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没落・躁鬱病  作者: 若者研究家
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恥を偲んで

思えば、苦難の人生でした。

小6の時に親友が中学受験をするということを知り、慌てて進学塾に入ったものの、同じ中学には勧めず、

私は二流の清風中学校というところにすすむことになりました。

毎日、お経を唱える大阪では有名なブラック校則満載の私立です。私は裾をバリカンで刈るという校則にどうも納得がいかず、思春期なのに暗い中学生でした。憂さ晴らしは、人の財布を盗むこと。きっかけは、ボーイスカウトで自分の財布が盗まれたことでした。中学一年生の体育の時間に、財布を預ける袋を、まるごと盗みました。しかし、その時は、罪悪感があったのか、担任の先生に、勝手にカバンに紛れ込んでいたという嘘をついて乗り切りました。しかし、成功の味を覚え、中学二年生の終わりまでで合計6万円程、人の財布から金を盗みました。中学三年生になって、夏休みに金髪にしました。地元のヤンキーたちも一目置いて、鼻高々でした。しかし、数日後、毒親の母に丸坊主にしてこい、でないと祖母の家には連れて行かないといわれ、祖母が好きだった私は、地元の桜井から少し離れた橿原まで電車で赴き、散髪屋の兄さんに、ケンカの罰だ、と嘘をついて丸坊主にしてもらいました。それから、私に一目置いていた地元もヤンキーのボスは私の事を鼻くそと呼ぶようになりました。中学三年生の正月、親友が多数の他中学の受験生に対して因縁を吹っ掛け、暴力をふるいました。僕も、もう一人の友人も警察に連れていかれ、補導されました。そして、高校一年生の4月には、単車の窃盗と無免許運転で親友と、小学校のときに仲の良かった他の親友二人のグループ4人が全員、警察に捕まりました。5月の裁判で不起訴となりましたが、起訴になれば鑑別所行きでした。今回は親の保護の下で観察処分とするが、次に捕まったら鑑別所に行くことになると念を押して、裁判官から言われました。

その後、全員の保護者で話し合い、未成年の間は、親友4人組は解散させるという方針になりました。二十歳をこえれば、自由だともいわれましたが、実質の仲良しグループ消滅でした。

僕は、そのころから高校の友人の影響で格闘技に興味を持つようになりました。前田日明の自伝を読んだり、リングスのビデオテープをみたり、大仁田厚のビデオテープを見たり、中でもリングスに一番興味を持ち、高校の同級生と学校のトレーニング施設内でスパーリングをしたりしました。高校一年生の10月に、とうとう我慢が出来ず毒親の母に頼んで極真空手を習わせていただくことになりました。最初は熱心に稽古にも行っていたのですが、高校二年生の7月くらいからさぼるようになりました。実は高校二年生の春から鬱と躁を繰り返すという現象が始まっていたのです。最初は、なんかすごく落ち込むなあ、くらいの感覚でした。しかし、それが、病気だとは気づかず、学校を休んでは家の近くの公園で本を読んで過ごしていました。あれこれと夢想しました。暴走族を作ろうかなとか、親友とこの公園で野宿したことを思い出したり、単車の免許が取りたい、雲のように自由に生きたいなど。

大阪への通学電車にも疲れていたのでしょう。週の3日か4日は、この自宅近くの公園で夕方まで過ごしました。

時にはヤマビコ遊びをすることもありました。僕が住んでいる新興住宅街は、山の中にあったので、

返ってくる声が良く響きました。岡本太郎氏の著書である自分の中に毒を持て、という本や、三島由紀夫氏の葉隠入門、を熟読していました。

そんな中、6月にデビューします。眉毛を数ミリの薄さにして午後から登校しました。

学校の出席日数はどんどん足りなくなってゆき、僕は翌年、1月にこのままだと留年するかもしれないよと担任の教師から宣告されました。

2月の後半からです。完全におかしくなったのは。テレビのつぼという深夜番組があったのですが、テレビの中のぜんじろうと大桃美代子が僕に話しかけてくる感じがするのです。

そして、あさの9時半に母がパートでマクドナルドに出向くのですが、眠ってしまうと、そのまましんでしまうのではないかという妄想にとらわれました。もちろん睡眠不足だったのでしょう。

昼夜逆転の生活も良くなかったんだと思います。気分が落ち込む原因は些細なことばかりでした。

そして、問題が解決すると胸に爽快感がスーッと沸き上がりました。時には万能感もありました。

僕は怖がりでしたが、幽霊を見たかもしれないと言った妹に、俺の手から炎を出して消滅させてやると真面目に守ろうとして言うほどでした。自分が偉くなった気になり、他人のライターをいきなり、つぶすこともありました。そんな僕は身体の消耗と精神の消耗に耐えられず。静かなところで休みたいと思いました。それが、病院に連れてって、という言葉でした。

1994年3月5日、僕は奈良県の信貴山病院の保護室に幽閉されることになりました。

映画のエクソシストにでてきそうな不気味な部屋でした。

その保護室では黒髪ロングで赤いワンピースを着た幽霊の後姿を見ましたが、ついに見たか、と思っただけで、特別怖い思いはしませんでした。幽霊から目を離し、天井を見て瞼を閉じると、いつの間にか眠っていました。

5月5日だったと思います。初めての外泊を経て、そのまま僕は退院になりました。

6月には令和天皇夫妻を信貴山病院に向かう途中で謁見させていただきました。

そして、7月、清風高校の友人たちに会いに大阪の街に出ましたが、もう僕には友人でもなく、楽しい街でもなくなりつつありました。周りの友人たちは、大人になり、僕は浮いていたのです。

徐々に家に籠るようになり、10月には完全に籠る生活でした。それでも友人たちは幾度となく声をかけてくれて、11月と翌1995年1月、3月には時間を共有しました。

両親が配慮してくれ、4月から定時制に通うことになりました。毎日朝まで録画していたビデオを見て、昼すぎに起きる、そして学校に行くことを一年間繰り返しました。調子が悪いときは休みました。薬はデパケンやらフルメジンやらアキネトンやらを処方してもらっていたと思います。

Drも僕が未成年なので、慎重に薬を選んでくださってました。何回もチェンジしたような気がします。安定してきたのは数え年20歳の時です。感情がなくなりました。大袈裟ですが、大きな感情の揺れ幅がなくなってきたのです。しかし、年に数回以上は激高することもあり、友人も自然消滅してゆき、孤独でもありました。そして、高校1年生の時に43キロだった僕の体重は73キロまで太っていました。

多感な時期ですから外見にコンプレックスをもつようになりました。父の痔の手術に付き添った時も看護師さんに馬鹿にされているような気がしました。清風高校を卒業して数え年20歳で浪人中ですという情報から僕のことを判断して「あら、凄くレベルの高い大学を狙っているのかしら。」と仰りました。

その時の顔は今でも忘れられません。悪意があろうが、なかろうが。



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