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そしてまた月は満ちる  作者: 春日野霞
四 生活
8/89

禰々島

2021.01.04 投稿

 椀を伏せたような小島の崖で、釣りをする人影。

 昼前の太陽と海風に、黒い目を細めている。傍らに置いたびくは、中の魚が跳ねるのと同時に、生き物のように震えていた。

「今日はよく、魚が釣れる」

 歌うように言うと、釣り竿を引き上げる。その糸の先に、身を振って逃れようとする魚――しかし蛇のような姿をしており、蛙の手足のような位置に鰭がついている――が、鱗を光らせ、細かな飛沫を振りまいていた。

 釣り人は蛇のような魚を掴むと、口から針を外す。同じ魚の入ったびくに放ると、餌を付けて海へ釣り竿をしならせた。ふと、頬に冷たい風を感じて空を見る。

 水平線の上空に、真っ黒い雲がのさばっていた。

 一雨来るだろうが、まだ大丈夫だろう。たまには雨に濡れるのも悪くない。そう思って鼻歌をうたいながら釣り糸を垂れていたのだが、洗濯物を干していたことを思い出す。

 釣り人は慌てて釣り糸を引き上げ、餌を外して籠の中に戻す。腰にびくを下げて籠と釣り竿を持ち、崖を後にした。

 険しい岩を削り、不格好ながら作られた階段を上る。何度か折れたところで階段がひと段落し、新緑の木々が繫茂した森に入った。急勾配を、軽やかに登っていく。目指す先である島の頂上には、灰色の塔が建っている。釣り人はそこに住んでいた。

 息も切らさず登りきる。塔の周りには畑があり、作物が葉を揺らしていた。釣り人は、身の丈の倍はあろうともいう木の扉を開ける。廊下や壁も、外壁と同じ石でできており、中は薄暗い。入ってすぐ左にある入り口の向こうには台所があった。荷物を棚の上に置き、勝手口から外に出る。

 冷たい風になびく洗濯物は、乾ききってはいなかった。潮風に混ざって、雨の匂いが濃くなってくる。元釣り人は洗濯物を取り込んで、塔の中央を貫く螺旋階段で二階へ上がる。物干し竿だけが置いてある部屋にそれらを干してしまうと、魚を処理しようと一階へ下りかけたが、ふと気になることがあり三階へ上る。

 黒ずんだ扉の前で「青颯」と中にいるはずの人物に呼びかける。案の定返事がないので、扉をそっと開けてみる。夥しい数の書物の中に埋もれる少年の姿が、そこには無かった。窓を閉め切っているために暗い部屋の、灯りがつけっぱなしになっていたが、辺りがふと暗くなった瞬間に消える。

 隣の部屋から空を見ると、雨雲が遂に太陽を覆っていた。

 嫌な予感を抱えながら、一階に下りて魚を捌いていたが、空がゴロゴロと鳴り始めたのでいよいよ何かあると塔を出る。

 塔から下へ下りる二本の道の内、釣りを終えて上ってきたのとは別の、浜へとおりるための道を下る。はやる息と共に森を抜けた所、岩の手前に少年が立っていた。曇天の下、振り返った青白い顔に、萌黄色の瞳が鋭く光っている。

「変なのが来た」

「変なのって何」

「分かんない。凌光は塔に戻ってて」

 真っ黒に翳った空が、低く唸る。

「新種の獣?」

「だったら話は早いよ退治しちゃえばいいんだから……そうじゃない気がする」

ぽつりと冷たい雫が落ちてきたかと思うと、次から次へと大粒の雨垂れが落ちる。

「ほら降ってきた。雷使うかもしれないから戻ってて」

「あんたの側にいりゃ当たらないだろ」

「気が散るって言ってんの」

「大丈夫大丈夫あんたなら」

 と笑って肩を叩く。

「大丈夫じゃないから言ってるんじゃん」

 少年は不機嫌そうに顔を歪めた。

あっという間に土砂降りになり、臨む海は灰色に煙り遠くで空と溶け合う。

「まあ、害になるかは分かんないってことでしょ。雷使ったら即死しちゃってたいへ……」

「……ち……。だ……ぃ…………ぉ……」

 二人は顔を見合わせる。

 浜の方から、呻くような声と、べちゃ、べちゃ、と岩を叩く音が、近付いてくる。

「……人っぽいね」

 凌光が訳もなく声を潜める。

「いや、人の皮着た化物かもしんない」

「そんなの今まで来たことないだろ」

「そもそもここ意味分かんない場所なんだから、何が起きたって不思議じゃないでしょ」

「……ぃち……おれが……おれは…………わるかった………………!」

 悲痛な声が灰色を裂いた。

「こわ……」

「だから戻っててって言ったんだ」

「でもちょっと面白いかも……」

「……勝手にしなよ」

 階段を這い上がってくるような音が消え、代わりにむせび泣く声が上ってくる。

「なんか、可哀想だね」

「そうやって人を騙すやつなのかもしれない」

「だれか……だれかいるのか?」

 そう聞こえたかと思うと、階段を駆け上がる音がする。目を円くした凌光の前に現れたのは、ボロボロになった服を纏った青年だった。顔に貼り付いた髪の間から、黒い瞳がのぞいている。

「……ちを、みちを、知らないか!」

 瞳を、炯々と光らせて青年が迫ってくる。

 その鼻先に、青颯が手にした闇の刃の切っ先をかざす。

「それ以上近づかないで」

「ちょっとあんた危ないでしょ」

「黙っててよ」

 青年は、少年の険しい瞳と刃を見て、肩の力を抜いたように一歩退く。

「あんた、名前は」

「……晴瀬だ」

 どこかで聞いたような名前だ、と凌光は首を傾げる。

「どっから来た」

「死んだ後の、世界だ」

「何しに来たの」

「……知らねえ。俺だって、こんな所いたくねえよ。どこなんだここは」

「禰々島だよ」

 青年は、両目を大きく開いた。

「死んだ後の魂が向かうって、あのネネトウか……?」

「そうそう。そうだよ」

 首を傾げる青颯の代わりに、凌光が何度も首肯する。

「残念ながらそんなものは迷信だよ。あんたはどうやってここに来たの」

 少年が固い声で突き込む。

 青年は見開いた目を半分にまで閉じ、黒ずんだ岩を見下ろして溜息を吐いた。

「引っ張り上げられたんだ。怨霊に」

 雷光を、唸り声が追いかける。青颯は闇の刃を消し、腕を下ろす。

「あんたは生きてるとき、何をやったの」

「……聞かないでくれ」

 俯いた彼の、握った拳が震えている。しかし青颯は「聞かれちゃ悪い事したんだ」と食い下がる。

 その間に、凌光が割って入った。

「まあまあ。これ以上ずぶ濡れになるのも嫌だし、悪い人じゃなさそうだし、とりあえず塔に連れてってやろうよ」

「相当悪い事したみたいだけど」

「でも反省してるっぽいじゃない」

「反省してたって、悪人が何をやるかは分かんないよ」

「その通りだ……」

 晴瀬は、手の平を額に打ち付ける。

「俺は、みちも……救ってやれなかった……人だって、殺した」

 凌光は同情するように悲しげな顔をするが、青颯は晴瀬の感情に構わないようで「だから何なの?」と首を傾げる。

「それなのに俺は、また生き返っちまった」

「安心して。半分は死んでるから」

「俺は、死にたいんだ!」

 細かな飛沫を散らして、彼が顔を上げる。

「まったく、無いものになりたいんだ」

「じゃあ死ねば?殺してあげようか」

「なんてこと言うの、あんたは!」

 と凌光が大きな声を出しても、彼はひるまない。

「もうじき雷雲が来る。俺があんたに雷を落として、一瞬で殺してあげるから」

 虚ろな瞳で頷く彼の顔に、雷電が影を作る。空を破裂させるような雷鳴を背中に感じながら、凌光は晴瀬の肩を叩く。

「こんな血も涙もない術士の言うことなんて聞くもんじゃないよ」

「死にたいって言ってんのに無理に生きさせる方がむごいよ」

「わざわざ死にたいなんて口に出すのは、死にたくないからだよ。ほんとに死にたい奴は勝手に飛び降りるさ」

 春の日差しのような声で言うと、晴瀬の背中をバアンと叩く。

「飯でも食って温まれば、生きてく気力も生まれるもんだ。こんなとこでうだうだしてないで、家においでよ」

 背骨が折れるかのような衝撃は、熱となって晴瀬の全身を駆けていた。

 凌光に誘われ青颯に睨まれ上った塔で、晴瀬は二階の空室に通された。

「とりあえずこれ着ててよ。私のだから入るか分かんないけど」

差し出された服と、凌光を見比べる。細身の男のような体躯をしていた。しかし声や口調はどちらかというと女のようだ。黒い髪をかんざしでひっつめた顔は中性的で、判別がつかない。

「……男なのか、女なのか?」

「どっちでもいいよ。あんたが好きに決めな」

 あっけらかんと言うと、部屋を出ていく。しかしちょっと引き返して顔を覗かせ「脱いだやつは下持って来て」と残し、軽やかな足音を響かせて下りていった。

 晴瀬は、どちらかというと女だろうと思いながら、着替える。案の定腕が通らず、諸肌脱ぎになって、髪を拭きながら下におりる。

 下りてきた彼を見て、凌光は目を見開いた。

「すごい、立派な身体してるよ。肩と胸がしっかりしてる」

 降る雷鳴と共に、脆弱な身体を震わせてくしゃみをした少年を振り返る。

「嫌味?」

 と凌光を睨む。

「顔も良く見りゃいいよ……脱いだのかして」

 彼……女は受け取った服を、既に二着が沈んでいる盥の中に放り込み、台所に立つ。

「見た目のいいのが来て、良かっ……」

 ともう一度くしゃみをし、言い残した「たね」を加えて晴瀬を見る。睨んでいるわけではないのだが、彼の三白眼は晴瀬に睨まれたと感じさせた。

「そんなとこ突っ立ってないで座ったら」

 と自分の向いの椅子を示す。晴瀬は言われた通りに、椅子に座る。毛皮を被り、寒そうに腕をさする彼は見たところ十代前半のようだが、頭の上の方で束ねた灰色の髪のせいか、どことなく老人のような雰囲気を感じさせた。

「お前、いくつなんだ」

「知らない。でも、この島には五十年ぐらいいるよ」

「何年だって?」

 聞き間違いかと思う。

「五十年だってば」

「あいつ……凌光もか?」

 台所で包丁を振るう彼女の背中を見る。どう見ても、三十歳前後だった。

「大体同じだね。俺の方がちょっと後に来たけど」

「来たって、来ようと思って来れるとこなのか」

「いいや」と彼は首を横に振る。

「俺らは一回死んでるはず。死んだ瞬間の記憶はないけどね。死にそうになって目覚めたらここにいたんだから、まあそういうことなんだろうと思う」

「でも、五十年って、どういうことなんだよ」

「死人は歳取らないだろう?でも、地上と全く同じように生活してる。ってことで、半分死んでて半分生きてる。あんたが死んだ後の世界にいたっていうんなら、半分は生き返ったってことなんだろうね」

 死後の世にいるとき、飢えや渇きは一切感じなかったことを思い出す。今の自分の腹は食物を欲し、ぐうと音を上げる。

 生を取り戻した実感に、彼は顔を歪めた。

「……俺は生き返りたいわけじゃなかった」

「まだ言ってる。死後の世界で何かあったの?人を探してる風だったけど」

 言いたくないと言ったところで、この少年は譲らないのだろう。それでも黙っていたが、強い視線に観念し口を開く。

「……女の子がいて、守り切れずに……死んじまった」

「死後の世界に死があるっていうの?」

「俺も、よく分からない。でも、あれは、死んだ、って言うしかない」

 指に残って離れない、彼女の冷たさを思い出す。涙が零れそうになり、拳を握って堪えた。

「みち、っていうんだけど……みちを救い出すには、俺も死ぬしかないだろ。それに、なんで俺の方が生き返って、みちが死んだんだ……」

「そのみちは、誰かに殺されたの?」

 晴瀬は首を横に振る。

「『自分は死んだ』って、言い出して、そしたら身体が冷たくなっていったんだ……」

 空に雷光が弾け、直後に轟音が爆ぜる。

「それさっき凌光が言ってた、ほんとに死にたいから自分で勝手に死んだ、ってやつなんじゃないの?」

 あっさり言われ、晴瀬は逆上し立ち上がる。「そんなことねえよ!」

「あんたみちでもないのになんでそんなこと断言できるの」

 あまりに何でもないように言うため頭に血が上る。青颯はそれを見抜いて「悪かったから、座りなよ」と落ち着いた声で言う。晴瀬も腹を立てた自分が急に恥ずかしくなり、椅子に腰を戻す。

「でもさ、自分で死んでいった人を救い出すことがほんとにその人を幸せにするのかは疑問だね。あんたが今腹を立てたように、あんたの衝動でしかない気がする」

 的の中央を射切られたようだった。

 思えば、春軌を殺したのだって、衝動のようなものだ。大勢を殺すなら一人を殺せ、と、反乱に至るまでの様々な苦労や仲間の願いを思い出すこともなく、その感情に突き動かされて、殺していた。

「……あんたは悪い人じゃなさそうだけど、ふっと湧いた衝動で人を殺したんだろうね」

 そこまで看破され、彼の目を見ることができない。

「なんで、分かるんだ」

「見てりゃ分かるよ」

「火、ちょうだい」

 凌光が振り返る。青颯は一指のもとに、竈に火を灯した。晴瀬は目を円くする。

「お前、すげえな」

「まあね……で、なんで人を殺したの?」

「……」

 晴瀬は目を瞑る。唇を内側から噛んだ。遠ざかってはいるものの、未だ轟々とした雷の音が、目蓋の裏の暗闇に響く。

「嫌なら無理に言わなくていいよ」

 妙に優し気な、少年の声。

「これからも黙って自分の内だけに抱え続けて、罪過意識を太らせてった方が楽だってんならね」

胃の腑を抉るような思いで、目を開けた。

「俺は……術士だった。術士はバレたら、養成所に行くだろ」

「知らないけど。続けて」

 どう見ても、彼も術士だ。知らないことなど有り得ないが、今は留め置く。

「……養成所では人格を消される。朝廷に都合のよい術士になるように調教されるんだ。とにかくひどい目に遭うんだけどな、教官は阿保みたいに強いし、反抗すればひどい目に遭う。下手をすれば殺されるんだ。だから皆、最初から従うしかなくて黙ってんだ。その内、朝廷の犬になってる。それで、教官の側から反乱を始めた人がいた。それが、春軌、っていう人だった」

 凌光が野菜を切る音が、弱くなり始めた雨音と共に響く。

「俺は巻き込まれるみたいに、春軌さんの反乱に加わった。術士も同じ人間なのに、人間でない扱いを受けるのはおかしい、って考え方が、当時の俺には衝撃だった……俺だけじゃないな。それを聞いた誰もに電撃が走った。他の教官にバレないように、静かに、仲間を増やしていった。教官は阿保みてえに強いから、数で潰そうってのが最初の段階だった。反乱決行の前日に、春軌さんが教官を三人、殺した。それで、俺は思ったんだ……」

 凌光が、包丁の手を止めた。

「術士が反乱を起こしたら、その先でものすごい数の人が死ぬ。そのことを、春軌さんに言ったんだ。誰も殺さない、反乱ができないかって。暴力に頼るんじゃなくて、口でなんとか、できないかって。俺にそれはできないけど、頭の良い人だっていたんだ。でも、全然、聞いてくれなかった」

「から殺したの?」

「殺した、というか、殺してた……お前が言う通り、衝動だ。大勢を殺すより、一人を殺した方が、いいと思った……」

「思い出した!」

 凌光が石の包丁を振りながら近付いてくる。

「あんた、術士の反乱を止めたってあの、晴瀬か!春軌って、王に反逆しようとした人を止めたって英雄の。ねえ、村芝居なんかでよく見たじゃない」

「何度も言うけど、俺の村は普通じゃないから知らないよ」

 と首を横に振る。

「でもおかしい。相当昔の話だからさ。百五十年……二百年くらい前の話だよ。たまたま名前が同じのあんたが、たまたま英雄の晴瀬と同じようなことしたんなら別だけど、そんなことはないよなあ」

 凌光は包丁を振りかざして格好を決め「王に歯向かう悪人をバッサバッサと斬り捨てて、悪の親玉春軌に向かい……」

「……俺は、春軌さんしか殺してない」

 彼は沈んだ声で言った。

「英雄って、なんだよ……俺は、裏切ったんだ。反乱しようって言ってた仲間を」

「それが、普通の人には英雄なんでしょ。術士って人じゃないみたいな扱いを受けるんでしょ?鬼って言われて」

 と憎々し気に言う。

「それに……結局、養成所の術士はほとんど、殺された。反乱をするなんてことを知らなかった奴もだ。ひどい殺し方だった。……反乱をしたところで、止めたところで。そんなことをやり始めた時点で、覚悟しなきゃいけないことだったんだ」

 彼はうな垂れる。

「俺はもう、どうしようもない馬鹿なんだ。それなのに、みちが死んで、俺が生き返った……俺が消えて無くなった方が、いい」

「あんたが使うべきは頭じゃなくて、身体でしょ。苦手な方使えなくてがっかりしちゃうから死にたくなるのさ」

 凌光が、彼から染み出る悲嘆の闇を振り払うような声で言う。

「村芝居でも、あんたは勇壮で術達者な男だって言われてたよ」

「俺はそんなんじゃねえよ」

「うんそうだよ。術士としては俺の方が絶対強いよ」

 けなされても、言い返せない。目の前の少年の実力は分からないが、分かれないことこそが、彼と自分の力量の差を証明しているような気がした。

「せっかく励ましてるのに口挟まないの。術のことは分かんないけど、このしっかりした身体は芝居で見た通りさ」

 と肩を叩く。

「少なくともこの島では、あんたがいてくれた方が私も楽に暮らせるよ。仕事を半分こできるから。死ぬなんて辛気臭いこと言わないで、もうちょっと上向いて生きてみなよ」

 そうは言っても、自分の過失は消えないのだ。凌光は料理に戻る。青颯は何かを考えこむように宙を睨み、やがて自室へ消えていく。遠ざかる雨音に、料理の音が勝る。窓の外で鳥が囀り、太陽が顔を出す。緑が雨粒を喜ぶように輝き、涼しい風が吹き抜けた。それにのって鼻孔をくすぐった匂いに、晴瀬は思わず顔を上げた。

「さあ、もうできるよ。青颯呼んできて」

「どこに、いるんだ」

「たぶん三階にいるけど、下から呼んでも来るよ」

 そう言われても、何と声をかけたらよいのだろう。迷いながら席を立ち、階段の前に立ってみる。灰色の石でできたそれは、冷たく薄暗い。上を見ると二階の光を迎え入れて僅かに明るかった。

「……青颯」

「そんなんじゃ聞こえないよ。もっと大きな声で言わないと」という声が、階段を駆け上がっていった。それを追いかけるように「青颯!飯だ!」と大声を出す。久し振りに腹から声を出したような気がする。

 少しだけすっきりした気持ちになって、台所に戻る。そして机の上に置かれたものを見て、目を疑った。

「白米……?」

 白い輝きが、芳香と共にふわりと湯気を立てている。

「そうさ。私と青颯で、頑張って田んぼを作ったの。そのお米だよ」

 怖がるものでもないのに、晴瀬は恐る恐る席につく。甘い匂いが、脳天へと駆けあがった。

 凌光が白米の横に、みそ汁を置いた。その時青颯が難しい顔をして下りてくる。もう一品は、あの蛇のような魚の刺身だった。全ての食物が、自身の有していた命の残光を湛えてシンと光る。

「ほれ、冷めない内に食べな!」

 いただきます、と手を合わせさっさと食べ始める青颯の前で、晴瀬は震える手で箸を握る。

「い、た、だ、き、ます……」

 白米を、口に運んだ。

「うまい……」

口いっぱいに広がった味や香りが幸福を醸し、全身を駆け抜けていく。次いで、みそ汁をすすった。美味は涙腺をほどき、彼の眼からほろりと涙が落ちる。

「うまい……」

「泣くほどうまいって。ほら見なよ、泣いてる!」

 と凌光は嬉しそうだ。

「これも、どんどん食べな!こいつはどうせいらないとか言って残すからこれも」

 青颯の汁を晴瀬の前に置く。

「とんないでよ」

 と自分の元に戻す。

 晴瀬は涙と共に、飯をかきこむ。身の内の幸福を噛締めるように、夢中で食べ続けた。

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