Dusty
「私の娘だ。お前に護衛を任せる」
そう言って依頼主は侍女を連れ、さっさと自室にこもった。
広々としていて狭苦しい屋敷の真ん中で、僕ら二人だけになったとき、彼女はこう呟いた。
「臭いのよね。嫌になるわ」
ジャスティティア公の一人娘。その名をエリスというらしい。
口を開いた瞬間にそんな言葉を向けられるという経験は一度や二度ではなかった。
「……申し訳ありません。何分……きれいな身ではありませんもので」
「ああ違うのよ、あなたじゃないの」
ところが彼女は、僕の言葉をこう遮った。
「わたしのお父様。それと上層。みんな一様に、甘ったるい煙草の臭いを撒いていて――本当に、嫌になるの」
溜息まじりのその言葉は、この上ない本音に聞こえた。
「貴方のお名前。伺ってもよろしくて?」
「……ダスト、と呼ばれています」
「そう」
「なら、あなたのことはダスティと呼ぶわ。わたしのことも、エリーって呼んで頂戴? ダスティ」
彼女の笑顔は、とても眩しくて、とても美しくて。
そして、この上ないほど空虚なもので。
生涯一度たりとも見たことのない、唯一無二のものだった。
*
だくだくと雨が降り続いていた。
濡れると厄介なので、建物と建物が折り重なった路地裏に身を潜めていると、他にも同じような連中が身を寄せ合っていた。
皮に骨が浮いている。男か女かもわからない。ここはそんな連中で溢れていた。
僕はそんな連中のひとりで、覚えている限りの最初の記憶がそれだった。
僕という「ごみ」は上層の掃きだめで産まれた。
親の顔など知りもしない、ただ後から学んだ知識で推察するに、路地裏で糞でもひり出すみたくもよおした妊婦が産み落としたのが僕のようだった。そういった僕のような連中は珍しくなく、大概は死体と区別がつかなくなった頃合で清掃業者に拾われて、ごみと一緒に焼かれるのが運命だった。
何故自分がそうならなかったのかと問われれば、何故だろうかと聞き返す他なかった。気がつけば路地裏で縮こまっていたし、後になって考えてみれば、そんな自分が何故羊水まみれの赤ん坊の頃から生きてこれたのかが不思議でしかなかった。
人間という生き物は動物であり、極限状態に置かれ続けていると、『何故』を問う余裕もなくなる。僕はごみが捨てられる曜日には身を潜めて残飯を漁ったし、盗みも働いたが、腹は壊すし逃げ切れるはずもないので捕まるしで散々な目にあった。
豪雨の日に身体を洗い、観葉植物の葉で歯を磨いた。最終的には衛生的でマシな食事にありつけるという理由から、男色の富豪に飼われることが多くなった。
かつて僕を飼ったおっさん曰く、買ったものをぞんざいに扱うのは『三流以下』らしい。
そうして使い潰していては心は一向に満たされない。悲劇的でサディスティックでインモラルな悪辣劇場にて表現されるそれじみたプレイでは、飼い主たる自らの心は満たされない。
買ったものこそ大切に。自らの色に染め上げて、満足してから棄てる。それがペットの使い方らしい。
言葉の通り、おっさんは僕を愛してこそいなかったが、風呂には入らせてくれたし食事はくれた。夜は働かされたが、寝床の上でする仕事は慣れてしまえば存外に快適だった。
「ここ?」
「そう、そこだ。上手いぞ」
そんなおっさんがどんな人間だったかと聞かれれば。
「…………――ッッ……!! かっ………………ぁ……!!」
「…………大丈夫なのか? 本当に」
――たんたんと僕の手首のあたりをタップされる。
その指示が意味するところは、『その強さのままもう少し長く』。
身の丈半分ほどの僕に、毎夜殺されかけるのが果てしない快感だと宣う。
要するに度し難い変態だった。
それは強がりでも演技でもなんでもなく、首を絞めているときのおっさんの顔の幸せそうな表情と、ビクビク跳ねる感触からどうしようもない事実なのだとよくわかった。
「ぶはっっ…………!! ああ、最高だった……!! 明日は一緒に風呂に入ろうじゃないか……!!」
「……ありがとうございます……?」
このころは様々な富豪のもとを転々としていたが、このままだと殺されるなあと思って逃げ出した家が大半な中で、このおっさんだけはとにかくよくわからなかった。非常に異常だった。殺されることが常の中、殺しかけることが常になるなどと予想できるはずもなかった。
僕が新しい殺し方を覚える度に、おっさんはひどく上機嫌になり、富豪のくせに自ら風呂に入っては手ずから僕の手入れをした。興奮してきたと言って要求されたので応えはしたが、風呂場でおっさんの関節をかためながらかかとでおっさんの頸椎を圧迫していたときは自分は何をしているのかとはじめて『何故』を問うたものだった。
寝室でベッドシーツに包まっていたり、浴室で毛むくじゃらの筋肉だるまになっていたりする時には彼が富豪であることを忘れそうになるが、ひとたびスーツに身を包めば、不思議なものであっという間に『コンコルディア公』へと変身してしまう。
ヘリオ・コンコルディア公が奇人であることは周知のことだったらしいが、飼われていた僕ほどこいつの変人ぶりを熟知している者も他にはいないだろう。バカでかい背中を見送って、彼の寝室で彼の帰りを待っている間、僕は言いつけの通りに自分の体を鍛えるのだった。
ある時、僕は積もり積もった『何故』をおっさんに問いかけた。
何故、こんなことをさせるのか。何故、こんなことが快楽なのかと。
烈火の如く激怒されるつもりでいたし、かねて飼い主というものは『何故』と問えばそれを『叛逆』とみなすのが普通だった。ところがおっさんはにたっと笑って、僕を屋敷の地下へと連れ込んだ。
そこはコンコルディア公の住まいというには、あまりにも不釣り合いな空間だった。
この男がなにかに対する革命でも企てているんじゃないかと疑いたくなるほど、無数の暗器で埋め尽くされた無骨な世界だった。
「俺はな、強いやつが好きなんだよ」
おっさんはナイフを一本手に取って、弄びながら言った。
「だから鍛えた。そこらのボディガードなんぞ歯牙にもかかん程度には強いつもりだ。そんな俺をあっさり殺しちまえる、そんな俺があっさり殺される――そういうのが好きだ。繰り返し頭の中でその時を夢想すれば……容易に果てる」
「殺されるのが好きなのか?」
「そうだ。だが殺されちまうと、それから二度と殺されなくなっちまうだろ? 死ぬからよ。だから俺はいつも寸止めで終えてんのさ。何も知らねえ奴隷に悪ィこといっぱい覚えさせてな……殺しかけてもらうのが、たまらなくてな」
「…………」
「けどまあ、そういうことをしてると、奴隷ってやつは段々と立場を弁えなくなっちまう。本気で俺を殺そうとしてくるし、俺を甚振ることに快楽を覚えるようになる。そうなったら主従は終いだな。きちんと引導を渡してやるさ。主人としてな」
「……あんた自身が強いのも、そういう理由か」
「その点お前はよかったぜ。どこまでも従順に俺を殺しかけてくれた。いろんな殺し方を覚えてくれたし、あらゆる人体の急所を覚えてくれたな。たまらなかったが――これ以上は駄目だ。俺がお前に依存しちまいそうになってる」
だからな――と、おっさんは振り返りざまに僕にナイフを投げ渡す。
抜身のそれの持ち手をつかみ取り、受け取った僕の背中を、歩き去るおっさんがどんと叩いた。
「もう終わりだ。好きにしな」
それだけ言って、おっさんは二度と僕の前に現れなかった。
*
ヘリオ・コンコルディア公のその後を僕は知らない。
それから僕はフリーの殺し屋として、暗殺稼業に専念することになったからだ。
依頼された以上のことを知る必要は無い為に、必然的に世情には疎くなった。
だが、コンコルディア公への間接的な暗殺依頼も終ぞ来なかったことを鑑みるに、どっかで絶頂しながらのたれ死んだのだろうとも思う。
長く伸びた長髪は後ろで束ねるようになったし、纏っていたぼろ布を脱ぎ捨ててスーツを着るようになった。
それなりの収入も得るようになった。それなりの飯にありつけるようになった。
人を殺せば殺すほど、僕は豊かになっていった。
そしていつの間にか、名前のなかった僕は『ダスト』と呼ばれるようになっていた。
そんな時だ。
その実力を買いたいという依頼が来た。
依頼主はアルゴス・ジャスティティア公。
依頼の内容は暗殺ではなく、護衛だった。
ジャスティティア公の一人娘の護衛。その依頼の報酬額は相応にけた違いで、はじめての依頼に柄にもなく緊張しながら屋敷の戸を叩き、その家へと招かれた。
護衛の期間は一年。曰く彼女は、ジャスティティアの存在を疎ましく思うアブンダンディア家にその身柄を狙われているらしく、奴隷の手も借りたい……ということらしかった。
さぞ昼夜問わずヒットマンに襲われるのだろうという僕の想像とは裏腹に、彼女との時間は異様なほど静かに、そして早く流れていった。
*
生きる以外のことを知らなかった。
飼い主に教えられた、そこから逃げ出す方法や、おっさんに教えられた、人を効率的に殺す方法くらいしか、僕の中には息づくものがなかった。
残飯を食えば腹を壊す。雨に濡れれば風邪をひく。傷口が汚れれば膿んで痛む。だから屋根の下で体を洗って飯を食うのが最適だ。それは僕の目指すところで、僕が最も満たされる状態だった。
ジャスティティア公の屋敷で過ごす時間は、だから、僕が生涯で最も満たされていた時間だった。
生きることに困らない。求めるものに困らない。そうして肥えた心が、次に求めるものは決まっていた。
「ダスティは、花のことを知っている?」
「……失礼ながら……全く」
「くすっ、なら教えてあげるわ」
大きな図鑑を開き、ベッドに腰掛けて、様々な知識を教えてくれるエリス嬢。
彼女の前に跪き、その知識を享受していると、胸の内にはまるで何なのかわからない想いが湧いてくる。
その声が聞きたいと、その姿を見ていたいと、ずっと思う。
「この花はね、レッドダリア。覚えておいて、ダスティ? レッドダリアは高いのよ」
「……レッドダリア」
肥えた心は、彼女を求めて止まなかった。
きれいな世界ときれいな家と、きれいな食事ときれいな生活で育ったきれいなそれを求めて止まなかった。
どんな花よりも美しいと思えたし、どんな宝石よりも輝いて見えた。
それでも自分が、彼女の護衛であれたのは。
彼女を前に、殺し屋としての正気を保ち続けられたのは。
「嗚呼――」
「――早くここを飛び出して、本物の花を見てみたいものね」
時折彼女が見せる、その空虚な笑顔があるからだった。
「エリーは……ここがお嫌いなのですね」
「ええ、大嫌い。臭いんだもの、とっても」
空を見る、虚ろな顔。
笑顔のまま、何よりも美しい顔のまま、彼女はからっぽになる。
それは現状に対する不満を口にするときであり、叶わぬ願いを口にするときに決まって表れた。
「上層の煙草の香りは、特徴的ですからね」
「本当に。だからいつももどしそうになるのを堪えているのよ――」
そう言って彼女はとんとベッドから降りて、跪く僕の体を抱き締めた。
背中に回る細い手がするりと僕を撫でて、彼女の小さな顔が首筋に埋まる。
そして、彼女がすう、と息を吸うのがわかる。
「……だから、あなたの臭いが大好きなの。殺し屋のダスティ」
それは日々の僕の楽しみであり、彼女にとっての楽しみでもあるらしかった。
普段ならば彼女の体の感触をただ楽しんだが、この時は違うことを考えていた。
細い首は簡単にへし折れる。
その背中には簡単に刃を突き立てられる。
その心は僕を許しているから。
その体を、簡単に殺害することができる。
――彼女が僕を、『殺し屋のダスティ』と呼んだのは。
きっとその心をわかっていて言ったのだ。
「エリー」
「ん」
「あなたの御父上から――あなたを殺害するように――申しつけられました」
この屋敷で過ごして半年が過ぎる頃のことだった。
依頼主にとっての本当の依頼は、どうもそれであるらしかった。
――娘はお前に気を許している。頃合だろう。
あの女を殺してくれ。
それを、アブンダンディアとの間に落とす火蓋とする。
自らの娘をあの女と呼んだ、アルゴス・ジャスティティアの顔が忘れられなかった。
そして、それを聞いたエリス嬢の顔も、言葉も。
「そうでしょうね」
エリスは僕を抱き締めたまま、静かに答えた。
「だってお父様は、紛争を望んでいるもの。それに何よりね……」
「あの男は、まだ王様でいたいのよ」
「……王様?」
「ええ。女王アリの卵がひとつじゃないことは知っていて?」
「…………以前伺いました」
「そうね。先に産まれた女王アリは、他の女王アリの卵を壊してしまうの。自分だけが女王であるために。だから彼はね――わたしが恐ろしいのよ。いつか女王になる、わたしを恐れているの」
……だから、彼女は。
己が父をあの男と。
彼は、彼女を、あの女と。
「はあ、でも……後に産まれちゃったんだもの、しょうがないわ。彼は父でわたしは娘。つちかったものの差は大きくて、覆すには困難なの。だからせめて」
エリスは、僕の体を一際強く抱きしめて呟いた。
「あなたの臭いに包まれたまま、逝きたいわ。わたし」
僕の体の内には、彼女の体がある。
路地裏で産まれた地を這う僕と、空の彼方で雲にくるまって産まれた彼女。
彼女は聡明で、だからこそ立場というものの強大さを理解していた。
それを持たぬ自らは、箱に閉じ込められて生きていた自身は、だからこそ無力だと。
だから――「しょうがない」と。
その一言で、自らの生を諦めていた。
「…………ダスティ?」
僕は、その日、生まれて初めて。
その小さな肩を押し倒し、カーペットに押し付けて、覆い被さり。
求められ、受け入れることが常の僕は、初めて。
彼女を、求めた。
「きゃ…………っ」
彼女を容易く殺せるなら、その生殺与奪がこの手の内にあるのなら。
今、彼女は、彼女のすべては僕のものだ。
立場も家柄も血筋も何も関係ない。
奴隷の僕が、富豪の娘である彼女を、殺すことが出来るのなら。
彼女は、僕のものだ。
「選べ」
「え?」
「選べよ、エリス。今ここで花のように気高く散るか――」
「――僕と一緒に、残飯を喰らい、体を売って、人を殺してでも、生き汚く生き続けるか」
エリスは暫く呆気に取られていたが、ある時、ぷふっ――と吹き出して。
「ダスティ――欲しいの? わたしが?」
「…………」
「欲しいんだ!」
「………………」
そう言ってけらけらと笑い、ひどく楽しそうに彼女は笑い涙を浮かべた。
「ああごめんなさい、違うの、違うのよダスティ――わたしね、すっごく嬉しいの」
「……うれしい?」
「だってあなたは、ジャスティティアを求めてない。ジャスティティアの跡継ぎを求めてるわけじゃない。ただひとりの『エリス』を求めてる。そうでしょう?」
「…………」
「この家も、土地も、お金も、何もかもあなたには必要ない! だって殺せば手に入るもの。ねえ、殺し屋のダスティ――だけどわたしは違う、殺しては手に入らないものね。ふふ、ふふふっ、ふふふふふっ!」
「……――エリ」
不意に、押し倒されている彼女の両腕が、僕の首へと伸ばされて。
ぐっと引き寄せられた頭が、顔と顔が、ぶつかった。
「ダスティ。わたし、あなたと一緒に生きたいわ。あなたの臭いに包まれて」
その顔には、どこにも空虚さなどなくて。
ただひとりの、ちっぽけな女の子がそこに居た。
ああ、なんだ、と。
彼女はただ、彼女でしかなかったのかと。
僕はなんだか、ひどく安堵した。
「ああ。行こう、エリー」
「どこへ?」
「地の底の底、地獄の底に」
*
開いた窓から吹き込む風が、カーテンをはためかせていた。
誰もいない、空いたその部屋には、アブンダンディアの家紋がひとつ。
かつて家の主が、雇った殺し屋に渡したものだった。
娘の死体の横にそれを置いておけ。理由、体裁はそれで事足りると。
殺し屋は約束を守り、文字通り彼女の命を奪って行った。
後にアブンダンディアとジャスティティアの間で起きた紛争は数年続いたが、共倒れの形で終わることとなる。
天蓋の上で暮らす者達が、そうして瘦せ細りながら争い合っている頃。
天蓋の内では、ある一つの町が興った。
その世界に見合わぬ小綺麗な格好をした二人組が興した町。
たった一軒の酒場からはじまったその町には様々な人間が集い、それらは横の繋がりによって軍隊にも似た形を成していた。
依頼という形で金が舞い込めば誰もが動き、十分な報酬さえ約束されるなら町そのものが力となる。
その町の名を、『ディスコルディア』と呼び。
やがて二人の間に産まれた娘の名を、『ダリア・ディスコルディア』と言った。
「ダスティ」、依頼内容は「殺し屋の端くれの青年が紛争の火種に殺される予定の娘の護衛と暗殺を任され、生きることをあきらめている娘がそれを受け入れる話」でした。
もっと細かに指定がなされており、コンコルディアのおっさん以外は概ね伝えられたそのままの流れです。
世界観はレッドダリアと共通しており、この子らの娘っ子が街を作ります。
生まれて初めて誰かを求めた青年が、生まれて初めて自分を求められた少女と添い遂げる話。
ドラマとかなら逃避行の途中で殺されたりするものですが、彼らは逃げのびました。
上層はそれどころじゃなかったのか、見逃されたのか追手を殲滅したのかは謎。