猛獣と女の子3 ~告白~
泣く子も黙るロウディーン帝国黒騎士団団長ザガート。
その名は近隣諸国にまで轟き、大きな体といかつい顔つきは誰もが恐れ恐怖の代名詞ともなっている。
そんなザガートが目を血走らせ、こめかみに青筋を立てて黒騎士団の鍛錬場で仁王立ちになっているものだから、そのあまりの恐ろしさに集まる黒騎士団の精鋭たちですら声をかける事が憚られていた。
迂闊に声をかけ、本気で剣を振るわれでもしたら命がない事は目に見えている。
触らぬ神になんとやら―――怒りの矛先を向けられる事に恐怖しながら、ロウディーン帝国の精鋭たちは怯えつつ鍛錬に打ち込んでいた。
そんな気を使いつつ訓練する彼らの前に立ちながら、訓練の様子など全く見えていないザガート。彼の頭にあるのは、先日兄である王太子がリアに働いた暴挙だけだ。
俺ですら触れた事がない場所に―――!!
ザガートがアトラスの森でリアと出会ってから今日に至るまでの間、触れた場所と言えば最初に手を取り助け起こした時と、リアを連れ帰る為に自分の馬に同乗させた時に体を支えるため細い腰に触れただけ。あまりに細い腰だったので力を入れてしまうと壊してしまいそうだったので、過去に他人に気を使った時の更に何百倍もの気を使いながら、まるで紙で出来た人形に触れるように、潰さないよう壊さないよう精神集中しながら馬から落ちぬよう支えてやった。
同じ屋敷に住まっているというのにたった一度、ザガートの部屋の前で眠るリアに指先でほんの僅かに触れてたのが最後だったというのに…そんな数に入らない様な事もカウントするザガートとは対照的に、フェルティオはリアに詰め寄り全身を密着させていたのだ。
あの場にリアがいなければ、ザガートは怒りに任せ間違いなく兄でありロウディーンの王太子であるフェルティオの首を一刀両断にしていただろう。
しかも悪夢は再びやって来た。
再び姿を現したフェルティオは…あろう事かリアの唇に…あの、ほんのりと色付き艶を帯びた唇を、何の迷いもなく無理矢理(?)奪ったのだ!!
自分の屋敷内でありながら、リアをあんな女たらしの毒牙にかけさせてしまった自分のふがいなさに怒りを覚える。
怒りに狂うザガートからは黒い煙の様な物が立ち上っていた。
それを目にした黒騎士達は恐れのあまり視線を反らす事が出来なくなる。怒りに狂うザガートの姿を見ただけなのに、それだけで精神に異常をきたしそうな程に威圧的な覇気を持つザガートは人外の何物でもない。これが人の腹から生み出されたなどいったい誰が信じるだろうか。
そんなとき、ザガートの怒りのオーラに釘付けになってしまっていた黒騎士達の耳に年若い娘の声が届く。
ザガートの後方から魔法師団副師団長であるアルフォンスと、一人の娘が楽しげに談笑しながら歩み寄って来る姿を目撃した黒騎士達は驚き、真夏の暑さにもかかわらず冷たい汗が背筋を伝った。
黒騎士の鍛錬場に女が近付く事は厳禁とされている。
見学と称して黒騎士に群がって来る若い娘達を煙たく思ったザガートがそれを禁じたのだ。まぁ禁じずとも、ザガートに睨まれた娘達は二度とこの鍛錬場に姿を見せる事はなくなっていたのだが…
ザガートが声のする方に振り返ると、黒騎士達は条件反射で一斉にザガートの周りに詰め寄った。
かつてない程の怒りを湛えたザガートの前に、立ち入りを禁じられた女が姿を露わしたのだ。無事で済まされる訳がない。
それを知っている筈の魔法師団副師団長ともあろう人が何を血迷っているのか?!
黒騎士達は若い娘の命を守るため、果敢にもザガートの暴挙を止めようと前に出たのだ。
だったのだが―――
「ザガート様!」
満面の笑みを湛えた娘…リアはザガートの姿を認めると一目散に走り寄って来た。
その光景に居合わせた黒騎士達は誰もが唖然とし、幻でも見ているのだろうかと驚き目を見張る。
ザガートは走り寄って来た娘に対して無言の威圧で威嚇する訳でも、怒鳴りつけるでも剣を抜いて追い払うでもなく、それ所か、こめかみに浮かべていた青筋も怒りに血走った鋭い眼光も、絶対的負のオーラも全てを静めて娘を迎え入れたのだ。
相変わらず厳つく恐ろしい表情は浮かべているものの、何処からどう見ても何時もの黒騎士団団長の姿。たった今まで辺りを凍りつかせていた怒りは何だったのかと、逆に寒気が走る程だった。
*****
有り得ない人の姿にザガートは驚きに目を見開いた。
何処をどう見てもザガートの元に笑顔を浮かべ走り寄って来たのは、ザガートが恋して止まないたったひとりの娘だ。
漆黒の瞳はザガートを恐れる事なく、純粋無垢な輝きで大男を見上げている。
何故娘がここにいるのだ?!
疑問はリアの後ろからゆっくりと歩み寄って来るアルフォンスに向けられていた。
黒騎士団の鍛錬場はロウディーン王国の王城敷地内に設けられている。
城の建物からは離れた場所にあるとはいえ、リアを襲ったフェルティオが住まう城まで遠い訳でもない。こんな危険な場所に何故娘を連れてきたりするのだと、ザガートは無言の威嚇でアルフォンスを射抜いた。
あの日以来、たとえ己の屋敷内であってもリアを一人にするのは危険だと、ザガートは不本意ながら友人であるアルフォンスに自分がいない間のリアの面倒をみるようにと、魔法師団副師団長と言う立場にあり決して暇ではないアルフォンスにリアを守る役目を問答無用で押し付けた。
己の屋敷の使用人としてリアを雇い入れたというのに、その意味を全くなしていない過保護振りに呆れながらも、面白がったフェルティオがリアにちょっかいを出し、ザガートに王太子を殺されてしまっては一大事になるという不安から、アルフォンスはフェルティオの命を守る意味を含めてリアの周囲を監視していた。
面倒なザガートは無視し、アルフォンスは手にしていた大きな籠をリアに差し出す。
リアは笑顔でそれを受け取ると、籠に被せていた布を取って中をザガートに見せた。
「訓練の合間に食べて頂きたくて―――」
ザガートが覗き込むと、透明な瓶の中で黄色い物が琥珀色の液体に浸されているのが伺える。
檸檬の蜂蜜漬けだった。
猛暑の中での訓練は体力が消耗されるため確かに有り難い差し入れではあったが―――
「多すぎやしないか?」
籠いっぱいに詰められた瓶は、軽く見積もっても十人分はくだらない。
「そうですか?ちょっと少ないかなって思ったんですけど…」
「さすがの俺でもこれ程には食えぬ。」
するとリアは驚いたように目を見張った後、笑みを浮かべくすくすと笑いだした。
「ザガート様ったら…勿論皆さんの分も含めてです。お配りしても構いませんか?」
そう言ってリアはザガートの周りに集まって来ていた二十人あまりの黒騎士達に視線を移した。
黒騎士達はザガートと自然に言葉を交わしている不思議な娘に目を奪われる。
自分たちですら恐れを抱く団長に対し、何故この娘は恐れるでもなく冷静にいられるのか?!
そして更に黒騎士達はザガートが次に発した短い言葉にも驚かされた。
「構わん。」
驚きに満ちた多くの視線が一斉にザガートへと注がれる。
休憩時間まではまだ随分と間がある。
黒騎士団に属して来た騎士達は、今までの訓練において過去に一度たりとも途中で休憩など許された事はなかった。運悪く体調がすぐれず途中で倒れでもしたなら、ザガート自らによる更なるしごきが待っているのだ。精鋭たちが集められた黒騎士団において、訓練が中断される=国家の一大事意外にはない―――と、思われていたというのに。
一人の娘が差し入れた檸檬の蜂蜜漬け一つで過去は覆され訓練が中断されたのだ。
「あの…もしかしてお好きではありませんでしたか?」
驚きのあまり差し出された瓶を受け取る事が出来ずにいた黒騎士達は、リアの言葉で我に返り、同時にそれに反応したザガートから殺気が発せられた事に気付いた。
喜んで手にしろ、さもなくば――――
「あまりの感激に言葉を失っておりました!」
「有り難く頂戴いたします!」
「おお、これは今まで口にした蜂蜜漬けの中でも群を抜く美味さです!」
瓶を手にし、慌てて口にしたそれぞれが異常なまでの賛否を述べるので、リアは思わず眉間に皺を寄せる。
「美味しくなければそうおっしゃって下さって構いませんよ?」
不安気に黒騎士達を覗き込むリアに一同声をそろえ―――
「「「「「「とんでもない、あまりの美味さに感激しております!」」」」」」
実際の所、今の彼らに味の判断はつかなかった。
ザガートから浴びせられる威圧的な視線と、娘が現れたことで怒りを鎮めたザガートの豹変について行けず、味覚にまで神経が及ばなかったのだ。
取り合えず、僅かな表情の変化で満足そうに頷くザガートを感じ取り、彼らは命を繋ぎ止めた事にほっと息を付いた。
*****
「何故娘をこんな場所へ連れてきたりした?!」
リアが黒騎士達に目を向けている隙に、ザガートはアルフォンスを睨みつける。
まったく…少し前までは屋敷を訪れただけでリアから引き離すように追いだしていたくせに―――
これでもアルフォンスは、ザガートを恐れない貴重な存在であるリアがザガートの伴侶となってくれる事を願いつつ尽力を尽くしているのだ。
事あるごとにザガートを必要以上に誉めたたえ、必ずしも恐ろしい猛獣のような外見と心の内は一致しないといった具合に説いた。ザガートの見かけではなく、意外にも誠実な心根の持ち主だと賛否しながら自分でも多少言い過ぎだと思いつつ、リアがザガートを恐れ逃げ出す事がない様に尽力しているつもりである。
「彼女が君と、君の部下の為に差し入れをしたいと言うから連れて来たんだ。君の役に立ちたいという彼女の気持ちが迷惑だと言うなら、二度とやらないよう忠告しておくけど?」
「いや、それはいいが―――」
折角の好意を無駄にするつもりはない。というよりも、いらないと言った時点で嫌われるのは目に見えていると、ザガートは手にした瓶詰めをみつめる。
これをリアが俺だけの為に作ってくれたのか―――
(いいえ、みんなの為ですよ~)
感慨深く手にした瓶をみつめ、思わず強く握り締めてしまった瞬間。
グシャッ――――と、ザガートの握力で瓶が砕け、檸檬の蜂蜜漬けが握りしめられた手から溢れ出してしまった。
その奇怪な音に皆が一斉にザガートへと視線を向ける。
「大変、どうしよう?!」
瓶を砕いたザガートの握力に驚く黒騎士達に反し、リアは自分の渡した瓶によってザガートが大切な手を怪我してしまった事に青ざめる。
(わたしのいらぬお節介のせいでザガート様が怪我するなんて!)
(折角リアが俺の為に危険(?)を犯してまで持って来てくれた品だというのに―――)
リアはザガートが怪我をした事、ザガートはリアの作ってくれた檸檬の蜂蜜漬けを口に入れる事が出来なかった事で、お互いがお互いのしでかした事に顔を青くし悔やみ合う。
リアは布を取り出し、破裂した瓶と蜂蜜に塗れたザガートの掌を丁寧に拭い取ると、そこにある筈だと思っていた傷を認める事が出来ずに首を傾げた。
「あれ?」
ザガートの厚い掌は割れた瓶程度で傷付く程繊細ではない。
ほっとしたリアはザガートの手を離そうとしたが、リアの手のぬくもりが離れて行ってしまう事に寂しさを感じたザガートは、その小さな白い手を逃がすまいと思わず無意識に強く掴んでしまった。
途端、ポキッ――――と、リアの右手が嫌な音を立てる。
「あ―――」
「え―――?」
小さな音がすると同時にリアの眉間に皺が寄り、ザガートの額に冷たい汗が流れた。
二人は手を取り合ったまま見つめ合い、その不自然さに疑問を持ったアルフォンスが二人の手を引き離してみると―――リアの人差し指が有り得ない方向に曲がっていた。
「ザガートお前―――」
「いいえアルフォンス様、ザガート様ではなくひ弱なわたしが悪いんです!」
言葉を失い呆然と立ち尽くすザガートに対してアルフォンスが呆れた様な視線を送ると、リアはザガートを庇って必死にいい訳を始める。
ふとした瞬間、力の加減を忘れて相手に怪我を負わせたりするザガート故に醜悪な噂が付き纏うのだ。これによってリアがザガートを恐れてしまわなければと懸念したが、この様子だとその心配も全くなさそうだとアルフォンスはほっと息を付いた。
「あんまりザガートを甘やかしちゃ駄目だよ。」
そう言って紫の目を細めると、アルフォンスは治療のためにリアの小さな手を取る。
だが次の瞬間、その背に衝撃が走りアルフォンスの細い体が吹っ飛び、黒騎士達が慌ててその体を受け止めた。
リアの怪我の手当てをしようとしたアルフォンスは、ザガートによって背中を思いっきり蹴り飛ばされたのだ。
「ちょっ…治療しようとしただけだろ?!」
ザガートの過剰反応に対してアルフォンスが怒りを湛えて振りかえると、そこにはリアを抱き上げたザガートの大きな体が影を作っていた。
「治癒魔法ならお前よりイシャルの方が長けている。」
言うなり踵を返すと、ザガートはリアを抱えたまま脱兎の如く城に向かって走り去って行った。
そのザガートの表情はここに居合わせる全ての者が容易く見てとれる程、とてつもない大事件であるかに焦ったものだった。
残された黒騎士一同とアルフォンスは唖然として、口をぽかんとあけたまま言葉を失う。
骨が折れたとはいえ、彼らに言わせるならたかが指一本だ。
攻撃魔法が得意なアルフォンスだが、仮にも肩書は魔法師団副師団長。将来的には父の後を継いでロウディーンの魔法師団長になる身。そのアルフォンスが骨一本治癒できない訳がない。と言うか、そんなの朝飯前だ。
だというのに―――
黒騎士団の訓練で騎士達の骨を砕く事に何の遠慮ももたないザガートが、たかが指一本でイシャルの方が治癒魔法に長けていると焦って駆け出すか?!
「イシャル様大丈夫でしょうか?」
体を受け止め支えてくれていた黒騎士の囁きにはっとし、アルフォンスは身を起すと慌ててザガートの後を追った。
*****
「うっわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ―――!!!」
華やかな王城の一角に断末魔の様な悲鳴が響き渡った。
「お許し下さい兄上、私には無理です。私はひっそりと静かに生きて行く事だけが望みなのです――――っ!!」
突然現れた下手な魔物よりも凶暴な兄ザガートの姿を目にした途端、十六歳になったばかりのロウディーン帝国第三王子イシャルは美少女とも見紛う美しい顔を恐怖に染めると、病弱な体を引き摺りながら部屋の角まで後ずさる。
美しく輝く長い銀の髪は恐怖のあまり総毛立ち、翡翠の様な深い緑の瞳は命の危険に怯えていた。
いったいイシャルに何をしたのだ? と聞かれかねないが、単にイシャルはザガートの外見に恐怖しているだけで特に何か恐ろしい体験を強制させられた訳ではない。
だがイシャルにとってザガートは恐れの対象以外の何物でもなく、その姿を目にするたびに恐怖のあまり身をすり減らして健康な体を害し、ひ弱な王子へと成長してしまっていた。
そんな弟王子を心配し何とか助けてやりたいとザガートが手を出す度、逆にそれが仇となって更にイシャルはザガートに恐れを抱き、心労からくる病は悪化し続けている。
そんなひ弱な少年王子の唯一の特技というのが、ロウディーン帝国内に置いてまず右に出る者のいないと言われる治癒魔法だ。その治癒力は魔法師団長であるオーレンすら凌ぐ程である。
部屋の角に追いやられ腰を抜かしてしゃがみ込んだイシャルの前に、早足で恐怖の対象が詰め寄って来る。
あまりの恐ろしさに悲鳴を上げる事も忘れ、ガタガタと震えて今にも泡を吹いて意識を失いそうなイシャルの前に、ザガートの物ではない、細く小さな二本の足が現れた。
見上げると黒髪黒眼の、可愛らしい自分と同じ年頃の女の子。
ザガートとイシャルの間に降り立った娘は、不安気にイシャルを見下ろしていた。
「あの…大丈夫ですか?」
天使が現れたのだと思った。
凶暴なザガートからイシャルを隔離するように立ち塞がった娘を翡翠色の瞳が見上げる。
容貌、立ち居振る舞いから生まれの全てにおいて、天使と例えられるべきはリアではなくイシャルの方であろう。だがイシャルはザガートに恐れ慄くばかりで彼の腕に抱かれた娘の姿は目に入っておらず、その為リアが自分を守るために突然空中から現れた様に映ってしまったのだ。
自分を悪魔から守るかに立ち塞がってくれている一人の天使。
崇拝者其の一、誕生の瞬間である。
*****
リアは腰を抜かして部屋の片隅に追いやられた少年と目線を合わせるようにしゃがみ込むと、心配そうに翡翠色の瞳を覗き込んだ。
誰かに似ていると思ったのは、リアが少年の名を知らなかったからだ。
人形のように真っ白で整った容姿、少女とも見紛うばかりの可憐な美貌。
突然現れたリア達に驚いて(実際はザガートに対してだが)腰を抜かした少年に申し訳なく思いつつ、どうしてザガートがこんな所に自分を連れて来たのかが分からず、はるか上空にそびえるザガートの青い瞳を見上げた。
するとザガートもその場に跪き、少年がびくりと肩を震わせる。
だがイシャルは、ここに天使がいてくれる限り自分の身が安全であると本能で感じ取っていた。
「イシャル、娘の怪我を頼む。」
「怪我―――ですか?」
イシャルは震える声で言葉を発すると、ザガートとリアの顔を交互に見つめた。
ザガートが他人の、しかも女性を気遣う姿など初めてみたイシャルは、目の前の天使がザガートにとっての何なのかと気になったがそれを口に出す勇気はない。
「あの、もしかしてイシャル殿下ですか?」
目の前の少年が先程ザガートの事を兄と叫んでいたのを思い出し、イシャルと言う名でリアはこの少年がロウディーン帝国の第三王子だという事に思い到る。どうりで誰かに似ていると思った。雰囲気は違うが、何処となくフェルティオ王太子に似ていたのだ。
不安そうな瞳のまま少年が無言で頷いたので、リアは後ろに下がると両膝と両手を付いて頭を下げた。
「わたしはザガート様のご厚意によって、ザガート様のお側にお仕えさせて頂いております、リアと申します。わたしの様な者が恐れ多くもイシャル殿下の御前にみすぼらしい姿を曝してしまったご無礼、なにとぞお許し下さい。」
両手を付いて頭を下げるリアの手元を見てイシャルははっとする。
娘の怪我を頼むと言ったザガートの言葉通り、リアの右手人指し指が鬱血して紫色に腫れ上がっていた。
おもむろにその手に触れようとしたイシャルだったが、突き刺さる視線と異様な空気に気付き、視線だけをその方向に移した。
「ふ…触れても構いませんか?」
恐る恐る、勇気を出してザガートに確認する。
「触れずに治せるのか?」
威圧的な重い声色に、イシャルは見えない重圧を感じた。
「出来ません。申し訳ありません―――」
馬鹿な事を聞いてしまいザガートの怒りを買ってしまったのではないかと不安に苛まれるが、青く輝く鋭い眼光が早くしろと言っているようで、イシャルは慌ててリアに手を伸ばした。
「失礼します―――」
そう言って伸びて来た白く綺麗な指先にリアは見とれる。
孤児院育ちのリアの手は幼少の頃より続けている水仕事のせいでずっと荒れたままになっており、ザガートの屋敷に上がってからもそれは変わらなかった。これが冬になるとあかぎれだらけの指に変わるのだ。
綺麗なイシャルの手を見てリアは恥ずかしくなり手を隠してしまいたくなったが、折れた指を治してくれようとしているイシャルの好意を無下にしてはと、リアはそのまま動かずにいた。
触れた指先がほんのりと光を帯び、同時に熱く熱を帯びる。
魔法で傷を癒されるといった経験のなかったリアは、見る間に痛みが引き鬱血の痕すら消えてしまった己の指をみて、魔法による治癒の力というものにいたく感動した。
きれいさっぱり治ってしまった指先を動かし、すごいと感嘆の声を上げる。
イシャルは次にリアの両の手を取ると、自分の手で包み込むように優しく触れた。
すると今度は荒れてガサガサしていた小さな手が、イシャル同様の柔らかで綺麗な傷一つない物へと変化する。
「お前にしては気が効くな―――」
突然背後から浴びせられた言葉に驚いたリアは振り返り、イシャルは不安げな表情のまま声の主を見上げ―――ザガートは心底嫌そうな顔をし、リアを庇うように腕を伸ばして背を押し―――その拍子にリアの体は傾いて目の前のイシャルの胸へと倒れ込む。
イシャルは幸運にも腕の中に降って来た天使を受け止めるが、その瞬間、凍て付く様な視線を感じて思わずリアを体から引き離した。
病弱でも男の子…と言うよりも、命の危険を感じての火事場の馬鹿力?
取り合えずイシャルなら害はないだろうと判断したザガートは、突然現れた声の主を睨みつけた。
「フェルティオ…貴様が何故ここにいる?!」
「何故って、ここが城だからだろう?」
何を馬鹿な事を言っているのだと鼻であしらうと、フェルティオは床に蹲ったままのイシャルとリアを見下ろし笑顔を向けた。
「獣に怪我を負わされたと聞いたけど大丈夫かい?」
「獣ではなくザガート様で…あ、いえっ…決してザガート様のせいでこうなった訳では!」
「いやいや、それは間違いなくザガートのせいだよ。お前の様な娘がこんな獰猛な奴の側にいては危険だと常々思っていたのだ。どうだい、私の元に来ては。」
「娘は俺の手の内の者だ、貴様などに気安くしてもらいたくはない。」
「そうは言うけどね、彼女は私の初めての相手だし―――」
「「「!!!」」」
一同絶句。
リアとイシャルに至っては共に顔を赤く染めている。
「王太子である私が初めて頬を殴られた相手―――私はそんなお前が気に入っているのだよ?」
それにねぇ…と、意味有り気に自身の唇を人差し指の腹で撫でた。
その仕草に先日の口うつし事件を思い出したリアは、己の口を両手で隠すと恥ずかしさに耳まで真っ赤にした。
それを見たザガートは、未だフェルティオにあの時の報復をしていない事に気付いて剣に手をかける。
するとそこへ、今度は血相を変えたアルフォンスが飛び込んできた。
「貴方は何をまた余計な事を言ってるんですか―――!?」
今にも剣を鞘から抜きかねないザガートと、慌ててそれを止めるアルフォンス。
一触即発の雰囲気を余所に、何処までもマイペースなフェルティオは余裕の笑みをリアに向け、真っ赤になって恥ずかしそうに顔を隠すリアに身を寄せていたイシャルは、天使の様なリアの温もりを肌で感じながら、何て可愛らしい人だろうと胸を高鳴らせていた。
*****
王太子フェルティオに対して剣を抜き、あってはならない暴挙に出ようとしていたザガートの太く逞しい手を引きながらリアはイシャルの部屋を後にした。
あのままでは止めに入ったアルフォンスも王太子フェルティオも危険な状態であった事は誰の目にも明白だ。
骨折した指を治療してくれたイシャルにきちんと礼が言えなかった事は心残りであったが、ザガートの怒りの根底にあるのが自分の存在だと気付いているリアは、大事な主が自分のせいで取り返しのつかない事をしてしまうのではないかという不安でいっぱいだった。
ザガートは優しい。
出会った当初から孤児出身で何の身分もないリアの事を助けてくれただけではなく、主として精一杯の心使いをしてくれて守ってくれているのだ。
国王に次ぐ権力を持つ王太子にさえ剣を抜き、ただの使用人であるリアを守ってくれる。一歩間違えば…と言うよりも、フェルティオの怒りを買えば弟であるザガートとて手厳しい罰を受ける事は間違いないと言うのに。
あんな風にしてまで守ってもらえると―――勘違いしてしまいそうだとリアは切ない溜息を落とした。
高貴な身分にありながらリアの様な者にすら手を差し伸べてくれる心優しいザガートを敬愛し、気付けば一人の男性として好きになっていた。叶わぬ恋である事は重々承知だ。側に使える機会を与えてくれただけでも幸福な事なのに、それ以上望める訳がない。
決して手の届かない相手だが、秘めた恋心を持ち続ける事は罪ではないだろう。
「何処へ向かうつもりだ?」
地を揺るがすような低圧な声色で訪ねられ、一人思いふけっていたリアは声のした方を仰ぎ見た。
女性の平均身長であるリアの頭二つ半ほど上にあるザガートを見上げると、怪訝な青い眼差しとぶつかる。
いったい自分は何処へ向かおうとしているのか?
兎に角フェルティオからザガートを引き離す事しか考えていなかったので、取り合えず城を出ようとしていたのだが…
ここは何処だろう?
きょろきょろして辺りを見回すリアの様子から道に迷ったのかと察したザガートは、もう一度、リアが何処に行こうとしていたのか訪ねた。
「城を出ようと思っていたのですが…ザガート様がお仕事の途中だったことをすっかり忘れていました。申し訳ありませ―――」
そう言って頭を下げようとしたリアは、自分がザガートの腕を掴んだままであった事に初めて気が付き、慌てて腕から手を離した。
「もっ…申し訳ありませんっ!!!」
許しもなく主の体に触れるなどあってはならない事だ。
恐縮し必死になって頭を下げるリアに、折角触れてくれていた腕を離されたザガートは残念な気持ちに陥り眉間に皺を刻む。
それを不興を買ったと勘違いしたリアは、更に深く頭を垂れた。
「構わん、それよりもこのまま行けば城壁にぶつかる。今日は仕事を切り上げて俺も屋敷に戻るとしよう。」
「いいえっ、とんでもございません!」
言うなり後戻りを始めたザガートの歩みを止める為にリアは前に立ち塞がった。
「これ以上お手を煩わせる事は出来ません、ザガート様はどうぞお仕事にお戻り下さい。」
「………一人で屋敷に戻れるのか?」
「勿論です!」
声を上げて宣言するが、既に城内で通用門とはま逆の裏手に来ている時点でアウトである。説得力も何も合ったものではない。
訝しげに睨みつけるザガートの視線に、リアも負けじと睨み返す。
自他共に認める方向音痴。ここでザガートと別れたら即刻道に迷うのは目に見えてはいたが、主の邪魔をして手を煩わせる訳にはいかないと虚勢を張った。
道は人づてに聞けば何とかなるだろう。これ以上失態を働き愛想を尽かされるのだけは避けたいと、好きな相手に少しでもいい所を見せたいというリアなりの意地だったのだが―――
リアの方向音痴が異常である事はアトラスの森で出会った時に実証済みだ。ここで別れてリアを一人で帰しては再び同じ様な事になり兼ねないと、ザガートは細心の注意を払いながらリアの腕を取った。
「屋敷へ戻るぞ―――」
なんて細い腕だろうと感じながらザガートはリアの手を引いて歩く。ここで手放しては永遠に失ってしまうような感覚にさいなまれるのだ。
大きくごつごつとした手に掴まれた手首からはザガートの体温が伝わって来る。
一見乱暴ではあったが、掴まれた箇所からはザガートの緊張した感覚が伝わり、リアはその緊張がもたらすザガートの優しさに、申し訳ないと思いながらも心ときめかせていた。
*****
リアと共に屋敷に戻ったザガートは再び登城する事も森へ魔物狩りに出かける事もなく、そのまま屋敷で書類を片手に執務をこなしながらゆったりと過ごした。
ザガートがこれ程の時間を屋敷で過ごすなどリアがここに来てからは初めての事である。
リアは使用人としての仕事をこなしながら、ザガートと同じ敷地内で同じ時間を過ごせる事に幸せを感じていた。
夕食を屋敷で取る姿も初めて目にした。
給仕を務めたリアはザガートが食べ終えた食器を下げる時に酒を用意するように言われ、台所に戻って侍女頭のライラにその旨を伝えると、ライラはザガートの好みの酒を用意して持たせてくれた。
それを盆に乗せ再び部屋を訪れると、どうやらザガートは湯浴み中の様で、リアは用意した酒を盆ごとテーブルに置き、室内に置かれた戸棚から透明なグラスを取り出して酒の傍らに伏せて部屋を出ようとした。
ちょうどそこへ湯浴みを終えたザガートが柔かなローブに身を包み、濡れた頭を乱暴に拭きながら室内へと戻って来た。
いつもなら食事や入浴は勤めを行っている城で済ませて来るザガートだったので、こういう場合どうすべきか分からないリアは取り合えず部屋の隅に控える。
すると一息ついたザガートは戸棚からグラスを取り出し、二つのグラスへ琥珀色の酒を注いだ。
「お前も付き合え―――」
酒を飲んだ事も勧められた事もなかったリアはこういう場合にどうするべきなのか分からず、取り合えず主の命令には従っておくべきだろうと前に進み出る。
一つのグラスには半分程、もう一方、リアに差し出されたグラスにはほんの少しだけ酒が注がれていた。
グラスに注がれた酒に視線を落としていると、座ったらどうだと言われ、主の傍らに腰を落ち着ける事は無礼にあたるのではないかという不安がリアの心を過った。
「いいから座れ。」
「……はい、失礼致します。」
予定よりもかなり早く屋敷に戻って来たザガートは、今日はこのまま寝酒を煽り床に就こうとしていた。そして明日は早々に城に出向き、残してきた仕事を片付けるつもりである。
そこにちょうどリアが控えていた。
折角いてくれたのだからこのまま退席させるより、たとえ僅かな時間でも共に有りたいと願い、酒を交わし楽しんで心満たされた気持のまま床に就きたいと思ったのだ。
孤児院育ちのリアの事、どうせ酒には慣れてはないだろうからと、それを見越してほんの一口ふた口程の量をグラスに注いだ。
惚れた女が酒豪であっても構いはしないが、歳や育ち、そして何よりもリアの持つ雰囲気を考慮して飲める口ではないと判断した。これで酒豪だというならさすがのザガートも人を見る目を改めなければならない。
ザガートがグラスを取り口を付けたのを見届けてから、リアも同じ様にグラスを口へと運ぶ。
ムッとした独特の匂いに顔を顰めつつも、主の勧めを断るのは無礼になると気合を入れて口に含む。
口内に熱気がかッと広がり、思わず両目をぎゅっと閉じるとグラスを手にしたまま俯いた。
苦味を持った液体が音を立てリアの喉を通り過ぎる。
「酒は初めてか?」
予想通りの可愛らしい反応におもわず頬が緩む。
リアはグラスをテーブルに戻すと、小さな手を数回握り締めた後に顔を上げた。
顔を上げたリアの表情を見たザガートは息をのみ、僅かに後ろへ仰け反る。
漆黒の瞳は潤み、切なそうにザガートの瞳を見上げていた。
白い肌はほんのりと色付き、僅かに開かれた唇は紅も塗られていないというのに赤く濡れている。
ふうっ…と、リアの口から溜息が洩れ、そのままがくりと椅子から転げ落ちた。
慌てたザガートが腕を伸ばすが間に合わず、リアは床に座り込み項垂れている。
ザガートはリアの前に跪くとそれ以上倒れぬように体を支えた。
「大丈夫か?!」
予想通り酒豪ではないようだがここまで酒に弱いとは…ザガートはお気に入りの酒がかなり強いという事を思い出し、酒に不慣れなリアに飲ませてはいけないものだったとこの時初めて気が付いた。
こう言う時の女の扱いには慣れていない。
過去にザガートが酒の相手をさせた女達は皆、ザガートを恐れるあまりどんなに酒を口にしても酔った者はいなかったのだ。
俯いたまま立ち上がれない様子のリアに悪い事をしてしまったと猛反し、彼女を部屋まで運んで後はライラに任せた方がいいだろうと、抱きかかえようと脇に腕を滑り込ませる。
その瞬間リアの腕がザガートに伸び、不可抗力ながらも必要以上に近付いてしまったリアの顔が間近に迫っていた。
潤んだ漆黒の瞳が切なげにザガートを見上げ、思わず息を飲む。
熱を帯びほんのりと色付いた肌に艶やかな唇。
色香漂うその姿はあまりにも艶めかしく、ザガートの理性を奪った。
女だけではなく、老若男女問わずあらゆる者がザガートを恐れる。彼自身は騎士道精神にのっとり力の弱い者には必ず手を差し伸べようとして来たが、そうする度に更に彼らを怯えさせる事になって来た。それ故、何処かに出かける際にはアルフォンスを伴う事が多くなり、人を助けなければならない場面に遭遇すると弱者の対応はアルフォンスに任せ、彼らを脅かす物を排除する役目はザガートが担うという様になっていたのだ。
誰もが恐れる自分に、生まれて初めて純粋な笑顔を向けてくれたのがリアだった。それだけで恋に落ちるには十分な理由だ。
リアを守りたい、彼女の為なら自分の気持ちなど二の次で、けして気持ちを押し付けるような事はしないと決めていたのに―――
気付いたら小さな顎に自身の指をかけ、リアの唇を親指の腹で撫でつけていた。
つい先日、この唇にフェルティオの唇が重ねられた事を思い出すと、ザガートの胸は締め付けられる。
兄や弟が美しく生まれたというのに、自分は誰もが恐れを成す姿に生まれた。その事については一度も嫉妬を覚えた事はない。剣を振るい黒騎士として生きて行くには、醜く恐ろしい形相は敵を前にしてうってつけだ。
だがこの時ばかりは心の底からフェルティオやイシャルの容姿が羨ましく思えた。
あの二人のように破壊的な美貌とまでは行かなくても、せめて人並みに恐れられない姿をしていたなら、たったひとり愛した娘に躊躇する事なく触れる事が出来ただろうに。彼女に恐れを抱かせる恐怖が百戦錬磨の黒騎士団団長を襲い、ザガートにはフェルティオのようにこれ以上先に進む勇気は持てないのだ。
ザガートにとってリアの笑顔を失うかもしれないという不安だけが、この世で唯一の恐怖だった。
*****
リアはザガートに見つめられ夢心地の気分だった。
決して美味しいとは言い難い酒を口にした瞬間から体が燃えるように熱くなり力が抜けた。ふわふわして心地よく高揚した気分に陥り、そんなリアを切なげな青い瞳が見つめている。
自分は夢でも見ているのだろうか?
ザガートのごつごつとした指がリアの顎を捕え、唇を撫でていた。
何処となく寂しそうな瞳のザガートに、それにつられて切なくなる所か何故だか気分が異常に楽しく明るくなってきた。
大丈夫と、何の脈絡もなくリアは腕を伸ばしザガートの金の髪に触れると、まるで子供にするように優しく撫で付けた。
ザガートの青い瞳が驚いたように揺れ、唇を撫でていた指の動きが止まる。
硬直したように動かなくなったザガートを見上げ、どうしたのと笑顔で首を傾げると、ザガートの瞳が更に耐え難く揺らぎ―――
もう片方の腕がリアの後頭部に当てられると、ザガートの唇がリアのそれに重なった。
刹那、リアの瞳が驚愕に見開かれるがそれも一瞬の事。
ああ…なんて幸せな夢だろう―――
リアは応えるように両手を伸ばしザガートの頬を包み込む。
それによってもたらされた口付けは更に深さを増して、リアはあまりの心地よさにのめり込まれて行く。
角度を変えながら繰り返されるそれに、リアも無我夢中で応え、最後には二人して床に倒れ込んでいた。
名残惜しそうに離された唇からは熱い吐息が漏れる。
今にも泣き出しそうな青い瞳に見下ろされ、リアは思わず呟いた。
「大好き…大好きです、大好き―――」
貴方が好き、大好きなの。
叶わぬ恋だけど、せめて夢の中でだけは素直に告白させて。
心優しい貴方が好き。
何処となく不器用で、何の力も持たないわたし達にさえ手を差し伸べてくれる優しい貴方が大好き。
リアの告白にザガートは息が止まった。
聞き間違いかと我が耳を疑ったが、リアの口からは幾度となくザガートに向かって好きだという言葉が紡がれている。
優しい笑顔でザガートを見上げ、何度も何度も好きだと言って頬を撫でて来る。
その温もりに、言葉に全身が震えた。
夢なら覚めてくれるなと、ザガートはリアの額に自らの額を摺り寄せる。
「結婚しよう―――」
自ずと言葉が漏れていた。
愛しいお前が許してくれるのなら、誰もが恐れる我が身を受け入れ妻になって欲しい。
ザガートは答えを待たずに、再びリアの唇にキスを落とした。
*****
熱い温もりが唇を伝って流れこんで来る。
唇を塞がれ、リアは瞬きを二度繰り返した。
『結婚しよう―――』
その言葉に物凄い速さで覚醒が進む。
驚きながら受けた口付けから解放されると、ザガートの大きな体の下でリアは自分の体の自由を確認した。
ザガートはリアを押し潰さないよう、体をずらして体重をかけない様に気を使ってくれていたのだ。
いったいどうしてこんな事になってるの?!
お酒を口に含んでから異常に気分が高揚してとんでもない事を口走ったのを思い出し、更に夢だと思っていた事が全て現実の事だと突き付けられた。
たった今ザガートを前にしでかした事に、全身が更に燃えるように熱くなり汗が噴き出す。
リアはザガートの下からもそもそと這い出すと、その場に正座し両手を付いた。
つられたザガートも身を起こすと、正座したリアの前に胡坐をかく。
「とんだ失態を犯してしまい申し訳ありません―――!」
真っ赤になったまま震える声を漏らして深々と頭を下げ、ザガートが言葉を紡ぐ前に素早く立ち上がると一目散にその場から逃げ去った。
何て事なんて事なんて事―――っ!!!
恥ずかしすぎて死んでいしまいたい。
初めて口にした酒で酔った挙句、勢いでとんでもない告白をしてしまった。
そこまでならいい、失態を犯したのは自分なのだからそれはリアだけの問題だ。
リアが一番気にしているのはその後だ。
一方的な告白をしたリアに対してザガートは、それを庇うかに『結婚しよう』と言ってくれたのだ。
有り得ない―――高貴な身分であるザガートが最下層とも言うべき孤児出身のリアと結婚など絶対に有り得ない。
それなのにザガートは、酔った勢いで口にしてしまったリアの告白を聞いて鼻で笑うでも蔑むでもなく、恥をかかせないようという配慮をもって対応してくれた。
愛する人の言葉だ。たとえ同情であってもこれ程嬉しい事はないが…相手は王子であり黒騎士団に身を置く立派な騎士でもある。そんな人がリアなどに本気になる訳がない。
いたたまれない思いに苛まれながら、屋敷内では当然のように道に迷い、やっとの思いで自室に駆け込むと恥ずかしさと申し訳なさにリアは頭を抱えて悶絶した。
頭を抱え悶絶していたのはリアだけではない。
身分差と、ザガートの様な立派な人間が自分に恋心を持つなんてありえないというリアの先入観から、一世一代のプロポーズの言葉をプロポーズだと受け取ってもらえなかったザガートは、脱兎の如く走り去ったリアに手を伸ばした状態で固まっていた。
やがて時が過ぎ、伸ばした手をゆっくりと引いて頭にあてがい声にならない唸りを漏らす。
「夢を―――見たのか?!」
柔かな唇に触れたのも、聞いた言葉も現実だと認識できていたが、逃げるように走り去ったリアの行動からすると先程までの甘い時間はまるで嘘のようだった。
「酒に呑まれたか…」
酔う程口にした覚えはない。
敵の攻撃の先の先は読めるものの、恋愛に疎いザガートにはリアの心の内を読む事は叶わなかった。
そんなザガートの今の一番の問題は、自分の取った行動がリアを傷付け嫌われはしていないかと言う、大きな男が恐れるにはあまりにも可愛らしい悩みだった。