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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
十二 讃歌
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重なる掌

2021.03.27 投稿

 大地の記憶は、海の死者よりももっと難敵だった。

 東西から一挙に襲来するのは、土地が見てきた何億年にも及ぶ記憶だった。

 ハマはすぐに目を開き、顔を見合わせる。

「……分かった?」

「いや分かんない」

 余りにも、抽象的なのだ。

 人の記憶は、感情と共に伝わる。しかし当たり前ではあるが土地に感情はない。だからこそ、言葉の交わし方も分からずただただ圧倒されるだけだった。

「人とは、違うんだ。記憶っていうより、記録だね」

 青颯は駆け去った光景を反芻する。

「共感、という方法じゃいけない……同じ目線ではこなせないんだ。それこそ、神を思い出すというか」

「思い出すも、何も、私は神じゃないもの」

「今からなればいい」

「……どうやって」

「やりながら考えるしかないよ」

 彼はみすぼらしい月を一瞥する。地平線を離れ、ぐんぐん高度を上げていくように見えた。 

「神、ってことは。見下ろすの?全部、知らなくちゃいけない?」

「それできるの?」

「……できない、けど」

「時間は、かけられない。できる範囲から攻めるしかないよ。それに、神も色々だ。人を超越していることに変わりはないけど、凰燈みたいに阿保なこと言うのもいる」

 高貴さは感じるが、近寄りがたさはなかった彼を思い出す。

「ハマの使う力は、人間には使えない。それを自覚した方がいいんじゃないかと思う」

「……やってみる」

 何度か繰り返す内に、着実に見えてくる。彼の言う通り、人のように手を差し伸べるのとは違う。むしろ、操る感覚に近い。土地自身に、欲求はないのだ。

 彼女は一度目を開き、深呼吸を繰り返す。

 記憶の量と規模に、せっかく見えてきた力がふと、摩滅してしまいそうになる。世界で一人だけ取り残されたような、寄る辺なさが蘇るのだ。

 強く握った手を、握り返される力。

 同時に思い出す、ほんの僅かの間に知った人や神のこと。前を向く眼差し、温かく見守る眼差し、遥かな距離を透徹する眼差し。祖先の犯した愚に苦しみ続けてきた、乙女たちの存在。

 目を瞑り、触れられそうなほど近くに思い描く。

「私は、ここにいる」

 沈み込むように意識の底へと手を伸ばす。力のやってくる場所は、青く、暗い水を湛えていた。記憶たちと波長を合わせるように、皮膚を溶かし無私に落ちる。

大地に問いかけると、抽象的な映像が襲来する。何億もの年月をそのまま受け止め、ふわと種蒔くように返す。

 手応えと共に「それでいいよ」と声が聞こえる。一塊の暗い水になったような心地に任せて、言葉のない応酬を繰り返す。

 見定める一点を追い始めれば、時は見る間に過ぎていく。

 記憶が送られなくなり、ハマはもう月が沈んだのかと開眼した。

「……とりあえず、ここまでだね」

 と呟く彼には生気がない。

「大丈夫」

「くたくただ……一年で読む量の書物を一晩で詰め込まれたみたいな……疲れてないの」

「多分」

 じゃあ、と彼は腰を下ろす。

「交代で寝よう。昼前に起こして」

 とあっという間に寝始めた。

 ハマは膝を抱えて、冷たい足先を見下ろす。力を使い続けた余波で、疲れというものすら分からない。身体の感覚が、遠かった。

沖の流れが、変わり始めていた。

 ざわざわと、細かな息吹がいくつも振動するような。

 元の天地は、さぞかし賑やかなのだろう。春には、花というものが咲くらしい。幼い頃に何度か見たが、既に命がなかった。

 記憶の内に垣間見た花は、可愛らしい色で春を讃え、青空に向かって咲き誇っていた。

 ぼうっとしている間に日が昇る。冬至の太陽はあっという間に南中し、ハマはハッと思い出し彼を起こした。

「そうだ……」

 と起き抜けに彼は振り向く。ハマも一緒に振り向くと、平らだった大地になけなしの起伏が生まれていた。

 砂山程度の些細なものではあったが、一帯は元の世界に近づいている。

 心の底から、沸き立つ安堵。長い溜息に、声が混ざった。途端に、疲れが波のように被さる。彼女は失神するように眠りに落ち、すぐに目を覚ます。

しかし起き上がって見ると、空が赤く焼けていた。

「起こそうと思ってたとこだよ」

「もう、夕方?」

「そうだよ」

「でも、ほとんど、寝てないわ」 

「疲れると、そうなるんだよ」

 騙されたような気持ちに、「夢かしら」と呟く。

「夢だったらいいけどさ。まだまだ先は遠いよ。行こう」

 彼は立ち上がる。

「あとどれくらい残ってるの」

 向かう北、母までの距離。

「……一日中歩いて、二日半」

「残ってるのはあと三晩だから、実質一日半ってとこか……」

 背中を押すように、遠くの海から風が吹く。

「少し早足で歩くようにする。大変になると思うけど」

 ハマは頷く。

「がんばる」

 彼女は真っ直ぐに、地平線を見据えた。

 荒野を蘇らせる二人を眺め、月が渡る。早く歩けば当然、一度に処理する記憶の量は多くなる。何度も限界を感じ、その度繋いだ手を強く握って、互いの存在を思い出す。

 長いようで短い夜を越え、息を切らせて朝を迎えた。

「結構早めに歩いたつもりだけど……どう」

「……あと、一日半」

「一日、稼げた。この速さで歩けば間に合いそうだ」

 と言うその声に覇気はない。疲弊しきった心身が、また同じ早さで歩き抜けるとは限らなかった。

「寝よう」

「先に、寝て」

「いいや……」

 と言いながら、倒れるように眠ってしまう。

 夜は、あっという間にやって来た。

「あと、二晩……」

「寄神とも戦わなきゃいけない。今日も急ごう」

「……昨日より?」

「できたらいいけど、危険だ。昨日と同じくらいで」

 二人は、疲れを無視するように歩き続けた。息も忘れるほど集中し、決して休みは挟まない。しかし無理はできないものだった。真夜中を過ぎた辺りから、ハマは歩きながら眠るようになる。当然大地はそのままなので、引き返す。それを何十遍と繰り返し、ようやっと朝が来た。

 夜明けに生気を奪われるように、二人は地面に崩れ落ちる。

「……疲れ、なんで」

「……なに」

「前は、いくら歩いても、疲れなかったのに……」

 それだけ残し、ハマは両目を閉じる。

 大地の変化と共に、この世の姿が戻りつつあるからなのだろう。青颯はそう思ったが、言葉にする前に意識が落ちた。

 二人は昏々と眠り続ける。低空を這うような太陽は、しんとした光で二人を照らす。横たわった身体から伸びる影は長くなり、やがて消えていく。落ちた暗闇に、青颯は目を開いた。瞬間、雷に打たれたように起き上がる。慌てて空を見渡し、月の存在を確認した。

「あった……」

 深い溜息と共に、身体が再び地面に吸いつく。

それに気づいたのか、ハマが目を覚ました。

「月は」

 と焦る彼女に、目で示す。彼女も頭を起こしはしたが、またすぐに大地へあずける。

「……行かないと」

 言いながらも、指の先すら動かない。四肢が萎え、身体の芯が重かった。この状態で、またあの距離を歩かなければならないのだ。日々重ねてきた距離を回顧し、溜息が出る。

「……ほんとに、できるのかな」

 ハマは呟く。それは不安というよりも、不信に近い。

「できなくても、やるしかない」

「でも、遠い」

「行かないと、遠いままだ」

「……もし間に合わなかったら、どうなるかな」

「この世が終わる」

「そうしたら、私たちは?」

「死んでしまいとこだけど、そうはいかないだろうね」

「じゃあ、ずっと、できなかったって気持ちのまんま、生きてかなきゃいけない?」

「だろうね」

 細った月は、じりじりと昇っていく。

「……そもそも、どうして、私が」

「それを問うたらおしまいだよ」

「でも、あなただって、思うでしょ」

「……まあ」

「だって、私。そうだ、私、あの日」

 ハマは青颯の目を見る。

「櫓の上で、あなたを、生き返らせようとしたの。あなたが死んでしまったから。その時、母神が降りてきたの。私が命をかけてまで生き返らせるの、あなただけでいいかって。そのれで……」

「なんでそんなことしようとしたんだ!」

 ハマの言を遮って、青颯は身を起こす。

「禁術は、夢に見ないと叶えられないんだよ。無駄死にするところだった!」

「……母神なんて、ほんとは降りてこない。分身の私自身の願いだったから、叶えられたかもしれない」

 彼女はひるまず言い返す。

「でも、それでも。俺がどんな気持ちでハマを生かしたと……」

 突然、彼は口を噤んだ。

 それを訝しく思いながら、ハマは目を逸らす。

「私だって、同じよ」

「……同じじゃないよ」 

「その時ね。生き返らせるのは、あなただけでいいって思ったの。故郷の皆が死んだのに。しかも、兄さんのせいで」

 青颯は、彼女の横顔を見下ろし続ける。

「同じ罪悪を、もう一度抱えるだけなら……」

「同じ罪悪をって、その後ハマは死ななかったんでしょ?今回は話が違うよ。本当に罪を抱えようとしてる」

「決断したんだから、同じことよ」

「いや違う」

「……私は、そう思えないもの」

 ハマは目を瞑った。

 青颯は彼女をしばらく見て、静かに言う。

「俺がどんな気持ちでハマを生かしたか、教えてあげようか」

 彼女は、沈黙を以って返事をする。

「……あの日、凌光が殺された。すぐ、そばにいたのに、守れなかった。俺は妹も死なせたし、肉親以上に肉親のような存在だって死なせてしまった」

 青颯は、地平線に目をやる。

「それに加えて、相当殺した。大事な人を守れないくせに、命を奪う強さなんて、必要?」

 声の孕んだ僅かな震えに、ハマは目を開く。

「だから、せめて一度くらいは強さで人を守って、消えようと思った。死んでまで生かしたのは、ハマのためじゃない。俺のためなんだよ」

 彼女は、首を起こして彼を見上げた。

「最悪の決断でしょう。自分のために他人を生かすなんて。君が助けようとしたのは、そして本当に命を与えたのは、そんな人間なんだ。人を見る目がない。本当に」

 彼は、涙の浮かんだ目で彼女を見下ろす。

「でも、あんなとこにずっと閉じ込められたらそうもなる。だから、重荷に縛られたまんま生きるのが当たり前なんて、思ってほしくない。もっと、色んな自分に揉まれて生きることができる。些細なことに笑ったり、悩んだり、怒ったり、憎んだり。全部、心の底から純粋に。それが、すごく、幸せだって俺は思う。でもそんな罪抱えたら、幸せだって思った瞬間、自分の罪を思い出してしまう。幸せになりきれることなんかない」

静かだった顔が、悲痛に歪む。

「幸せを掴むのを、諦めないでよ」

 柔らかな風が、二人の髪を撫ぜる。

ハマは、両目を見開き、彼を見上げていた。

 言いたいことや、未知の感情が渦巻いている。

 簡単に、言葉にはできない。

 簡単に、伝わりもしない。

 でも、また分からないなんて言えなかった。

 ハマは身を起こし、必死に彼の言葉を反芻する。 

目の前で大切な人を失った恐怖の強さが、そのまま自らを卑下する力になっている。今まで、そんな素振りは微塵も見せなかったのに。

隠し通していたのだ。そんな、崖の間際に張り詰めた気持ちを。

そうでありながら、他者の幸せを思う。

空疎な自分には、その多層が愛おしかった。

「……私、あなたが死んでしまって、本当に、ごめんなさいって思った」

 渦の中から、言葉が解けて口に流れる。

「何度も死のうって思った私を、その度に生かしてくれたのは、あなただったのに。私は死なせてしまった」

 ハマは真っ直ぐ、彼の目を見た。

「私も、あなたと、同じ。自分が情けなく思えたから、命と引き換えに生き返ってほしかった。でも私は、最悪だなんて思わない。心の底から、純粋に誰かを思えたの、初めてだったもの」

恐怖や苦痛のためでなく、強く拍動する心臓が、疲弊した身体に力を与える。ハマは立ち上がり、青颯に手を差し伸べた。

「今度は、笑ったり、怒ったり、してみたい」

青颯は唇を噛んで頷き、彼女の手を取る。

 二人は、終着に至る一歩を踏み出した。

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