太陽のような人
2021.03.24 投稿
二人が歩いていく先に、口を開けて月を見上げる人物がいた。
口端からつっと流れるよだれを、緩慢な動作で拭う。
溜息と共に立ち上がり、月に背を向け歩き出した。光を集める大きな瞳に、今は影ばかりが満ちていた。猫背は自然と下を向かせて、息は自ずと浅くなる。
ひなは、再び溜息を吐いた。
不安に満ちたこの世界は、いつになったら元に戻るのだろう。
数日前までは、書き続けてきた人々の記録のことを思い出し時間を潰していた。しかし話は尽きてしまう。今度は時系列で思い出していこうと考えたが、決定的に飽きていた。
せめて、前の世界ではできないことをやる。ひなは目を瞑った。朝が来るまで、このまま歩くのだ。
馬鹿馬鹿しいなと自分で笑いながら、ひなは半分眠りながら歩く。
歩いていることに慣れ過ぎて、足を動かしているのかどうかも分からなくなる頃、勝手な回想の映像が流れ始める。夢のようなもので、ひなは見ていることしかできなかった。
駆け出すマキと晴瀬の背中。並んで走り出しても、いつも二人に置いていかれてしまう。揺れる黒い髪の毛が懐かしい。情けないがたくましくもある晴瀬と、強いが決定的に弱いマキが……「んわ!」
柔らかいものに躓く。なんとか手をつき、振り返ろうとするが、足が柔らかいものにのったままで正体を確かめることができない。
妙に温い。膝が硬いものに触り、それが骨であると気づく。
「人……?」
ひなは立ち上がり、倒れた人を見下ろした。
人の形をしてはいるが、ただの人ではなさそうだ。王族の宿を思い出すような高貴な服に、流したままの髪。「水」といううめき声すら、風雅に聞こえる。
位の高い人間に躓いて、足の下にしいたのだ。
ひなは処刑場に連れていかれた時の恐怖を思い出して悲鳴を上げるが、辺りを見回しここがもう前までの世界ではないのだということに気づく。
一転して気楽な気分になり「水は、どこにもないんですよ」と声をかける。
「……そうか」
ゆっくりと立ち上がった貴人は、背格好は男のものだったが顔は女のようだった。おまけに瞳が、琥珀の色に輝いている。これまで整った顔を見たことがなく、ひなは面でもつけているのではないかと疑う。
「そういえば、咽など渇いていなかった」
「……なんですかそれ」
貴人は衣服についたほこりを払う。その所作すら、いちいち雅でかえっておかしい。
「それより、おぬしのお蔭で意識を取り戻した。礼を言う」
ひなは首を横に振った。
「私何もしてませんよ」
「目を瞑ったまま歩き続けたであろ。この世における生者は皆、うろうろ彷徨う他為すことがない。おぬしのようにおかしなことをする人間はおらん。少しの歪みで、私はこちらに出てこられたのだ」
馬鹿にされているのか褒められているのか、分からない。
「こちら、って何ですか。あちらがあるんですか」
「そうだ。人には分からんだろうがな」
「あなたは何なんです。神なんですか」
「左様」
「……嘘だあ」
神がみっともなく地面に倒れていることなどあろうか。
「この世界ではうまく立ち回れんからな、すぐに証明してみせられんのは残念だが。後々分かろう」
余裕綽々が滑稽ですらある。
「さあ、ようやっとこちらにこられたことであるし、世界を戻しにかからねば」
「元に、戻るんですか」
立ち去ろうとする背中に問う。
「戻る、のではない。戻す、のだ」
「だから、戻す、ことができるんですか」
「そうだ。おぬしにも言わねばならんことがあった」
質問に答えず、彼は振り返る。
「日が昇る頃、おぬしの元に生者が集まってこよう。明鳴を中心とする村の者たちだ。集まったらば、北へ向かって祈りを捧げよ」
「北……?」
「亡者たちが向かうのとは、逆の方向だ。では、頼んだぞ」
「何に、どんな祈りを捧げればい……」
問うている内に、神は星空へ消えてしまった。
この、勝手さ。
一人残された胸のざらつきが、こびりついて離れない後悔を呼び覚ます。
マキと晴瀬に追いつけず、未熟な言葉を放った。
西の地平へ身をうずめる、大きな月。闇に食い破られた、くすんだ金の色。
思いがけないことが日常になる中で、月を何度見上げただろう。人々が恐れて宿に逃げる中、月夜にそっと窓を開ける。月は様々な顔を持っていた。夜の支配者らしく凍えるときもあれば、柔らかく円かなときもある。
今思えば、強い二人なら受け止めてくれると思っていたのかもしれない。月に色んな顔があるように、力を持てる者たちにも色んな感情があるはずなのに。
月よりも近くにいたのに、少しも想像しようとはしなかった。
虧月が沈んでしばらくして、夜空の濃い黒に青が差す。
やがて至る朝を先駆けるよう、吹き渡る風に振り返る。
望み通りの日輪が、昇ってくる。まだ、何もかもが終わったわけではないのに、体よく救いを待っていた。橙に照らされた顔に、大袈裟な希望はない。ただその絶対性を確かめて、大きく頷いた。
「ひな」
一番に掛けられた声を、ひなは見上げる。
「秋巫兄さん。祈りを捧げよう」
「……何の話だ」
彼は目を瞬く。
「分かんない。でも神様が言ってたの。北に向かって祈らなきゃ!」
「おぬしら!無事であったか」
貴人の言う通りだった。神主をはじめ、村人たちがぞろぞろと集まってくる。口々に再会を喜び、抱き合って背中を叩いた。不安が和らぎ、涙を流す者も少なくはなかった。
ひなも嬉しくなるが、浮かれている場合ではないのだ。
「神主様。北に向かって祈りを捧げないといけないんです」
「え?なんじゃ?」
腑抜けた表情に、肩を怒らせる。
「祈りを捧げないと!元に戻すんですよ、この天地を」
「おい、なんだ」
突然のどよめきに、皆が話を止める。
衆目の視線の先、朝日を背後にやってくる痩せた二人。ばさばさの長い髪を風に流し、揃えたように肌が青白い。よく見ると、見慣れぬ目の色をしていた。マキと同じ緑の色だが、もっと新緑のようだった。
兄妹だろうか。
冬巫がそそくさと進み出て、二人を拝する。
「母神様、我らにご慈悲を」
彼女の声に、村人たちは「神様なのか」「我らを救いに来てくださったのか」と雪崩れるように膝を突く。
ひなは一人、膝を突きながらも顔を上げていた。しばしの沈黙の後、不機嫌な顔をした青年が「いやそういうのじゃないんだけど」と表情通りの声を放る。
期待を外された村人たちは、ポカンと顔を上げた。
「母神は今、苦しんでいる。神としての機能を果たせていないんだ。だから天地がこんな風になって……」
彼の言葉を遮り、人々は立ち上がった。
こうなると止められないことは、ひなが一番分かっていることだった。
母神、というよりも彼らを糾弾する声が轟々と響く。
「私らの方が苦しいよ!急にこんな風にされて」
「不安で不安で死にそうなんだ」
「元の生活を、返してくれ!」
「いつまでこのままなんじゃ」
「わしらと違って力があるんじゃろう。早くどうにかしてくれ!」
「うるさ」
「すみません」
何かを言いかけた青年を制し、娘の声が凛と響く。急に静まったことに彼女が一番辟易して、青年の影に隠れながら「……頑張りますから、待っててください」とそそくさ立ち去った。
誰からともなく、不満をぶつくさ口にする。漣のように伝染し、「神がああだから、こんな風になったのかもな」とひなの耳に届く。
「そうじゃない」
力ある者も、完全ではない。頑張っていても、どうにもならないことがある。
遠ざかる二人の背中が、記憶の中の二人と重なる。
あの時と、同じにさせるものか。そう思った時には「おかしいよ!」と叫んでいた。
しんと集まる衆目に、臆せずひなは息を吸い込む。
「うまくいかないこと、あるじゃない!私たちだって!あの人たちだってきっと同じだよ。頼ることばっかり考えて非難するなんておかしい!」
「あの方は、神の分身だ。だからお頼り申し上げようというのは、当然の……」
「すぐ、当たり前って言う!」
ひなの脳裏で、紐解かれる巻物。人々の間に語り継がれていたのは、いつも当たり前から外れた物語だった。
「私、明牙神社で、子供を産めないからって無茶な仕事をさせられて、死んじゃった女の人の話を聞いた。その話をしてくれた人は、女は子供を産むものなんだから、当たり前だって言ってた。信じられる?何にも悪いことしてないのに、死んで当たり前だなんて!」
彼女は、零れそうになる涙をぐっとこらえた。
「私だって、親がいない。皆のお陰で、寂しいって思ったことはないよ。でもだからって皆の平和のために死ねなんて、家族がいないからそれが当たり前だなんて言われたら、そんなの怒るわ!皆があの人たちに言ったのは、それと同じことだよ!」
何も言わなくなってしまった村人を捨て置いて、ひなは走り出す。あの二人よりも一回りは小さい背中に「待って!」と追いすがる。
彼らは同時に振り返った。
萌黄の瞳に揃われて及び腰になるが、冷めない内に吐き出す。
「あなたたちも、大変だと思うのに。あんな押し付けるようなこと言って、ごめんなさい!」
深く頭を下げる。
言葉は返ってくるのかと、首に冷や汗が伝う。嫌に長い間を置いて「それじゃあ、聞くけど」と言った青年の声に顔を上げる。
「こんな風になってしまったのは、生死の全てを司る女神が仕事を放棄してるからなんだ」
試すような瞳を、じっと見据える。
「前の世界のままでは、地底にいる女神に苦痛がのしかかりすぎる。死にきれない生、っていう、半端なものを人間が女神に棄ててしまっているから、そんな風になってしまっているんだ。元の世界に戻したら、女神は再び苦しむことになる。それが嫌で、世界をこのままにしているんだよ。女神自身がね」
それはそうだ。ひなは内心肯定する。
「元の世に戻しても、女神が苦しまないようにするには、どうしたらいいと思う」
「そんなの、簡単だわ」
間髪入れずに答える。
「女神だけが苦しまなきゃいいのよ。人間皆にも、苦しみを分けたらいいんだわ」
「神が背負ったって、苦しいことを?」
ひなは大きく頷く。
「居心地のいい所を失ってしまうかも、しれない。でも、そうじゃないと私たち、甘やかされてるだけで強くなれないから」
大きな瞳が、太陽の輝きを孕む。
「独りに苦しみを押し付けて、得られる平和なんて嘘だと思うの。押し付けられる人は、もしかしたら平気なのかもしれないけど。それでのうのうと生きてることが、申し訳なくなる」
「ひなの口から、そんなことを聞けるとは」
見上げるとそこにあるのは、いつもの顔。
「いつまでも、あの春巫のままじゃないんだからね。秋巫兄さん」
「頼もしいな」
と彼は笑う。
「先ほどの非礼を、お許しください。我らも、混乱が強いのです」
と、秋巫に追いついた冬巫が頭を下げた。その後から、少年が駆けてきた。
「この小さい人たちが、ほんとに神なの?」
と無邪気に尋ねる。
「別に神になった覚えなんてありませんけど」
「……そのような、もの、なんですけど……頼りなくて、すみません」
娘が俯く。
「こら、そんなこと言わないの。神みたいな人だって色々なんだから……ていうかこの子は誰」
ひなは秋巫に問う。
「お前の次の、春巫だよ」
ああ!とひなは笑顔になる。
「君が」
「聞いてた通り、間抜けた顔だな!」
「な、んだと」
「お前に劣らず世話が焼けるんだ」
と秋巫は笑う。
「茶番に付き合ってる暇はないんだけど」
青年は腰に手を当てる。横の娘は、興味深そうに四人を窺っていた。
「ちょっと聞きたいんだけどさ、ここに変な沖が残ってるんだ。というかあんたについてる。何かあったの」
「私に?」
ひなは少し宙を見上げる。
「ああ、神様が倒れてたんだ」
「もしかして王族みたいな恰好をした?」
「そう!」
青年は頷き、娘に何かを耳打ちする。
「それが分かっただけでも十分だ。ありがとう」
「ちょっと、待って」
立ち去ろうとする二人を呼び止める。
「私たちに、できることってない」
青年の目は四人を滑った。
「ない。見つかったら、また来るから。ただ、何が起こっても、母神を責めないでほしい」
隣の娘は、首を横に振る。
「それは……自由」
「なんで。疲れてるじゃん母神」
「でも……あんまり、関係がないの。それより……」
娘の細い指が、左を指さす。
「北に、いるの。この世に、恵を与えてくれるはずの、母神が……。今、とても弱っているから、ありがとうって、大丈夫って、祈ってほしい」
琥珀の瞳の神が残した謎が、たちまち解ける。ひなの顔に、たちまち笑顔が咲く。
「分かった。ありがとう!」
行こう、と駆け出そうとする彼女を、今度は娘が呼び止めた。
「あなたの、名前は」
「ひな」
風が、彼女の黒い髪を揺らす。
「あなたは?」
「……ハマ、と言います」
「そっか、覚えておく!」
手を振って、彼女は三人に何かを伝えながら、騒がしく去っていった。
「ほんとに、勝手だよ。都合よく押し付けて」
青颯は鼻を鳴らす。
「でも……ひな、みたいな、人もいる」
「名前聞いたの、なんで」
「……なんとなく、知りたかった」
ひな、と口の中で繰り返す。
「太陽、みたい」
感嘆して息を吐く横顔を、そっと見つめる。視線に気づいた彼女がひょろとこちらを向く前、目を逸らした。




