現代人達は山に入る 4
それから数日が過ぎた。
商品である米や野菜を詰め込んだ魔法の鞄の容量は、あと少しで満杯になる。
詰めれるだけの食料を詰め込んだのならば、いよいよカルカンの街へと行商に出掛けることになるだろう。
それも今までの収穫の流れからいけばあと一日、二日あれば終わる話だった。
そんな日の夜、ヤトとライは屋敷の門の上に立ち、夜空を見上げていた。
屋敷の住人達はすでに寝静まっている。
静かに吹く夜風が、ヤトの赤みを帯びた黄褐色の長い髪と、ライの銀の毛を揺らした。
ヤトは犬友達の前では決して見せぬキツネの耳と尻尾を露わにしていた。
それは彼女達が獣肉を狩ってきた夜と同じ出で立ちだった。
彼女達が転移した初日に狩ってきた大量の獣肉も、そろそろ底を尽きそうであった。
カルカンへの行商に歩が名乗りを上げていた。
この世界の街というものを見聞したいという話だったし、その希望は通ることだろう。
そうなったら、万が一の事態が起こった際に歩を守るためにもヤトは付いて行きたい。
カルカンへは片道で四日かかるそうだから、行商をしている間に間違いなく肉は尽きてしまう。
そうなってしまう前に、もう一度狩りに出掛ける必要があった。
そしてヤト達はその日を今日の夜に決めた。
場所は以前と同じ、霧音岳の果てに広がる森林地帯である。
「では・・・行きましょうか雷牙?」
「ワオン・・・」
零れ落ちそうなほどに大きな満月が、やけに輝いて見えた。
こういう夜は得てして何かが起こるものだとヤトは思った。
二人は気を引き締めると、まるで重力を感じさせない高い跳躍で霧音岳を駆けるのだった。
☆彡☆彡☆彡
その広大な森は、周囲に住む者達から【迷いの森】として恐れられていた。
鬱蒼と生い茂る枝葉によって真昼でも薄暗く、同じ背丈の樹々は正常な感覚を狂わせ、時に方向を見誤らせた。
森には魔物も住み付いていた。
一体どれ程の人が、迷いの森に足を踏み入れたばかりに行方知れずとなっただろう?
いつしか人々は森を忌諱し、やがて近付く者さえいなくなった・・・。
自然とは面白い物で、そうやって人の手が入らなくなった森には様々な動物が住み着くようになり、多様な生態系を有するようになっていた。
そんな迷いの森に、一人の見目麗しい女性と、銀毛の巨狼が足を踏み入れた。
女は縦長のスリット状の瞳で静かに森を探る仕草を見せた。
銀毛の巨狼はその隣で悠然と鼻を鳴らし、何かを女に伝えていた。
ー 森の様子がおかしい・・・?
ヤトと雷牙は、以前とは違う森の空気を敏感に察知していた。
まるで森に住む全ての生き物が息を殺して身を潜めているようだ。
それでいて、肌を刺すかのような緊張感を含んだ剣呑な空気・・・。
そんな中で、ヤトはとある懐かしい匂いを感じた。
目を閉じれば昨日のことのように想い出せる、大切な人達と過ごした宝物のような毎日・・・。
決して色褪せぬ思い出の中で、その子はいつもヤトの頭の上に乗っかっていた・・・。
『キツネさん。今日はどこに遊びに行くのハム~?』
大切な大切な友達・・・。フワフワで・・・モコモコで・・・可愛らしいゴールデンハムスターの・・・。
ー ・・・この匂いはハムちゃん!?いいえ・・・でもそんなことがある訳が・・・。でも・・・でも・・・。
ヤトは動揺を隠せない。
その証拠に彼女にしては珍しく顔が上気し、ソワソワと落ち着きがない。
今すぐにでも駆け出したいのを何とか自制している、そんな様子だ。
雷牙も、遥か昔の記憶にある匂いに心が浮き立っていた。
産まれてまもない自分を、フワフワの体であやしてくれた、懐かしい匂いだ。
ヤトと雷牙は目配せをすると、次の瞬間には森の奥へと消えて行った。
☆彡☆彡☆彡
状況は絶望的だった。
時には草木の影に隠れ、時には洞窟に身を潜めながら追跡する狼の歯牙から逃れてきたハムスター族であったが、日を追うごとに数を増す狼が三十を超えた今、遂にハムスター達はその一団によって包囲されていた。
森の少し視界の開けた場所では、身を震わせ体を寄せ合うハムスター族の姿があった。
取り囲むのは三十匹からなる追跡する狼の集団で、彼等は鋭く尖ったナイフのような牙を見せつけるように唸り声を上げていた。
「誰か助けて~ッ!!!」
あるハムスターが悲愴な叫びを上げた。
しかしその声は暗闇の広がる森へと吸い込まれるように消えて行った。
狼達は怯えるハムスター達を嘲笑うかのように、今にも襲い掛かる仕草を見せてみたり、無駄に吠えてみせたりもした。
その度に悲鳴を上げ、小さな体をさらに縮こませるハムスター達の姿は、狼の嗜虐心を大いに満足させた。
その残虐な光景は、狼達に取っての悦劇であった。
追い詰められた獲物が見せる劇ほど愉快な物はない。
ある狼などは酩酊したかのように呆け、またある狼は狂ったように吠え声を上げている。
静まり返った森の中に、この惨劇を止める者はいない。
助けを求めるハムスターの悲痛な叫びに義憤を燃やし、救いの手を差し伸べる者など誰もいなかった。
穏やかならざぬ雰囲気を早々と察知した獣や魔物達は、既にこの近辺から立ち去ってしまっていたのだ。
仮にそうでなくとも、一体誰が三十匹にまで膨れ上がった追跡する狼の群れに立ち向かおうというのだろう?
一時の勇敢さの代償は、無惨に引き裂かれた己の屍体であることを、野生で生きる者達は知っていた。
「はみゅぅ~ッ!はみゅぅ~ッ!」
母の恐怖が伝染したのだろうか、腕に抱かれていた赤子が泣き声を上げた。
母は赤子をあやすでもなく、つぶらな瞳から涙を滂沱と流し、我が子をヒシと抱きしめた。
誰もが死を覚悟していた・・・。
赤子の泣き声を聞いた狼達は、自制の効かぬ様子で舌なめずりをし、一歩、また一歩とその足を進めた。
そんな時だった。
ハムちゃんは鼠の身軽さで一瞬のうちに一匹の狼の頭上に上り詰めると、真っ白な歯を頭頂部に突き刺したのだ。
「あたちの前歯を喰らえハム~~ッッ!!!」
「キャインッッ!!」
頭からだくだくと血を流しながら狼が悲鳴を上げた。
狼は激しく首を振り、身をよじりながらハムちゃんを振り落とそうとする。
「みんな~ッ!早く逃げるのハム~~ッッ!!!」
ハムちゃんが決死の想いで叫んだ。
ハムちゃんは騒乱のどさくさに紛れて、一匹でも多くのハムスターを逃がすことを考えていた。
自分が囮となり狼の注意を引けば、強固な包囲をすり抜けるハムスターが出るかもしれないと考えたのだ。
それはまさに、自分が犠牲になることを厭わない決死の覚悟であった。
そんなハムちゃんの悲痛な想いも、追跡する狼の前では無意味だった。
狼の頭にしがみついていたハムちゃんではあったが、やがてすぐに振りほどかれ、地面にその身を落とされた。
思いもよらぬ一撃を喰らった狼は、その眼を爛々と燃やし、牙を剥き出しにしてハムちゃんへと襲い掛かかる。
その牙でもってハムちゃんの体を八つ裂きにすることでしか、彼を傷付けた代償にはならないのだろう。
ハムちゃんは死を覚悟した。
数瞬の後に訪れるであろう体を引き裂かれる痛みから逃れるように、つぶらな瞳を固く閉じた。
最後の最後に・・・ハムちゃんは歩とキツネさんのことを想った。
ー ああ・・・ご主人たま・・・キツネさん・・・。
逃れられぬ瞬間は確実に迫っていた・・・。
・・・
・・
・
「ガッ・・・グゥッ・・・」
うめき声とも啼泣ともつかぬ声が、ハムちゃんのはるか頭上から聞こえてきた。
来るべく死の瞬間に身を縮ませていたハムちゃんは、恐る恐る目を開いた。
眼前にまで迫っていた狼の醜悪な顔は、そこにはなかった。
その代わりに、だらりと垂れ下がる狼の尻尾と後ろ足が目の前にあった。
ゆっくりと視線を上げてみる・・・。
追跡する狼の喉元には、白い陶磁器のような手が伸び、驚くべきことに、300㎏はゆうにある巨体は、その手によって中空に浮かされていた。
ハムちゃんは手の持ち主の方へ視線を進める・・・。
追跡する狼を片手で宙吊りにしていたのは、息を吐いてしまう程に美しい女性だった。
赤みを帯びた黄褐色の長い髪に、スラリと伸びた白い手足。
抱き締めたら折れてしまいそうな華奢な身体・・・。
特筆すべきは、頭にキツネの耳が乗っかり、腰からは手触りの良さそうなキツネの尻尾が生えていたことだ。
トクン・・・とハムちゃんの小さな胸が鳴った・・・。
その美しい女性を見たのは初めてのことだった。
しかし・・・ハムちゃんには美しい女性が誰であるのかがすぐに分かった。
「・・・キツネ・・・さん・・・?」
女性は狼を乱暴に投げ捨てると、ハムちゃんと顔を合わせるように膝を折った。
そして優しく微笑むと、ゆっくりと手を差し出した。
「キツネさ~んッッ!!!」
ハムちゃんは走り出していた。
差し出された手を上り、体を上り、そして女性の柔らかな頬にヒシとしがみ付いた。
「キツネさんッ!!キツネさんッ!!あ~んッあ~んッ!!」
「ハムちゃん・・・」
子供の様に大声で泣くハムちゃんを、ヤトは愛おしそうに撫でるのだった。
☆彡☆彡☆彡
「私・・・怒っています・・・」
静かに、しかし確かな殺気と威圧を込めた語気でヤトが呟いた。
その頭の上には「ここが自分の定位置だ」と言わんばかりにハムちゃんが陣取り、頬を風船のように膨らませている。
ヤトがここまで怒りの感情を露わにするのは、およそあり得ないことだった。
そもそもヤトは、生まれてこのかた一度も怒ったことがないという、実に安穏とした性分の持ち主だった。
例えば今のヤトを歩が見たならば全力で土下座をし許しを乞うだろうし、勇太が見たならば背を向けて一目散に逃げ出したことだろう。
では追跡する狼はどうだろうか?
狼達はヤトの発する強者の圧に尻込みしていた。
いつもならば白くて華奢な体の獲物が増えたと喜び、我先に飛び掛かり、引き裂いた血で喉を潤しているはずなのに・・・それが出来ない・・・。
ー コイツを相手にしてはいけない・・・。
と理性が最大級の警報を発するのだ。
一方で最高の舞台と、待ちに待った食事の時間に横槍を入れられ、怒り狂う本能が
「あの女を殺せ」
と訴えかける。
理性と本能の葛藤の中、狼達は身動きが取れずにいた。
それでもせめてもの抵抗として、歯肉を剥き出しヤトを威嚇する者も居た。
そんな三下のような態度を取るだけでも精一杯のことだったが、ヤトは全く動じた素振りを見せない。
それどころか、さらに殺気を増した視線を容赦なく狼達に浴びせ掛けた。
場は完全に膠着したかのように見えた。
そんな中、一匹の若い狼がゆっくりと動き出した。
狼は気配を殺しながらヤトの背後に忍び寄る。
この若い狼は、お預けを喰らった犬のような情けない同胞の姿に業を煮やしていた。
邪魔者がいるならば牙と爪でもって排除すれば良いだけの話で、今までもそうしてきたではないか。
先陣を切って自分が襲い掛かれば、呼応した仲間達が同じように牙を振るい、それで終わる簡単な話だった。
ヤトと追跡する狼の距離が縮まる。
屈伸させた後ろ脚に、わずかばかりの力を入れ筋肉を躍動させれば背中に牙を突き刺せるその位置で、若い狼は静かに息を吸い込んだ。
この狼は大きな勘違いをしていた。
彼の相手は眼前の華奢な女だけではなく、つまりヤトには頼もしき相棒がいた。
雷牙は森の茂みにその身を隠し、事の成り行きを見守っていた。
雷牙の存在に気付いた追跡する狼は一匹もいない。
彼女はその体に雷を帯電させ、主に無礼を働こうとする狼藉者に狙いを定めていた。
若い狼がヤトの背中に飛び掛かろうと跳躍した瞬間、目も眩むような稲光が走り、狼を打った。
しばらくの後に、地を裂く程の轟音が森中に響き渡る。
稲妻に打たれた狼は、焼け焦げた体から蒸気機関のようにモクモクと煙を立ち上らせ、無惨な屍体を晒していた。
仲間の死臭は追跡する狼の警戒心を最大限に撥ね上げた。
優れた嗅覚に否応なく流れ込んでくる死臭のせいで、彼等の理性は絶えず警報を発し、まるで頭の中で銅鑼を打ち鳴らされているようだった。
三十匹の追跡する狼の、半数以上がそれで逃げ出した。
遁走した狼は、いずれも年を重ねた者達で、彼等はその経験から、本能を理性で抑え込む術を心得ていた。
命のやり取りが日常的な者達に取って、逃げることは恥ではない。
無謀な蛮勇によって命を落とした仲間を、彼等は何匹も見てきていた。
勝負事とは潮流のようなもので、自分が波に乗って相手を追い詰めている時は良いが、潮目が変わる瞬間や、新たな潮流の出現を見失ってはならない。
なぜならば、ぶつかり合った潮流はやがて巨大な渦を形成し、自分達の些末な命など簡単に飲み込んでしまうからである。
今が正にそうだ。
不気味な女の出現とは、新たな潮流の出現であり、もしもここであがけば、潮流は渦となりたちまちに自分を飲み込んでしまうだろう。
老練な狼達は幾度も重ねた命のやり取りから、引き際をわきまえていた。
残された狼達はいずれも年若く、仲間を殺された怒りからか、自制の効かぬ様子で唸り声を上げている。
歯肉を剥き出しにし、何かきっかけさえあれば、すぐにでもヤトに飛び掛からんばかりの勢いである。
そんな若い狼とヤトの間に、雷牙が割って入った。
追跡する狼よりも一回り大きな彼女の銀の体は、バチバチと帯電しており、時折、収まりきらなくなった雷が小さな稲妻となって体表を駆け巡った。
もしもここで彼等が年長者達のように逃げ出していれば、確実に生き長らえることができただろう。
ヤトと雷牙の目的とは、ハムちゃんやハムスター族を守ることであり、何も追跡する狼を殺すことではない。
背を向け逃げ出した相手を執拗に追い詰め、命を奪い去る悪趣味など彼女達は持ち合わせていない。
若い狼達はここでも大きな勘違いをしていた。
彼等は新たに出現した存在が自分達の命を狙っているのだと思い込み、これに対抗しなくてはならないと考えていた。
少しでも辺りを見回す冷静さがあれば、年を重ねた狼達が既に逃げ出していることに気付いたはずだ。
結局、彼等は自分で自分を追い込み、崖っぷちに立たされているというのに、その自覚がまるでなかった。
それどころか、目の前の女と、自分達よりも体躯の優れた銀狼を殺すことでこの現状を打開しようとしていた。
若い狼達は牙を剥き爪を立てる道を選び、ヤトと雷牙も闘いに応じた。
鼻っ柱とは、いつか強者にへし折られるものなのだろう。
老練な狼達はそれを何度も体験し、挫折し、いつしか潮の変り目を心得た。
それを経験と呼ぶのならば、若い狼達には絶望的なまでに経験が足りていなかった。
彼等は自分よりも弱い者としか闘った経験がなかったし、あるいは自分こそが絶対的な強者であるという幻想に囚われているようにさえ見えた。
彼等は今夜、学んだことだろう。
世の中には自分よりも強者が存在するということを。
しかしその経験を活かす機会は永遠になくなった。
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