魔はいたのか
その男の子はね、皆と一緒に下校するのが子どもっぽくて嫌だなって思ったんだって。小学校低学年だよ。そういう考えが子どもっぽいよね。
いつもの通学路とは違う住宅地、何にもない所だけど、男の子は大冒険をしているみたいな気になってワクワクしてた。
そうしたらね、クリーム色のコートを着た長い髪の女の人が前から歩いてくるの。目にはサングラス、口元にはマスク。
うわあ、口裂け女みたいだ。恐いなあ。そう思ったから、男の子はじわじわと近づいてくるその女の人から目を逸らすの。
まっすぐ前を向いて歩いてた女の人、男の子の前に来た瞬間に振り向いて、
「気づいてるくせに」って呟いた。
その声は低くて、おっかないんだって。
男の子、もう足がすくんで動けなくなってた。この女の人、絶対人間じゃない。口裂け女だ!
そう思ったから必死で叫んだ。
「ポマードポマードポマード!」
そうしたらね、女の人、ゆっくり手を上げてマスクを外したの。口紅も何も塗ってないのに、ぷるぷるして綺麗な唇。優しそうに微笑んでたんだ。
男の子は見とれちゃった。口裂け女なんか、いるわけないかって。
それでね、その女の人、また手を上げて、サングラスを外したの。
男の子は、女の人がどんな綺麗な目をしてるんだろうって、瞳をキラキラ輝かせた。
でね、サングラスを取るとまん丸の目玉が飛び出てこぼれ落ちそうになってたんだ。血管が浮き出て、黒目も白目も赤く染まってる。
女の人は言うの。「あなたの目玉、とっても綺麗ね。私にちょうだい」って。
男の子は目玉を抉られて死んじゃった。
でさ、男の子がどれだけ叫んでも、誰も助けに来てくれなかったの。
恐いよね。
おいおい、男の子は死んじゃったんだろ? 何でお前はその話を知ってるんだ! あと人一人死んでるのに、つまんない一般論でまとめるな!
などと突っ込みを入れるのは酷なものだ。なんせこの物語は小学生の私が考えたものなのだから。
90年代を席巻した悪趣味文化は児童の世界にも侵食し、私達はトラウマものの怪談話を植えつけられて育った。
というのも、震災、新興宗教、連続児童殺人、世紀末の到来と、世の中はすっかり狂気じみていたのだ。
そういった諸々の現実から逃れるためにも、私達は「魔」とでも呼ぶべき恐ろしい世界にある種の救いを求めていた。
でもそんな私も社会人になり、子どももできて、まあ、平凡な主婦になった。
家事して、パートして、息子の世話して、空いた時間はスマホばかり見てる。
今時団地に住んでてあんまりお金に余裕もないし、旦那は出張でほとんど家にいないけど、まあ何とか頑張って生きてるわけ。
だから子どもの頃のことなんかすっかり忘れてたんだけど、家でゲームばっかしてるウチの子、ユウキに外出て遊べって言ったら、
「いやだ! 外にはメダカ女が出る!」なんて言うんだ。
で、話し出したの。その口裂け女のバッタモンのこと。
「知ってるもなにも……それ、私が子どもの頃に作った話だよ」
「嘘だ! みんなメダカ女の噂してるよ」
「いや、メダカ女なんて名前つけなかったし細かい所は変わってるけど……大体私が思いついた通りだって。そんなのいないよ」
「メダカ女はいるんだよ。だって、5年3組のテルキ君はメダカ女に目玉を抉られたんだもん」
確かに息子と同じ小学校の男の子が事故で亡くなっていた。……全く、子どもは残酷なことを口にする。
「違うでしょ。テルキ君は交通事故で亡くなったの。もしテルキ君のパパとママが聞いたらどんな気持ちになると思う? そんな噂しちゃダメ」
でもね、ユウキは真剣な顔して言うの。
「知ってるよ。テルキ君はトラックに跳ねられて、目玉が飛び出て死んだんだ。だけどそれは、メダカ女のせいなんだ。だからヒロキ君の目玉はどこにも見つからないんだよ」
私思った。子どもは子どもなりに残酷な現実を受け入れようとしているのかもしれない。怪談はそのためのフィルターみたいなものなんだって。
うん……そう……気味が悪いけど……微笑ましい話。でもなんで私の作り話と似てるんだろう……ちょっと気味が悪かった。
ユウキは外に出るのを怖がって、家に居る時間が増えていった。
家の中にいればアニメに漫画にゲームに動画、いくらでもヒマはつぶせるし、何かを考える必要なんてないみたい。
で、夕方くらいかな。トイレに入ってる時にチャイムが鳴ったの。ユウキが出てくれるだろうってタカを括ってたら、ゲームに夢中になって出てくれなかった。人見知りな所あるから、そうやってやり過ごしてただけなのかもしれないけど。
まあどうせセールスかなんかだろうって思ってたらね、急に隣の家からドゴォォォンって、何かが崩れる音と、ちょっとだけ悲鳴みたいな声がした。
お隣に住んでるお爺さん一人暮らしだから、私様子を見に行くことにした。
ユウキ、恐くなったのか「僕も行く」って言い出して。私も一人じゃ心細いし、ユウキを連れて家の外に出た。
そしたら、階段の所に、去っていくベージュのコートを着た女の人が見えたんだ。目元までかかった長い髪に顔の下半分を覆う大きなマスク。
でもセールスの人かな? ぐらいに思って、あんまり気にしないでお隣さんチのドア叩いた。
「すいませーん、隣の吉住ですけどぉ」
返事は帰ってこない。
だからドアノブに手をかけたら、開いちゃった。
お爺さん無口な人だったし、怒られたら嫌だなあって思いながら「大丈夫ですかぁ? 入りますよぉ」って、声かけて部屋の中に上がり込んだ。ユウキの手を引いてね。
「大丈夫ですか!?」
家の中に入ると、うつぶせになったお爺さんの上に本棚が倒れてるの。必死になって本棚を持ち上げると、体中に本が散乱してすっかり埋もれちゃってた。
「しっかりしてください!」
駆け寄った私はお爺さんの顔にかかる本を払いのけた。
そしたら……ね。お爺さんの目玉……目の窪みからほとんどハミ出て落っこちそうになってた。毛細血管は浮き出た状態で真っ赤になった結膜がモリモリ盛り上がって、瞳孔は重力に引っ張られるみたいにしてグンニャーって地面に落ちててね。
クラクラしたけど、私はハッとして子どもの方を見た。
ユウキは呆然としてた。当然だよ。人の死を見るのだって初めてのことだ。
「見ちゃダメ」って、言って息子を守るのが母親の役目だったんだろうな。でも私もショックで、何もできなかった。
そしたらね、ユウキ、こぼれ落ちそうなぐらいに目玉を思いっきり見開いて、叫んだ。
「さっきの人、メダカ女だったんだ!」
お爺さんの死因はくも膜下出血、と警察の人に言われても私にはとうてい納得できなかった。コートの女のことは伝えたけど、死因はハッキリしてるし、何かを取られた跡もなかったらしい。
確かにくも膜下出血で目玉が飛び出ることはあるみたいだけど、あんな異常な顔になるのはどう考えてもおかしい。
じゃあメダカ女……のせいだとして、何をしに現われたのだろうか。そうだ、私の家のチャイムが鳴ったんだ。本当は、子どものキラキラした瞳を抉りに来た?
私はネットで、怪談話について調べてみた。妖怪未満の、現代が生み出した怪異。それはオリジナルから派生していくのか、地域ごとにちょっとずつ変化する。
たとえば口裂け女は様々なバリエーションを持っていて、百メートルを三~六秒で走るとか、身長が二メートルあるとか、歯が百本以上あるとか、もうムチャクチャ。
だとしたら……メダカ女も、私の話が元になってたりするのかな。ううん、違うか、メダカ女自体口裂け女のバリエーションみたいなもんなんだし。
でも、あのお爺さんが亡くなる直前に見かけたあの女の人……。
何かが、私の近くに迫ってきているような気がした。
子どもにあんな光景を見せたのは失敗だった。ユウキはコートを着た背の高い女の人を見ると、恐がって逃げ出すようになってしまったのだ。
だから私はユウキに言った。「全然恐がることないよ。メダカ女には弱点があるんだから」
「弱点?」
「うん、そう。100点のテストを見せると逃げ出すの。だけどね、90点以下のテストを見せると追いかけてくるんだって」
「嘘だ! そんなわけない!」ユウキは言った。
それはそうだ。私が適当に作った嘘なんだから。でも藁にもすがると言うやつか、ユウキはしっかり100点のテストをランドセルに入れて通学するようになった。
「あっ、言っとくけど、メダカ女に効くのは一ヶ月以内のテストだけだから」って言ったのはご愛敬。あんまり必死な顔して勉強してるから、ちょっとかわいそうだったけど。
やれやれ。ほっと一安心。って思いながら、平日の昼間、パート帰りの私は人の居ない住宅街を歩いていた。
どこにでもあるような平凡な光景。なのにゾクッとした。
何? 私はこんなつまらない通りの何を恐れているの。
辺りを見回したら……ね……いたの。目元を隠す長い髪、口元に大きなマスクをしたあの女が、じっと道の真ん中に突っ立っている。空気が歪んで、その女だけが周囲から浮き出てるみたい。
これがメダカ女の正体? 街をうろつく変質者。
私は踵を返して立ち去ろうとした。
そしたらね、
コツコツコツコツって。
不安で全身に悪寒が走る私の後ろを、
コツコツコツコツって、
足音が追いかけてきた。
きっとどれだけ叫んでも、誰も助けてくれない住宅街。
恐いよね。
そうだ、そう思った。それが私がメダカ女を作った理由。
何かあった? 人のいない住宅街で何かあった?
なんて考えてる間も、
コツコツコツコツ、足音は響いてる。
私は走った。百メートルを三~六秒で走るとか、身長が二メートルあるとか言う口裂け女ならとっくに追いつかれていただろう。
けどメダカ女の足音は消えた。
私は年甲斐もなく膝に手をついて一呼吸ついていた。
で、顔を上げたら、目元までかかる長い髪の女が目の前に立ち止まっていた。
もうこの女が普通でないことは明らかだった。関わってはいけない。私は気づかないフリをして、その脇を通り抜けようとする。
女はじっと固まったままだ。
このまま通り抜けられるかも、ホッと一息つくと、
「気づいてるくせに」って、その人は呟いた。恨みがましい、低い声。
つい横を向いてしまうと、既にその女はマスクを外していた。形の良いピンク色の、本当に綺麗な唇だった。
とたんに恐怖は消えていた。こんなに綺麗な唇をした女の人は、当然美しい顔をしているはずだ。
彼女は長い髪に手をかける。
その時、何でか分からないけど、どうしようもなく懐かしい気がした。記憶のどこか奥底に触れようとした私の意識は、そこでふいに途絶えた。
夢にも種類があって、すぐに「あっ、これ夢だ」って気づくのがある。
私が見たのはそういう夢だ。毒々しいほど真っ赤に染まった住宅街。子どもの私は壁に囲われた通りが恐くて早歩きしている。
これは私の……記憶の中?
すると、壁の向こうから、
ドン!
って音がする。
ドン! ドン! ドン!
って、何かが壁に叩きつけられる音。
それから、
「~~~~~~~」
声にならない女の人の悲鳴。
私はもう、足もガクガクに震えて、恐くて仕方ないのに、音のする方に近づいていくんだ。
そして門扉から、そっと家の中を覗くの。四角い二階建て、お庭も家もピッカピカ。
でもガラス越し見える家の中はそうじゃなかった。真っ白なカーテンはぐちゃぐちゃになって、ガラスには血が点々とこびりついてる。
電気は消えて、子どもの私の背丈じゃそれ以上中の様子は見えない。
その光景に釘付けになっていると、家の中から不意に真っ赤な女の人が、
ドン!!!
ってガラスにぶつかってきた。ううん、違う。突き飛ばされた。
頭から血が噴き出して、真っ赤に充血した目で、私を見て、
「助けてーーーー」って、ガラス越しに叫んでた。
眼窩からこぼれだしそうな目玉が、血走って真っ赤になってる。
ワーだのギャーだの叫びながら、私は走って逃げた。
だけどいくら救いを求めても、誰も助けに来てくれない。
恐いよね。
気がつくと、私は道ばたに倒れていた。
辺りはすっかり夕暮れに染まっていて……ってことは、誰もここを通らなかったのかな。通報するなり介抱するなりしてくれてないってことは、そういうことだよね……。
家までの道をトボトボ歩きながら、私は夢で見た女の人の事を考えた。もう私には分かっていた。あれはただの夢じゃない。鮮明な記憶。
あの人は何か事件に巻き込まれてたのかな。DV被害を受けてたのかもしれない。
だけど誰も助けなかった。その姿を目にした私も……何もしなかった。恐ろしい記憶に蓋をして逃げ出した。
蓋をしたのは何だろう。罪悪感? 恐怖? 後悔? 無力感?
子どものキレイな瞳は、残酷な世界を直視することができない。だから残酷な世界は、自分のことを無視して見捨てる無垢で純粋な子どもの目玉を抉り取ってしまうんだ。
恐ろしい話……。私はそうやって、自分自身を罰してほしかった。
そんな私の思いが彷徨って、生き続けていた。それがメダカ女の正体だとしたら……。
純粋な瞳……。ユウキが、ユウキが危ない!
私はスマホを取り出し電話をかける。
でも呼び出し音が無機質に繰り返されるだけ。
もう家に着いてる? ゲームをやってて気づかない?
私の中で不安が不安を掻き立てる。家の中で一人ぼっちのユウキの背後にメダカ女が立っていて……。
妄想に怯える私を余所に、通話口からはカンカンカンカンと踏切の音が聞こえてきた。
「ユウキ……よかった。いまどこにいるの?」
すると、うるさいぐらいに鳴り響く踏切の音が途切れた一瞬、
「気づいてるくせに」
こびりつくような女の声が聞こえた。
私は駆け出していた。
踏切はユウキの通う学校から家までの間にある。
夢で見た光景と同じように、空は真っ赤に灼けていた。
この世ならざる怪異が実在する……。そのことを知ったら、きっと子どもの私は大喜びしたことだろう。だって現実はつまらない。幽霊も、妖怪も、今の今までこの目で見ることはなかった。世紀末だって何事もなく過ぎていった。この世には、思いもよらないことなんて何一つとしてない。だから私だって、現実を受け入れて平凡な主婦に落ち着いたのだ。
それが今になって……。
ゼェゼェハァハァと息を切らし角を曲がると……道の先の遠くに……いた。
サングラスをかけたその女は、夕焼けに溶けてしまいそうな真っ赤なコートを羽織り、口元には大きなマスクをつけている。女の足元では、ユウキが倒れていた。
「ユウキ!」
私が叫ぶと、ユウキは目を覚まし体を起こす。そしてすぐにサングラスのその女に気づく。
肺が潰れそうに苦しかったけど、必死になって走った。
だけど、カンカンカンカンと警笛が鳴りだし、遮断機が降りていく。
遠くでは、女がマスクを外し、ユウキがその姿を凝視していた。
うそ! そんな、待ってよ!
ユウキの目は、恐怖で飛び出そうなほど大きく見開かれて……。
その瞬間、電車が視界を遮り、何も見えなくなる。
でも……おかしい、電車には、誰も乗っていない。そうだ、ここは人通りの多い通りなのに、誰の姿も見えない。
ああ、これは、目を開いても覚めない夢だ。私達はこの、魔の世界に招かれてしまったのだ。
「ユウキ……」
疲労と絶望と……恐怖を直視することへの些細な抵抗で、私は膝からくずおれ、下を向いた。
やがて電車は通り過ぎる。
声は、聞こえない。
それでも……目の前で起こっていることと向き合わないわけにはいかないのだ。幼い私が向き合うことから逃れたから……あの女の人は……。
「ごめん……ごめんね……ごめんなさい!」今さらだけど、私は心からあの女の人に謝った。
やがて私は、覚悟を決めて顔を上げた。もう逃げるわけにはいかない。
……。
恐がることなんて、何もなかった。ユウキは尻餅をついて倒れていたけど、ちゃんとそこにいたのだ。
「よかった……」
体の奥底から笑みが溢れ出てきた。
だけど、おかしい。ユウキは目を見開いたまま、じっとこっちを……私の上を見ている。
「メダカ女!」ユウキは叫んだ。
振り返ると、女がいた。こぼれ落ちた眼球には浮き上がった血管がびっしりと詰まっていて、燃え尽きる直前の太陽みたいに真っ赤。
ああ、この世ならざる魔がそこにはいた。私はそれを、とても美しいと思った。
女は口角を上げ、綺麗な微笑みをのぞかせる。
きっとその女を目にする私の瞳は、キラキラと輝いていることだろう。