四限目 〜特異体質〜
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「ただの貧血ね。あと、ちょっと睡眠不足かしら?」
先生は眼鏡の位置を整えながら、そう答えた。
桔梗を背負って保健室へと走った俺は、先生のその一言で命に別状はないということが分かり、心底安心した。
……それと先生、最後のは聞かれても、俺は困ります。
まぁ原因は大方、先程の得体のしれない怪しい煙と臭いが原因だろう。
そんなことは言えるはずもなく、「は、はぁ……俺には何とも……」と、歯切れの悪い相槌を打って流す。
保健室の先生……養護教諭の伊椰子 智由先生は、何を隠そう、我らが『イカ部』の副顧問である。
長い髪を後ろで束ね、常に優しい笑みを浮かべている。
副顧問ということもあり、色々と事情を知っている先生は、時折あの二人に振り回されている俺の相談にもよく乗ってくれる。
あのヘンテコな部活にとってとても貴重な、常識的で、優しい先生だ。常識的で、優しい。……大切だから、あえて二回言った。
そしてこの学園のOGでもあり、部活動は意外にも、元オカルト研究会に所属していたらしい。
先程話した、あの旧校舎を部室かわりに使っていた生徒の一人だ。
「とりあえず、少し様子を見ましょう。宇辻くん、君はまだ保健室にいる? 先生はちょっと会議があって、出てくるんだけど……」
「あ、大丈夫ですよ。桔梗は、俺が見てます」
先生は、少し考えるそぶりをすると。
「まぁ、宇辻くんなら大丈夫でしょうし……。じゃあ来栖さんの事、頼むわね」
「はい、任せてください」
「三十分くらいしたら、先生は戻ってくると思うから。それまで、来栖さんをよろしくね」
そう言って立つと、先生は保健室を出て行った。
しかし、「見てます」とは言ったものの……何もすることがなくて暇だ。
桔梗も今は寝ているし、俺は今『安全』である。
何故かって? それはその内、嫌でもわかるさ。
俺は椅子に座って、桔梗を見守る。
こうも暇になるのならば、先生が出ていく前に部室から鞄をとってきて、弁当を食ったり読書をして時間を潰すのだった。
……だが、そんな考えを吹き飛ばすように、突然の眠気に視界がゆがむ。
「くそ……またか……っ!」
眉間にしわを寄せながら、俺は眠気に抵抗しようと試みる。
――――ある時から、激しい眠気に襲われるようになった。
小さい頃はこんなんじゃなかったし、いつからこうなったのかも、俺自身よく分からない。
一時期は『ナルコレプシー』と言うものも疑ったが……どうもそれとも違うらしく、結局、今の今まで原因はわからなかった。
ただどこか、俺の中に謎の『空白の時間』があり、それがいつ頃なのかがどうしても思い出せないのだ。
眠いのを我慢すれば我慢するほど、眠気と目眩はどんどん増す。
酷い時には激しい頭痛に襲われ、そのまま眠ったように意識を失う。
屋内なら、そのまま眠ってしまっても構わないのだが、屋外や何かしている時はそうもいかない。
俺は今、目の前の桔梗を見ていなくてはいけない。見ていなくてはいけないのだが、眠気がそれを許さない。
「何なんだ、よ……これは……っ!!」
視界が歪み、ぼやけ始める。
《……いで……お……いで……》
頭の中に、何かが流れ込んでくる感覚がする。
「……っ! 頭が……!!」
頭痛と共に、脳裏に何かがよぎる。
そこで俺は、意識を失った。
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気が付けば、そこあ真っ白な光に包まれていた。
「あぁ……また同じ夢か……」
あの酷い眠気と頭痛の後は、必ずここに来る。
何もない、殺風景な場所。
ただただ一面に広がる、真っ白な世界。
俺はため息をつくと、とりあえず歩いてみる。
……だが景色は相変わらず白一色で、歩いていたって楽しくもなんともない。
俺は少し俯きながら、耳を澄ましてみる。
……しかし耳を澄ませてみたところで、何もないのだから、何の音も聞こえてこない。
鳥の声も、風の吹き抜ける音も聞こえない。
――――俺は今、どれくらい歩いただろう?
こんだけ殺風景だと、目印になるものがなくて困る。
俺は顔を上げては、辺りを見回す。
――――ふと、あるものに気がつく。
よく見れば、遠くに一本の木が見える。
「……木? そんなもの、今まで……」
そう、そんなものは、今までなかったのだ。
いつもは、ただ何もない、真っ白な世界が広がっている……ただそれだけだった。
だが今回初めて、木が存在しているのだ。
俺は少し、あの気に近づいてみようと思った。
……だがどうしてか、あの木には近づいてはいけない。心のどこかで、そんな気もするのだ。
――――あそこは……あの木は、危ない。
俺の本能が、そう直感した。
――――あそこは危ない。だから近づくな。
だが、それと同時に、あそこに行けば何か分かる気がする。そうも思った。
この謎の眠気と頭痛の原因の……きっかけが分かる気がする。
「少し、だけなら……」
そう自分に言い聞かせて、足を向けようとした。その時――――!
『ダメ、優心。そっちに行ったら、ダメ……!』
どこかで聞いたことのあるような……そんな、柔らかな子供の声が頭に響いた。
慌てて振り返ってみるが、誰もいない。
その瞬間、世界が大きく揺れた。
目の前の景色が、足元から急激に崩れ落ちていく。
俺は無意識に、木の方へと視線を向ける。
意識が途切れる寸前、俺は見た。
木の後ろから、こちらを伺うように立つ、小さな一人の子供の姿を。
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「いぃ……った……っ!?」
首に鋭い痛みを感じ、俺の意識は完全に覚醒した。
何かと思って、苦痛に歪んだ顔で俺は目を開く。
目の前には、眠っていたはずの桔梗の顔があった。
ただ『桔梗の顔があった』というわけではない。
椅子に座っていたはずの俺は、いつの間にか桔梗が寝ていたベッドに押し付けられるように寝かされていた。
そしてどうしてだか……俺の制服のシャツは胸元まで開かれている。そして重さを感じてみれば、腹部のあたりに桔梗がまたがっていた。
これが普通の少年漫画や小説なら、ドキドキの展開だろう。……だが俺は今、別の意味でドキドキが止まらない。
このドキドキはそう……恐怖によるものである。
桔梗はどこから出したのであろう……右手には、注射器を持っている。その注射器の中身は紫色の液体で、見るからに怪しさ満点だった。
そして横から、チカッと何か眩しい光が反射した。目を追ってみると、俺の顔の横には使い終わったのであろう……空の注射器が一本、転がっていた。
全身の血の気が引いていくのが分かった。
――――まさか……俺はあの不気味で怪しい液体を今さっき、注射されたのか……!?
もしかして……いや、確実に一本は打たれたであろう、目の前の注射。
不意に打たれた、何が起こるか分からない注射を……一本目ならまだしも、二本目ともなると、さすがに死ぬだろうと判断した。
俺は顔を真っ青にして、桔梗と注射器に視線を向ける。
「き、桔梗さん!? その手に持っている注射器は、一体何かな……!?」
桔梗は俺を押さえ付ける力を緩めず、注射器を俺の首に近づけながら無表情で答える。
「ん? 気にするな」
「いや! 普通気になるだろ!? それ打たれるのって、どう考えても俺じゃん!?」
最低限、何の成分が入っているのかくらいは知りたいじゃん! 何かヤバいのだったら、嫌だよ! ……いや、ヤバくなくても寝てる間や寝起きに注射を打たれるとか、俺は嫌だよ!!
「じゃ、じゃあ。この横に落ちてる注射器は、何かな……!?」
俺は話を逸らすように、横に転がる注射器に対しての質問をする。
桔梗はというと、今度は猫山先輩顔負けの、爽やかな笑顔で答える。
「ん? あぁ、今優心に打ったやつだよ」
「ですよねぇええええ!?」
爽やかな笑顔で、さらっと恐ろしいことを言うなよ!
「桔梗……っ、離せ!!」
俺は、桔梗が俺を押さえている手と、注射器を持つ手を掴んで離させようと試みる。
しかしあきらめない桔梗は「大人しく実験体になれ!!」などと、ヤバい奴の発言をさらっと言う。
俺は全身全霊の力を振り絞り、「断る!」と桔梗を引きはがすことに成功。
そしてそのまま、全力で保健室から逃亡した。