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紫陽花

 いつもより少し早く家を出る、朝。

 体育祭の振り替え休日を挟んで、ひとつ月を跨いだ休み明けの登校日。月替わりの朝は、肌寒さを感じる雨模様だった。今日から夏仕様に替わった半袖の制服の上から淡いクリーム色の長袖のスクールカーディガンを着て。普段より人通りの少ない雨の通学路を、傘を差して歩く。いつもは電車を待つ人で混み合う最寄り駅のホームも人はまばらで、いつもより一本早く乗車した電車は余裕を持って座ることができた。

 ドア付近のシートに座って、文庫本を開く。昨夜読み始めた恋愛小説――「恋の彩空(あやぞら)」通称「コイロ」。テレビドラマの反響もあって、図書館の在庫は貸出中だったため結局、近所の書店で購入した。

 物語は、本作の主人公悠弦(ゆづる)が、通学路に架かる橋の欄干によじ登ろうとしていた女子生徒に声をかけた場面から始まった。同じ学校の制服、見覚えのない同学年の女子生徒――翌日、彼女がクラスメイトの彩葉(いろは)であることを知った。昨日まで目立たないクラスメイトの一人だった彼女は、顔を半分以上を隠すほど長かった前髪をバッサリ切り、別人と見間違えるほど明るい印象にイメージチェンジを果たした。そのあまりの変貌ぶりと、進級して二ヶ月あまり夏休み前という何ともいえない中途半端な時期だったこともあり「時期ハズレの高校デビュー」と揶揄されたりもしたけど、人懐っこく明るい彩葉(いろは)は瞬く間にクラスの人気者になった。そんな彩葉(いろは)だったが、クラスメイトよりも悠弦(ゆづる)と関わることを優先した。

 彼は、どうして自分と関わりを持とうとするのか、あの橋での出来事が理由なのか、何度訊ねても明確な返事はもらえず「もっと親しくなったら教えてあげるよ」と意味深にはぐらかされてばかり。

 そんな二人が、春夏秋冬四つの季節を一番近くで一緒に巡りながら思い出を彩っていく⋯⋯という流れのストーリー。

 電車が学校の最寄り駅に着くまでの間に、夏休み前の期末試験に向けて勉強会することになったシーンまで読み終えた。意味深な描写はあるけど、今のところ触れ込みの「悲しい恋物語」という感じはあまりしなかった。

 もう少し読み進めれば、昨日観たドラマ最新話のような物悲しい雰囲気になっていくのかな? そんなことを思っているうちに、学校へ到着。靴を履き替えて、教室へ。横開きのドアを開け、まだ半分も埋まっていない教室の自分の席に座って、栞を挟んだ小説のページを開く。


「何読んでるの?」


 すぐ近くで聞こえた声で顔をあげると、サイドテールが揺れていた。夏服姿の旭(あさひ)さんが立っていて、教室はいつの間にか賑やかになっていた。本を持った手を動かし、読んでいる本の背表紙を見せる。


「ああ、ドラマの」


 あまり興味はなさそうな反応。彼女は、本から視線を隣の空席移した。


「如月(きさらぎ)くん知らない?」

「まだ来てないじゃないかな」


 と答えたものの。教室の掛け時計は、登校時間を指していた。スピーカーから始業ベルが鳴り、教室前方のドアが開いた。教室に入ってきたのは、クラス担任の高瀬(たかせ)翠(みどり)先生。教卓の前に立ち、クラス名簿を開く。


「はい、席について。出席とります」


「話したいことあるから後で時間作って」旭(あさひ)さんはそう言って、自分の席へ戻っていった。私に話したいこと⋯⋯何だろう、これといって思い当たる節がない。


「如月(きさらぎ)くんは、欠席⋯⋯」

「どうかしたんですかー?」


 如月(きさらぎ)くんの欠席を知ったクラスの男子が、高瀬(たかせ)先生に欠席の理由を訊ねる。


「軽い発熱だそうよ。季節の変わり目だからみんなも体調管理には充分気をつけること。はい、じゃあ次――」


 出席確認と簡単な連絡事項のみのHRが終わり、そのまま一時間目の授業へ移行。その後も滞りなく授業は消化され。そして、お昼休みを迎えた。


「いいの?」


 教室の出がけに一部の女子グループから、旭(あさひ)さんへの陰口に近い言葉が聞こえた。彼女は特に気にする様子もなく、平然と答えた。


「別に。誤解だったってちゃんと伝えた上でまだ疑うのならもうどうしようもないでしょ。言ったって信じないんだから」


 それは本当にそう。少し前まで同じ境遇だったから手に取るようにわかる。誤解されていた主な相手は、私の一歩前を歩く旭(あさひ)さんだったけど。でもこうして、関係性をはっきり割り切れてしまうのは凄いと思ったし、少し羨ましくも思った。

 ともあれ大勢の人前では話し難いことのようで、生徒で賑わう売店とは反対方向の体育館と校舎を結ぶ渡り廊下の雨除けの下でハンカチを敷いて座り、しとしとと小雨が降る中お弁当の包みを広げる。


「自分で作ってるの?」

「時間あるときはね。それで話しって?」

「如月(きさらぎ)くんのこと。リレーのあと倒れたって聞いて」


 体育祭の最後を飾る男女混合リレーの後、校舎裏で寄り掛かるようにして座り込んでいた如月(きさらぎ)くん本人は、ただ疲れただけって言っていたけど⋯⋯。


「保健の先生はなんて?」

「何も⋯⋯」


 閉会式が始まっていたから戻るように言われて、すぐに保健室を後にした。去り際、保健の先生に促されてベッドで横になった姿がチラッと見えただけ。それより――。


「どうして知ってるの⋯⋯?」

「これ。誰なのかは特定はされてなかったけど」


 旭(あさひ)さんのスマホの画面には、腕を肩に回して密着して歩く体操着姿の男女の後ろ姿が捉えられていた。旭(あさひ)さんがアレンジしてくれた髪形で、ひとりは自分とわかった。そして当然、もうひとりが誰なのかも。


「誰が撮ったのかは今はどうでもいい。病み上がりだったのに無理矢理アンカーやらせて無理をさせたのは、私だから」


 如月(きさらぎ)くんは、恨み言ひとつ言わなかった。

 リレーの後そっと身を隠したのはきっと誰にも気を遣わせないための、彼の優しさ――「あいつさ、人付き合い苦手なんだ」ふと、体育祭前の出来事が頭を過った。私の視線に気づき、旭(あさひ)さんは小さく首をかしげる。


「なに?」

「ううん、なんでもない」

「あっそ」


 素っ気ない返事。

 いつかと同じように、これで会話が終わってしまいそうな雰囲気。何か共通の話題になりそうなことを探して話しを振る。


「そうだ、知ってる? 図書館の近くの川の遊歩道、もうすぐ百合の花が咲くんだよ」

「知ってる。普通に通り道だし。家どっち側なの?」

「橋渡って西の方」

「じゃあ反対だ。うち東側だから。あっちは、紫陽花も咲くの」

「そうなんだ、見たいなー」

「咲いたら教えてあげる」

「ありがと」


 その後も、お互いお昼を食べながらの会話は思いのほか弾んだ。学区は別々だったけど、実はお互いの家は歩いて行けるくらいの距離だったり。試験前になると近所の図書館で勉強したり。お互い知らなかっただけで、もっと前にどこかで顔を合わせていたのかも。


「そうそう。駅南にオープンしたカフェ行った?」

「ううん、まだ行ったことない」

「行ってないの? 絶対行った方がいいって! あのお店の――」


 何度も言葉を交換していくにつれて、旭(あさひ)さんの態度や言葉は徐々に砕けていった。

 さっきも気丈に振る舞っていたけど。彼女はきっと、私が思っている以上にずっと気にしていたんだと思う。無理をさせてしまった如月(きさらぎ)くんのことも、クラスの一部の女子とのわだかまりも。

 そして、他人の悪意がきっかけで結果的にクラスで孤立することになってしまった、私に対しての罪悪感を⋯⋯ずっと抱えていたんだ。

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