治世に必要なもの
洛陽の宮城を包む空気は、武帝の治世がもたらした一瞬の繁栄の陰で、どこか重く沈殿していた。
十数年ぶりに足を踏み入れた宮殿は、かつてと変わらぬ絢爛さを誇っていたが、回廊を渡る風にはかすかな焦燥の匂いが混じっている。長年の牢獄生活で脚を悪くした偉駆朱は、杖をつき、自身の重い足音だけを響かせて歩いた。爪の間に刻まれた泥と炭の汚れは、どれほど洗っても落ちなかった。それが、外部と遮断された暗闇で生きてきた己の時間の証でもあった。
「武帝の寵姫に通じる抜け穴の存在を漏らした」――身に覚えのない讒言によって親子共々投獄され、牢内で老いた父を看取った。自分という存在は、すでにこの歴史から消え去ったものだと思っていた。
案内された先、謁見の間に据えられた玉座には、まだ若い皇帝――恵帝が座していた。その瞳には覇気はなく、どこか深い疲労の色が影を落としている。
「そなたが、偉駆朱か」
若き皇帝の声は低く、広大な部屋に所在なく響いた。偉駆朱は杖を脇に置き、ひざまずいて額を冷たい石床につけた。
「罪人にございます」
「……罪人ではない。今日より朕の工匠である」
恵帝は短く息を吐くと、手元の侍臣たちに退室を命じた。重厚な扉が静かに閉まり、広間に二人きりの沈黙が訪れる。皇帝は玉座から立ち上がり、ゆっくりと窓辺へ歩み寄った。
「朕は、戦を望まぬ」
ぽつりと漏らされたその一言に、偉駆朱は伏せた顔をわずかに上げた。帝王の口から出る言葉としては、あまりに脆弱で、しかし切実な響きがあった。
「……」
「だが、国は朕の望みでは動かぬ」
窓の外には、かつて三国時代の混乱を乗り越え、西晋の都として栄える洛陽の街並みが一望できた。しかし、その平和は薄氷の上に成り立っている。初代・武帝が推し進めた諸王への分封は、かえって司馬一族内部の権力闘争を燻らせていた。皇族たちは互いを殺気立った目で見張り、地方では重税に苦しむ民が盗賊へと身を落としている。
「武帝の築いた天下は一つになった。だが、人の心は一つにならぬ」
恵帝は遠くを見つめたまま、自嘲気味に呟いた。朝廷では八王をはじめとする諸侯が実権を握ろうと暗躍し、皇帝である自分自身が政治の道具として扱われていることを、誰よりもこの若者が理解していた。
「兵を増やせと言う者もおる。城壁を高く築けと言う者もおる。……だが朕には分からぬ。いくら兵を増やしたところで、その兵がいつ朕に刃を向けるかなど、誰が保証できよう」
少しの間が空いた。皇帝はくるりと振り返り、床に伏す偉駆朱を見下ろした。その眼差しには、権力者の威圧ではなく、溺れる者が藁をも掴むような切望が宿っていた。
「そなたは、建築家だそうだな」
「は」
「朕が求めるのは、敵を塞ぐだけの堅固なる城ではない」
偉駆朱は眉をぴくりと動かした。建築家にとって「城」とは防御の極致であり、権力の象徴である。それを不要と言い切る皇帝の意図を測りかねた。
「一万の兵を十万に見せるものでもよい。見たこともない脅威で、敵の戦意を根こそぎ奪い去るものでもよい」
恵帝は偉駆朱の前に歩み寄り、静かに、しかし力強い声で続けた。
「戦わずして勝てるなら、それが最もよい兵器だ。誰も思いつかなかった兵器を作れ。
……それができねば、この国は遠からず、身内から撒かれた血で沈む」
戦わぬための兵器。
血を流さずに敵を平伏させる無双の威容。
偉駆朱はしばらく黙考した。牢獄の暗闇のなかで、父と語り合った古い言伝や、かつて蜀の地で見た技術の断片が、頭の中でめまぐるしく交差する。
「……陛下」
偉駆朱はゆっくりと頭を上げ、皇帝の直視を受け止めた。
「人は、己の背丈より高いものに畏怖を覚えます。そして、決して届かぬ高みから見下ろされたとき、いかなる猛者も己の小ささを知るのです」
「高み、とな?」
「は。城壁を高く築くのではございません。人が……空へと登るのです」
恵帝の目が驚きに見開かれた。偉駆朱の胸中には、亡き諸葛孔明が南蛮の地で用いたと伝わる「孔明灯」の記憶と図面が、確かな熱量を帯びて立ち昇り始めていた。
偉駆朱は静かに頭を上げると、自らの手のひらを見つめた。長年の投獄で荒れ果てた皮肉なこの手が、いま再び技術の深淵へと伸びようとしている。
「陛下。一つだけ、試してみたいものがございます」
「申せ」
恵帝の言葉を促す声には、かすかな好奇心が滲んでいた。偉駆朱は息を整え、意を決して言葉を紡ぐ。
「蜀において、かの丞相・諸葛孔明が用いたと伝わる”孔明灯”にございます」
恵帝は薄い眉を寄せ、記憶をたどるように首をかしげた。
「夜空に浮かぶ灯という、あれか」
「はい。竹の骨組みに紙を貼り、内部で火を焚いて熱い気を送り込むことで、夜空へ静かに浮かべる小さな灯でございます。かの地では主に、夜間の遠方への合図や連絡に用いられたと聞き及んでおります」
「それが……兵器になるのか? たかが合図の灯が」
「……分かりませぬ」
偉駆朱のあっさりとした返答に、恵帝の眉がわずかに動いた。皇帝に対して誤魔化しや過剰な言明を排する姿勢は、長年の技術者として養われた徹底した現実主義でもあった。
「ですが」
偉駆朱は言葉を継いだ。その瞳には、技術者特有の静かな熱が灯り始めている。
「小さな袋が浮くのであれば、極限まで大きく作ればどうなるのか。
……中に人を乗せられるほどに巨大なものを作った者は、この歴史の中で、未だ誰もおりませぬ」
「人を、空へ……」
恵帝は思わず呟き、自らの掌を見つめた。人間が鳥のように空を舞うなど、神仙のたわ言か道士の戯れ言として切り捨てられるのが常である。
「理の上では、大きさに合わせて熱き火の気を満たせば、人は浮くはずでございます。しかし、実際に人間を支えるほどの火の気が得られるのか、絹や紙が重さに耐えうるのか、上空の風がどのように働くのか……何一つ、確かめた者はおりません」
恵帝はゆっくりと玉座にもたれかかり、重厚な天井の装飾を見上げた。沈黙が広間を支配する。一国の興亡を左右する兵器の相談としては、あまりに荒唐無稽で、しかし不思議な説得力を帯びていた。
「もし……もしそれが本当に浮いたなら、何ができる」
「世界が一変いたします」
偉駆朱の声に、確信に満ちた芯が通った。
「戦においては、敵の城壁の向こうに潜む兵卒の動きが一目瞭然となります。
幾万の騎馬で押し寄せる北方騎兵の進路も、深い森に隠された伏兵の配置も、天から見下ろせば指先ひとつで捉えられましょう。敵の陣の最も脆い『隙』を、戦う前に見抜くことができるのです」
「天からの眼か……」
「それだけではございません」
偉駆朱は深く息を吸い、穏やかな調子で続けた。
「水害の前触れとなる河川の溢れ具合や、遠方の街道を往く物資の滞り、あるいは干ばつの兆候すらも、高く昇れば地上よりはるかに早く察知できます。
治世の道具としても、これに勝るものはございません」
恵帝は小さく息を吐き出し、口元に幽かな笑みを浮かべた。自らを縛りつける宮廷のドロドロとした権力闘争から、ふっと意識が解き放たれるのを感じていた。
「天を見上げる兵器、か。……あまりに途方もないな」
「兵器となるか、あるいは風に煽られて潰れるだけの巨大な玩具となるか……そればかりは、実際に作ってみねば分かりませぬ」
「よい」
恵帝は短く、しかし力強く言った。
「……」
「失敗しても咎めはせぬ。朕は今、兵の数や金銀の計算に疲れ切っておるのだ。誰も試したことのないもの、誰も見たことのない景色を……朕に見せてみよ」
偉駆朱は杖を脇に置き、再び両手を床について深く拝礼した。額を擦りつける冷たい石の感覚が、かつてなく心地よかった。
「謹んで、命をお受けいたします」
権力闘争の陰謀によって途絶えかけた自らの人生が、再び動き始めた瞬間だった。天に挑むための、壮大な試行錯誤がここから始まる。




