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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
十二 讃歌
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日の出

2021.03.21 投稿

 瞠目した青颯は、ひどい顔をしていた。

 単なる疲れだけではない。原因が何なのか、ハマには分かりきっている。

「しつこいな」

 彼は彼女の横をすり抜ける。ハマは目をぎゅっと瞑って、彼の手首を掴んだ。

「……行かないで」

「もう俺はただの死人なんだよ。海に向かわずにはいられない」

「そうじゃないように、するから」

「さっきも言ったよね。嫌なんだ。離してよ早く」

 答えず、ハマは彼を抱き締めた。

「何すんのさ」

「ちょっとだけ、我慢して……」

 ハマは腹の膨らみに意識を落とす。

 至の一人が言ったように、ここにはもう子がいなかった。代わりに、強大な――死を生に転ずるほどの――力に満ちていた。

 解き放とうと、力の持つ沖を読む。粒のようで、線のような沖。それは光だった。一条ごとに意思を持ち、皮膚に閉ざされた闇の中を走っている。

 狭い所に閉じ込めて、ごめんなさい。

 撫ぜるように、声をかける。

 もう、あなたたちは、自由よ。

 彼を抱く腕に、きつく力を込めた。

 幾千もの光の軌跡を、ハマは思い描く。ぼやけた像が鮮明に刻まれたとき、全身から光が迸った。

 両目を光に貫かれ、青颯は呻く。包まれる温かさには、奇怪にも柔らかさが同居している。安らぎに、全身の骨がふけていく。

 何をされているのか、彼にはよく分かっていた。

 恍惚に打たれながらも、光の中から脱しようとする。目を僅かに開くが、そこにハマの姿はなかった。目に馴染んだ黄金に開眼しきると、心地の良さも反感も消える。

 そっと、光の源に手を伸ばす。瞬間、自らの行為を問う。なぜ、手を伸ばしているのだろう。答えを見つける前に、熱源に触れていた。

 光と熱が、なだれ込んでいく。春の陽に花が噴く喜びに、視界は光の渦に塗り込められる。死を送り去る花々の夢想を抜けて、青颯は大きく息を吸った。

 吐き出した時、光は靄になる。それが晴れた時、光へ向かって伸ばした手は、彼女の頬にあった。親指は、閉じられた目蓋の上にある。

 反射的に手を引っ込め、青颯は後ずさる。

 腹のすっかりへこんだハマが、居心地悪そうに立っていた。

 彼は両手に目を下ろし、何度か結んで開く。海へ向かおうとする思考停止が去り、要らぬ鼓動が鳴り響いている。はっきりと見えていた海への筋道は消え、代わりに行き場のない無力感が胸を占めていた。

「……ほんとに、なんでなんだ」

「生きていて、ほしいの」

 上げられた彼の顔は、哀切に歪んでいた。

「もう、何も失いたくないんだよ」

 彼は深く長い嘆息と共に、両手を下ろす。

「これ以上、関わらないで」

 去っていく背中を、追いかけることはできなかった。

 胸を抉る、彼の悲しみ。

「あれでも優しいとこがあるんだよ。面倒な奴だけど、よろしくね」冬至の前日、呪具を持ってきた彼女。彼が時折「凌光」と口にしていたのが彼女だと、すぐに分かった。今まで人の中に感じたことのない、穏やかな沖。遥か彼方の記憶に眠る、春の光を思い出した。

 醜い自分を蔑むこともなく、去っていった彼女。次に彼女の沖に出会ったとき、それはすぐ事切れた。

 東へ流れる影と共に、彼もまた海を目指しているのだろう。彼女に会うために。

 ハマは膝を抱え込んでしゃがむ。

 不思議と、母親が死んだときのことを思い出していた。

 琥珀の瞳の化物に殺された、その瞬間は泣き叫んだ。数日の間は、母を夢に見て何度も目を覚ましたが、どこかほっとしている自分がいた。殺されるのが兄でなくて良かった、とさえ思った。

 当時は罪悪感に苛まれたものだったが、今思えば当たり前のことだ。自分を恐れ、いないもののようにふるまい、時に痛めつける存在。それが己にとっての母親だった。

 ごろんと寝転がる。まだ一日が終わってすらいないのだ。突然酷使された心身は、太陽よりも先に安息へ沈む。 

 目を覚ましたのは、次の太陽が低く南中した頃だった。

 見事にへこんだ腹を上にして、ハマは青すぎる空を吸い込む。

 吐き出すと共に、寝転んだ大地がぐにゃりと歪んだ。

 跳ね起きて見ると、頭のあった場所だけ土が潤っていた。恐る恐る触ってみると、黒くなった土が指に貼りつく。彼女は土をいじりながら、また寝転がる。普通に息をしていれば、大地が変化することはなかった。

 これが、地底の母に類する恵の力なのだろう。軽くなった腹の底で、ちらちら瞬き存在を示している。

 ハマは無視して、土の上に白い手を投げ出す。

 何も、したくない。

昨日の自分が、既に遠かった。一生懸命思案をし、感覚を研ぎ澄ませ、彼に命を与えたことが嘘のようだ。

 何かができたとしても、一人では、どうにもならない。

 時間を耐え忍ぶことだけは、得意だった。あっという間に月が昇り、入れ替わるように日が沈む。

 少し首をもたげて、月を見る。

 右側にうっすら、隈があった。

 それだけ確認して、ハマは目を瞑る。

 翌朝は、日の出と共に目が覚めてしまった。

 むくりと起き上がり、腹をさする。

 なんとなく、自分も南へ行ってみようという気になる。

 母の力は、振るってほしいとボコボコわめく。

「分からない。使い方」

 ほとんど無私で歩き続ける。疲れないため休まないがどこにも辿り着かない。いつしか西を目指してさえいる。沈んでいく太陽を目にして、彼女はハッとした。

 また、「分からない」と言っていた。

 あれだけ後悔したのに。

 振り返ると、月は既に姿を見せていた。一日分、きっちり欠けている。

 青颯はもう、海に辿り着いてしまっただろうか。

 ハマは月に向かって歩き始める。彼のことをぐるぐる案じている内、月は太陽に変わっていた。

 彼女は目を細めて朝日を見る。彼が近くにいるような気がして辺りを見るが、荒野の他なにもない。

 がっくり肩を落とし、彼女は固い大地に寝転がる。地平線を吸い込み息を深く吐くと、同心円状に柔らかな土が広がった。目を閉じるとすぐに、夢へと落ちる。

 そうして無為の内に日々を過ごし、順調に欠けていく月を見上げる。その度青颯のことを思い出し、どこかにいないかと探し歩く。

 しかし、どこにもいないのだ。

 死んでしまったのだろうか。

 ハマは、明日には半分になろうとする月に問う。

「青颯はどこ」

 代わりに、腹の力が蠢く。

 再び会えたとしたら。別れ際の彼の顔を思い出す。悲痛を抱えた彼の目に、自分は映ることができないだろう。

 それなら、会えたとしても意味がない。

 力が、再び身を揺すった。

 それなら、彼の視界に入り込むしかない。

「どうやって」

 自身に問うが、答えは返ってこない。

 仕方なく考えようと、腰を下ろす。

 が、どう考えようとも諦念に行き着く思考回路では、答えのしっぽすら見出せない。気づけば眠り、起きれば夕日。

 下弦の月。虧月というのは、なぜこうも恨みがましく光るのだろう。闇に食われる悲憤を、地上に投げかけているような。地下に暮らす日々の中、外に出してもらえるのはいつも、欠けゆく月の間だった。

 青颯と初めて出会ったのも、その時だった。

 あの時は、見慣れぬ沖だと怪しんだ。興味深そうにこちらを窺う視線を断ち切るように、家に戻ったのを思い出す。

 今、あの時に戻れたら。何と声をかけるだろう。

「ここを出ろ」と言えるだろうか。

 しかしそうだったとしたら、自分は救われることなく死んでいた。

「そうだった」

 起き上がった時、ハマの目にはそれまで見えていなかったものが、白い光に浮き上がる。

 死者の、列。

 どろどろ向かうのは、きっと海。

 同じ場所に行けば、彼がいるはずだ。

 彼女は立ち上がる。透明な衝動に任せて、川のような列に沿って走り出した。





 何もない。

 枯れ、ひび割れた、平の地面。川の駆け下る傾斜が失われた、死後のような天地には、誰の影も、横切ることはない。ただ渡る太陽を、呆けた老人のように見上げていれば日中が終わる。入れ替わるように昇る月だけは、疎ましく見上げた。月は毎晩、日が沈む前に昇ってくる。冬至でそのまま時が止まっているのだろうが、月はなぜか欠けていくのだ。

 被害者を気取っているようで、こらえきれないほど腹立たしい。

 青颯は、顔を出した下弦を睨んだ。

「返せよ。全部。何もかも」

 翳りに食われた光が、答えるはずもない。

 彼は溜息を吐き、再び冷えた大地に転がる。見開いた目で、月光を乗せた指先を見つめる。

 生など、いらなかった。

 負けたと嘯きながら、結局最後まで勝ち切ったナダをなじることすらしなくなった。何をしても意味がない。声を放っても、はね返すものがない。

 目を瞑れば、蘇るのは禰々島での日々だった。見たくも無いのに、月影が誘いだす。些細な喜び、大きな喜び、衝突や憤懣。少しでも丈夫で、良い米を作りたかった。書物の海に溺れそうになりながら、それでも進めたのは光があったからだ。

 それが一番、思い出したくないことだった。

 手の平を強く、眼球に押し当てる。「もう、許してくれ……」

 皮膚が剥がれるほど、強く顔を引っ掻く。

 どろ、どろ、どろ、と、死した大地が震える。

 青颯は緩慢に首を回し、音の方を見る。

 ぼやけた視界が、小川をとらえる。そんなはずはない。焦点が合った時、青颯は身を起こす。

 それは亡者の列だった。

 月に青白い身体を透かせた、ワタドの人々。

 彼は何も考えずに立ち上がり、列に駆け寄る。しかしそれは地平線のように、追えども追えども近づかない。

「待って。そっちなんだ、俺も」

 負けじと追い続ける彼の足が、突然止まる。何度か、後ずさりさえした。

 見開いた瞳は、列から離れて向かってくる影を映している。

 それは、誰よりも長く過ごした彼女の顔をしていた。逃げることもできずに硬直し、やがて亡者が立ち止まる。

 佇むだけで、何も言わない。せせらぎのように穏やかな視線を、向けてくるばかりだった。

 耐え兼ね、彼は問う。

「誰」

名前……?ああ、しばらく名乗ってなかったから、忘れてた。凌光、と言うよ。あんたは?

「……青颯」

 よろしくね青颯。ここはなんにも無くて、いいところだよ。そんなピリピリすることもないさ。ゆっくり過ごしな

 彼は、息を止めた。

 ここの魚は美味いよ。釣りだってなかなか楽しいんだ

 米があったらもっと、いいんだけどなあ

 ほんとに?米が?食べられるの?

 こんな具合じゃないかね。いい米ができるといいな

 まあ、また来年も頑張ればいいよ。時間だけはたっぷりあるんだからさ

 飯だよ

 懐かしい感じがするね……

 これがうまい米になるのか

 炊けたよ……!米が……

「もういいから」

 青颯は、目を瞑る。

「守れなくて、悪かったと思ってる……」

 あんたが居てくれて良かったと思ってる

「いいから、もう」

 あんたが来なかったらさ、多分なんとなく死んでたと思うんだよね

 なんか、わざわざ言うのもさ、あれなんだけど……

「もういいって言ってるだろ!」

 目を開け、怒声を飛ばす。

 その先、彼女の姿はもうない。

 死の小川に、手を伸ばす。答えるように、人々が口をそろえ唱え始めた。

 

 我らが沖は月へ向かい

 光なる祖先とひとつになる

 月の雨となり大地へ注ぎ

 新たな命が芽を出だす

 我は二度と戻らねども

 新たに生まれ来る命の中に

 我が沖を見るそのときは

 喜び携え唱えたまえ

 再び天地を共にせん

 再び天地を共にせん


 指の間を、光が虚しくすり抜ける。

 それでも諦められない彼は、川と並んで走り出す。人々の中に彼女の姿を探すが、どうしても見当たらない。夢中で探して追いかける内、忌まわしい月が沈んでいく。

 曙に白い空。亡者の身体は空に透けていく。焦って走る彼の耳に、異質な音が飛び込む。

 潮騒。

 死者たちは、谷にさえ見える海へと身をうずめていく。その中に、彼女がいないか必死に探した。

 彼の足は浜を踏む。皆が流れるように海へ入る中、一人だけは立ち止まり、こちらを振り返る。

「凌光……!」

 彼は迷わず寄せる波へと突き進む。が、突然爆ぜた娘の声に、一瞬だけ立ち止まった。

「行かないで!」

 朝日の昇る方から、ハマが駆けてくる。こちらを一瞥して、再び波を蹴る青颯を追う。

 彼を目にした途端、全身に力が満ちるのを感じていた。高鳴る鼓動に任せて速度を上げ、小波を散らして肩を掴む。

「なんで止めるの!」

 振り返って怒鳴られても、怖くなかった。

「あなただって、殺してくれなかったじゃない!」

「関係ないでしょそんなこと」

「死んでほしくないの。絶対に嫌なの。あなたがいなきゃ嫌!」

 青颯は彼女の手を振り払う。

「そんなの、条件反射みたいなもんでしょ。俺が死なないように手を尽くした。だからそう感じるだけだ。勘違いしないで」

「勘違いでも、いい。いなくならないで。お願い」

「……うるさいなあ」

 彼は一息に彼女の首を鷲掴む。耳元で、低く囁いた。

「未練があるならお前が死ね」

 彼女の足が崩れるままに、砂浜に押し付ける。

 あの時の、比ではない。苦しいが、意識が遠のくことはなかった。目から涙が零れ落ち、怒りが湧いてくる。思うよりも先に、分身の力は彼を跳ねのけている。夢中で、彼女は彼の頬を張った。

「あなたがどうして、そんなこと言うの!」

 彼女の背後、太陽がその身を掲げる。 

「私を勝手に、生かしたくせに。自分が生きろと言われたら、私を殺そうとする。無責任だわ。逃げないでよ!」

 彼は痛みに手をやる。涙を流す彼女を、満月のような目で見た。

 頬は、今の今まで滾っていた殺意のように熱い。光を頂く彼女が、凌光に水をぶちまけたあの冬の愚かを思い出させる。

「……俺は、変わってなかった」

 指が痛みを離れる。

「ずっと一緒にいたから、マシになれてただけなのか」

 死者の列は残らず朝日に溶けている。

 沖の方。ぼんやりと一人だけ、残月のように彼女が立つ。

 真っ黒な海に隔てられ、向かい合う。彼は茫然と覚った。

「凌光は、死んだ……」

 当たり前に、生活を共にすることはできないのだ。

 もう二度と。

 立ち尽くす彼の耳に、言い残された言の葉が舞い込む。

 ありがとう

 涙が、頬を滑り落ちた。

 心のどこかで、またいつか禰々島で暮らせる日を、夢見ていたのだ。

 遠ざけていた感情が荒れ狂う。喉が絞り出す声を、殺そうとするのに。震え出す唇を、強く噛むのに。どうしてもかなわなかった。死の海を跳ね、自分の嗚咽が返ってくる。

 ハマは、遠くで彼女の影が、微笑みを残して消えたのを見届ける。それを彼に伝えようとするが、感情が急いて言葉にならない。自分が泣くのは筋違いだ。慰めをかけようとするが、堪えきれずに決壊した。

「なんで……君が泣くの」

 ハマは答えず、首を横に振る。

 まるで自分のことのように泣きじゃくる彼女に、熱した頭の温度が下がる。心地の良い温度に誘われるよう、死者たちの歌が蘇る。

 彼は、彼女の消えた海の先、黒い島影を望洋した。二度と生活を共にできないとしても、ああしてまた、再び会うことはできるかもしれない。

「でもここには、雨も川も、無い」

 瞳を閉じると、最後の涙が頬を伝った。

 二度と戻らない日々を愛おしむこと。

 そんな虚しい円環に閉じ込められては、もうきっと、どこにも行けなくなってしまう。

 青颯は、袖で頬を擦る。腫れた瞼に、冷たい指先をあてる。

 開かれた萌黄色の瞳は、強く朝陽を映していた。

「どうにか、戻せないかな。平らな天地を、元のように」

「……できるかも、しれない」

 未だにしゃくりをあげる彼女に触れようとするが、首を竦めたのを見て手を下ろす。

「怖いことして、悪かった」

 彼女はすぐには答えず、指をいじる。

「……口だけじゃ、怖いままだから。優しくして」

 腐ってもナダの妹か。青颯は口をへの字に曲げた。

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