そしてまた月は満ちる
また、望まぬ暗闇の中。
月と共に暗闇に沈んだみちは、長く息を吐く。
しかしこれこそが、似合いの結果なのだろう。
引き摺りまわされた、挙句の場所で息をする。
泣き叫び、必死に逃げ、暴力的に潰された日々。
人々のために身を削り、心を削り、やはりまた人のために生きる。
ここまでの物語を逆様に呼び覚まして、みちはふと、頁を繰る手を止めた。
「晴瀬」
拙いまでの問答無用に、何度も手を引かれてきた。
強いようで弱いその手が、愚図の自分にはぴったりだった。
いずれ別れることになろうとも、彼と共に道を歩んでいたならば、もっと真っ直ぐに道を歩めたかもしれない。
人を忘れぬ胸が、後悔に曇る。
神の力をなぞるが、時を戻すことは当然できない。
「かあさん、かあさん、かあさん」
遠くで声が呼んでいる。
ああ、まだ、やり残したことがあった。
天も地も人も、待ってはくれない。転がるだけの自分に、母神など務まるのだろうか。
暗闇が、赤に染まっていく。
皮膚に触れる、温かさ。
もう、起きなければならないのだ。
「……行かなくちゃ、いけないの」
みちが赤い闇に問うと、どこからともなく声が返る。
おかえりなさい。
ひら、と目蓋の隙間に、一瞬だけその微笑みを見る。
追いかけるように開いた瞳に映ったのは、日輪。みちはぎゅっと目を瞑る。寝ている間、太陽にさらされていた頬が痛い。
黒い太陽が目蓋の裏に去るのを見届け、包まれる薄紅の色に息を飲む。
満開の枝垂桜の上に、彼女は立ち上がった。
春の陽が降る大地に、銀の身体で滑る川。遠く青空と溶け合う海。下から風が吹き、桜の花が、青い空に舞い上がった。陽光をいっぱいに受けた黒い瞳は、ちらちらと瞬く小さな光を追いかける。
「……ただいま」
彼女は桜の枝をとん、と蹴る。花びらがくるくると、母神に戯れかけた。
目下を流れて行く、大地の景色。冬枯れが、彼女の通過と共に潤っていく。緑を吹き返し、花が綻び、鳥が啼く。空気が温み、生命の香りが鼻腔を満たす。人々の歓声が各地で起こり、青く澄んだ空に響き渡った。
季節を織り上げた彼女は、最後に砂浜へと降り立つ。
あの日見た海のようで、彼女は頬を緩ませる。
海からの風が耳元でこすれ、声に聞こえる。身体をゆるやかに撫でる春の風。それに混ざった、冬の残り香。
彼女は微笑んだまま、振り向いた。
そこに、黒い男が佇んでいる。
泥沼のような瞳。その奥に一瞬閃いたものを、彼女はしんとして見た。
向かい合う二人を、未だ海に留まる死者たちが、雁首をそろえ見つめている。
恒暗は、あまりにも長かった歳月を反芻する。失い、忘れ、思い出し、死に、生き返る日々。求めるものは、追いかけても追いかけても逃げていく。無念も憤怒も失せたはずだったのに、胸の底で食らい合い、息を潜めていただけだった。
死にきれない生はもう、その時を覚って息を潜めている。
二人は同時に、歩み寄った。
ゆっくりと近づいてくる、彼女の顔。遙か遠い、あの光とは違う顔をしているのに、彼女は正に母だった。瞳の含む、馥郁とした香り。確固たるその呼吸。そこにあるものを静観するのとは違う、素直な心。この世に生み出されたものの全てが、彼女を祝福している。光を跳ね返す海が、何よりの象徴だった。
「もう食べ物の味も、忘れてしまったのかしら」
彼女は足を止める。
「まだ、覚えている」
「そう」
笑う地母が、手を伸ばす。彼の手にそっと触れ、優しく握る。彼は驚いて彼女を見る。一瞬だけ――それでも彼には長い時間のように思えた――忘れもしない母の顔が現れる。
彼の内は、静かになった。
死したものものが息を吹き返すその季節。
それが、春。
彼の瞳から溶け落ちた涙が、頬を溶かしていく。思わず頬を触ったその手からは、汗が滲み出している。彼女はとうに手を離していた。
次々と身体から溢れる己の汗に、自身が溶かされていく。痛みはあった。強烈だった。それに恍惚とした。肉が溶け、骨が見えだす。何百年もの時を乗り越えた白さは、血の赤黒さに埋もれていってしまう。目玉も口も耳も、溶けてしまった。
黒い染みになった恒暗が、生み出した言葉。彼女は涙を溜めて、大きく頷く。彼は最後、白い塵になって、冷たい風の爆発と共に四散した。
冬が滲んだ空に舞い上がる、雪のようなそれを見届け目を瞑る。集まった死者たちがここで今、しがらみから解き放たれる。晦を泳ぎ、新たに満ちる月を、思い思いに目指していく。
その歓声の中、目を開いた彼女は海を向く。やわらかく微笑んで、眩しい光の中に消えていった。
あとがき
本作は学生時代に創り上げた物語です。優しい顔をした世界が、本当は残酷な犠牲を生み出している。狭い教室で生きながら、ひりひりとそんなことを考えていました。学生生活全体が暗いものであったわけではありませんが、一貫していたのは、どことない孤独を感じていたことと、無意味ともいえる劣等感に身を焦がしていたことです。そんな土壌から生まれた登場人物たちが物語を描き、大きく大きく膨らんだのを、思いつくままに書き落としました。
苦しみは人それぞれなのに、嘲笑われて落ち込むこともあります。私は私といいたいのに、それがどうしてもいえないこともあります。周囲の言葉に小さく小さく心が切り刻まれて、いつのまにかボロボロになっていることもあります。ふとそんなことに気づいたとき、どうして生きているんだろう、と壁を見上げてしまう。でも呼吸は確かに続いていて、私たちはまた朝を迎える。惰性で生き続け、心の底から美しいと思える光景に出会ったり、思いがけないものに涙したりする。消えちゃいたくなっても、簡単に人生をやめることはできない。そんな風に、人間はできていると思います。だから、どんなあなたでも、生きていることは美しいよ。無責任に、手放しに、そんなことを伝えたいと思うようになりました。そんな大それた意志は、まだ欲望の時点で、果たされてはいないと感じています。それでも、本作はとても愛おしく、書きあげられたことは私の誇りです。
ここまでお読みいただいて、ありがとうございました。今、続きの物語を考えているところです。いつになるか分かりませんが、またお会い出来たら嬉しいです。
欠け始めた月の夜に




