現代人達は山に入る 1 ~ 歩とヨーコ
その日は朝から、弥助を中心に村の男達が山に入っていた。
彼等はその手に分厚いナタや斧を持ち、立ち枯れ、あるいは半ばから折れてしまった樹々によって塞がれた山道を整備していた。
道を塞ぐ巨木に斧を打ち込んでは解体し、少しづつではあるが道を確保していた。
「コーンッ!コーンッ!」
という鉄と乾いた木とが作り出す独特の甲高い音が、山の至る所で響いていた。
「歩殿、ヨーコ殿、気を付けて進んでくれ・・・」
村からほど近い山の麓に、アサヒと犬人族の若者が先導を務める一行の姿があった。
村の男達が通行に邪魔な樹々を運び出しているとはいえ、歩くには困難な荒れ果てた山である。
ちなみに、山に入るということもあって、子供達は屋敷でお留守番をしている。
アサヒが同行を願い出たために、ヤトが屋敷に残ることとなった。
彩と小梅さんはヤトの前で魔法の練習が出来ると、上機嫌でピョンピョンと飛び跳ねていたが、果たして彼女達は魔法を習得することができるのだろうか?
枯れた枝や積もり積もった葉を何度も運び出し、そしてようやく現れた山の地肌に歩がクワを打ち込んだ。
するとそれまで白くひび割れていた地肌が、潤いを取り戻すかのように、黒々とした栄養を豊富に含んだ土へと変わる。
歩はそうやって何度も何度もクワを振るって山の土を豊穣の土へと変えていく。
その土をはなちゃんが一生懸命に両手を使って耕していた。
そうして耕された土に、今度はヨーコが丸々と太ったドングリを植えた。
すぐ側ではすっかり元気を取り戻したゴン太がパタパタと尻尾を振っている。
誰もが固唾を飲んで見守っていると、皆の期待に応えるかのように、すぐに新芽が芽吹いた。
野菜のように驚異的な速度ではないが、ドングリの樹、いわゆるブナの樹はゆっくりと成長を開始した。
男達の歓声が上がる。
ある者は興奮したように吠え声を上げ、ある者は仲間と肩を叩き合った。
ーー 霧音岳に緑豊なかつての姿を取り戻す ー-
それは途方もない壮大な計画であった。
霧音岳を緑豊にしていけば、緑が雨水を貯め、神名川も水流溢れる元の雄大な姿に戻るであろう。
机上の理論ではそのはずだが、そのためには膨大な労力が必要となってくる。
折しも初夏に差し掛かろうという山での仕事はただでさえ辛く、人材の枯渇している美芳の地ではその計画は夢物語のようにも思えた。
しかし美芳の民はこの夢物語に乗った。
歩達がこの地に現れてまだ二週間も経っていないが、その間に彼等が見せた奇跡とも呼べる功績の数々が、美芳の民に夢を見させた。
夢は熱情となり、固い結束となり、途方も無い計画の原動力へと変わった。
そこへヨーコのスキル【成長促進】である。
目の前で芽吹く赤子のような新芽は、自分達の行動への有無を言わさぬ圧倒的な肯定感となった。
文字通り、美芳の民達は馬車馬の如く健気に働いた。
「ヨーコ殿・・・この樹はどうだろうか・・・?」
アサヒがとある背の低い樹を指差した。
丁度、勇太の身長と同じくらいの若い樹であった。
本来ならばその身に青々とした葉をまとわせ、太陽の光を浴び、周りを取り囲む大きな樹々達に負けじと成長せねばならぬはずの若木が、力無く萎びている。
ヨーコは頷くと、まるで語り掛けるようにその若木の肌に手を添えた。
一瞬、ヨーコと若木を淡い光が包み込み、それはすぐにやんだ。
先程のドングリの時と同じ様に、期待のこもった視線がヨーコと若木に注がれる。
しばらくの沈黙の後、ヨーコは悲しそうに首を振った。
山の樹々達は幸姫の屋敷のものとは違い、すっかり枯れ果ててしまっていた。
【慈愛】をかけてみても、白く乾燥した樹々が元の姿を取り戻すことはなく、生命活動を完全に停止してしまっているようだった。
これは歩の想像になるが、恐らく屋敷の樹々達や、周辺の緑達は少なからず幸姫の持つ犬神の力の恩恵にあやかっていたのではないだろうか?
だからこそ表面上は枯れながらも辛抱強く生き残ることができたのであろうし、ヨーコの【慈愛】によって元の姿を取り戻すことができたのだ。
ー これは・・・随分と大変な作業になるな・・・。
歩は額の汗を拭いながら、初夏の日差しを帯びようとしている太陽を見上げた。
もしかしたら山の樹々達もヨーコの【慈愛】のスキルで蘇るかもしれないと考えていたが、その考えが希望にも似た浅はかなものだったことを、今は痛感している。
もしも・・・霧音岳の樹々達が全滅してしまっているのだとしたら、歩の【豊穣】とヨーコの【慈愛】によって、新たな生命を山に宿していく他に手がない。
広大な砂漠に草木を植える様な、そんな気の遠くなるような作業の果てに、美芳の地の復活はあるのだろう。
問題はまだある。
幸姫の屋敷の周辺の樹々達から幾つかの種を採取することが出来たが、圧倒的に種類が足りていない。
杉や松、あるいは広葉樹であるシイやブナの樹が、屋敷の周辺には生えていなかったのだ。
村人の話では、栗の樹や柿の樹などもあったということだから、なんとかそういった樹々の種も手に入れたい。
ー やることが山積みだ・・・。
不意に、これから幾万とクワを振るうことになるであろう自分の姿と、かつて畑仕事で自分を育ててくれた祖父の姿が重なって見えた。
父が失踪し、幼い歩は祖父に引き取られた。
田舎には働き口がなく、母はそれまで住んでいた街に残り、歩の将来のために寝る間も惜しんでパートに明け暮れた。
そんな母もやがて過労で倒れ、そして・・・帰らぬ人となった・・・。
まだ幼い歩を残された源次郎は、どんなに心細かったことだろうか。
齢七十を超える祖父は、それでも懸命にクワを振り、数枚の畑を耕し歩を育ててくれた。
その苦労に比べれば、今の自分の置かれた現状に悲観などしていられない。
「ワオン?」
ふと視線を落とせば、はなちゃんが心配そうな表情で歩を見上げていた。
「大丈夫だよはなちゃん・・・。きっと大丈夫」
それは歩が自分自身に言い聞かせた言葉だったのかもしれない。
どんなに絶望的な状況であっても、ゆっくりと着実に歩んでいくしかないことを、歩は祖父の背中から学んでいた。
先の不安は尽きないが、今やれることをやるだけだ・・・。
歩はクワを振り上げると、何度も何度も土に振り下ろした。
すると、はなちゃんが待ってましたとばかりに両手で土を耕し始める。
美芳の民の頭上で、太陽が力強く輝いていた。
季節は初夏を迎えようとしている。
☆彡☆彡☆彡
一匹の可愛らしいゴールデンハムスターが、星々の輝く夜空を見上げていた。
その表情はどこか暗く、ピンク色のお鼻が何かの匂いを探るかのようにヒクヒクと動いていた。
「ハムちゃんや・・・どうじゃ魔物は近くに居るかのう?」
白い顎鬚を蓄えたハムスターが、つまようじのような枯れ草の杖を突きながらハムちゃんに尋ねる。
「お父たま・・・大丈夫ハム。近くに魔物の匂いはちないのハム~」
ハムちゃんは出来るだけ明るく、元気一杯にそう答えた。
顎鬚を蓄えたお父たまの後ろで、不安そうな表情を浮かべていたハムスター達も、ホッとしたように安堵の色を見せる。
胸に乳飲み子のハムスターを抱く母親、小さな子供を守るかのように抱き抱える父親、彼等は一見すると戦地から逃れて来た難民のような風体であったし、実際にそれはその通りであった。
ハムスターの神様、ハム神様の率いるハムスター族は、魔物の侵攻によって住処を奪われ、新たな土地を求めて放浪していた。
ハムスター族は闘いには向かない。
その弱さ故の危機察知能力と、フォルムからくる可愛らしさを頼りに、彼等はこの世界を生き抜いていた。
住処を奪われたとはいったが、犠牲ハムの一匹も出さずに済んだのはこの能力によるものだったし、その中でもハムちゃんは特に優れた素質を持っていた。
「お父たま・・・犬神たまは本当にあたち達を保護ちてくれるのハム~?」
ハムちゃんが可愛らしく首を傾げた。
そう、何を隠そうハムスター族は犬神たまの治める南の地を目指して旅をしているのだ。
犬神たまの評判は、国から国を渡る鳥達によってハムスターの里にも届いていた。
いわく、その地には肥沃な大地と豊かな川が流れ、この世の天国のようである。
いわく、犬神たまは義に厚く弱い者達の味方である・・・と。
ハムスター族はこの評判を頼りに、犬神たまの治める美芳の地を目指していた。
「うむうむ。心配はもっともじゃ。だが大丈夫じゃろう」
「大丈夫なのハム~?」
「うむ。だってワシら可愛いし?阿修羅のように強いと噂の犬神だって、ワシらの可愛さにメロメロになるはずじゃ」
「メロメロになるのハム~?」
ハムちゃんには父であるハム神たまの自信の根拠がいまいち良く分からない。
とはいえ、自分達には他に頼る者がいないことも事実であった。
「ハムちゃんや・・・そんなに暗い顔をするでない。そうじゃ、近くに魔物がいないのならば今の内にご飯を食べようじゃないか。皆もお腹が減ったじゃろう」
ハム神様のその一言で、ハムスター達は食事の準備を始める。
虹色のトカゲに引かせたトカゲ馬車から、様々な種類の種を取り出すと、それらを皿に盛り付ける。
栗に柿、それに松の種やヒマワリの種などがどっさりと盛られた皿に、ハムスター達が群がった。
誰もが頬一杯に種を詰め込み、その顔は実に幸せそうである。
ハムスター族の食事は人間に比べれば簡素なものである。
だからこそ素材にはとことん拘るのがハムスターなのである。
四季折々の新鮮な野菜には目がないし、特に種が大好物で、彼等は世界中から集めた植物の種を、里から逃げ出す時にトカゲ馬車に詰め込んで持ち出していた。
食事の喧騒の中、ハムちゃんはこっそりと抜け出し、少し離れた所にある小さな石の上に腰掛けると、ヒクヒクと愛くるしく鼻を動かしながら満点の星空を見上げた。
ハムちゃんは最近、かつての飼い主であった歩のことをしきりに思い出す。
寿命によって心ならずも歩の元を去ってしまったハムちゃんは、この世界でハム神様の娘として転生していた。
ー ご主人たま・・・お元気ハム~?あたちが側に居なくても大丈夫ハム~?あたちはいっつもいっつもご主人たまのことを思っているのハム。ご主人たまがお元気ならあたちはそれが一番嬉ちいのハム~・・・。
歩のことを思い出すと、ハムちゃんの小さな胸はポカポカと暖かくなり、そしてしばらくすると別れの悲しみで張り裂けそうになる。
ー キツネさん・・・キツネさんはご主人たまに会えましたか・・・?ご主人たま・・・キツネさん・・・会いたい・・・会いたいのハム~・・・。
ハムちゃんのつぶらなお目々から大粒の涙が溢れ出した。
この世界が愛しい歩と優しいキツネさんの住んでいた世界とは違うことをハムちゃんは良く分かっていた。
凶暴で凶悪な魔物の跋扈する世界・・・。
現にいまだって自分達はその魔物によって住処を奪われ、こうして旅をしている・・・。
ー この世界は・・・この世界にはご主人たまもキツネさんもいないのハム・・・。きっと二度と・・・二人には会えないのハム~・・・。
そのあまりに過酷な現実が、ハムちゃんの小さな胸をズキズキと痛ませる。
ハム神たまの娘として新たな生を受けたハムちゃんは、新たな家族と眷属のハムスターに囲まれた生活を送っていた。
皆のことが大好きだし、ハムちゃんはハム神たまの姫として正しくあろうと常に心掛け、そして行動していた。
しかし・・・ハムちゃんに取っての真の幸せとは、大好きな大好きなご主人たまとキツネさんと一緒に居ることなのである。
そしてそれは・・・二度と叶うことのない眩し過ぎる過去の思い出となってハムちゃんを苦しめるのだ。
「ハムちゃん、こんな所に居たのですか・・・?」
「お母たま・・・」
ハムスター用の豪華なドレスに身を包んだ綺麗な毛並みのハムスターが、心配そうにハムちゃんの顔を覗き込んだ。
「ハムちゃん・・・ご主人様とお友達のことを思い出していたのね・・・。お母さんには分かりますよ・・・。アッテンボローさんとケツネさんだったかしら?」
「ご主人たまの名前は歩で、ケツネではなくてキツネさんなのハム~」
どうやらハムちゃんのお母たまは人の名前を覚えるのが苦手らしい。
ハムちゃんの訂正に
「あらあら・・・私としたことが・・・」
とどこかから取り出したヒマワリの種の柄の扇子でお上品に口元を隠した。
「ハムちゃんは、夜空のお星さまが願い事を叶えてくれるっていう話を覚えているかしら?」
「あいッ。眠る時にお母たまが良く話ちてくれまちた」
「フフフ・・・。それじゃあお星さまにお願いしてみましょう。お母様も一緒に祈ってさしあげますわ」
お母たまのそんな提案に、ハムちゃんは満天の星空を見上げた。
そして目を瞑り、お手々を合わせて一心にお星さまに祈った。
「お星たま・・・どうかご主人たまとキツネさんに会えますように・・・」
「お星さま・・・ハムちゃんがアユマードさんとコツネさんに会えますように・・・」
ハムちゃん達の頭上で、願い事を叶えるかのように星がキラリと輝いた。
☆彡☆彡☆彡
~ 歩とヨーコ
仕事が終わったら直ちに家に帰りはなちゃんの散歩をする・・・。
それが歩の日常であった。
特に転勤してきてからというもの、ヨーコに彩、勇太と出会い仲良くなり、おのずと飼い犬達の仲も良くなり、はなちゃんのためにも何とか彼等の散歩時間に合わせようとするのだが、なかなか思う様にはいかない。
特に彩と勇太は幼いため、平日のそれこそ十八時過ぎに顔を合わせることは稀であった。
聞けば、若年層組は学校が終わる十六時くらいに散歩をしているらしく、仕事をしている歩がその時間に間に合わせることは不可能であった。
今日の話をするならば、はなちゃんと共に家を出て、馴染みのベンチに腰掛けているヤトとライと合流し、スーパーの早番勤務であったヨーコとゴン太と連れ立って散歩を終わらせた。
そして今に至る。
時計の針は二十一時を指し、夕食とお風呂を終えた歩は八畳のリビングでパソコンをいじっていた。
その足元でははなちゃんが一生懸命に毛繕いをしている。
そんな愛犬の様子とモニターとを交互に眺めながら時間を過ごしていると、聞き逃してしまいそうな程の小さな音で玄関のドアをノックされた。
コンコン・・・。
「ん・・・?」
空耳かな・・・?
と歩は思った。
こんな時間に自分の部屋を訪ねて来る者に心当たりがなかったし、用があるのならばノックではなく呼び鈴を鳴らすのが普通だ。
だから聞き間違いかとも思ったのだが、愛犬のはなちゃんまでも視線を玄関に送り、パタパタと尻尾を振っていたものだから、やはり誰かが来たのだと確信することができた。
コン・・・コンコン・・・。
遠慮がちなノックはさらに続いた。
そこでようやく歩が立ち上がると、はなちゃんも起きだし、体全体を使って目一杯の伸びをした。
尻尾は未だにパタパタと振られている。
ー 一体誰なんだろう・・・?
はなちゃんが尻尾を振るということは、少なくともはなちゃんの知り合いであるはずだ。
特に警戒もせずに玄関のドアを開けると、夏の夜の蒸し暑さの中、赤ちゃんを抱くためのベビーキャリアを背負ったヨーコと、その中で静かに寝息を立てる老犬ゴン太の姿があった。
ちなみにこのベビーキャリアは、ゴン太とヨーコのために歩がプレゼントした物だった。
「あっ・・・」
歩と目が合うとヨーコは恥ずかしそうに俯いた。
胸の前で指を組んでは、何やらモジモジとしている。
いつものヨーコとはどこか様子が違う。
様子が違うと言えば、外見も変であった。
風呂上りなのだろう、生乾きの茶色の髪からはシャンプーの良い香りが立ち込め、それでありながら乱雑に乱れ、服もピチピチのルームウェアで、胸の部分に描かれた可愛らしいウサギさんと思わず目が合ってしまった。
「よっ・・・ヨーコちゃん?」
予想外の訪問者に歩は驚いてしまう。
ヨーコといえば勇太に彩、それにヤトと仲が良く、歩はあまり話をしたことがなかった。
それどころか、露骨に避けられているというか、距離を置かれているというか、話しかけても無視されるか一言二言返される程度の関係であった。
いつもゴン太を背負って帰るヨーコが大変だろうと、ベビーキャリアをプレゼントした時も「・・・ありがと」と聞こえない程の小さな声で礼を言われたくらいだった。
ヨーコは歩のアパートから十分程の所に住んでいて、お互いに部屋の場所まで知ってはいるのだが、まさかこんな時間に訪ねて来るとは思ってもみなかった。
「とっ・・・取り合えず中に入ってよ・・・」
歩がそう促すと、ヨーコは涙目でコクリと頷いた。
☆彡☆彡☆彡
ー 一体ヨーコちゃんの身に何が起こったんだろう・・・?
ヨーコを部屋に通し、麦茶を用意した所で歩は考えた。
リビングに通されたヨーコは、背の低いテーブルの前にチョコンと座り、何やら落ち着きなく視線だけをキョロキョロとさせていた。
はなちゃんはというと、お気に入りのフカフカベッドを老犬であるゴン太に譲り、そのすぐ側でパタパタと尻尾を振っていた。
「アイツが・・・出たの・・・」
麦茶を容れたグラスの表面に、4~5滴の水滴が付いた頃、ヨーコが重い口を開いた。
その声はかすれたように上ずり、自身を抱き締めるように両腕を組むと、恐怖に怯えるかのようにその身を震わせた。
「アイツ・・・って・・・?」
歩はゴクリと喉を鳴らしながら先を促した。
ヨーコの様子は普通ではない。
もしもこの怯えが、例えばストーカーだとか変質者によるものだとしたら、自分が盾になってヨーコを守ってやらねばと歩は決意していた。
いくら強そうに見せた所でヨーコはまだまだ17歳の少女である。
頼る先もないのであろうし、ならば自分がその役を担わなければ・・・と強い気持ちでヨーコの話に耳を傾けていた。
「その・・・黒くて・・・テカテカしてて・・・この世の最悪な物を集めて鍋で煮込んだら間違って出来てしまったような・・・そんな・・・ヤツよ・・・」
「あの・・・それって・・・ゴキ・・・ッ」
「しッ!!!!」
抽象的な説明から答えを導き出した歩がその名前を口にしようとすると、殺気さえも滲ませたヨーコが凄い勢いで歩の口を手で押さえた。
「呼ぶと・・・出てくるから・・・。アイツ等は呼ぶと出てくるから・・・」
「フゴッ・・・フゴッ・・・」
ー ペットじゃないんだから・・・。
と歩は思った。
昆虫に自分の種族名が分かるとは思えないし、第一その名前は人間が勝手に付けた物で、そもそも日本語を理解出来るはずがないと歩は思ったが、そういう思考が出来ないくらいにヨーコは動揺していて、アイツと呼ぶ昆虫のことが嫌いなのだろう。
さて、その名前をここで書いても良いのだが、不快に思う方もいらっしゃるかもしれないので、便宜上ここでは【黒い悪夢】と字名を付けたいと思う。
ー 【黒い悪夢】か・・・。確かに女の子は苦手かもしれないな・・・。部屋に出て・・・それで逃げて来たって訳か・・・。
歩は一連の出来事を把握した。
ちなみに【黒い悪夢】といえば、数日前にお昼寝をしているはなちゃんのオデコの上で翅を休めていたものだが、これはヨーコには口が裂けても言えない秘密の話なのである。
「アタシだって必死に闘ったんだ・・・だけど・・・アイツは天井に逃げたかと思ったら、アタシに向かって飛んできて・・・」
ヨーコが悔しさと恐怖とを織り交ぜた口調で死闘の様子を語り出す。
眉間と鼻先に深いシワを作り、その表情は恥辱と屈辱にまみれた、と言った表現が当てはまる程に歪んでいた。
確かに【黒い悪夢】の必殺技である【飛翔】は、対象者に恐怖と混乱を与える。
かくゆう歩も、もしも【黒い悪夢】がその黒々と鈍く輝く翅を羽ばたかせて向かってきたのならば「うおッ!?」と悲鳴にも似た声を上げてしまうかもしれない。
それだけの破壊力が、この必殺技には秘められていた。
それにしてもヨーコのこの様子はどうであろうか?
いつの間にかヨーコの両眼は固く閉じられ、その端からは今にも零れ落ちそうな程に涙が溜まっていた。
ー これは・・・僕が退治してあげないと・・・。
歩はそう心に決めると、すぐにそのことをヨーコに伝える。
「ヨーコちゃん・・・安心して・・・。僕が・・・僕がヨーコちゃんの家に出現した【黒い悪夢】を退治してあげるから・・・。だから・・もう泣くのはやめて・・・」
出来る限りの優しい声でそう語り掛けると、家の中でも特に高級なタオルをヨーコに差し出した。
「あの・・・あの・・・」
涙を拭いながらヨーコは頬を赤らめて俯いた。
そして聞こえるか聞こえないか分からない程の小さな声で「・・・ありがと」と呟いた。
☆彡☆彡☆彡
ー これは酷い・・・。
ヨーコの住むアパートの玄関が開けられた時、歩はそのあまりに凄惨な光景に思わず息を呑み込んだ。
靴箱は倒れ、玄関には靴が散らばり、台所の床には割れた食器やら冷凍庫が倒れ込み、足の踏み場も無い。
白い壁に突き立てられた包丁が【黒い悪夢】とヨーコの死闘の凄まじさを物語っていた。
「ど・・・どう・・・?・・・居る?」
すっかり歩の背中に隠れてしまったヨーコが、おずおずと口を開いた。
ー そりゃあ家のどこかには居るんだろうけども・・・。
ヨーコの住むアパートへ向かう途中の道すがら、歩はヨーコと幾つかの会話をしていた。
部屋の窓は開けていたらしいが網戸が張ってあるし、玄関のドアも当然閉められていた訳で【黒い悪夢】が外に逃げ出す場所はない。
奴は今もヨーコの部屋のどこかで、その長い触覚をヒクヒクと動かしながら息を潜めているのだろう。
「はなちゃんは危ないからまだ入っちゃダメだよ?」
「ワオン?」
歩ははなちゃんにそう声をかけると、取り合えずは床に散らばった割れた食器類の片付けを始める。
もしも小さな破片が足にでも刺さったら大事である。
歩の意図を察知したのか、ヨーコが掃除の手伝いをしてくれた。
しかしその挙動は不審そのもので、絶えず部屋の隅や天井に視線を向けていた。
やがて片付けの方も一段落し、歩は改めてヨーコの部屋を見回した。
女性のプライベートな空間を観察するのは憚られたが、事が事である。
とはいえヨーコの部屋はキッチンのスペースと、八畳の一間がある小さな一室であったから、潜伏する【黒い悪夢】を発見することは容易いことのように思われた。
「うおッ!?」
歩が思わず声を上げた。
飼い主の言いつけを守り、玄関でお利口さんの様にお座りをしているはなちゃんではあったが、なにやらそのオデコの上で蠢く黒い影の姿があった。
当のはなちゃんは呑気なもので、歩と目が合ったのが嬉しいのかパタパタと尻尾を振っている。
突如、歩の背後から身の毛もよだつ程の殺気が立ち上った。
「ここでぇ~・・・あったが百年目ぇ~・・・」
片手に殺虫スプレーを携えたヨーコが、その細い体にメラメラと殺気を漂わせながらスプレーの照準をはなちゃんのオデコに合わせる。
「ヨーコちゃん待ってッ!!」
慌てて歩がヨーコの体を羽交い絞めにした。
【黒い悪夢】は、はなちゃんのオデコに居る訳だが、そこに向けて殺虫スプレーを吹きかけたのならば、当然はなちゃんにもかかってしまう。
歩は愛犬のために身を挺してヨーコを止めた。
「離せッ!!離しやがれコンチクショウッッ!!!」
「てやんでぇべらんめぇッ!離すものかよッ!!」
ヨーコの勢いに何故か下町口調になる歩なのであった。
二人が揉み合っている間に、【黒い悪夢】は再びその姿を消した。
歩は未だ興奮するヨーコを何とかなだめすかすと、すぐに追跡を始める。
ー 早く解決しないと・・・危ない・・・。具体的には僕とはなちゃんの身が危ない・・・。
【黒い悪夢】を前にしたヨーコの取り乱しようは、予想の遥か上を行った。
現に先程の揉み合いでもヨーコは女性とは思えない程の力で歩を振りほどこうとしたし、歩の右腕にはその際にヨーコの爪によって付けられた一筋の細長い傷が生々しく残っていた。
もしも【黒い悪夢】の駆除が遅れ、あるいはさらにヨーコが取り乱してしまった場合、果たして自分に少女を止めることが出来るのだろうか?
そして最悪にも止められなかった場合、自分と愛犬の身にどれだけの不幸が襲い掛かってくるのだろうか・・・。
蒸し暑い夏の夜であるのに、想像するだけで歩の背筋に冷たい汗が流れた。
ふとはなちゃんに視線をやれば、はなちゃんは何やら天井を見上げていた。
それにつられて何の気なしに天井を見やると・・・奴が居た・・・。
歩はヨーコから没収した殺虫スプレーを奴へ向ける。
「もう・・・終わりにして・・・」
歩の背中にその身を寄せたヨーコが、涙声で懇願する。
歩とて、悲劇しか産まないこの闘いを長引かせるつもりは毛頭ない。
思えば今夜は色々な事が起こった。
ヨーコが歩の家を訪ねて来たのも初めてだったし、はなちゃんは危うく殺虫スプレーをかけられそうになったし、歩の右腕には擦過傷が刻まれたし・・・。
なるほど【黒い悪夢】とは言い得て妙である。
あるいは今夜、この二人の若者と、愛犬達にふりかかった災いこそが【悪夢】だったのかもしれない。
歩が殺虫スプレーの引き金に指を掛ける。
そうしてヨーコと共に【悪夢】から目覚めようという時、【黒い】が最後の抵抗を見せた。
奴はあろうことか翅を広げ、歩に向かって決死の【飛翔】を敢行してきたのだ。
あるいはそこで歩が引き金を引けていれば、事は済んでいたのかもしれない。
しかし突然のことであり、歩は攻撃に回ることができなかった。
そうこうしているうちに【黒い悪夢】は歩の胸元に無事着地を果たす。
遠目から見れば、何か黒いブローチでも身に着けたのかと思われるくらいに【黒い悪夢】は歩の胸元で堂々としていた。
その瞬間、ヨーコが思わぬ行動に出た。
彼女は白い壁に突き立てられた包丁を乱暴に抜くと、髪を振り乱し、病気の山犬の様にゼェゼェと肩で息をしながら歩と向き合った。
「あ・・・アンタを殺して・・・アタシも死ぬんだ~ッッ!!!」
恐らくヨーコの精神の許容量は、【黒い悪夢】の【飛翔】によって超過してしまったのであろう。
駆除の対象がいつの間にか歩に変わってしまっていた。
「おっ・・・落ち着くんだヨーコちゃんッ!自棄になっちゃダメだッ!」
包丁を構え、ガタガタと震える白い手の上に、歩が両手を被せる。
「うぎゃ~~ッ!!来るなッ!!来るな~~~ッ!!」
「取り合ず包丁を降ろそうッ!落ち着いてッ!ほらッ深呼吸をしてッ!」
ヒッヒッフ~~・・・と歩が呼吸をしてみせる。
ちなみにこの呼吸は深呼吸などではなく、ラマーズ法と呼ばれる出産時の呼吸法であるのだが、歩にしてみても焦りと混乱で到底落ち着いているとは言い難い状態であった。
「「ヒッヒッフ~~・・・」」
ともあれヨーコはこの呼吸法で落ち着きを取り戻したらしい。
包丁を握る手からは力が抜け、カランと音を立てて床に落ちた。
しばし二人は見つめ合った。
例えばここが華やかなイルミネーションの彩るデートスポットの様な場所であったのならば、さぞやロマンティックな光景であっただろう。
しかしここは物の散乱したヨーコの部屋であり、【黒い悪夢】との闘いが続くいわば戦場であった。
戦場にラブロマンスは必要ない。
歴戦の有翼馬の騎士に言わせれば、戦場においては一瞬の油断が命取りになり、悲惨な結果を招くものなのだ。
モゾモゾ・・・という不快な感触で歩は我に返った。
手の上を動き回るモノからもたらされる感触に、これが夢であってくれと強く願った。
【黒い悪夢】は、手と手を握り合う若者達を祝福するかのように、歩の手の上に居た。
脂ぎったその身をテカテカと輝かせ、何かを物色するかのようにしきりに触覚を動かしている。
歩は恐る恐るヨーコの表情を伺った。
あるいはヨーコがそっぽを向いていてくれていれば、まだやりようがあったのかもしれない・・・。
ヨーコは握り合う手をガン見していた。
もうこれでもかというくらいガン見していた。
人の眼がこれほどまでに見開かれることを、歩はこの時に知った。
見開かれた両眼は、瞬きも忘れただ【黒い悪夢】の行方を追っていた。
左に少し動けばヨーコの両眼の黒目もそれを追うし、右に動けば機械の様にそれに倣った。
ー ・・・そういえばこんなホラー映画を観たことがあったっけな・・・。いや、あれは漫画だったかな?そうそう、観たい映画があったんだった・・・。今度借りてこよう。あれのタイトルはなんだったっけ・・・。確か・・・。
歩は完全に現実逃避をしていた。
やがて訪れる最悪な事態に、少なくとも数秒後には訪れるであろうその事態にどう対処すれば良いのかまるで分からなかった。
「うっ・・・うう・・・」
ヨーコは瞼を固く結ぶと、ハラハラと涙を流し始めた。
「もう・・・終わりだ・・・何もかも・・・」
「ヨ・・・ヨーコちゃん・・・」
歩にはヨーコにかける言葉が見つからなかった。
この世の終わりの悲鳴を上げ、床に落ちた包丁を拾い上げ、闘牛の様に暴れる未来を予想していた歩は、ただただ涙を流すヨーコに戸惑いを隠せずにいた。
予想外の反応を見せられた時、人は混乱するか冷静になるのかの二択だとしたら、現状の歩は間違いなく後者であった。
嵐の海のように色々な感情が入り乱れていた頭の中が急速に鎮静化され、風も吹かない凪の状態へと落ち着いた。
改めて握り合う手を見やれば、既にそこに【黒い悪夢】の姿はなかった。
「ヨーコちゃん・・・取り合えず手を洗おう・・・。【黒い悪夢】は雑菌とか色々と媒介してるかもしれないから・・・取り合えず・・・手を洗おう・・・」
「うっうっ・・・」
涙をしゃくり上げながら少女はコクコクと頷いた。
そして二人で洗面台の前に立ち、これでもかとハンドソープを使って手を洗った。
そんな飼い主達の様子を見守っていたはなちゃんが、ふと換気扇に目をやれば、隙間から【黒い悪夢】が外へと出て行くのが見えた。
はなちゃんには、なぜ歩やヨーコがこれほど騒ぐのか理由が分からなかった。
虫は虫であってそれ以上でもそれ以下でもない。
見てくれだとか、気持ち悪いからだとかの感情的な否定もはなちゃんには分からない。
テントウムシもバッタもセミもカマキリもクワガタも【黒い悪夢】もはなちゃんには等しく虫なのだ。
玄関では、既にゴン太が寝息を立てていた。
飼い主達の手洗いは、どうやらまだまだ終わりそうにない。
「ワフゥ~・・・」
はなちゃんは一つ欠伸をつくと、老犬の隣に寄り添って眠りにつくのであった。
大切な読書の皆様へ
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是非是非お願い致します。
今日が貴方にとって良い日でありますように。




