手の鳴る方へ
2021.03.29 投稿
二人は、仕事を黙々とこなしていた。集中が一区切りする頃、青颯は振り返って空を見上げる。月はもう、西の地平へと向かうところだった。地底の母の気配が、彼にも捉えられるようになってくる。このままいけば、なんとか間に合うだろうと、前を向いた。
その時、彼方に不穏な影を見る。
本能的にもたげる畏れに、青颯はハッとして立ち止まる。
「ハマ。止まって。寄神だ」
彼女は目を開き、首を傾げる。
「あれ。凰燈が言ってたやつだ。今から倒さないといけない」
言葉が聞こえているのか、影は走り始める。
「時間は稼ぐから。あれを殺す方法を探って」
突然のことに、ハマは切り替えができない。
「ころす……?」
「娘たちを犠牲にしてきた奴だ……俺の妹も、あれの生贄になった」
彼は、見る間に近づくそれを睨む。
しかしハマは、それをただ見ていることしかできなかった。
青颯の妹を、殺したものだというのなら。
彼は妹を殺されなければ、故郷を出ることがなかったのだとしたら。
寄神は一周回って恩人ではないだろうか。
蓑と笠を着こんだ姿が明瞭になる。「目瞑って」の声と共に、彼は光の筋を放つ。目をやられた寄神は一瞬だけ動きを止めるが、そもそも目の要らない生命体なのか、またすぐに走り出す。
「眼玉をもらいにきた」
短剣を振り上げる。青颯は闇で身代わりを作り、その隙に彼女の手を引く。
「早く見つけて。時間がない」
「できない」
「じゃあ時間を稼ぐから……」
「私にあれを殺すことは、できない」
「なんで」
彼は驚きに光を打ち損じる。慌てて次を放ち寄神の足を挫くが、気休めにしかならない。
「だって、恩人だもの」
ぼんやりした顔で言う彼女に言葉を失う。しかし、冷静さを欠いている場合ではないのだ。
考えてみれば、母神にとっての寄神は、むしろ味方なのではないか。恐懼しているのは、地底の母に眠る人間性の方だ。
彼女は今、分身としての神の能力に身を任せている。
もしそれらの推論が正しければ、今のハマに寄神を殺すことは不可能に近い。能力が備わっていることと、それを行使することはまた、別の話だ。
凰燈の見込みの甘さに舌打ちしながら、寄神を遠ざける。
彼女が一人で母の元へ向かい、自分がここで寄神の相手をし続けることができればいいが、寄神の狙いは間違いなくハマだ。追いかけようとする限り、いずれは母神の元に辿り着いてしまう。
何より危機的なのは、沖術をうまく使えないことだった。何度も的を外し、短剣のひらめきに襲われる。変じた己の沖を掴み切れていないのと、否応なくワタドの殺戮を思い出すのが原因だった。
しかしそれが分かったところで、対処する暇がない。
ハマは相変わらず焦点の合わない目で一点を見つめている。寄神が一瞬の隙をついて、青颯の横をすり抜け彼女へ突進していく。
死ぬ気で炎を放つが、寄神は燃えたまま止まることがない。
「なんで!」
悲痛を放ったその時、辺りが真っ白になる。直後、耳をつんざくような轟音が鳴り響いた。
耳も目も使い物にならなくなり、何が起こったのか分からない。しかし無事な嗅覚が、焦げ臭さをとらえる。
耳鳴りは遠ざかり、視界は徐々に復活する。火をかざしてみると、寄神は真っ黒になって倒れていた。
「久しいな」
降る声を見上げる。いつかと同じ角度に、青颯は顔を顰めた。
「マキ……!」
青颯の掲げた火に照らされ、淵色の瞳が静かに光る。
「私は地底の母の元へ向かう。お前らも急げ」
彼女はそのまま雷電となり、北へと空を分断する。目が眩んだ二人は、思わず星空が引き裂かれていないかと何度も瞬いた。
青颯は未だぼんやりしているハマの頬を軽く叩く。彼女はハッと目の焦点を戻して北を向く。
「急ごう。朝が来てしまう」
マキは、光の速さで巨木に辿り着く。
宙に留まり、顔の半分を残し埋没したみちを見下ろした。膨れ上がった枝垂れが、ぶるぶると震えている。
「晴瀬、聞こえるか」
奇怪な樹木の根に閉ざされている、海と化した彼に問いかける。
「果たしたいことが、あるのだろう。残された時間は、もう僅かだぞ」
マキは穢れた枝垂れの大木に、そっと降り立つ。僅かにのぞくみちの顔を見下ろした。
「これからどうすべきなのか、分からんからこのままでいるのか」
固く閉じられていたみちの目が、徐に開かれる。それは西へと落ちていく月のように、細いものだった。
「何しに、来たの」
彼女は問いに答えない。
「この世を、どうするつもりなのか。そう問いに来た」
「このままよ。どうするつもりもない」
マキは表情を変えることなく、月夜の小川のような視線を注ぐ。
「お前は、このまま永遠を過ごす自分を考えたことはあるか」
みちは押し黙って、答えない。
「誰もいない、真の孤独に落ちる。たとえ人がおれども孤独なことに変わりはないだろうが、似ながらにして明らかに異なるものだ」
静かだったマキの口調に、波が立つ。
「お前がこのままであれば、自責の地獄だ。死にきれない生に食われ、混濁した意識で永遠の時を生きる」
何も言わず、離れた枝に佇む男を一瞥する。
「耐えきれるのか」
「そんなこと、できない。できないけど……!」
みちは沼の底から現れるように、半身を死にきれない生の中から起こす。地平線を目指し金を増す月光に、微かに光った涙。
「進んでも地獄、戻っても地獄なのよ。だからせめて、全部壊させて!一度、無くさせて頂戴よ!」
――間に合った!
地上で弾けた、男女の声。
「遅い」とマキは萌黄の瞳の二人を見下ろす。
「上等でしょ。見てよほら」
青颯が指さす先。南へ広がる大地は、緩やかな凹凸を描いていた。光を集める場所、影を孕む場所。死に絶えそうな月光に、なけなしの表情を見せている。
「母神、様」
息も絶え絶えに、ハマはかつて地底にいた母を見上げた。
「人間は皆、帰りたがってるんです。大地は、自分の姿を思い出し始めています。だからお願いです。本当の、この世に、戻してください」
みちは立ち上がり、彼女を見下ろす。見たことなどないはずなのに、胸を占める強い既視感。「誰……」と聞こえぬ声で問い、背を向けた。
見たくなかった。
ハマはそれを目にして、涙しそうになる。
土地の記憶を聞きすぎた耳は、彼女の心を聞いていた。
身を切り刻まれるような辛苦を恐れ、部屋の隅に蹲る娘の姿を見る。
彼女にかけたい言葉が、胸の内に溢れる。しかし、この痛切な気持ちを否定されてしまったらどうしよう。それは甘いと言われたら、違うと言われたら。ここまで踏破してきた道のりそのものすら否定されるような気がして、立ち直れなくなってしまうかもしれない。身体が、情けなくも震えだす。
「大丈夫」
ハッとして彼を見る。
「一人じゃない」
兄に似るのに、もっと多くの色を含む瞳。恐怖は抱えたままに、再び母を見上げる。
「思い出して……出会ってきた、人たちを」
「いない」
「それなら、今から……作ったらいい。作るために、戻したらいい」
「いないもの……ずっとひとりだった。捨てられて、閉じ込められて……」
渦巻くような悲しみに、ハマは唇を噛む。深い共感に、言葉が追いつかなかった。
「今は人だから分かんないんだろうけどさ」
鋭く、助け舟が走る。
「ここにいるのは、あんたの分身だ。閉じ込められて育ってきたんだ。親にも、ほとんど棄てられてたようなもんだよ。あんたと一緒だ。ずっと独りで耐えてきたことも」
青颯は最後の一押しを突き込む。
「神のあんたは覚えているはずだ。ハマと繋がっていたんだから」
みちの胸が、高鳴り始める。
時折腕を下ろしてきた、あの娘。
既視感の正体に、みちは振り向く。弱い脚で立つ彼女は、確かに声なき対話を繰り返した娘だった。
鼓膜を打つほどに強い鼓動が、段々と遠ざかる。入れ違いに耳にふれる、人々の声。
いかにも弱いものらしく、情けない声で自分を労り、労う。声の底にある悲しみや戸惑いは、これだけ束になっても自分の悲痛に比べればなんとも小さく、信じられないほど大袈裟に思えた。
「……勝手よ!」
みちは己が身を抱く。
「犠牲になるものが、私が、いなくなったんだもの。だから、そんな言葉を吐くんでしょう!」
「誰か一人を犠牲にする世界はもう、やめてしまおう」
マキが不意に柔らかな声で言った。
「……このまま壊してしまっても、いいってこと」
震え声でマキを見上げる。彼女は、首を横に振った。
「仕組みを変えよう。すべてを一人で背負うことが、そしてその者を地下に押し込めておくことが、破滅を生んだのだ」
ふわりと地上に降り立ち、ハマの横に並ぶ。
「禰々島には、母神の力が及んでいなければならない。また死にきれない生がなくなることもない。だからこの娘を、禰々島におく」
二人はそろって瞠目する。
「私が、穢れを、消すってこと」
「無茶言うな。ハマは分身であって母神ではない」
「分身だから、可能なのだ。母ほど自在にできはせんだろうが」
「じゃあ母神の代わりに、ハマが一人で背負うってこと?それじゃ同じことだ」
マキは首を横に振る。
「禰々島にはゆすらもいる。母神の世話をするのが役目だ。手を貸してくれるだろう」
「お前が殺しただろ」
「禰々島には、色々秘密があるのだ。ゆすらはまた禰々島にいる」
地を見つめていたハマは、不安気な瞳を彼女に向ける。
「でも、私、できるの?」
「無理だったら、その時は人に迷惑をかければよい」と冷徹に言い放った緑の瞳は、枝垂れ木に立ち尽くすみちを映す。
「それじゃあ、わたしは」
「自由にすればいい。人に恵を与えるのも、禍を与えるのも。地下も地上も、お前の家だ」
みちは重ね合わせた両手で、強く心臓をおさえる。
「人から離れているから、分からなくなる。人を見て、考えろ。月に行こうとしていたようだが、そうしたところでいずれはまたここに帰結する」
吹き渡る、風のように。
注ぎ込む、光のように。
満ち引く、海のように。
咲き誇る、花のように。
分身の彼女が運んできた、大地の記憶。懐かしく、胸に馴染んで息を吐く。
一晩中貧弱な姿をさらさしてきた月が、半身を地平にうずめている。
生死を支配する暴虐な力が、片手を差し伸べてくる。みちにはまだ、迷いがあった。
マキに、騙されているかもしれない。
結局また、あの孤独に閉ざされたら。
絶息の底で苦渋にまみれる未来になってしまったら。
うまい話には裏があるものだ。
「でもよ、馬鹿みたいに信じてみる手もあるんだぜ」
足下から、響く声。
大木の太い根から溢れた海が、蛇のように幹を駆け上がる。たちまち彼女を包み込んだ海が、差し出されたままの片腕を引っ張る。
「海で、待ってる」
銀の海は身を躍らせて、地面を駆けていく。みちはもう、蘇る神の力に抗えなかった。彼女の息吹を合図に大樹の根元から川が迸り、蛇を追いかけていく。大地が鳴動して、死にきれない生が、落下する恒暗にまとわりつき剥がれていく。
激しい揺れと共に、天を目指し、地底を目指し、優美を取り戻していく大地。月だけが静かに、闇へと消える。
母神は表情もなく、そっと瞳を閉じた。
二人はマキに助けられ、中空から激変を眺めていた。
「本当に、これで、大丈夫なの」
このまま破壊されてしまいそうで、ハマは両手を握り合わせる。
「不安なら、見届けるか」
マキの言に、彼女は小さく頷く。
神がゆっくり空を滑り始めるのに伴い、二人の身体も空をいく。
激しい揺れの中、幾条もの細い川が交りを繰り返し、海へと注ぐ。流水が削り出した肥沃にも、ぽつりぽつりと山ができ、池が散る。二十八か所の黒く蟠った点に、人がいるのだろう。表情の無かった大地は息を吹き返し、空が白む頃には揺れも止んだ。
「……ほんとに、戻ったの?」
ハマは目を満月のように見開く。
「あんだけ苦労したんだから、戻ってもらわないと」
と彼は顔を背けた。
彼女は彼の手をそっと握り、北にそびえる山脈の頂点を振り返る。
あの禍々しい木が、ぼうっと白くなっていた。
「あれは、何」
「桜だろう」
マキが目を細めた。
「さくら」
海風に吹き飛ばされないように、ハマは口の中で繰り返す。
「もっと、近くで見たかった」
「禰々島には、桜に似たのが咲いてるよ」
彼が、僅かに光った目で振り返った。
「ほんと?」
「あれとは違うけど。桜と梅のあいの子みたいなのが」
「さくらも、うめも、花ね」
「そうだ」
「早く、見たいな」
二人の瞳は、近づく島を映していた。
マキは速度を上げる。身を切る風が肌に刺さり、天地に生死が戻ったことを告げた。瞳の乾きに耐え兼ねて、二人は目を瞑る。
瞼の闇に蘇る、これまでの日々。新たになった空気の下で、遠く色あせてしまうかもしれない。苦しみも喜びも、自分の思い通りに彩ってしまうかもしれない。
ハマはそれでもいいと息を吐き、青颯はそんなことがないようにと冷たい空気を吸った。
マキはふわりと速度を緩める。高度を下げて、一か所だけ海に突き出た崖の上に二人をおろした。
「私も協力する。何かあれば、ゆすらに頼んで私を呼べ」
「絶対来いよ。言いっ放しじゃ済まされないからね」
青颯は彼女を睨み上げた。
「案ずるな」
と頬を緩めた彼女の背後を、光がさく。
三人は、生まれたての太陽に息を飲んだ。
以前の天地を凌ぐ閃光が、何千何億と空に走り渡る。淀んだ夜を慰撫するように、あたたかい色が地上に降る。
「……新月は太陽と共に昇る」
マキは再び二人を見下ろす。
「毎月ここを訪れよう。決して、見棄てるような真似はせん」
彼女は軽く崖を蹴ると、朝日に向かって飛び去っていった。
見送る二人を、海鳴りが包む。昇る太陽を波間に這わせ、光の道を作ろうとしている。
禰々島の天辺から駆け下りた疾風が、彼らの間を吹き抜ける。朝と夜のあわいに、綺麗な青が滲んでいた。
「青颯」
「なに」
彼は彼女を見る。地下の薄暗がりに淀んでいた瞳は、明るい天地にさやかな光を湛えていた。
「言おうと思ってたこと、言っていい」
彼はちょっと宙を見て、「ああ」と思い出す。
「……こんな風に、なってしまって、わざわざ聞くのも、変だけど……」
彼女は、目を逸らしたくなるのを堪える。
「これからも、ずっと、一緒にいていいですか」
青颯は微笑んで、水平線に目線を戻す。
「ほんと、わざわざ聞かなくてもいいのに」
「……ちゃんと、あなたの言葉を、聞いておきたかったの」
彼女も彼と同じ場所を見た。
「あなたは、一緒にいたくなくたって、私の気持ちに気づいて、きっとそばにいてくれてしまうでしょ……優しい、人だから」
青颯は隣の彼女を一睨みして、口をへの字に曲げる。その横顔をちらりと見て、ハマは小さく笑った。




