人は海に
2021.03.26 投稿
凰燈のように空に溶けた二人は、着地した浜辺の柔らかさによろめく。
黒い海は、昼前の太陽を少しも映さない。光の反転が闇なのだとしたら、この海の色は何と名付けたらよいのだろう。波の音も、濡れた浜にべたつくようで気鬱を誘う。
「いつ見ても、嫌なもんだね」
「海って、もっと、良いものなの」
「そうだよ。本当はもっと青くて、綺麗だ」
「どんな風に、青いの」
「どんな風にって、青は青」
「でも」
ハマは空を指さす。
「上の青と、地平線に近くなった青は、違うわ」
そう言われて思い出す。自分も初めて海を見た時は、めくるめく青の濃淡に目を奪われたものだった。
どう、説明したら良いのだろう。
「……まあ、見るのが早いよ。世界が元に戻れば、きっと見られる」
ハマは、珍しく足の指で砂をいじっている。
「聞いてんの?」
「……昨日、言おうと思ってた、ことなんだけど」
彼女はぎゅっと拳を握り、そっと息を吸い込んだ。
「いや、待って。全部終わってからにして」
決意を挫かれ、彼女は口をすぼめる。
「どうして」
「どうしても」
遥か沖を見る横顔に、ハマは何も言えなくなる。
「……練習、してみない」
沈黙が降りる前に、彼が問う。
「海には死者がいる。海の下に何か蠢いているのを感じるよ。対話するって言ってたから、練習になるんじゃないかな」
それは、ハマもそれとはなしに気づいていることだった。
しかし、言わないでおいたのだ。
「でも……できるか、分かんない」
困難を直感していたのだ。
「分かんないからやるんじゃん」
「……怖い」
「一緒に考えるから。やっておこう」
ハマはぎゅっと目を瞑る。
目蓋の闇に浮かび上がる、いかにも弱った地底の母の姿。きらきらした瞳のひな。
――きちんと、目で見て耳で聞いて頭を使わなければならないよ。幻想に突き動かされて、身を滅ぼすことがないように
兄の言葉が蘇り、バレていないかと青颯を見る。
「……何」
考えてみれば、バレるはずがないのだ。余計に怪しいことをしたと首を振り「やってみる」と早口に言う。
息を何度か大きく吐き、ハマは目を瞑った。
前の世界よりもずっと、単調な沖の流れる天地。眼前の海にさざめく波が覆う、人々の声。その中に身を沈めるように、沖を読んでいく。死者たちの沖は、泳ぎ回る小魚のようだった。しかし決して自由はない。視界に例えるならば、銀色でぎゅうぎゅう詰めになっていた。
これでは、一方的に見ているのと同じだ。言葉を聞かなければ、それぞれの記憶は分からない。
言葉に代わる、力。凰燈の言うように、事に及べば自然と分かるようになる。のったりと首をもたげた温かさを、腕のように小魚へと伸ばした。
数百の銀色が腕に群がる。途端に流れ込んだ映像に、ハマは悲鳴を上げた。
青颯は、腰を抜かし倒れようとする彼女の手を慌てて掴む。その時、彼女の見るものが手の平を通じ彼の脳裏にも映し出される。
数百もの人の、生まれてから死ぬまでの記憶。
感情を伴い、生々しく蘇る。見ようとしなくても、それぞれの人生を追体験させられる。一人分でも十分苦しいのに、それが一度に数百だ。おまけに、触発されて自分の人生までもが思い起こされていく。
青颯はハマを引き摺り汀から離れ、いつしか上がった息を整える。
「……凄、かった」
彼女は目を見開き、手の平に目を落としている。
「……あれを……こっから北までずっと、見るの……?」
「あれより、すごいんじゃない」
「それに、見るだけじゃない。から。呼び覚ますって、何。今ので呼び覚ませてるの」
「分からない」
もう一度やろうとは、とても思えない。
しかし、あと四晩しかないのだ。
「そもそも、ここから女神のとこまで、何日かかるの」
ハマは、ゆっくりと北を向く。
「……私たちの足で、三日」
「一晩も無駄にできないな」
彼は立ち上がり、海を見据える。
「もう一回だ」
「え……」
「え、じゃない」
「だって、まだ、時間ある」
「ないよ」
ハマはそれでも、座り込んだまま動かない。
「ほら」
「あなたは、見ないから、良いかもしれないけど……」
といじける。
「俺も見たよ。手を握ったら、見えるようになるらしい」
彼女は驚きに顔を上げるが、またすぐに下を見る。
「でも、あなたはなんとかしなくても、いいし」
「一緒に考えるって言ったでしょ」
彼は苛立ちに眉根を寄せる。
「私、やりたくない……できない」
青颯はなんとか言いくるめようとするが、我を失ったような彼女は聞く耳を持たない。冬至のまま止まった時は、太陽をさっさと西へ進めてしまう。
押して駄目なら引いてみろ。青颯は息を吐く。
「んじゃあ」
「やらない」
「まだ何も言ってないでしょ」
「だって、もう、やりたくない」
「じゃあ逆に、やりたいことは何」
ハマがやっと、目を上げる。
「……海で、どうやって、遊ぶの」
斜め上をいく答えに青颯は面食らう。
「あんまり楽しくないけど、砂山作ったり逆に掘ったりする」
何度か凌光と山を作ったことがあるが、それはどちらの作った砂山がより長く波に勝てるかという勝負だった。作る場所に潮が満ちてくるのを制限時間として、砂山を作る。絶対に負けたくないため実に真剣に作っていたが、今振り返るとなんとも暢気で呆れてしまう。
「やってみたい」
「じゃ、それ終わったらやるからね」
「……うん」
二人は、一つの山を作り始めた。砂を寄せ集めて、水をかけ、叩く。それを黙々と繰り返すだけなのに、ハマには楽しく思えた。
砂の、今まで感じたことのない手触り。握ればぎゅっと固まるのに、解けばさらさらと落ちていく。砂粒の一つ一つは固いのに、なんとも滑らかに流れるのだ。
天辺の尖った山の形に、ハマはふと思う。
「山って、こういうのなの」
「場所にもよるけど、大体こんな形らしいよ」
「あなたは見たこと、無いの」
「うん。山の奥の生まれだし。その後は島にいたから」
「島って何」
「海に浮かんでる陸地のことだ」
ふと見ると、彼の表情は真剣そのものだった。
その手つきを目で追い、ハマは溜息を吐く。
「私……そんなに、この世界のことを知らない、から。あんまり、戻したいと思っていないんだわ……」
青颯は手を止め、砂のついた顔を上げた。
「とか言って戻らなかったら、絶対ごめんなさいって言うよ。俺慰めないからね」
ハマは弾かれたように立ち上がる。
「……やだ」
青颯は、安堵に思わず全身の力を抜く。
「じゃあ、やろうか」
二人は海で手の砂を洗う。黒い海を見据えて並んだ。
「俺は、沖の動きを見る。何をどう使えばいいか分かるように」
頷く彼女は、心なしか震えている。彼は何も言わず、冷たい指先をそっと握った。
ハマは、心臓が音を立てたのを合図に瞑目する。温かさに触れるだけで、気持ちは驚くほど強くなった。
始め方は、先ほどと同じだ。集中して、一足飛びに小魚へ腕を伸ばす。構えていれば、記憶の襲来はまだ耐えられる……と思ったのは初めの内で、数百もの悲喜こもごもに段々と精神が蝕まれていく。更に、より来る小魚は数を増し、腕には触れてこないものの苛立ちを発してくるのだった。
「直視したら、駄目だ」
青颯の声が、やけにくぐもって聞こえた。
「なんでもいい。とにかく力を使ってみて」
ハマは襲い来る吐き気に、目を開いてしまった。
全力疾走をした後のように、身体が熱く息が追い付かない。
「……ごめんなさい」
「次は、こうならないようにすることだ」
彼の息も上がっていた。
「記憶が来た瞬間は、もうしょうがない。でも、あんまりちゃんと見ないで無視して。力を使うことに集中してみてよ」
「あの、じゃあ、ずっと、声を聞かせていてほしい」
青颯は首を傾げる。「なんで」
「声を目指して、無視してみる、から」
しかし、声がハッキリ聞こえるほど記憶から焦点を外すと、またすぐにくぐもる場所へと引き戻されてしまうのだった。
「なんていうか、水の塊を被せられてるみたいな感じだよ。海に潜っているというより。だから、水の方につきまとわれたら結局意味がないんだ」
「……見てほしい、聞いてほしいって、ことなのかもしれない」
ハマは溢れる涙を必死に拭う。
「前よりもっと、強くきた……」
「読み違えた。ごめん」
彼女は首を横に振る。
「今度は、もっとちゃんと見てみる……」
しかし、すぐにはうまくいかないものだった。
泣きながら試行錯誤を繰り返す内、尚も辛いながら多少は慣れてくる。一度に数百を見渡しながらも、ひとつひとつを取り出して直視できるようにもなった。
それでも、どうしても受け付けられない記憶はある。無論、己の過去に直結するものだった。目を開いてしまうことだけは堪えるが、消えてしまいたくなる破滅感に食われていく。
「くるしい」
声を発し、なんとか己を思い出す。
「苦しいね。俺も苦しい。でも、本当に苦しいだけ?」
ハマは首肯するが、すぐにそれは違うと気づいた。
辛苦の裏に、隠れている力がある。
出てこい、と手招くと、それは静かにやってくる。
ぴたり、と頬を寄せてくる熱。途端に他者の記憶に眠った痛みが、他者のものとは思えなくなる。もう誰からも忘れ去られてしまったその人は、この世で確かに息をしていたのだ。
隠れているのは、生の残像。
死者たちは、生きてきたことを思い出したがっている。
ハマは温かい力を以って、記憶を包み込んだ。
――私、生きていた?
怯えた少女の声が、そっと耳に届く。
――ええ、あなたは生きていた
ほんの一瞬だったが、青颯は逃がさなかった。既に夜に溶けた黒い海が、チカリと光ったのだ。
それだ、と彼が声をかけようとしたときには、彼女はもう掴み切っていた。
海にちりばめられていく、輝き。死者たちの讃歌は、ほんのひと時の内に息を潜めてしまう。
それでも、と青颯は息を吐く。
「綺麗だった」
弱い月光に照らされ、ハマは目を開く。
「死は、生に帰る。生は、死を抱えながら進む。どちらか一方なんてことはないのに、この海は……死だけに染まっているから、せめて帰る場所のことだけでも、ちゃんと、思い出したいんだわ……道を与えることは、できないけど」
彼女は、頬に残った涙の跡をこする。
「きっと、大地も同じなのよ」
「もう、いけそう?」
彼女は痩せた太陰にそっと目線を送る。
「はやく、行かなきゃ」
「休まなくていいの」
「休みたいけど、行かなきゃ」
やりたくないと駄々をこねていた彼女は、どこへいったのか。
「変わったね」
「……変わったの?」
「うん」
二人は砂浜を抜け、乾いた大地に臨む。
「もう、俺には何もできない」
ハマは首を振り、いつしか離れていた手を繋ぐ。
「一緒に、見てくれるだけで、いい」
深い息吹と共に、彼女は歩み始めた。




