八限目 〜顧問登場〜
男は小麦色の肌に長めの癖のある黒髪を後ろで縛り、体格にピッタリの黒の長袖に紺のデニム。そして靴はスニーカーという……とてもラフな格好をしている。
顔の右目から右頬にかけては、黒の刺青が入っている。
男は入ってくるなり、瀬辺くんの持っていた入部届けを取り上げた。
「何? 君、入部したいの?」
「は、はい……!」
男はそれを聞くなり、ズボンのポケットから印鑑を取り出す。
「あーうん、分かったー。はいはい」
そしてあろうことか……その印鑑を、瀬辺くんの入部届けに、何の躊躇もなく押した。
「ああああああっ!?」
「なっ……!?」
俺と桔梗は、同時に戦慄する。
それに対して男は、どこかボーッとしたような雰囲気で……。
「ほれ、千里ー。顧問印を押したから、部長印も押しておけよー?」
今、この男は何と言ったか?
そう、この男は『顧問印を押した』と、今言ったのだ。
何を隠そう。この男こそが、我らが『イカ部』の顧問、河樹 月春。二十五歳、独身。どこからどう見ても、教師に見えない古典教師。
俺たち……というより、ほとんどの生徒たちから『河樹』と呼び捨てにされている。
本人は「え~? 先生って言ってよ~」と言うが、大体の生徒から「なんか言いたくない」という理由で、ことごとく却下されている。
まぁ、それは俺たちも例外でなく……この何とも言い難い独特のマイペースな雰囲気がたまに無性に腹立たしく、例に習って『河樹』と呼び捨てにする理由の一つとなっている。
そんな河樹は、猫山先輩に瀬辺くんの入部届けを渡す。先輩は受け取ると、「は~い♪」と言って、元気よく返事をしては部長印を押した。
「何ってことをしてくれたんだ! 河樹! こんな変な部活に入れて!!」
「お前はアイツの、平穏な日常を奪う気か!?」
これまた例のごとく。俺と桔梗は同時に、河樹へと抗議した。
そんな俺たちとは裏腹に、河樹はごく当たり前だと言わんばかりに言う。
「えぇ~? だって、本人の意思だし、俺らに止める権利なんてないよ? ……ってか、変な部だっていう自覚はあんのね、お前ら」
「「……くっ!!」」
くっ、正論過ぎて言い返せない。
俺たちが反論できずに口ごもっていると、猫山先輩が瀬辺くんの肩を『ちょいちょい』と、軽く突っつく。
「あ、ちなみに俺が部長~。よろしくな、涼星♪」
俺たちのことなど、完全に無視して……猫山先輩は、勝手に自己紹介を始めている。
「あ……は、はい!! よろしくお願いします」
もし瀬辺くんのこの入部が、実は何かしらの罰ゲームによるものだったら……この罰ゲームはあんまりだ。
入ってくれたのは嬉しいんだが……同時に嬉しくもないとも思う。俺はそんな複雑な気持ちを抱えながら、盛大なため息をつく。
そんな俺の気持ちなど、露知らず。
桔梗は『ここまでくれば、最早どうでもいい』と言わんばかりに、気づけば実験を再開している。
河樹はというと、勝手に戸棚から茶菓子を取り出し、そのまま空いているソファーに座っては、何食わぬ顔をしてポリポリと食べだしている。
「優心ー。俺にもお茶を淹れてくれよー?」
「ふざけるな。自分で淹れろ」
「えぇー?」
いつも思うのだが……コイツは本当に教師なのだろうか?
そして猫山先輩はというと、どこから取り出したかもわからないリボンを、瀬辺くんのパッツンな前髪に結んでは、さっそく遊び始める。
リボンをキレイに結び終えた先輩は、俺たちを見て頬を膨らませる。
「ほら、優心~。桔梗も~! 折角なんだから、涼星に自己紹介してやれよ~」
猫山先輩にしては、まともなことを言うじゃないか。猫山先輩にしては。
「ねぇ優心、今すごく失礼なこと考えてなかった?」
さすがは猫山先輩、勘が鋭い。……だが俺はただ、大事な事だから二回言っただけだ。何も悪くは無い。
俺は少し考えた後に、渋々と言った感じで瀬辺くんに自己紹介をする。
「さっきはすまなかった、瀬辺くん。俺は二年生の、宇辻優心だ。一応肩書上、この『イカ部』の副部長をしてる。……で、あっちで実験してるのが、同じ二年の……」
「来栖桔梗だ」
桔梗は試験管から目を離さずに、淡々と名前だけを述べた。
「も~、桔梗。そんなんじゃダメだぞ☆ もっと可愛げをもって自己紹介しないと! ほらほら、俺みたいに笑って、笑って~♪」
「猫山先輩、ほどほどにしないと……」
俺が制止するも、猫山先輩は桔梗の頬を引き上げて、無理やり笑顔を作ろうとさせる。そして『イラッ』ときたのか……桔梗は無表情、かつ、無慈悲に試験管の中身を猫山先輩の顔へと近づけた。
「あああああああっ! 鼻がぁぁぁぁああっ! 目がぁぁぁぁあああ……っつ!!」
猫山先輩は物凄い反射神経で顔を抑えては、床に突っ伏して悶える。あぁ、言わんこっちゃない……。
「お前ら本当に仲良いよなー」
河樹が相も変わらず、茶菓子を食べながら二人を見ている。
俺は頭を抱えながら、本日何度目かのため息をつく。
この二人のやり取りに、瀬辺くんは若干引き気味だった。
「えーっと……悪い、瀬辺くん。変なところを見せてしまったな。あの兄妹に関しては、あれが日常茶飯事というか、お約束みたいなもんだから。……慣れてくれとしか言えない」
「い、いえ。大丈夫です……って、え? 『兄妹』?」
しまった、つい口が滑ってしまった。河樹を含む、ココにいるメンバーは猫山先輩と桔梗の関係を知っているが……瀬辺くんはそもそもこの学園に入ったばかりで、この二人の関係や事情を全く知らないのだ。
他所の家庭事情を、他人の俺が話すのは失礼だ。どう説明をしたものか。
それに、俺が知らないだけで、かなり複雑な家庭環境のようだし……。
俺が悩んでいると、意外にも助け舟を出してくれたのは、顧問である河樹だった。
「あーあー、それはあれだ。千里も桔梗もな、そりゃあ聞くも涙、語るも涙な話でな。それはそれはもう……えーっと、なんだっけ? 富士山よりも、高ーく? 海は……そうだな、適当に日本海溝くらいでいいか? うん、それで行こう。……えーっと、つまりはなんだっけ? ……あぁ、そう。だから、ようはそれよりも深ーいってことにしておこう。うん。それでえーっと、つまりはなんだっけ? あー……何かもう説明するの、面倒くさいな……んー、まぁそんな感じで。色々と複雑な家庭の事情や問題で、今は別々の家で暮らしているんだ。二人を可哀そうだと思うなら、そっとしておいてやれ」
最初から訳が分からない上に、途中からかなり投げやりな説明だ。これで一体、誰がどう納得を……。
「な、なるほど……! 分かりました!!」
「納得するの!?」
瀬辺くんの素直さに、思わずツッコミを入れてしまう。
「はい! 来栖先輩も、猫山先輩も。河樹先生のお話で、大変な思いをされていることが少しだけ分かりました!!」
俺は少しどころか、全く分からなかったけど!?
「あはは、君は素直だねぇー。千里がいじりたくなる気持ちも、少し分かるわぁー」
「ねぇ~? 分かるでしょ~? さっすが、河樹~。話が早~い♪」
「だろー?」
いつの間にか復活した猫山先輩が、河樹の意見に同意する。そして二人して、仲良くハイタッチしながら「「ね~?」」と言ってるあたり……根本がマイペースという似た者同士、気が合うのだろう。
「河樹……アンタそれでも、一応教師だろ。そろそろ仕事に戻ったらどうだ?」
「えー、俺も学生気分でもう少し混ーざーりーたーいー」
「帰れ!!」
俺が怒鳴り返すと、河樹は軽く口を尖らせる。しかしその表情には反省どころか、生徒に怒鳴られたことに対しての不快感すらも抱いていない。……つまり、河樹自身。全くと言っていいほど、何とも思っていないのだ。
その証拠に、何食わぬ顔で、再び茶菓子を食べているのだから。
猫山先輩はそんな河樹を軽く笑いながら、瀬辺くんの横に座る。そして瀬辺くんの首に腕を回しながら、先輩は唐突に切り出す。
「……で? 冷やかしではないお前は、何かできるのか?」
「えっ……?」
突然の猫山先輩の質問に、瀬辺くんは虚を衝かれたように、軽く固まってしまう。
先程までの先輩からは想像できないほどの、その真剣な声色と無の表情に。瀬辺くんを除いた全員が、本題に入ったことを悟る。
「え……っと……」
何が起きたのか分からない瀬辺くんは、取りつく島を求めて俺たちを見る。
「言っておくが。部の活動内容は、他言無用だぞ?」
茶菓子のカスを口元につけた河樹が、軽く首を掻きながら続ける。
「もし他言したり、使えないと判断したら。どんな理由があろうと、即・強制退部」
桔梗は無表情のまま、そのあとを引き継ぐように。
「無論、記憶も消させてもらう」
ここまでくると、さすがの瀬辺くんも、戸惑いと恐怖が色濃く浮かぶ。そして、助けを求めるように、俺へ視線を向ける。
そんな瀬辺くんの肩に、俺は同情の意を込めながら手を置き、とどめの一言。
「まぁ、あれだ……ドンマイ」
なんせこれが、ウチの部の決まりなんだ。
「……と、いう訳で! ようこそ、我が『イカれた奴等の集まる部』。略して『イカ部』へ!!」
いつもの表情に戻った猫山先輩が、両腕を広げて瀬辺くんを歓迎する。
しかし、一方の瀬辺くんはというと、小さく悲鳴を上げている。
そんな瀬辺くんに、俺は再び同情を込めてため息をつく。
グッドラック、瀬辺くん。
君の活躍を期待しているよ。