうからさ、一度帰るよ。またすぐ顔出すから」

手を上げて自宅へ走っていった。

「どうもありがとう」

洋子は去っていくトラックに声を掛けた。

 建物に向き直る。向かって右端にある入り口の前には落ち葉が吹き溜まり、全体的に荒れている印象がある。道路に面した壁面はガラス張りだがロールカーテンが半分ほど下りている。その前の駐車スペースには、薄汚れたグリーンのチェロキージープが一台停まっていた。

 洋子はためらいながらも入り口のドアを開けて中に入った。すると外の荒れた雰囲気とは一変した。右手に長いカウンターがあり、入り口に近いほうは宿泊などの受付で、奥は飲み物などを出すカウンターがひとつになっている。カウンター内部の壁面には、グラスなどが納まった戸棚がある。その隣に家庭用の冷蔵庫、腰の高さのカウンターの上にはコーヒーメーカーがあり、出来上がったコーヒーが湯気を立てている。ロビーの中はコーヒーの香りで満たされていた。

 木の床。左手のフロアには木製のテーブルと椅子が五セット並んでいる。その奥、カウンターの正面には暖炉があり、その前にソファとローテーブル。ソファの向かいにテレビがある。とても居心地のよさそうな空間だ。

 ロビーは吹き抜けになっており、洋子が立っている位置から建物の内部が全て見渡せる。入り口の正面奥に二階に続く階段。二階には手摺が付いた廊下の壁面にドアが並んでいる。そこが客室らしい。客室があるのは二階だけで、一階はリネン室やランドリー、カウンター奥のスイングドアの向こうはキッチンだ。暖炉側のドアは『プライベート』とあり、そこがオーナー夫妻の居室のようだ。

 誰も出てこない。

「ハロー?」

洋子は声を上げた。すると階段を上がってすぐ右側にある突き当りのドアが開いて中から男が一人出てきた。

「はい?」

様子を窺う様に、長身の若い男がゆっくりと階段を下りてくる。黒い髪に浅黒い肌、細身の割りに太い二の腕にはインディアンの羽飾りの刺青が半袖の黒いTシャツの袖から覗いている。洋子は端正な顔つきのその男にしばし見とれた。高い頬骨にかかる長さの前髪の間から、焦茶色の瞳が鋭く洋子を睨みつけた。

「えっ?」

洋子はたじろいだ。男は急に歩く速度を上げ、つかつかと洋子の前に来ると低く鋭い声を発した。

「ここで何してる?」

洋子は驚いて男を見た。男は真っ直ぐに洋子を見据え、咎めるような口調でさらに言った。

「何しに来たんだ?」

「な、何しにって……その……」

洋子は怒られているようで怖かったが、勇気を振り絞った。

「ここに泊まりたいんですけど……」

「はあっ?」

男が眉をひそめ、困惑したような表情になった。ここは宿泊施設のはずだが、この男が何故このような反応をするのか洋子には理解できない。「何かまずい時に来ちゃったのかしら……」

頭一つ分ほど背の高い男の顔を洋子は上目遣いで窺った。男は眉間に皺を寄せ、何かを考えているようだ。

「無理だ。満室だ」

男に突然言われ、洋子は辺りを見回した。どう見ても部屋が埋まるほど人が泊まっているようには見えない。

「嘘……」

思わず洋子が呟くと男は憤慨したように口をきつく結んで睨みつけてきた。

「今は休業中なんだ。帰れ」

「そんな……帰れって? 日本に? それこそ無理だわ!」

洋子は困り果てた。満室だと言ったり休業中だと言ったり、どちらが本当かは分からないが、とにかく自分を泊めたくないのだということは分かる。あからさまに拒絶された事には傷付くが、それよりも切羽詰った問題がある。今夜の宿だ。懇願するような目の洋子を前に、男は出口を指し示した。

「山道を下った所の道路を東に三十マイルも行けばモーテルがある。そっちに行け」

「無理よ。車がないの……」

「車がない? ここまでどうやって来たんだ?」

「バスで……」

「バス?」

男は呆れたように言うと天井を仰ぎ見た。わけが分らないと言いたげに首を傾げながら洋子に背を向け、カウンターの中に入って行く。タバコを一本出して火を点けると、煙を吐き出しながらまるで洋子を不審者のように訝るような目を向ける。押し黙り、何かを考えている。洋子はとても気まずい思いで、俯いて立ち尽くしているだけだ。



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