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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
十二 讃歌
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払暁の瞳

2021.03.28 投稿

 こんなになっても、生きているのは、なぜだろう。

 マキは、砂浜に崩れ落ちていた。

 髪の間から覗く瞳は見開かれ、水平線を見ている。鮮やかなはずのそれは、海の色を映して真っ黒だった。

 夜毎細る月を見上げ、己の命の刻限を夢想して半月。月の神が憑いているのだから、月が死ねば自分も死ねる。

 逃げるように禰々島を離れた後、どうしていたのか記憶にない。気づけば世界が激変し、この浜辺に据えつけられている。空を見上げて時間を潰すうち、自らの内側でも潰し合いが起こっていた。何と何が闘争しているのか、それすらも分からぬ混沌。自分の内で起こっているのに、遠くの諍いを眺める心地でいたら、あっという間に空洞が出来上がった。

 食らい合って、全部死んだのか。

 ただ、神の身体は勝手に力を振るうようにできている。彼女は己を死者だと勘違いした者を、陸に帰していた。絶望に駆られ死の海に触れようとするその手から、波を逃がす。大抵の者は、追いかけまわしはするものの、結局疲れて帰って行く。

 マキはうなじで、沖が歪んだのを感じた。

 また一人、海にお門違いの者がやって来たのだろう。首だけ動かしてその者を見た。

 途端に彼女は半眼を見開き、立ち上がる。その男は、髪を振り乱し、面に笑顔を貼りつけて、足も動かさず近づいてくる。

「……怨霊か」

『ご名答』

 怨霊は口を動かさずに口をきく。

『俺は春軌』

「……晴瀬に殺されたという、あの」

『左様』

『あなたは俺がやれなかったことを全てやってのけた』

『俺はあなたのような加害に及ぶ前に殺された』

「晴瀬の怨霊が、何の用だ」

『晴瀬の怨霊たる俺は既に浄化されてしまった』

『俺は大地が吸い込んだ怨念』

 眼前まで近づいてきた彼は、出し抜けにマキの左目に指を突き込んだ。突然走った激痛に、悲鳴が迸る。

『こちらも忘れてはならない』

 春軌のもう片方の手は彼女の手首を掴み、親指を噛みちぎらんばかりの強さで咥える。マキは腕を掴もうと暴れるが、実体があるはずなのに掴めない。口の中の指は感覚を失い、目玉はねじ込まれた指に抉り出されそうになる。痛みに耐え切れず膝をつき、自由な右目で春軌を睨み上げる。

彼の手は、いつのまにか体側にあった。

『それはお前の加害』

 脳に映し出される、己の顔。

 焔を背後にした自分を見上げる、青颯や凌光から見た顔。

 不意の襲撃を受け殺された役人たちから見た顔。

 目を抉り取られる恒暗から見た顔。

 自分に憑いた怨霊をケネカに向かわせるときの、みちから見た顔。

 冬の海辺で殺した、晴瀬から見た顔。

 映像が過ぎ去ると、身を苛む痛みは抜ける。ただ、瞳には熱が残っていた。誤魔化すように、冷たい指先で目蓋をおさえる。

「しかし、これらは神の暴虐でもある。私だけの、加害ではない」

『それでもたしかにあなたのやったことだ』

 怨霊から笑みが消えていた。

『人の居場所を奪い、命を奪い、瞳を奪ったのが、あなただ』

 瞳から血が落ち、どろりと腕を伝う。

『人々は北に向かい祈りを捧げている』

『大地の記憶を呼び起こし歩き続ける二人がいる』

『なぜあなたは黙っている』

「私に為すべきことなどない」

『お前の罪を償え』

 マキは手を下ろす。赤く染まった瞳で、春軌を見据える。

 妙にぎらついた怨霊の瞳は、自分を見ているように思えなかった。

「……誰に、言っている?」

『あなただ』

 春軌は、眦が裂けそうになるほど目を見開く。

『あなたの顔の下に隠れている、あなただ』

 突然、腹に痛みが走る。

 不可解な激痛にマキが瞠目していると、次々と身体の内側から何かが腹を殴り始めた。痛みは全身に広がり、殴打の手に絶え間はなくなる。熱と痛みの一塊になったような心地に、いつしか視界は黒に塗り潰さていれる。意識がじりじりと戻ってきたとき、両手で強く顔を押さえつけ荒い息を吐いていた。背骨が熱した鉄のように熱くなり、全身を流れる血液は逆巻くようだった。

 耳の中でこだまする、聞き慣れぬ音。ギンギンと耳に触るのは、神の言語だった。調和しない那由他の音律たちは、こちらに迫ってくるように音量を上げていく。

 視界さえ奪うほどの音量に、耳を塞げど意味がない。脳が破壊されようとするその一歩手前で、全ての音が重なり静寂を奏でる。あまりの落差に耳鳴りが貫く中、全身に力が漲っていく。

海や月を満ちさせる、不可思議な力の正体。それが身体の中に宿ったようだった。

「何を、した」

 血の流れ出る瞳を見開く。

「お前は、何者だ」

『俺は春軌。あなたは、己の神を、思い出した』

「晴瀬の怨霊だろう。なぜ私に干渉する」

『晴瀬の怨霊たる俺は既に浄化されてしまった』

『俺は大地が吸い込んだ怨念』

『あなたは俺がやれなかったことを全てやってのけた』

『あなたのような加害に及ぶ前に殺された』

『俺は殺され、あなたは罪を犯したのに永遠の命を得た』

『あなたも本当は晴瀬に殺されるべきだった』

『しかしあなたは晴瀬を殺した』

『うらやましい』

 マキは手の平に爪が食い込むほど拳を握る。

「私は晴瀬を殺したくなどなかった」

『うらやましい』

 怨霊は、再び笑顔を貼りつける。

『あなたになりたい』

『あなたには全てを変える力があるのに』

『あなたであれば事を成せた』

『俺は成せずに殺されたのに』

「それ以上、しゃべるな」

 自ずと、手の平を挙げ春軌の顔に被せている。

「しゃべったら、消す」

『しかしあなたはあなただから何も成せない』

『まだ奥に隠れて勝負しない』

『俺があなたなら……』

 ぐしゃり、と手の平を握り潰す。

 春軌は、跡形もなく消えてしまった。

 気づけば息が荒くなっている。考えるより先に力が動いて、自分の行動を追うことができない。

 神の力なのだろう。こめかみに頬に手をやり、細い月を見上げる。

『母神様が苦しまれている。助けに行かねば』

 何年振りかに聞く、八乎の声。

「お前はなぜ、私の身体の中で口をきく」

 何がおかしいのか、八乎はからからと笑った。

『お前自身がそう望んでいるからだ』

「望んでなどいるものか」

 答える声はなかった。

 マキは、どこまでも広がる闇の積水に目をやる。

 こんな、嘘の海を前にして、半月も過ごしていたのか。

 目を覚ました神の力が、彼女の五感を開く。

 海は、死に満ち満ちていた。潮騒はくたびれて、代わりにどこへも行けない死者たちの声が響き渡っている。風からは海に臨む者を圧倒するような強さが消え、潮の匂いは嘘くさい。

「こんなの、海ではない」

 呟いた声は、かさかさに乾いていた。

「海は、もっと」

『私は、お前が憎い』

 振り返ると、自分が晴瀬を殺していた。

 飛び散る血の行方から背を向けて、波打ち際を歩く。

 それでも、声はつけてくる。

『あなたたちは、意味が分からない。どうして、あんな所に行ってちゃんと掴んで帰ってこれるの』

 ひなの声に、思わず立ち止まる。

『もう、二人でやっていればいいじゃない!私を巻き添えにしないでよ!』

 目蓋の闇に、ひなの悲痛な表情が蘇る。

 こらえきれずに振り返ると、ひなの姿があった。

 無論、彼女自身ではないだろう。

 それでも、語りかけずにはいられなかった。

「これまで、苦労をかけた。すまない」

 たくさんの感情を浮かべるはずの顔には、表情がなかった。

 鬼山への道行に彼女を助けた時は、愚鈍な娘だと思った。好き勝手泣きわめき、簡単に人に寄り掛かろうとする。しかし、彼女はそれだけ素直で屈託がない。苦難や失敗にも真っ直ぐ立ち向かい、まるで別人のように強くなった。簡単に人を頼らないようになった一方で、困ったときは適切に人を選んで助力を請う。

 その姿に、羨望すら覚えていた。

 だからこそ、いつしか自分の方が寄り掛かかるようになってしまったのだろう。

 マキは拳を握る。彼女に会って、謝りたかった。そして、感謝がしたい。

 今、どこにいるのだろう。そう問おうと口を開いたとき、ひなの声が響く。

『あなたの命を救えたとしても、あなた自身を救ってあげることはできないのかもしれない。この先も、ずっと』

 口を開くことなく言い残し、無表情の彼女は宙にかき消える。

 マキは、拳を解いた。

 行き過ぎた願望だったと内心で唾棄し、踵を返して汀を歩く。

 間髪いれずに、次の声が追いかけてくる。

『わたしはあなたに、何もしていない。あなたの人生を狂わせたのはあなたの母、わたしの妹よ』

 明鳴神社の亡霊にうなされ、桜の里に下りたときに出会ったみちの言葉だった。無駄だとは分かっていながら、少しでも遠ざかろうと足を速める。

『わたしはね、空っぽな人間よ。あなたもそうでしょ』

『そんなわけ、ないだろう――私はあの頃とは違う。多くのものを見て、多くの過ちを犯した。私は私で人生を、掴んだ』

『でも、空っぽよ。空っぽな人はね、生まれてから死ぬまで空っぽなのよ。生きていれば、色んなことがある。人はその度満たされていく。でも空っぽな人はずっと、足りない、足りない、足りない、って次を求めるの。満ちてるようでいても、ほんとは自分の空白を直視したくないから誤魔化してる』

 速くなっていたはずの歩みは、止まっている。

 入れ違いに蘇る、夏の宵の声。

『これまでのことを、無かったことにはできない。ぶち壊れそうな気持ちになっても、全部無視しないで抱える覚悟がなきゃ、過去に祟られたまんま一歩も動けなくなっちまう』

 マキは、勢いよく振り返った。

 そこには、黒い海だけがある。

 一瞬でも湧いた期待を忘れるように、爪を立てて腕を抱く。

 彼は、自分が殺したのだ。

 たとえ幻であったって、会えるはずがない。

 その諦観を打ち破るように、彼との記憶が脳内に渦巻く。海を前にし、笑う顔。すぐに輝く瞳と、何も言わない義眼。言葉を選びながら、切々と訴えてくるときの表情。

たったの三年だった。

それなのに、もっとずっと、長い時を過ごしたような気がする。

 月神による錯覚だろうが、今となってはそれでもよかった。彼に会えたそのことが、自分の過去の中でちいさく光を放っている。

 それを認めるのが、ずっと嫌だった。彼の光に縋ろうとすると、いつも、みちの影がちらつく。彼の眼差しもまた、どこか自分をすり抜けているように感じていた。みちと同じになりたくない。みちに彼を奪われたと感じたくない。だから彼を、冷たい態度で突き放していた。

 穴に落ちていくように、大波に襲われるように、後悔が胸を焼く。

 なぜ、その恐れに立ち向かおうとしなかったのだろう。

壊してからでなければ、始まらない。そう彼に言ったのは自分ではなかったか。海底の荒野で何度も経てきた絶命。その果てに得た強さはあまりに空虚だった。ひなにきちんと向かい合うこともできなかった。神の暴虐に負けて晴瀬を殺してしまった。攻撃されないと分かっているから、みちを憎んだ。

「……それでは前に進めないと、言ってくれたのだな」

 血を吐くような心地で、海を見る。

 痛みから逃げることはそのまま、過去から逃げることを意味した。過去は全て、痛みだったからだ。そして自分の強さは、それを恣にした。

 それでも、今ここに立つのは、過去の連なりが作り上げた自分なのだ。過去を破壊するように生きてきた歪みが、己の中に空洞を作っていた。

 目蓋の裏に蘇る、輝きの海。冬至の前、まだ何も知らなかった……知らないふりを貫けたあの時、二人で見下ろした海の光。ひなが待っていることの安堵と、行く先がある心地よさ。

 共に見た海の色が二度と見れなくなることなど、絶対に認められない。

 マキは、歩んできた道を振り返る。

 そこには、一人の娘が立っていた。

『わかる。わかってる。わたし弱いの。おかあさんもおとうさんも、姉さんに似せたらよろこんでくれたから。でもちゃんとできなかった。だからあなたがやれたら許されると思った』

 若い頃の、母親。

 まるで家を失った子供のように、怯えた目でこちらを見ている。

 マキは同情を示さず、静かに告げた。

「お前にできなかったことを、私にさせることで、救われようとしたのか」

 母は、答えるように俯く。己の身を抱いて、何度も首を横に振る。

「救われようと、したのだろ」

 一層激しく、首を横に振る。

 マキは唇を噛む。

 まるで自分だ。

 己の愚かしさを直視できず、無闇に否定することしかできない。生涯を狭い家の中で過ごした、何の力もない娘の抵抗は、己のような強さを持たない。

 それだけに、哀れが際立つ。

 思えば、母の生涯は哀れだ。

 愛する姉を奪われ、姉の影を追いかけながら、姉の姿を重ねられる。不貞を働いたのも、遣る瀬無さに行き場を求めたからではないのか。望まぬ形で生まれた娘の存在を、本心では否定したかった。それでも、そんな悲しいことはできなかったのだろう。だから、姉を重ねることで否定の感情を塗り潰していた。結果的に、それは娘の肉を殺さずとも精神を殺すことになった。

 しかし、地下に残存するほど、後悔をしていたのだ。

 顔を上げた母は、もう娘の姿をしていなかった。

 マキは、これまでにないほど凪いだ心地で、母を見据えた。

 哀れだったと回顧することが、目の前の彼女の何を救うというのだろう。

 安易な慰めは、真実を覆い隠す。どこにもいけない円環に閉じ込められ、見向きもされない傷は着実に膿んでいく。

 マキは、大きく息を吸った。腹の底から吐き出して、低い声で告げる。

「己を、心の底から救えるのは、己だけだ。それを他者に求めようとすれば、途端に世界は歪む。他者が自分を救うための物に見えるからだ。他者からの救いは、与えられるものであって、求めるものではない。また与えられたとしても、そこから自分で歩まなければ救われない」

 母は、ゆっくりと目を見開いた。

 表情の変化に、マキも驚く。鏡合わせになった表情に、胸の奥深くに仕舞い込んだ、思い出が蘇る。

 彼女の姉と同じことをするたびに、咲く笑顔。

 それは泥沼に咲く蓮のように、可憐で清らかだった。

 母の、笑った顔が見たい。そのために自分は、みちになりきろうとしたのではなかったか。

 首を横に振りかけ、やめた。

 せっかく、思い出したのだ。

 涙が落ちそうになるのをこらえた。自分を生んだ母、自分を殺した母。彼女も、一人の人間だった。

「あなたも一人で背負ってきたということを、私は忘れない」

 春軌と同じように、彼女に手の平を重ね、柔らかく握った。

 母は、最後まで悲しそうな顔をしていた。宙にかき消える前に、一瞬だけ笑顔が覗いた気がした。

 それを見届け、踵を返す。これから行こうとする道に、人の影。

 はっきり見える前から、分かっている。彼女は、静かに歩み出す。

 今や母神となり、鬱積した苦痛からこの世の姿まで歪めてしまった彼女。

 凰燈に聞いた、母神の苦しみが蘇る。目が回るほどの数の人間の苦痛を背負ってきたその過去から考えれば、その所業も不可解ではない。

 ただ、そこに泥んでいては不幸のままだ。

「それでいいのか」

 目の前の、みちに問う。

 彼女は、首を横に振る。その哀切な顔が何を意味するのか、マキはそれとなく覚って頷く。すると、みちは空に消えた。

 春軌が言っていた、祈る人々の声が聞こえてくる。母神を慰める言葉が、柔らかくも痛切に響き渡る。同時に、川のように流れる死者の列と、北に向かう二つの光が見えた。全てが、着実に、元の世界を思い出すように動いている。

 しかし、それらの動きはバラバラだった。

 糸だけ張っても、布にはならない。

 ふと見上げた夜空で、星が流れた。その軌跡を真似るように、彼女の瞳から涙が落ちる。マキはふわりと宙に浮きあがり、星の落ちた北を見据えた。

 みちは、そこにいる。

 そしてまた、晴瀬も共に。

 マキは鮮やかな緑の瞳で、真っ直ぐに空を駆けた。

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