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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
十二 讃歌
89/89

そしてまた月は満ちる

 また、望まぬ暗闇の中。

 月と共に暗闇に沈んだみちは、長く息を吐く。

 しかしこれこそが、似合いの結果なのだろう。

 引き摺りまわされた、挙句の場所で息をする。

 泣き叫び、必死に逃げ、暴力的に潰された日々。

 人々のために身を削り、心を削り、やはりまた人のために生きる。

 ここまでの物語を逆様に呼び覚まして、みちはふと、頁を繰る手を止めた。

「晴瀬」

 拙いまでの問答無用に、何度も手を引かれてきた。

 強いようで弱いその手が、愚図の自分にはぴったりだった。

 いずれ別れることになろうとも、彼と共に道を歩んでいたならば、もっと真っ直ぐに道を歩めたかもしれない。

 人を忘れぬ胸が、後悔に曇る。

神の力をなぞるが、時を戻すことは当然できない。

「かあさん、かあさん、かあさん」

 遠くで声が呼んでいる。

 ああ、まだ、やり残したことがあった。

 天も地も人も、待ってはくれない。転がるだけの自分に、母神など務まるのだろうか。

 暗闇が、赤に染まっていく。

 皮膚に触れる、温かさ。

 もう、起きなければならないのだ。

「……行かなくちゃ、いけないの」

 みちが赤い闇に問うと、どこからともなく声が返る。


 おかえりなさい。


 ひら、と目蓋の隙間に、一瞬だけその微笑みを見る。

 追いかけるように開いた瞳に映ったのは、日輪。みちはぎゅっと目を瞑る。寝ている間、太陽にさらされていた頬が痛い。

 黒い太陽が目蓋の裏に去るのを見届け、包まれる薄紅の色に息を飲む。

 満開の枝垂桜の上に、彼女は立ち上がった。

 春の陽が降る大地に、銀の身体で滑る川。遠く青空と溶け合う海。下から風が吹き、桜の花が、青い空に舞い上がった。陽光をいっぱいに受けた黒い瞳は、ちらちらと瞬く小さな光を追いかける。

「……ただいま」

 彼女は桜の枝をとん、と蹴る。花びらがくるくると、母神に戯れかけた。

 目下を流れて行く、大地の景色。冬枯れが、彼女の通過と共に潤っていく。緑を吹き返し、花が綻び、鳥が啼く。空気が温み、生命の香りが鼻腔を満たす。人々の歓声が各地で起こり、青く澄んだ空に響き渡った。

 季節を織り上げた彼女は、最後に砂浜へと降り立つ。

 あの日見た海のようで、彼女は頬を緩ませる。

 海からの風が耳元でこすれ、声に聞こえる。身体をゆるやかに撫でる春の風。それに混ざった、冬の残り香。

 彼女は微笑んだまま、振り向いた。

 そこに、黒い男が佇んでいる。

 泥沼のような瞳。その奥に一瞬閃いたものを、彼女はしんとして見た。

 向かい合う二人を、未だ海に留まる死者たちが、雁首をそろえ見つめている。

 恒暗は、あまりにも長かった歳月を反芻する。失い、忘れ、思い出し、死に、生き返る日々。求めるものは、追いかけても追いかけても逃げていく。無念も憤怒も失せたはずだったのに、胸の底で食らい合い、息を潜めていただけだった。

 死にきれない生はもう、その時を覚って息を潜めている。

二人は同時に、歩み寄った。

 ゆっくりと近づいてくる、彼女の顔。遙か遠い、あの光とは違う顔をしているのに、彼女は正に母だった。瞳の含む、馥郁とした香り。確固たるその呼吸。そこにあるものを静観するのとは違う、素直な心。この世に生み出されたものの全てが、彼女を祝福している。光を跳ね返す海が、何よりの象徴だった。

「もう食べ物の味も、忘れてしまったのかしら」

 彼女は足を止める。

「まだ、覚えている」

「そう」

 笑う地母が、手を伸ばす。彼の手にそっと触れ、優しく握る。彼は驚いて彼女を見る。一瞬だけ――それでも彼には長い時間のように思えた――忘れもしない母の顔が現れる。

 彼の内は、静かになった。

 死したものものが息を吹き返すその季節。

 それが、春。

 彼の瞳から溶け落ちた涙が、頬を溶かしていく。思わず頬を触ったその手からは、汗が滲み出している。彼女はとうに手を離していた。

 次々と身体から溢れる己の汗に、自身が溶かされていく。痛みはあった。強烈だった。それに恍惚とした。肉が溶け、骨が見えだす。何百年もの時を乗り越えた白さは、血の赤黒さに埋もれていってしまう。目玉も口も耳も、溶けてしまった。

 黒い染みになった恒暗が、生み出した言葉。彼女は涙を溜めて、大きく頷く。彼は最後、白い塵になって、冷たい風の爆発と共に四散した。

 冬が滲んだ空に舞い上がる、雪のようなそれを見届け目を瞑る。集まった死者たちがここで今、しがらみから解き放たれる。晦を泳ぎ、新たに満ちる月を、思い思いに目指していく。

 その歓声の中、目を開いた彼女は海を向く。やわらかく微笑んで、眩しい光の中に消えていった。

あとがき


 本作は学生時代に創り上げた物語です。優しい顔をした世界が、本当は残酷な犠牲を生み出している。狭い教室で生きながら、ひりひりとそんなことを考えていました。学生生活全体が暗いものであったわけではありませんが、一貫していたのは、どことない孤独を感じていたことと、無意味ともいえる劣等感に身を焦がしていたことです。そんな土壌から生まれた登場人物たちが物語を描き、大きく大きく膨らんだのを、思いつくままに書き落としました。

 苦しみは人それぞれなのに、嘲笑われて落ち込むこともあります。私は私といいたいのに、それがどうしてもいえないこともあります。周囲の言葉に小さく小さく心が切り刻まれて、いつのまにかボロボロになっていることもあります。ふとそんなことに気づいたとき、どうして生きているんだろう、と壁を見上げてしまう。でも呼吸は確かに続いていて、私たちはまた朝を迎える。惰性で生き続け、心の底から美しいと思える光景に出会ったり、思いがけないものに涙したりする。消えちゃいたくなっても、簡単に人生をやめることはできない。そんな風に、人間はできていると思います。だから、どんなあなたでも、生きていることは美しいよ。無責任に、手放しに、そんなことを伝えたいと思うようになりました。そんな大それた意志は、まだ欲望の時点で、果たされてはいないと感じています。それでも、本作はとても愛おしく、書きあげられたことは私の誇りです。

 ここまでお読みいただいて、ありがとうございました。今、続きの物語を考えているところです。いつになるか分かりませんが、またお会い出来たら嬉しいです。


                                    欠け始めた月の夜に

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