一世一代の
2021.03.20 投稿
影自身もまた、彼女に気づいていた。
『ハマだ』
未だ身体に留まる声が、体内に響く。
遠くからやってくる彼女に、青颯は目を細める。ふらついた足取り。強いのか弱いのか判然としない沖。ワタドの習俗通りに結んでいた髪はほどけ、風になびいている。
『ハマはきっと、僕と君を引き離してくれるよ。嬉しいかい』
青颯は答えない。彼女から目を逸らし、大地の一点を見つめている。
『聞いてる?』
なおも続く沈黙にしびれをきらし、『どうして、口を聞かないの』と彼が問う。
「もう、どうでもいいから。何もかも」
力のない声で呟く。
『死んだから、そんなに気力が無いのかい』
「そうなんじゃない」
『ハマは、君を生き返らせに来たんだと思うよ』
「またでまかせを」
『この期に及んでそんなこと言わないよ』
「あそう」
『君、死にたいんでしょ』
「うん」
『逃げた方がいいんじゃないの』
「お前がそう言うのなら、しない」
『おや、元気が出てきたね』
「うるさい」
ふふ、とナダが笑う。
『しかし、君があの場で抵抗するなんて思わなかった。お陰で世界はこのザマだ』
「俺のせいだって言いたいの」
『君を元気にしたいから言っただけ』
「……やっぱお前には離れてほしい」
『そうこなくちゃ』
青颯は溜息を吐いた。どの道最後なら、付き合ってやってもいいと観念する。
『僕は、君に感謝してる。だから機会があるんなら、なるべく生きていてほしい』
「勝手だね。そんなことは自分で決める」
『勿論自分で決めればいい。ただ、僕はそう思うというだけの話さ。君がいなかったら、村の滅亡なんて叶わなかったから』
「……それがお前の、本当の望みだったのか」
『そうだよ』
彼は事もなげに言う。
『うらやましいかい』
「そんなわけないじゃん。変なこと聞かないでよ」
『村の因習に盾突いてひどい目に遭ったって聞いたから、似たようなもんかなと思ったんだけど。確か、妹を殺されたんだっけ』
ハマが、彼に話したのだろう。
『君は失敗して妹を殺されて、僕は成功して妹を殺しそびれたのか。面白いね』
「殺しそびれたって……お前、ハマを何だと思ってんだ」
『何とも、思ってないよ』
「沖術の破滅のために躊躇なく犠牲に捧げたり、そんな態度とったり……ハマは物じゃないんだ」
底に怒りを潜めた、低い声で言う。
『そんなこと分かってるよ。だから、犠牲になってもいいかって一度尋ねてる』
「そこが、そういうところが、おかしいって言ってるんだ」
『おかしいのか……。何がどうおかしいの』
「説明する気にもならない」
『ハマだってきっと、村を滅ぼすためだって言ったらそれでもいいって言うと思ったんだ。彼女も村を憎んでいたから。僕自身も、村を滅ぼす手段として死んだわけだし』
「そう、ハマに聞いたのか」
『いいや』
「それならお前が勝手に決めただけだ。ハマはお前じゃない」
ナダから、声は返ってこない。しばらく経って、『……そうか。ハマは、僕じゃないのか』と独り言がポツリと響いた。
「今更気づいたのか」
『うん』
青颯は首を横に振る。
「お前、いや、お前らはどうかしてるよ。本当に」
『どうかしてるのだとしたら、僕らじゃなくてあの村がおかしかった』
声の温度が、突然下がる。
『ハマは人の嘘を見抜く力があり、僕には先を読む力がある。村のために使えば絶対に役に立つのに、奴らは僕らを潰そうとした。どうかしてるだろう』
冷えた彼の声の下に、憎悪が蠢いている。
『なんとかしようとして、僕は人々を信用させてあの地位に立った。でも、ハマはどうにもならなかった。暴力的な子供の標的になって、毎日毎日身体に新しい傷ができる。親も同じだった。ハマをいないもののように扱った。親だけは、僕もどうしようにもできなかった。何をしようが生意気だと暴力を振るわれた。望んでそんな風に生まれてきたわけじゃないのにね』
「お前もハマを殺そうとしただろう。それだって……」
『そして都合よく、琥珀の瞳の化物が現れた』
青颯の言を遮り、ナダは続ける。
『僕がハマを特別な方法で殺すなら、代わりに何かを与えてやろうと彼は言った。だから、ハマのためにもなることを願おうと思って、村を滅ぼす手助けをしてほしいと言った』
「死んだら、滅ぼしたって意味がないじゃないか!」
『君は本当に、正論を吐くのが好きだね』
柄にもなく、吐き捨てるように言う。
『人の心は正論では動かない。思い込みで、人々は行く先を決める』
青颯は閉口した。
『でも、それが当たり前なんだよ。誰しも、世界を好きに切り取って好きに意味づけて生きている。それが人間だ』
歩み寄ってくるハマから目を逸らすように、彼は俯く。
『自分の命がどうなろうがどうでもよかった。ハマのことを自分だと思っていたから、彼女の命だって一緒だ。ただ息をしていたいだけの僕らを押し潰そうとしてくる奴らを全員、殺すことができるのなら』
度を過ぎた憎悪にも、今は反論できない。
『しかも、沖術は母神の祟りだということを、君が調べてくれた。それを聞いたとき、あの村が滅びることは単なる僕の願望じゃないと確信したんだよ。母神を苦しみから解放するために、ひいては未来の人々のために、母神を呪った罪人の子孫である僕らは邪魔だった。全滅は必然だったんだよ』
青颯は呆然として、荒れた大地を目に映す。外部からいくら叩かれようとしぶとく生き残ってきた一族は、内部から破壊されることでしか滅びることができなかった。ナダのような人間が生まれてきたことそれこそが、必然の結果なのだ。
そして自分もまた、その因縁の一端だ。
妹を殺されたあの日、失われていく意識の中で、無力や憎悪や憤怒が渦を巻いていた。同時に死にたくないと強く感じていたのは、憤怒を力に、憎悪を向けた相手を滅ぼし、己の無力を払拭したかったからではないか。
それを自分は、叶えたのだ。
必然の元に生まれたナダと、あの日煮え滾った己の意志が交差して、惨劇は起こった。
青颯は、深い溜息を零す。
それならばなおのこと、凌光が巻き込まれてはならなかった。
叩きのめされたように力を殺がれた彼は、「はやく、俺も、死ななければならない」と零す。
『それはきっと、うまくいかないよ』
「なんで」
『ハマが、自分で新しい運命を手繰り寄せてしまったから』
風の中、ハマが立ち止まる。青颯は乾いた瞳で、いっぱいに涙を溜めた彼女を映す。
「それでも、俺はもう、生きていたくない」
ハマは、髪を揺らして首を振る。
「……これからも、生きていて」
青颯は立ち上がり、彼女を見下ろした。
「勝手だね」
「あなただって、殺してくれなかった」
ハマが、ゆっくりと上げた手の平を青颯に向ける。血流が逆巻くような不快感に襲われたかと思うと、ナダの影がゆっくりと自分から抜けていく。透けた彼ごしに、二人が向かい合って手を繋いでいるのが見える。
青颯は大きく溜息を吐く。
「それじゃあ」
ハマの横を通り過ぎ、彼は海の方へ歩いて行った。
彼女はそれを見やって、唇を噛む。焦ってはいけない。順番通りに果たすのだ。
ゆっくり、兄に向き直る。
『離れるなんて、嘘みたいだ』
風景に透けたその顔は、心底不思議だという顔をしていた。
『君、彼のところに行くんだろう』
目で指したのは、青颯の方。
ハマは答えず、下を向く。
『バレバレなんだから、隠さなくてもいい』
その穏やかな声に誘われて、喉の奥から声を絞り出す。
「ここには、力がある」
彼女は、膨らんだ腹をそっと撫でる。
「死者を、蘇らせる力……兄さんだって、きっと、生き返る」
『でも、君は彼を選んだんだろう』
「ごめんなさい」
『彼、生きることなんて望んでないって言ってたね』
「はい」
『それでも、君の傲慢を通しにいけるのかい?』
答えられない。
きっと拒絶される。そう予期していながらも直視できていなかった。生きながらえることの苦痛を、誰よりも知っているのに。
迷いに淀む耳に、唐突に明るい声。
『その力で僕が生き返ったら、僕はハマの子供ということになるのかな』
彼女は、弾かれたように顔を上げた。
『ということはさ、自分の子供が自分になるってことだ』
突然、怖気が駆け上がる。二度と思い出したくない夜のことが頭を巡り、ハマはよたよたと退く。
兄は、怖い笑みを貼りつけていた。
『そんな顔してるのに、手は離さないんだね』
見れば、彼はもう自分の手を握ってはいない。
『選ぶってことは、そうじゃない方を捨てるってことだ。そして選んだからには、たとえ厳しい道だって進んでいかなくちゃならない。目で見て耳で聞いて頭を使って、なんとしてでも歩き抜く。幻想だけで突き進もうとすれば、いずれ必ず身を滅ぼすことになる』
彼は新たな笑みを浮かべた。
『それじゃあ、お元気で』
ハマは、首を何度も横に振る。
目に映るその穏やかな顔は、昔の兄そのものだった。恐怖の記憶は温もりの記憶に塗り替えられ、気づけば叫んでいた。
「離れたくない!」
『じゃあ、僕を生き返らせるの?』
「そうする」
『彼は死んでしまうよ』
また、答えられない。
どんどん遠ざかる青颯と、目の前の兄。
どちらが大切ということも、なかった。
「……兄さんが、決めて」
掠れた声で言う。
「私なんかには、決められない」
『僕にだって決められない』
「どうして」
『どうしてって、これは君が選ぶことだからだ』
「今まで、好き勝手、決めてきたじゃない!私を地下に閉じ込めておくっていうのを決めたのも、術のために私を殺すって決めたのも、兄さんじゃないの!」
突然、ナダの表情が冷たくなる。
『いいや。ハマが自分で決めたんだよ』
さ、と顔から血の気が引いていく。
『僕はいつも、提案しただけ。それでいいか、って。その時頷いたのは君だ』
ごめんなさい、と口走りそうになるのをなんとかこらえ、切れ切れに紡ぐ。
「でも……だって……嫌、だなんて、言えなかった……」
迷う瞳を奮い立たせ、彼を見上げる。
「私には、兄さんしか、いなかったから」
彼は『そうだね』と鼻で笑った。
『頼る場所の無い僕らには、お互い以外なにも無かった。だから君を、自分の分身のように感じていた。自分と違う自我を持ち、自分と違う人生を生きる者だと、ついさっき気がついたんだよ』
彼のお陰でね。と小さく加える。
『あんな所に生まれてこなかったら、僕はもっと、君を大切に思えたかもしれない。君は僕を、そんな風に怯えた顔で見ることなんてなかったかもしれない』
ハマは愕然として、
「……今まで、私のこと、大切に思ってなかったの」
と問うている。
『どちらでもなかった』
そっけなく、彼は答える。
『僕にとって、君は僕だったと言ったろう。君への態度は、僕の自分自身への態度と同じ。僕は、自分の計画のためには死ぬことなんて怖くないような人間だ』
「…………じゃあ」
そんなこと聞くなと、出かかった言葉を地下室の自分が止める。
青空の下の彼女は、聞こえないふりをした。
「私が死ぬことだって、なんとも、思ってなかったの」
兄は迷わず頷いた。
『なんとも思っていなかったし、それが君にとって恐ろしいことだったなんて思いもしなかった』
「そう、だったんだ」
虚脱する身体。
彼を握る手が、するりと解けた。
ハッと気づいて顔を上げたそこに、もう兄の姿はなかった。
「どこ……」
立ち上がり、辺りを見回す。
「兄さん」
身体が震えだす。
「どこに、行ったの」
地面から沸き立ったような風が、空へと昇る。
『さようなら』
暴風の残響の隙間、最後の声が聞こえた。
ハマは抜けるように青い空を見上げ、呆然と立ち尽くす。
消えてしまった。
「違う……」
ひび割れた大地に目を落とす。
「私が、兄さんを、消した」
焦点の合わない眼でふらふらと荒野を歩く。瞳から、涙がぼたりと落ちた。そのまま、追いかけるようにとめどなく雫が零れていく。彼女は表情を変えず、涙を落としながら青颯の沖を追いかける。
遠くの影は、今にも吹き飛んでしまいそうなほど小さい。
たった今遠くにいってしまった兄の姿が重なり、腹の奥から嗚咽が迸る。
堰を切ったように溢れる思い出。
あんな村で、頼れるのは兄だけだった。
そばにいられるだけで良かった。それは、兄が自分にとって傘のような存在だったからだ。
「ごめんなさい、兄さん。ごめんなさい……ごめんなさい!」
傘だというのが誤認だったとしても、兄には誤認する対象すらなかったのだ。一人で闘って、自らの命を使うことすら厭わない。
自分はそんな兄に、一度だって優しくしたことはなかった。
兄は強い人だ。しかしそれは、何度も切り刻まれて痛覚を失ったがゆえの強さだったのだろう。
「私は、欲しがるばっかりだった」
この何も無い大地が、彼の心を映しているように見えた。
「本当は、兄さんだって寂しかったんでしょう。苦しかったんでしょう」
頬の涙を拭う。
「気づいてあげることも、できなかった……」
ハマは立ち止まる。
寄り掛かることしかできなかった人が、もう一人いる。
「あなたに、生きていてほしい」
手の甲で、何度も何度も涙を拭う。
「でもそれはきっと、あなたにとっての苦痛なんでしょう。分かってるのに、どうしたって、あなたを生き返らせなきゃって、思うの」
腹の中に溜め込んだ力が、温かに騒ぎ出す。
「あなたが悲しいまんま、死んでほしくない。生きてくことは苦しい。でも、それだけじゃないかもってあなたが思わせてくれたから、今までとはもっと未来を、見てみたくなったの……あなたと」
遠い背中に呼びかける。
「青颯……」
目を瞑り、新たな力の導きのままに、ゆっくりと宙にもたれかかる。開いたときには、彼の目の前に立っていた。




