9 サイン
じっとりとした嫌な汗をかいてはっと目が覚めた。ワーンと耳鳴りがしていて、額から汗が一筋滑り落ちる。
どうやら私自身にとって昨日の事はひどく衝撃的な出来事だったらしく、夢の中では何度も何度も同じ回想を見ることになった。
胸が苦しくなるぐらいの動悸がして、焦点が定まらないまま重たい体を起こして、頭を抱える。
しかし、ふと気が付くといつもの部屋ではない。
いつもなら薪の節約の為に朝方は暖炉に火を入れない日々が続き、体が重さでつぶれてしまいそうなほど毛布を重ねて眠っているはずなのだが、不思議と柔らかな羽毛布団が起き上がった上半身からずり落ちる。
「おはようございます。ウィンディ様」
ベッドのそばにはカミラとローナがそろっており、寝ぼけている私を見つめていた。
「……おはようございます……いつもより寝すぎてしまったようですね」
「ええ、もう朝食よりも昼食の方が近いような時間です。まったくあまりに気を抜かれては困ります」
「すみません……ヴィンセント様に会いに行きますので身支度をお願いします」
「かしこまりました」
目が覚めて人と言葉を交わすと、意識がきちんと覚醒して、私は起きたばかりなのにどっと疲れたような気持ちになる。
眠る前には、今日が私の命日になるのだ、どんな非人道的な実験が行われるのかと恐ろしく思っていたが、連れてこられてその日のうちにということはないらしい。
だからと言って、安心はできないが、それでも今日死ななかったと思うと酷くホッとしてしまって、また軽く眩暈がした。
しかしいつもよりも体が軽い気がする。部屋が暖かく、昨日魔力回復を助けるためのハーブティーを飲んだからだろうか。
ベッドから起き上がり、ローナが用意してくれている普段着のドレスに着替えさせてもらう。その間にカミラは起き抜けのベッドを綺麗に整えてくれた。
身支度してしばらくするとヴィンセントが私の部屋へとやってきて、その手には重量感がある紙の束が抱えられている。
「体調はどう? 昨日の寒さで風邪をひいたりしなかった?」
問いかけつつも彼は用意されているテーブルセットの向かいに腰かけて、私は頷いて答える。
「はい。暖かい部屋で一晩を過ごしましたので体調の悪化などはありません」
わざわざソファに移るよりも車いすのままテーブルにつけるティーテーブルの方が幾分機動性がいい。彼の後ろには相変わらず体格のいい魔法使いの二人と従者の青年が一人ついていた。
「そう、君の体調は何よりも優先するべき事項だから、要望があったら教えてくれると助かる。なんでもするから」
……やっぱり解剖のためでしょうか。
彼が書類つづりをテーブルの上に置いて、出された紅茶を飲みながらそんなふうに言うのを見て、私は昨日出した結論に答え合わせをするようにヴィンセントの言った言葉を関連付けた。
出来るだけ解剖している最中に生きていた方がいいから気を使っている……のだとすると彼は少しばかり人の心がないように感じるが、それでもこうして良くしてくれているという事実は変わらない。
ならない善より、やる偽善という言葉があるだろう。意味としては、とにかく偽善でも、善いことはやることが一番大事だという事だ。
裏があろうが、利用しようとしていても、いい事をしている事実が変わらないのだから問題ない。
「ところで、先に君を屋敷に連れてこられたから、メンリル伯爵家とは簡単に契約を結ぶことができたよ。少しごねられて値は張ったけど、金銭で君を手放してくれるような人たちでよかった」
「……」
「それからこれが君が成人したら結婚するための婚約の書類で、こっちが結婚までの間ここで過ごすことになる正当性の確保の為の養子縁組の書類」
「……?」
「俺の母が、養母ということになるけれど、なにか関わるわけじゃないから。養子と結婚を両方すると、レイベール王国は相続権が発生するから安心できるかと思って」
「??」
「ああ、俺とは結婚した後も別居で構わないから気にしないで。今はほらお互い深く知らないし悪い所も見えてないけど、時間がたってお互いを知って嫌になれば別邸を設けるし、あとは……何か質問ある?」
ヴィンセントは丁寧に説明しているつもりだったみたいだが、私はその説明に目を丸くして聞いていて、内容が頭に入ってこない。
まず第一に、解剖するために私をここに置いているのならばそのうち体調が良い日にでも連れていかれるだろうと思うので、長くても数週間の関係になるだろう。
第二に、そんなことをして私が連れていかれ、失踪なり死亡なりした場合、ヴィンセントの経歴に傷を残すことになる。
第三に、成人した後、結婚した後の事を考えている様子だが、ごく当たり前のようにあと数年も私が生きる前提で話をしているのは何故なのだろうか。
それとも単純に、解剖されて死ぬのだからそれまでは何が何でも生かすぞという強い気持ちの表れ?
それに結婚というのはもちろんここにおいてもらううえで一番、楽な理由付けではあるけれど、それは彼の方にも、縛りがある行為だろう。
第一夫人の枠をこんなことの為に埋めていいのだろうか。よっぽど魔法協会から良い報酬が出るのだろうか。
「…………ありません」
「そう、理解が早くて助かる」
とにかくわからない事が多すぎてわからない事が沢山あって、質問をして聞いたところで意味がなさそうだなという事だけはわかった。
なのでわからない事はないと返答を返す。すると彼は、サインが必要な書類だけを私の前に置いていって、彼の従者が、すっとペンを差し出した。
「じゃあ、サインを」
「はい」
促されて、示された場所にひたすらフルネームをかいていく。内容をよく確認した方がいいかもしれないとふと思うけれども、そうしたところでそれもまた意味がない。
とにかく私は今、ヴィンセントの手のひらの上にいる。
もしくはまな板の上、だろうか。
力も方法もないので逃げ出すすべはない。なので警戒しても無意味で、私はそうなる代わりに彼の親切を受けた。
すべてはあの時に了承したに等しい、今更、わめきたてても往生際が悪いだけだ。そう思って無心でサインをした。